上 下
55 / 80

[55]決別─アレク《あと10日》

しおりを挟む

 アレクを愛し、裏切られ、もう誰も信じられないと思った。

 だというのに、私は性懲りもなく、新しい恋に落ちていた。ビクターを愛した。彼だけは信じられると、なんの根拠もないのに思ってしまった。

 ───幸せを求めて無防備になりすぎたわ。すっかり教訓を忘れていたの。人は簡単に嘘をつくし、裏切る。痛いほど、分かっていたのに。


 時間の流れは、立ち止まる私を気にしてはくれない。キッド様との婚約式は、止める手立てもないまま、2日後に迫っていた。

 ───もう、このまま流れに身を任せてしまっても、いいのかもしれない。もういい加減、抗うのは疲れてしまった。

 キッド様は良い方だし、政略結婚のお相手として申し分ない。いつか、アレクやビクターと同じように私を裏切る日が来るかもしれないけれど、人はそういうものだと事前に割り切ってしまえば傷つくことはない。彼となら、春の日のように穏やかな心持ちで、温かい家庭を築ける気がする。嵐のように激しい感情に苛まれることも、嫉妬に焦がれることもなく。あるのは、どこまでも続く平穏な幸せだけ。

 ヴィ・・に完全な別れを告げられた翌日、この日は王城の庭で開かれる王妃様のお茶会に招待されていた。

 王城の庭には、ディンバードの屋敷にも引けを取らないほど美しい薔薇が咲き乱れている。それもそのはず、王妃様の願いを聞き入れ、お父様が整えた庭なのだから。二人の過去を何も知らなかった頃の私は、政務だけでなく芸術面でも王族に頼られるお父様を自慢に思った。──お父様はどんな気持ちで、王妃様の頼みを聞き入れていたのかしら。

「おめでとう、フィオちゃん」

 王妃様が招待客達の注目を集め、私の婚約について祝辞を述べた。

 誰もが言う。今がいちばん幸せなときね。

 ──誰もビクターを知らない。私の恋を知らない。私が幸せだと、信じて疑わない。

 お礼を返していくたびに、私の未来が着実に定まっていく気がした。


「よかったわ、本当に」

 王妃様が言う。

「嫌な噂もあったから」

「嫌な噂……?」

 あらやだ、と王妃様は美しい眉を寄せる。バツが悪そうに、「違うのよ」

「フィオちゃんがジークと婚約するんじゃないかって、そんな噂がちょっとね……私はそんなわけないって、信じていなかったのよ?」

 ………ジークというのは、たしか、第一王子の名ね。
 その噂が流れているのは、平民の間だけじゃなかったの……?

「その噂は存じておりますわ。けれど、有り得ません。私はジーク殿下とお会いしたことすらないのですよ」

「ええ、そうよね。わかってるわ。ここだけの話、ジークには悪い噂が絶えないの。フィオちゃんの相手が彼だったら、心配で夜も眠れなかったところよ」

 美しい顔を歪めた王妃様が、一瞬知らない人のように見えた。憎悪を纏うときは、誰だって醜くなる。国一番の美女と謳われる、このひとでさえ。

 第一王子・ジーク様は王が侍女に産ませた子。当時、王妃様は最初の王子を亡くしたばかりで、王のこの裏切りに深く傷ついた。その時のことを、未だに根に持っている。そういう話を耳にした。根に持つ、なんて、世間はまるで王を被害者のように言うのね。裏切られた心が簡単に癒えないのは、当たり前のことなのに。

「あら、その耳飾り……」

 私のピアスを見て、王妃様が僅かに息を呑んだ。ヴィがまだビクターだった頃、私にくれた月光石のピアスだ。

「どこで、それを───」

「──ひとから、貰いましたの。月光石、というそうですわ」

「月光石。知ってるわ。私も持っていたの。ずいぶん昔に無くしてしまったけれど……私のはネックレスだった。懐かしいわ」

 綺麗ね、王妃様は目を細めとても優しく微笑んだ。

「この世にいくつとない、とても珍しい石よ。大切にね」

 侍女が紅茶を入れ替えてくれる。と、ソーサーの下にメモが差し込まれた。侍女は合図のように一瞬だけ目を合わせると、すぐに去って行った。

【話がしたい。北の塔で待ってる】

 秘密のメモの差出人はアレクだった。

 無視してもよかった。だけど、私はそうしなかった。アレクとの関係を清算するため。最後にもう一度だけ、会っておこうと思った。


 北の塔は、今では使われていない古い見張り台だ。太陽がほとんど当たらないその場所は湿気が多く苔むしていて不気味だと、ほとんど人が寄り付かない。幼い日の私とアレクの格好の遊び場だった。

「来てくれないかと思った」

 アレクは目に見えてやつれていた。頬がこけ、目が落ちくぼんでいる。美しさは健在だけれど、以前のような力強さはない。まるで病人のそれだ。──ただ、そんな彼の姿を目にしても、特に私の心に訴えかけてくるものはない。

「ご用件は何でございますか」

 と───、

 ドッ、音を立て、アレクが膝から崩れ落ちた。いきなり何が始まるのかと、目を見張る。

「僕が間違ってたよ。やっと気づいたんだ。いつでもいちばんに僕のことを想っていてくれたのは、フィオ、君だって」

 どこかで聞いたセリフ。──ああ、これはあの頃の私が散々妄想したセリフだわ。だから、聞いたような気がするのね。

「どうか、今までのこと、許してほしい。僕にもう一度だけチャンスをくれないか。今度こそ、君だけを生涯愛し、護ると誓うよ」

 アレクの頬を、涙が流れていった。計算されたかのごとく綺麗に落ちる筋を目で追い、ああ、王族というのはすごい技術を持つものだと感心する。───ええと、それで、今は何の話をしていたのだったかしら………?

「だからお願い。僕のもとに戻ってきて。僕と結婚しよう」

 神に祈りを捧げるように両手を組んで私を見上げるアレクを見下ろす。劇の主人公のように悲劇的な様相のアレクを前に、私はただぽかんとしてしまう。この温度差。
 
 独り、あの頃の温度を保ったままのアレクがなんとも滑稽で、笑えてきた。

 私の笑みを何と勘違いしたのか、アレクの表情が明るくなる。

「エンデ伯爵のことは心配いらないよ。僕から詫びを入れておくから」

「ねぇ」
 
「なにかな?」

「ルルはどうしたの? 貴方の相手は彼女でしょ」

「───彼女とは別れたんだ」

「は……? 別れた? そんな簡単に? 婚約式まで挙げたのに?」

「正式な婚約破棄はまだなんだけど、大丈夫、今準備してるところだから。あと数枚書類を手に入れれば終わりだよ」

 えへへとアレクが笑う。僕、頑張ってるよね、褒めて?とでも言うように。

 だめだわ、頭痛がしてきた。

「いったい何があったの。あんなに、好きで好きで仕方がないって感じだったじゃない」

 ぷく、と頬を膨らませ、アレクが不快を顕にする。変に子供っぽい仕草が、心の柔らかい部分を逆撫でる。

「僕は愛してたんだよ、ルルのこと。だけど、彼女は違った。ルルは、"フィオの物だった僕"が好きだったんだって。すごく価値のあるものに見えていたらしいよ。でも、実際に手に入れてみたらそれで満足したって。愛してないって気づいたって。『こんな中途半端な気持ちじゃアレクに申し訳ないし、私は貴方にふさわしくない』──だから別れるって、勝手だろう? まったく、最低な女だよ」

 ルルのそれはもう、病気のようなものだ。人の物が良く見える。私からアレクを取っただけじゃない。アレクの取り巻きの貴公子たちも、それぞれの婚約者から奪っている。その中でルルがアレクを選んだのは、愛していたからではなく、単に一番地位が高かったから。

「彼女の性質は最初からそうよ。何も変わってない」

「そうだね。僕は騙されていたんだ。でも、やっと、目が覚めたよ」

「被害者面なんてしないで。貴方の見る目がなかった、それだけよ」

「たしかに、そう思われても仕方ない」

 他にどう思えと?

「──これから先、僕はフィオだけのものだ。君に、僕の全てをあげるよ。ずっと、君の側にいてあげる」

 いよいよ声をあげて笑ってしまった。

 はぁ、なんて可笑しいの。涙が出ちゃう。

「結構よ」

 虫唾が走る。ルルに捨てられたからって元の女に縋ろうとする甘ったれた思考。誰もが無条件に自分を受け入れてくれるという過信。的外れでキザなセリフ。全部、最悪。

『趣味が悪い』

 ビクター、私もそう思うわ。

「私がいつまでも、貴方を愛しているとでも思った? ───貴方なんか、とっくに眼中にないのよ」

「フィオ……?」

「私が側にいて欲しいのは、貴方じゃない」

 目を見開き呆然とするアレクが、ヴィに拒絶されたときの私の姿と重なる。──嫌だわ。

 悲痛な声音で名を呼び続けられる。それでも私は振り向かなかった。







しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

成人したのであなたから卒業させていただきます。

ぽんぽこ狸
恋愛
 フィオナはデビュタント用に仕立てた可愛いドレスを婚約者であるメルヴィンに見せた。  すると彼は、とても怒った顔をしてフィオナのドレスを引き裂いた。  メルヴィンは自由に仕立てていいとは言ったが、それは流行にのっとった範囲でなのだから、こんなドレスは着させられないという事を言う。  しかしフィオナから見れば若い令嬢たちは皆愛らしい色合いのドレスに身を包んでいるし、彼の言葉に正当性を感じない。  それでも子供なのだから言う事を聞けと年上の彼に言われてしまうとこれ以上文句も言えない、そんな鬱屈とした気持ちを抱えていた。  そんな中、ある日、王宮でのお茶会で変わり者の王子に出会い、その素直な言葉に、フィオナの価値観はがらりと変わっていくのだった。  変わり者の王子と大人になりたい主人公のお話です。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結済】姿を偽った黒髪令嬢は、女嫌いな公爵様のお世話係をしているうちに溺愛されていたみたいです

鳴宮野々花@軍神騎士団長1月15日発売
恋愛
王国の片田舎にある小さな町から、八歳の時に母方の縁戚であるエヴェリー伯爵家に引き取られたミシェル。彼女は伯爵一家に疎まれ、美しい髪を黒く染めて使用人として生活するよう強いられた。以来エヴェリー一家に虐げられて育つ。 十年後。ミシェルは同い年でエヴェリー伯爵家の一人娘であるパドマの婚約者に嵌められ、伯爵家を身一つで追い出されることに。ボロボロの格好で人気のない場所を彷徨っていたミシェルは、空腹のあまりふらつき倒れそうになる。 そこへ馬で通りがかった男性と、危うくぶつかりそうになり────── ※いつもの独自の世界のゆる設定なお話です。何もかもファンタジーです。よろしくお願いします。 ※この作品はカクヨム、小説家になろう、ベリーズカフェにも投稿しています。

【完結】婚約破棄される前に私は毒を呷って死にます!当然でしょう?私は王太子妃になるはずだったんですから。どの道、只ではすみません。

つくも茄子
恋愛
フリッツ王太子の婚約者が毒を呷った。 彼女は筆頭公爵家のアレクサンドラ・ウジェーヌ・ヘッセン。 なぜ、彼女は毒を自ら飲み干したのか? それは婚約者のフリッツ王太子からの婚約破棄が原因であった。 恋人の男爵令嬢を正妃にするためにアレクサンドラを罠に嵌めようとしたのだ。 その中の一人は、アレクサンドラの実弟もいた。 更に宰相の息子と近衛騎士団長の嫡男も、王太子と男爵令嬢の味方であった。 婚約者として王家の全てを知るアレクサンドラは、このまま婚約破棄が成立されればどうなるのかを知っていた。そして自分がどういう立場なのかも痛いほど理解していたのだ。 生死の境から生還したアレクサンドラが目を覚ました時には、全てが様変わりしていた。国の将来のため、必要な処置であった。 婚約破棄を宣言した王太子達のその後は、彼らが思い描いていたバラ色の人生ではなかった。 後悔、悲しみ、憎悪、果てしない負の連鎖の果てに、彼らが手にしたものとは。 「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルバ」にも投稿しています。

子ども扱いしないでください! 幼女化しちゃった完璧淑女は、騎士団長に甘やかされる

佐崎咲
恋愛
旧題:完璧すぎる君は一人でも生きていけると婚約破棄されたけど、騎士団長が即日プロポーズに来た上に甘やかしてきます 「君は完璧だ。一人でも生きていける。でも、彼女には私が必要なんだ」 なんだか聞いたことのある台詞だけれど、まさか現実で、しかも貴族社会に生きる人間からそれを聞くことになるとは思ってもいなかった。 彼の言う通り、私ロゼ=リンゼンハイムは『完璧な淑女』などと称されているけれど、それは努力のたまものであって、本質ではない。 私は幼い時に我儘な姉に追い出され、開き直って自然溢れる領地でそれはもうのびのびと、野を駆け山を駆け回っていたのだから。 それが、今度は跡継ぎ教育に嫌気がさした姉が自称病弱設定を作り出し、代わりに私がこの家を継ぐことになったから、王都に移って血反吐を吐くような努力を重ねたのだ。 そして今度は腐れ縁ともいうべき幼馴染みの友人に婚約者を横取りされたわけだけれど、それはまあ別にどうぞ差し上げますよというところなのだが。 ただ。 婚約破棄を告げられたばかりの私をその日訪ねた人が、もう一人いた。 切れ長の紺色の瞳に、長い金髪を一つに束ね、男女問わず目をひく美しい彼は、『微笑みの貴公子』と呼ばれる第二騎士団長のユアン=クラディス様。 彼はいつもとは違う、改まった口調で言った。 「どうか、私と結婚してください」 「お返事は急ぎません。先程リンゼンハイム伯爵には手紙を出させていただきました。許可が得られましたらまた改めさせていただきますが、まずはロゼ嬢に私の気持ちを知っておいていただきたかったのです」 私の戸惑いたるや、婚約破棄を告げられた時の比ではなかった。 彼のことはよく知っている。 彼もまた、私のことをよく知っている。 でも彼は『それ』が私だとは知らない。 まったくの別人に見えているはずなのだから。 なのに、何故私にプロポーズを? しかもやたらと甘やかそうとしてくるんですけど。 どういうこと? ============ 番外編は思いついたら追加していく予定です。 <レジーナ公式サイト番外編> 「番外編 相変わらずな日常」 レジーナ公式サイトにてアンケートに答えていただくと、書き下ろしweb番外編をお読みいただけます。 いつも攻め込まれてばかりのロゼが居眠り中のユアンを見つけ、この機会に……という話です。   ※転載・複写はお断りいたします。

処理中です...