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しおりを挟む「あんまりおどかすなよな。日本での捜査権なんか、持ってないくせに」
「あはは。彼女の反応がおもしろくって、つい」
帰り道、俺と綿彦は並んで大きな川沿いの道を歩いた。橋を電車が渡っていく。心は晴れやかで、しばらくはこのまま、電車には乗らず散歩していたい気分だった。
「これで保険金、支払わずに済むね。きっと、部長に褒められるよ」
「そうだな」
俺は諦めたような気持ちになって、苦笑した。
あーあ、こいつはやっぱ、すげぇヤツだよ。……すげぇ、遠くにいやがる。
「まぁ、一応礼を言っとく。──ありがとな」
「どういたしまして。和臣のためなら、いつでも。だけど、自分でもあれくらい瞬時に見抜けるようにならなきゃだめだよ。和臣はそれでなくともお人よしなんだから、しっかり知識身に着けてさぁ」
「あー、はいはい。わかってるよ、大先生さま」
「ぶぅ、本気なんだからね」
「しかし」と俺は腕をあげて伸びをした。
「久しぶりに見たなぁ、名探偵綿彦の超推理」
中学生のころその"能力"を開花させた綿彦の姿を、俺は一番近くで見てきた。
密かに警察に協力していた時期もある。
なかなか刺激的な学生生活だったと記憶している。
「こんなの、子供だましだよ。普段扱ってる凶悪事件に比べたら」
綿彦は肩をすくめた。
子供だまし、か。実際、そうなのだろう。
七瀬綿彦の正体は、心理学博士で、カウンセラーで、そして、FBIに所属する天才プロファイラー。普段はその本部、アメリカのワシントンD・Cで数多くの凶悪事件と向き合っている。たまの休暇(綿彦の同僚から言わせれば「逃亡」)で、俺に会いに帰ってくる日以外は、どっぷり犯罪者漬けだ。
プロファイラーとは、犯罪者の身に立って、犯罪者の思考、行動パターンを読み解き、犯人像を確立、捜査に役立てる資料を提供する科学捜査官のことだ。
「……ねぇ、和臣」
「なんだよ」
「『深淵をのぞき込むとき、その深淵もまたこちらを見つめているのだ』って言葉、知ってる?」
「たしか、ニーチェの言葉だったか」
「そう。この言葉、なんか最近はこの部分だけひとり歩きしてさ、ただ単に暗闇をのぞく恐怖を表現してるみたいに理解されちゃってるけど、本当は違うんだ。この言葉には、前段があって」
【──怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気を付けねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もまたこちらを見つめているのだ。】
「これが正しい言い回し。ニーチェはぼくのように犯罪者と関わる人種に、警鐘を鳴らしているんだ。気を付けろ。取り込まれるな。意識をしっかりたもて──ってさ」
綿彦は立ち止まり、俺と向き合った。
手を突っ込んだトレンチコートが風に吹かれてゆれている。
大量の桜の花びらが、俺と綿彦の世界を切り離すように、二人の間をさわさわと流れていった。
境界線の向こう側。
綿彦はふだん、大半の時間をそこで過ごしている。多くの凶悪な犯罪者と共に。
こちらに戻る頼りは、腰に巻き付けた、一本の細いロープだけ。そのロープの端は、俺がしっかり握っている。何があっても、決して離さない。たとえば死んだって、離すつもりはない。
綿彦はいまにも泣き出しそうな、不安そうな顔で俺の言葉を待っている。
その姿が、あの春の日の小さな怪物の姿と重なった。
『何やってんだよ!』
小鳥の死骸を握る綿彦を殴ったあと。
地面に倒れた綿彦は、たったいま目覚めたような表情で俺を見上げた。そうしてみるみる、泣き出しそうな、不安そうな、顔になる。
綿彦は言った。
『この小鳥さん、猫に襲われてて、助けたんだけど、怪我がひどくて。だから、殺してあげたほうがらくかと思って。だから、ぼく』
──握り殺したんだ。
小さな怪物は、怪物なりに、優しい行動に出たつもりだったのだ。
俺はそれを理解して、痛いくらい、胸が苦しくなった。
こいつをどうにか守ってやらなければ、と思った。
俺はぎゅっと、小さな怪物を抱きしめた。
『こんどから、困ったときは、俺を呼べよ。わかったか?』
小さな手が、俺の園児服をぎゅっとつかんだ。
『うん、わかった。──あのね、ぼく、わたひこってゆーの』
『俺はかずおみだ。友だちになろうぜ』
『友だち……って、ぼく、はじめて。なにするの?』
『いっしょに遊ぶんだよ。来いよ、あっちに良い木があるんだ。のぼろーぜ』
『うん!』
『……さっきは殴って悪かったな』
『えへへ、いたい』
『いたいのに笑うなよ。へんなやつ。──あ、そうだ。遊びに行く前に、小鳥の墓、作ってやろーぜ』
「綿彦は大丈夫だ。この俺様がついてるからな」
いまではすっかりデカくなったかつての小さな怪物を、俺はぎゅっと抱きしめてみた。女が男に抱きつくようで、ちょっと不格好になったけど。
「和臣はすっかり小さくなっちゃったね」
「うるせぇ! 俺だってあの頃よりでかくなってるっつーの」
「『身長伸びるくん』、飲む?」
「出すな、出すな。そのコートにいったい何本入れてんだよ。青狸の四次元ポケットか」
「えー、8本」
「律儀に答えるな。そして多い。しかもこれ、温くなってんじゃん。飲んだらぜってー腹壊すやつ」
「ゆるいくらいがちょうどいいんだよ。綿彦、便秘気味でしょ」
「お前、なんで最もコアな個人情報知ってんだよ……こえーよ……」
「うふふ、秘密ぅ」
「ったく、そのコートよこせ! ボロなんか着やがって」
「あっ、これはダメ!」
「なんでだよ!」
「綿彦が買ってくれたやつだもん!」
「あ? ああ……って、6、7年前の誕生日だろ、それ! いつまで着てんだよ。よく見りゃサイズ合ってねーし。捨てろよ」
「捨てられないよ。大事なものなんだ」
「んじゃ、俺が捨ててやる」
ぽい。
俺は真横に流れる深い川に、コートを投げ込んだ。
「ああっ!」
コートは揺られて、やがて水に沈んでいった。
「ひどいよ、かずおみぃ」
綿彦は本格的に泣き出している。
さすがにやりすぎたか。
「いくぞ」
「どこへ」
「……新しいコート、買ってやる」
パァ! と綿彦は眩しいくらいの笑顔を向けてくる。
まったく、単純なやつ。
「かずおみぃ!」
「だきつくな、暑苦しい」
俺は綿彦の顔を引きはがしつつ、はた、と思い至った。
「そういや、斎藤晴美の件、どうすんだ? 警察に届けるか?」
「そうだねー、門脇刑事に知らせればいいんじゃない」
門脇刑事は俺たちが高校生の頃、近所の駐在勤務だった男で、いまや刑事に昇進している。もちろん、綿彦のおかげで。
「きっと今度もうまく自分の手柄にするよ。そうしてますますぼくへの借りが大きくなるのだ。あっはっは」
「そうしてまたどうせ、ラーメンでチャラにされるんだろ」
「ラーメン! ラーメン食べたい! 食べに行こう、和臣!」
「デパート行ったあとな」
心の奥底で芽吹きを待つ、悪意の種。
綿彦はそれを、あの日からずっと抱えている。
だけど俺が、芽吹かせない。たとえ芽吹いたとしても、手折ってやる。何度でも、何度でも、俺が……。
綿彦を、怪物にはさせない。
ぜったいに。
俺が綿彦を守るんだ。
──ちなみに、
綿彦と二人で報告した斎藤晴美の件では部長に褒められたのだが……あの後から、どうも部長の様子がおかしい。俺のことを避けているというか、怖がってるというか……。
綿彦が何か耳打ちしていたようだが……あいつ、いったい何を言ったんだ?
「あ、そうだ。綿彦、お前、こんどはいつまで日本にいるんだ?」
「ふふ、喜ぶがいい! 今回はちょっと長くいられるんだ。仕事で来たからね」
「仕事? それって、FBIの?」
「そ。日本の警察に、コンサルタントとして招かれたんだ」
「天才プロファイラーのお前を招くって……もしかして、かなりヤバイ凶悪事件が起きてるのか?」
「うん……まぁね。まだ情報規制がある程度利いてるから、ネットだけで騒がれている事件なんだけどさ」
そうして舞台は──。
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