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[59]それぞれの思惑
しおりを挟む「どういうつもり、アレク?」
そう、アレク。ディンバードの御者や使用人を買収し、すり替え、私をここへ連れてこさせたのはアレクだった。誰の許可もなく、これは、立派な誘拐だ。
アレクは自尊心が強いから、私を手に入れようと無理に食い下がったり、しないと思っていた。簡単に諦めると、思っていた。見誤っていた。自尊心が強いからこそ、望んでも手に入らないものがあることに、我慢ならないんだわ。
ビクターも言っていたじゃない。"男は手に入らないものほど欲しくなる"
私はアレクを盛大に拒絶することで、知らぬ間に彼のスイッチを押していたらしい。もっとうまく別れを告げるべきだった。これが、私の失敗。
御者に連れて行かれた一室で、アレクは私を待っていた。───子供用の玩具で遊びながら。
部屋中に散乱した大量の玩具。積み木や人形、ぬいぐるみまで、多種多様の玩具の中に埋もれるようにして遊ぶアレクを見たとき、言葉を失った。"幼児退行"という言葉が浮かんだ。精神的に追い詰められすぎた者が患う精神病。ルルから捨てられたこと、もしくは私から拒絶されたことが、それほどまでにショックだったのか。それとも、激化する王位継承権争いに疲れたのか。いずれにしろ、アレクはもう、王位を継げる状態じゃない。
「フィオー!!」
アレクは私を見つけるなり、駆け寄ってきた。そのまま抱きつこうとするので避けると、あっさり地面に転がる。私は彼を見下ろし、言った。どういうつもり、と。
「助けてあげたんだよ」
「助ける?」
「うん、そう」
えへへ、と無邪気な子供のように笑う。色の白い、不健康が全面に出た成人男のそんな姿は、恐怖でしかない。
「フィオは僕のことが好きだから、僕と結婚すべきだよね。フィオだって、そうしたいでしょ?」
そう信じて疑わない純粋な瞳に見つめられ、震えが来た。どうしようもなく体が寒い。芯から、寒い。
「私はアレクとは結婚しない」
しっかり伝えなきゃならないのに、声がかすれてしまう。
「キッド様と、婚約するのよ、今日、これから」
「嘘だよ、そんなの」
「本当よ。私はアレクのこと、好きじゃない」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ………!」
びりびりと、叫び声が鼓膜に響く。仮にも一度愛した男のこんな姿、見たくなかった。
ああ、彼はこんなにも、弱い。誰かに依存しなければ、生きていけない。まるで、小さな子供だ。そのことがひどくショックで。今はもう関係のないこの人のために、打ちのめされてしまう。
「お願いだから、しっかりしてよ、アレク。ルルはいないし、私も貴方の側にはいられない。ちゃんと一人で立ちあがってよ。がっかり、させないで……」
ほとんど懇願するようにして、地面に転がりながら駄々をこねるアレクを支え起こす。
と───、
「捕まえた」
強い力で、アレクは私の腕を掴んでいた。
「やっぱりそうだよね。君は僕を放ってはおけない」
「アレク……?」
「すごいや、震えが治まった。見てよ、ほら」
アレクは騎士団と一緒に体を鍛えていた。分厚く、豆ができていたはずの手のひらは、だけど、薄くなり、綺麗なものだった。
人は心の均衡を崩すとき、決まって痩せ細る。お母様もそうだった。病人としてベッドが手放せなくなる彼らは最初、美しい。この世とあの世の境目にいる儚さというのか、触れたら壊れてしまいそうな、そんな厳かさともいえる雰囲気を持つ。
確かにアレクも痩せてしまっている。だけどアレクは、彼らとは違う気がした。全体から筋肉が落ち、たるんでいるような印象を受ける。怠け者の、それだ。ちっとも、美しく、ない。
アレクの美しい容姿は、彼の幼稚な内面を覆い隠す鎧だったのに。その鎧はもう、意味をなしていない。
「僕らは一緒にいるべきなんだ。ここにいてよ、フィオ。ずっと、僕と暮らそう?」
「暮らさない……ねぇ、アレク」
アレクは私の気持ちをないがしろにして、そうしていることにさえ気づかず、ただ、己の欲のみを押し付けてくる。
私はアレクに、ルルの本質について説いたけれど、アレクの本質にだって、本当は最初から気づいてた。気づいても、見てみぬふりをしてきた。私もまた、アレクをないがしろにして、自分の理想を彼に押し付けていたのだ。
悲しくなった。私達人間の弱さに、脆さに。
ここまで私を案内した御者が出ていき、不穏な音を立て扉が閉まった。部屋には私と、アレクの二人きり。嫌な予感に、心臓が軋んだ。
「私、行かなきゃ。わかるでしょ」
「フィオ、いい匂いするねぇ」
彼の瞳は、焦点を失っていた。とろんとした表情で、私にのしかかってくるばかり。
「アレク、こんなの、許されない。お父様は今度こそ、貴方を、消すわよ」
アレクの胸を押す。男の力に適わないことは、以前彼から迫られたときに十分思い知らされている。
「ねぇ、アレク、冗談でしょ、やめて」
言葉は、まるで届かない。
これは本音で彼に向き合ってこなかった報いだと、諦めたような声が、耳元で囁く。
「しっかりして、アレク!───だれか、だれか来て………!」
「そこまでだ!」
背後の扉が大きく開いた。ぞろぞろと青い鎧を纏った騎士が流れ込んでくる。一人の騎士がアレクの後ろに回り、手刀で意識を刈り取った。アレクが前のめりに倒れてくる。半分下敷きになった私を、騎士が救いだす。鎧が外された。その顔は、
「カーライル子爵家の………グレイ様?」
「おや、覚えていてくださったとは、光栄です」
「ええ……」
いまだ状況が掴めない中、グレイ様はテキパキと部下に指示を出した。あの御者も取り押さえられている。
「あの、助けて頂いて、ありがとうございます……」
お礼を言いながらも、落胆の色が隠せなかった。だって、助けに来てくれたのは、ヴィだと思ったから。青い鎧に身を包んだ騎士が真っ直ぐ私に手を差し伸べたとき、だから私はこの世のすべてに感謝を捧げたい気持ちになった。
彼はカーライル子爵家のご長男、グレイ様。以前、カーライル子爵のお誕生パーティーに招待されたとき、ダンスのお相手をしてくださった方だ。
「さぁ、こちらに。まだ何もされていませんか」
その言い方に引っかかりを覚えつつも、素直に頷いた。
「それはよかった」
グレイ様は先頭に立って、私を部屋から連れ出した。
「あの、アレクは……」
「お労しいことに、ご病気です」
事も無げに、グレイ様が言った。
「手刀で沈めたことは内密にお願いしますね。緊急事態でしたから致し方ないとはいえ、王族を殴ったとなれば問題だ」
「ええ……いつからあんな状態に?」
「ごく最近ですよ。ルル嬢に捨てられ、貴女にまで拒絶されて、参ってしまったのでしょう」
だからって、そんな、私はどんなに辛くたって正気を保って、這いつくばって生きてきたのに。アレクばっかり、
「───病気に逃げるなんて、ずるいわ」
言いようのない怒りが、くすぶる。
「心が弱かったんですね。ま、王の器じゃなかったということです」
私もそうだろうと思う。だけど、グレイ様はずいぶんあけすけに、アレクを悪く言う。楽しんでいる風すらある。
と、彼が急に立ち止まった。
「以前に、私が言ったことを覚えていますか」
「えっと……」
正直、あまり覚えていない。あの夜は、ダンスの間中、全身がこそばゆくなるような甘い言葉を浴びせられ続けた、ということしか記憶にない。
「あのとき、私は貴女にお礼を申し上げました。『ありがとう、おかげで我が方に軍配が上がりそうだ』」
そう、そうだったわ。たしか、そんなことを。だけど、お礼を言われる意味がわからなくて、困惑したのだった。
「貴女が悲劇のヒロインになってくれたおかげで、アレクセイ殿下は悪役となり、その評価を大きく低下させることとなりました。それは結果として、彼の王太子としての身分を危うくし、そして、我が王子を王位継承権争いの舞台に上げさせることとなった」
「なにを───」
「フィオリア様が第一王子に懸想して、第二王子を裏切った。あの噂を流したのは私です」
え────?
「ルル嬢にも協力を仰ぎましたが。彼女はよく働いてくれた。貴女のとこが、相当嫌いなようですね」
何も考えず、彼についてきてしまったけれど、行き先を聞いていなかった。てっきり、外へ連れ出してくれるものだと、また、私は何の根拠もなく信じていた。
気づけば、ある部屋の前にいた。グレイ様がドアノブに手をかける。
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「全ては、我が王子のために」
そう、『我が王子』
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開け放たれた扉の向こうには、青年が一人。今まで一度も顔を見たことがない。だけど、その特徴を、聞いたことがある。顔半分に残る醜い火傷の跡。美しい残り半分の顔、鋭く光る青い目が、私を射抜いた。
彼は、ジーク。王が王妃を裏切り、侍女に産ませた第一王子だ。
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