私の完璧な彼氏さん

むつき紫乃

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完璧じゃない彼の話

◆ 38

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「あ、やっぱり氷室課長だ。今日出社してたんですね?」

 その手には書類があり、彼もまた休日出勤らしい。用事で営業一課に来ていたところで先ほどの電話のやりとりを聞きつけたのだろう。

 進藤と顔を合わせるのなら、さっさと帰ってしまったほうがよかったかもしれない。鷹瑛にしてはめずらしい逃避的な考えを抱いた。
 そもそも先日の挑発的な発言のあとで、どうしてこんなに平然と話しかけてこれるのだろう。その神経が真剣に理解できなかった。

「ちょっと用事ができたからな」

 人目もない休日ということもあって返答は極限までそっけなかった。
 しかし進藤は気にした様子もなく、「それは残念でしたね」などという。

「なにがだ」
「え、そりゃあ……」

 一課のほうをちらと振り返り、そちらに出勤している人間を気にする素振りを見せると、鷹瑛だけに聞こえる声でささやいた。

「英さんですよ。一緒にいたんでしょう?」

 どうしてそれをお前が知っているんだ。
 文句をそのまま漏らしそうになって、一度は口を噤んだ。だが、雪乃からそれを聞いていたのだと思い至ると、やはり面白くない気持ちは隠し立てできなかった。

「……もしかして、嫌みか?」

 雪乃と鷹瑛が今上手くいっていないことは進藤が一番よく分かっているだろうに。
 けれども、彼はきょとんと目を丸くした。

「どういう意味ですか?」
「昨日の、夜。彼女と一緒にいたんだろう? 仲がいいんだな。バレンタインデーに」

 当てこするような自分の言い草こそ正真正銘の嫌みだった。
 口にした瞬間、ひどい後悔が襲う。

 言っても仕方がないというのに、どうしてこんなことを言ってしまうのだろう。これでは八つ当たりだ。やはり今は冷静になれない。自分の口を縫い付けて誰もいないところに閉じこもれたらと切実に思った。

「えっと……もしかして、疑ってるんですか? 俺と英さんのことを?」

 進藤は困惑していたが、こちらを見る目はどこまでも真っ直ぐで後暗いところなど一つもなさそうだ。その純粋さに圧倒されて視線をそらしたくなるのをぐっとこらえる。

「他人でいるつもりはない、といったのは君だ。嘘だったわけじゃないだろう?」
「それは……まあ。あわよくば、とは思ってました。でも、英さん課長のことしか見えてないんですもん。かなわないですよ。だから、二人がさっさと仲直りしてくれたら諦めもつくという感じで……」
「え……」

「課長にもあのとき相手にされませんでしたし」と照れくさそうに頬をかくが、その仕草は鷹瑛の意識を見事に素通りした。それくらい進藤の言葉に衝撃を受けていた。

「なら、昨日、会っていたのは……?」
「それは、英さんが悩んでいたから。本当はお友達に相談する予定だったんですよ。それがお友達が急に来れなくなってしまったから、その場に居合わせた俺が行くことになっただけで」
「そう、なの、か……?」
「そうですよ。俺だって、デートのつもりだったら、あんな安居酒屋なんて行きません。話だって、課長のことばっかりだったんですからね。でも、ちゃんと話し合うって言ってたから、安心してたんですけど」

 そこで一度言葉を切る。うなだれている鷹瑛からは見えないが、後頭部に進藤の視線がぐさぐさと突き刺さっているのを感じる。

「その様子じゃ、またこじれてるんですね」
「……ああ」
「俺とのことを疑ってるなら、誤解ですから。英さんは、課長しか見てませんよ。早く仲直りしてください」

 その言葉が、どれほど鷹瑛を絶望的な気分にさせるのか、おそらく彼にはわからないだろう。

 昨日の憤りは全くの誤解で、雪乃にはなんの落ち度もなかった。全ては早とちりだった。
 それなのにあんな仕打ちをしてしまったのだ。

 冷静さを欠いている。その自覚はあった。けれど、まさかこれほどとは思わなかった。
 自分に対する自信の一切が不安へと変わった。公私ともに彼女を導く存在になれるつもりだった。けれどそれは思い上がりだったのだ。

 もしかしたら鷹瑛も、雪乃のこれまでの恋人と変わらないのかもしれない。彼女を己の都合のいいようにして悦に入り、意に反する行動に憤る。

 雪乃にとって、自分は足かせになってしまうのではないか。彼女に真に必要なのは、彼女を利用する男でもなく、成長を促し引き上げようとする鷹瑛でもない。例えば、そばにいるだけでただ安心できる進藤のような男なのではないのか――?

 黙り込んでしまった鷹瑛の顔を進藤が心配げにのぞき込んでくる。はっとして、微笑を無理やり貼り付けた。

「分かった。彼女には……謝っておく。教えてくれてありがとう。話せてよかった」
「はい、ぜひそうしてください」

 頷いてみせると、進藤は素直に安心した様子で営業部を出ていった。謝罪して、その後どうするのか。あえて濁したことに気付いてもいないようだった。
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