境界線のむこうがわ

灰羽アリス

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「おい、ネタだけひろうな! シャリもちゃんと食えよ!」
「え~、だってこのごはんぼそぼそするんだもん」
「そんな食べ方すんなら寿司屋に来た意味ないだろうが! ほら、口開けろ! ぼそつく飯も一緒に食えば気にならん!」
「ぐふっ。おえぇ……」

 綿彦のわがままめ。

 おかげで俺は眼光鋭い店主に「すみませんねぇ」と終始謝りながら昼食をとるはめになってしまった。こんなことなら回転寿司に入るんだった。

「久しぶりの日本だし、本格的なの食べたーい」

 という綿彦のおねだりに屈して、回らない高級寿司屋に入ったばっかりに……。

 綿彦はいま、仕事の都合でアメリカのワシントンD・Cに本拠地を置いている。日本は一カ月ぶりだ。

『──和臣のそばにいると何をしでかすかわかんないから。ぼくは、和臣から離れなきゃならない……』

 深刻そうにそう言い置いて綿彦が渡米したのは、俺たちが高校二年生のときだ。しかしそれから、ほぼ半月に一度のペースで来日、そのまま数日から数か月滞在、というのを繰り返しているので、割と頻繁に会っている。しかし……

一カ月会わなかったのは、そういえば最長記録じゃないか?

「……元気、だったか?」

 俺は少しだけ優しい気持ちになって、なおもネタだけひろい食いする綿彦にたずねた。

「うん。それよりさぁ」
「おい。なんだよ、それよりって。人がせっかく心配して聞いてやったのに!」
「うるさい、和臣」
「なっ……」

 ──こいつ、さっき殴ったこと、根に持ってやがるな。

「そーれーよーりー」

 綿彦は絡み酒をするよっぱらいのような調子で俺に箸を向けた。

「和臣、君は本当に心理学部の出身かね? ぼくはね、本当に心配です。和臣があまりにも素直で単純で騙されやすい単細胞だという事実を思い知らされ、ぼくはやはり信念を曲げてでも和臣のそばにいた方が良いのではないかと、真剣に悩み始めたのですよ」
「何の話だよ、いきなり」
「さっきの写真」
「写真? ──ああ、被保険者から送られてきた、あれか」
「そうです。斎藤晴美、44歳のお宅が近所の悪ガキにいたずらされ、破壊の限りを尽くされたと証明する、事件現場の写真ですよ」
「あれはひどかったよなぁ」
「ええ、ひどい! まったくもって、ひどいです!」

 俺は目をぱちくりさせた。

「だけどお前、さっきは斎藤家に保険金を支給する必要はないって言ってたじゃないか」
「うん、支給する必要はない」
「わからんなぁ……。ひどい被害を受けたなら、相応の保険金を支給するのが、保険会社としての筋だろう? というかな、俺はもう決めてんだよ。斎藤晴美さんには、請求通り1500万円の保険金支給を承認するって」
「また部長さんに怒られるよ」
「綿彦には関係ないだろ。これは俺の仕事だ。承認するって言ったら、承認するんだ!」
「この、わからずやーっ!」

 そう叫ぶと綿彦は、
 ガッシャーン! とまだ寿司の乗った皿をひっくり返した。

 ぎょっとして見ると、いつの間に注文したのやら、綿彦の手には熱燗のビン。むにゅむにゅ……と緩む頬はほんのりピンク色だ。

「お前、本当に飲んでんのかよ! 酒弱いくせに」
「いいんだよ! 和臣に殴られたんだもん。やけ酒だっ!」
「悪かったって。謝っただろ、もう」

 ダンッ! と綿彦はテーブルを叩き、ふらふらと立ち上がった。

「……こうなったら、証明してりますよ! 斎藤晴美はとんだ女狐で、和臣の会社に保険金を請求する資格なんかないってことをね!」

 ガシャガシャーン! と熱燗を倒す。
 ひぃぃぃぃ!
 もう強面店主の顔が見られない。
 なのに綿彦ときたら、店主への捨て台詞がこうだ。

「ごはんがまずいから残すね! 魚はまぁまぁだった! 次回に期待!」

「お前ら今すぐ出ていけー! 二度と来るんじゃねぇぞ!」

 案の定出禁になった。
 店主と客の白い目とに追い立てられ、俺と綿彦は逃げるように店をあとにした。ただし、焦って謝りまくるのは俺だけで、綿彦はうしろでケラケラ笑っていただけだ。

 昼時を過ぎ、人気の少なくなった遊歩道を歩く。

「綿彦、もう少し人の気持ち考えて発言しろよ。お前、一応、心理学者だろ」

 何気ない、文句の一言だった。
 しかし。
 ケラケラ、ケラケラ、笑いながら先を歩いていた綿彦は、その瞬間、はたと笑うのをやめた。
 ぎくりとする。
 振り返った顔からは、表情が抜け落ちていた。

 見下ろす冷たい目。あの日の目。

「……そうだよ、ぼくは心理学者だ。人の気持ちが理解できる。でも、だからって、なんで相手の気持ちを気遣って発言しなきゃならないの?」

 それが普通だからだよ、なんて切り返しを、綿彦が許さないのは経験済みだった。


 俺は大学時代、心理学を学んだ。
 それは綿彦の考え方を、少しでも理解したいと思ったからだ。

 普通の人とはどこか違う、唐突な気分の変化や、ふいにみせる冷たさ、一歩間違えれば"異常"と判断されかねない行動の数々……サイコパス、と称される人種がいることを、俺はそのころ講義を通して知った。いまでは綿彦にその気があることも、わかっている。

『怪物に、なりたくないんだ』

 渡米を決めたころ、綿彦が言った。

『ぼくの中には、悪意の種が植わっているんだ。その種が芽吹かないように、もし芽吹いても、手折れるように、ぼくは、ぼく自身を理解しなきゃならない』

 示し合わせたわけではないが、そうして綿彦も、アメリカの大学で心理学を専攻。いまやそこで得た知識を仕事にしている。


「でもさ、もう少しだけ、人とうまく付き合えよ。努力は、できるだろ。でなきゃ、そのうち友だちいなくなるぞ」
「いいよ。だって、ぼくには君がいるからね、和臣」

 綿彦は目を細めて、本当に幸せそうに笑った。機嫌はなおったらしい。

「しかたねぇなぁ」

 俺は綿彦に腕を伸ばした。そうして頭を……頭、を……

「あ、届かないかんじ?」

 綿彦がにやりと笑う。

「うるせぇ! 腕伸ばしただけだっつぅの! ストレッチだ、ストレッチ!」
「ふふふ」

 綿彦は背中をかがめて頭の天辺を俺の手のひらにすりつけた。淡い色の髪は、ふわふわしている。そうしたまま、綿彦は呟くように言う。

「和臣はぼくの命綱なんだ。普通の人と、犯罪者との境界線……。ぼくが向こう側で、迷子にならずに帰って来れるように。この手をずっと、離さないでね」

 不安で息が詰まりそうなのが、バレないように。

「……当たり前だ、ばか」

 お前こそ、離れていくなよ。
 あの日に、戻ろうとするなよ。

 
「んじゃ、行こっか」

 綿彦が、また急に気分を変えて明るく言った。
 俺は目をぱちくりさせる。

「行くって、どこに?」
「どこって、決まってるじゃない。ぼくと違って境界線の向こう側で迷子になってる……斎藤晴美の家だよ」
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