ある日突然『魔女』になりまして

灰羽アリス

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第三章 『惚れ薬』騒動

15 前田くんの独白

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 授業開始のチャイムが鳴って十分が経過しても、社会の森山先生が来ない。授業があること忘れてるんじゃない? 誰が職員室に呼びに行く? 誰もが少しずつそんなことを口にするけど、誰も本気で先生を呼びに行こうとは考えていない。だってぼくらにはそれより重要なことがある。ぼくらは高校1年生で、あと4日後には高校最初の夏休みがやってくる。要するに、夏休みの計画を立てるのに忙しいのだ。未だ梅雨が明けず、外はどんより曇り空だって言うのに、みんなの心はカラッと晴れた海にある。ぼくだけがどんより雲の中。

 第一志望の公立に落ちて、青葉清涼に来た。ぼくはみんなとは違う。そんな考えが、どうしても抜けない。ぼくはみんなより一段階利口だ。だから次は失敗しないように計画を立て、実行することができる。ぼくの夏休みは、塾通い一択。大学はきっとこの中の誰よりいいところに進んでやるんだ。

 寂しいやつ。

 誰かが言うのが聞こえた。ぼくに対して言っているのかは、わからない。でもたぶんそうなんだろう。大学生になるまでは勉強が友達。灰色の寂しい人生を送る。そうすれば成功するんだって、成功者である弁護士の父さんが言うのだから、ぼくはそれに従うまでだ。
 あとたった3年、灰色の寂しい時間を我慢すれば未来は明るく色づく。

「ごめん、みんな。ちょっと用事があるのでしばらく自習をしてください。ワークブック26ページを解いておいて。村瀬さん、あとで集めて私のデスクへ置いておいて。何かあったらお隣のクラスの横道先生を頼ってください。自習になることは言ってあるので。それじゃ、お願いします」

 11分経ってようやくやってきた森山先生はそうまくしたてると慌ただしく教室を出て行った。足音が遠ざかりきらないうちに、教室中で歓声が上がる。椅子の向きを変え、みんな本格的に夏休みの計画を立てだした。ぼくはそんなクラスメイトを見て冷ややかに思う。

 お前ら、学校に何しに来てんだよ。

 自習は誰一人本気でワークブックに向き合うことなく終わるかに思えた。しかし授業終了5分前、長浜がそろそろやばいと騒ぎだす。ワークブックが真っ白なままであることに、ようやく焦りを覚えたようだ。注目を集めるようにひとしきり騒いだ長浜は、ぼくの席にやってきた。

「前田くん、見せてよ」

「自分でしてよ。じゃないと勉強にならない」

 ぼくはもちろん断った。当たり前だ。自分は時間いっぱい遊んでおいて、時間いっぱいかけて本気で解いたぼくの答案を写すなんて、それもたった2・3分で。そんなの虫が良すぎる。断ったぼくは正しい。でも、クラスメイトからすれば、間違ってるのはぼく。長浜が大げさに残念がると、白けた空気が教室中に広がった。ぼくは構わず──少なくとも表面上は平気なふりをして──クラス委員の村瀬さんにワークブックを預けた。その足で廊下へ出る。村瀬さんは長浜の圧力にきっと屈する。ぼくの答えを、みんな写すことになるのだろう。なんだか鉛みたいに体が重くなったとき、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。わああ、と背後が騒がしくなる。ぼくはその歓声に抗うように廊下を進む。
 ふと、それは本当に何の気なく、窓の外に目を向けた。そしてぼくは動きを止めた。

 空に向かって飛んで行く、黒いシーツのような何か。それは明らかに人型に膨らんでいた。頭があって、胴体があって、腕の部分もわかる。その姿はまるで、

「死神……」
 
 まさか、あり得ない。ぼくの脳みそは目の前の光景を否定するのに、高鳴る心臓が肯定する。あれはきっと死神だ。黒いシーツが向きを変え、ぼくは確信を深めた。死神は、胸に赤髪の少女を抱いていた。そうして天高く登っていく。
 死神の姿が視界から消え、ぼくの体は途端に軽くなった。鉛をその場に置き去りにし、風のように走る。向かう先は旧校舎の屋上。さっきの死神が飛び立ったと思われる場所だ。

 呼吸が荒い。胸が痛い。汗が気持ち悪い。熱い。熱い。熱い。

 ぼくはこのとき、どれくらいぶりに走ったのだろう。春、体力測定で走った50メートル走以来だと思った。
 常に時間前倒しで行動するぼくは遅刻とは無縁。走り出したくなるような青春とも無縁。無意識に歩くためだけについていたぼくの足は急な運動にびっくり仰天している。乳酸がたまってぱんぱんになった足を動かし、なんとか屋上にたどり着いて、ぼくはまた信じられないものを目撃した。

 天使がいる。
 
 風化して粉っぽくなった灰色のアスファルトの上に、白いセーラー服に身を包んだ天使が横たわっていた。ぼくがその女の子を天使だと思ったのは、その子があまりにも綺麗で、白い肌をしていたから。
 天使は苦し気だった。可憐な唇から、微かにうめき声が漏れている。
 死神と、天使と。まさかここで戦闘でもあったのだろうか。

 そんなことって……

 でも、ぼくが否定し続けている不思議は、今現実となってぼくの目の前に横たわっている。
 一瞬にして、価値観がひっくり返されたようだった。地球は丸い。それは当たり前なのに、いざ宇宙に出て目の前で見ると四角で、実際に見た以上それを信じざるをえないような……

 気づけばぼくは、天使の頬に手を伸ばしていた。陶器のように滑らかなその頬に触れた途端、天使が目を覚ました。あっとぼくが声をあげる間もなく天使は上半身を起こし、そしてぼくをぎゅっと抱きしめた。
 ぼくはもう大混乱。ぼくはこれまで女の子とこんな近い距離で接したこともなければ、相手は天使だ。壊してしまうのではと怖くて、それ以上に驚愕して、ぼくは身じろぎひとつできなかった。
 天使はぼくを掻き抱き、わあああと声を上げて泣いた。ぼくは誘惑に負けて、天使の背中を優しく撫でた。絹糸のように繊細な黒髪が冷たくて気持ちいい。
 しばらくして、天使は我に返ったように唐突に泣き止み、それからぼくの顔を確認して恥ずかしそうにはにかんだ。

「ごめんなさいね。胸を貸してくださったこと、感謝いたしますわ」

 天使は天高く飛び立った。ぼくはいつまでも彼女が消えた灰色の空を見つめた。雲間に光がさす。その向こうは夏らしい青空だ。ぼくの心の灰色を溶かすように、だんだんと青空が広がっていく。3年を待たずして、ぼくの人生が鮮やかな色みを帯びだした。
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