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[55]決別─アレク《あと10日》
しおりを挟むアレクを愛し、裏切られ、もう誰も信じられないと思った。
だというのに、私は性懲りもなく、新しい恋に落ちていた。ビクターを愛した。彼だけは信じられると、なんの根拠もないのに思ってしまった。
───幸せを求めて無防備になりすぎたわ。すっかり教訓を忘れていたの。人は簡単に嘘をつくし、裏切る。痛いほど、分かっていたのに。
時間の流れは、立ち止まる私を気にしてはくれない。キッド様との婚約式は、止める手立てもないまま、2日後に迫っていた。
───もう、このまま流れに身を任せてしまっても、いいのかもしれない。もういい加減、抗うのは疲れてしまった。
キッド様は良い方だし、政略結婚のお相手として申し分ない。いつか、アレクやビクターと同じように私を裏切る日が来るかもしれないけれど、人はそういうものだと事前に割り切ってしまえば傷つくことはない。彼となら、春の日のように穏やかな心持ちで、温かい家庭を築ける気がする。嵐のように激しい感情に苛まれることも、嫉妬に焦がれることもなく。あるのは、どこまでも続く平穏な幸せだけ。
ヴィに完全な別れを告げられた翌日、この日は王城の庭で開かれる王妃様のお茶会に招待されていた。
王城の庭には、ディンバードの屋敷にも引けを取らないほど美しい薔薇が咲き乱れている。それもそのはず、王妃様の願いを聞き入れ、お父様が整えた庭なのだから。二人の過去を何も知らなかった頃の私は、政務だけでなく芸術面でも王族に頼られるお父様を自慢に思った。──お父様はどんな気持ちで、王妃様の頼みを聞き入れていたのかしら。
「おめでとう、フィオちゃん」
王妃様が招待客達の注目を集め、私の婚約について祝辞を述べた。
誰もが言う。今がいちばん幸せなときね。
──誰もビクターを知らない。私の恋を知らない。私が幸せだと、信じて疑わない。
お礼を返していくたびに、私の未来が着実に定まっていく気がした。
「よかったわ、本当に」
王妃様が言う。
「嫌な噂もあったから」
「嫌な噂……?」
あらやだ、と王妃様は美しい眉を寄せる。バツが悪そうに、「違うのよ」
「フィオちゃんがジークと婚約するんじゃないかって、そんな噂がちょっとね……私はそんなわけないって、信じていなかったのよ?」
………ジークというのは、たしか、第一王子の名ね。
その噂が流れているのは、平民の間だけじゃなかったの……?
「その噂は存じておりますわ。けれど、有り得ません。私はジーク殿下とお会いしたことすらないのですよ」
「ええ、そうよね。わかってるわ。ここだけの話、ジークには悪い噂が絶えないの。フィオちゃんの相手が彼だったら、心配で夜も眠れなかったところよ」
美しい顔を歪めた王妃様が、一瞬知らない人のように見えた。憎悪を纏うときは、誰だって醜くなる。国一番の美女と謳われる、この女でさえ。
第一王子・ジーク様は王が侍女に産ませた子。当時、王妃様は最初の王子を亡くしたばかりで、王のこの裏切りに深く傷ついた。その時のことを、未だに根に持っている。そういう話を耳にした。根に持つ、なんて、世間はまるで王を被害者のように言うのね。裏切られた心が簡単に癒えないのは、当たり前のことなのに。
「あら、その耳飾り……」
私のピアスを見て、王妃様が僅かに息を呑んだ。ヴィがまだビクターだった頃、私にくれた月光石のピアスだ。
「どこで、それを───」
「──ひとから、貰いましたの。月光石、というそうですわ」
「月光石。知ってるわ。私も持っていたの。ずいぶん昔に無くしてしまったけれど……私のはネックレスだった。懐かしいわ」
綺麗ね、王妃様は目を細めとても優しく微笑んだ。
「この世にいくつとない、とても珍しい石よ。大切にね」
侍女が紅茶を入れ替えてくれる。と、ソーサーの下にメモが差し込まれた。侍女は合図のように一瞬だけ目を合わせると、すぐに去って行った。
【話がしたい。北の塔で待ってる】
秘密のメモの差出人はアレクだった。
無視してもよかった。だけど、私はそうしなかった。アレクとの関係を清算するため。最後にもう一度だけ、会っておこうと思った。
北の塔は、今では使われていない古い見張り台だ。太陽がほとんど当たらないその場所は湿気が多く苔むしていて不気味だと、ほとんど人が寄り付かない。幼い日の私とアレクの格好の遊び場だった。
「来てくれないかと思った」
アレクは目に見えてやつれていた。頬がこけ、目が落ちくぼんでいる。美しさは健在だけれど、以前のような力強さはない。まるで病人のそれだ。──ただ、そんな彼の姿を目にしても、特に私の心に訴えかけてくるものはない。
「ご用件は何でございますか」
と───、
ドッ、音を立て、アレクが膝から崩れ落ちた。いきなり何が始まるのかと、目を見張る。
「僕が間違ってたよ。やっと気づいたんだ。いつでもいちばんに僕のことを想っていてくれたのは、フィオ、君だって」
どこかで聞いたセリフ。──ああ、これはあの頃の私が散々妄想したセリフだわ。だから、聞いたような気がするのね。
「どうか、今までのこと、許してほしい。僕にもう一度だけチャンスをくれないか。今度こそ、君だけを生涯愛し、護ると誓うよ」
アレクの頬を、涙が流れていった。計算されたかのごとく綺麗に落ちる筋を目で追い、ああ、王族というのはすごい技術を持つものだと感心する。───ええと、それで、今は何の話をしていたのだったかしら………?
「だからお願い。僕のもとに戻ってきて。僕と結婚しよう」
神に祈りを捧げるように両手を組んで私を見上げるアレクを見下ろす。劇の主人公のように悲劇的な様相のアレクを前に、私はただぽかんとしてしまう。この温度差。
独り、あの頃の温度を保ったままのアレクがなんとも滑稽で、笑えてきた。
私の笑みを何と勘違いしたのか、アレクの表情が明るくなる。
「エンデ伯爵のことは心配いらないよ。僕から詫びを入れておくから」
「ねぇ」
「なにかな?」
「ルルはどうしたの? 貴方の相手は彼女でしょ」
「───彼女とは別れたんだ」
「は……? 別れた? そんな簡単に? 婚約式まで挙げたのに?」
「正式な婚約破棄はまだなんだけど、大丈夫、今準備してるところだから。あと数枚書類を手に入れれば終わりだよ」
えへへとアレクが笑う。僕、頑張ってるよね、褒めて?とでも言うように。
だめだわ、頭痛がしてきた。
「いったい何があったの。あんなに、好きで好きで仕方がないって感じだったじゃない」
ぷく、と頬を膨らませ、アレクが不快を顕にする。変に子供っぽい仕草が、心の柔らかい部分を逆撫でる。
「僕は愛してたんだよ、ルルのこと。だけど、彼女は違った。ルルは、"フィオの物だった僕"が好きだったんだって。すごく価値のあるものに見えていたらしいよ。でも、実際に手に入れてみたらそれで満足したって。愛してないって気づいたって。『こんな中途半端な気持ちじゃアレクに申し訳ないし、私は貴方にふさわしくない』──だから別れるって、勝手だろう? まったく、最低な女だよ」
ルルのそれはもう、病気のようなものだ。人の物が良く見える。私からアレクを取っただけじゃない。アレクの取り巻きの貴公子たちも、それぞれの婚約者から奪っている。その中でルルがアレクを選んだのは、愛していたからではなく、単に一番地位が高かったから。
「彼女の性質は最初からそうよ。何も変わってない」
「そうだね。僕は騙されていたんだ。でも、やっと、目が覚めたよ」
「被害者面なんてしないで。貴方の見る目がなかった、それだけよ」
「たしかに、そう思われても仕方ない」
他にどう思えと?
「──これから先、僕はフィオだけのものだ。君に、僕の全てをあげるよ。ずっと、君の側にいてあげる」
いよいよ声をあげて笑ってしまった。
はぁ、なんて可笑しいの。涙が出ちゃう。
「結構よ」
虫唾が走る。ルルに捨てられたからって元の女に縋ろうとする甘ったれた思考。誰もが無条件に自分を受け入れてくれるという過信。的外れでキザなセリフ。全部、最悪。
『趣味が悪い』
ビクター、私もそう思うわ。
「私がいつまでも、貴方を愛しているとでも思った? ───貴方なんか、とっくに眼中にないのよ」
「フィオ……?」
「私が側にいて欲しいのは、貴方じゃない」
目を見開き呆然とするアレクが、ヴィに拒絶されたときの私の姿と重なる。──嫌だわ。
悲痛な声音で名を呼び続けられる。それでも私は振り向かなかった。
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