私の完璧な彼氏さん

むつき紫乃

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理想と現実の狭間で

◆ 26

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 男心をくすぐるいたずらな目にちろりと射抜かれて、鷹瑛は逃げるように視線を外し、腕を組んだ。

 出会った頃から、市川のこの瞳が苦手だ。それは彼女の手玉に取られそうだからということではなく、自分が微笑の下に隠している真意までも見通されてしまいそうだからだ。

 本音を暴かれることへの無意識の恐れ、それが二人の関係の全てを物語っている。心をさらけ出したいと思えるほど、二人の情交は深いものではなかった。それは現在についても言える。
 鷹瑛が市川相手に胸襟を開くことはない。ましてや、雪乃本人にすら告げていない思いをここで白状するはずなどなかった。

 だから、嘘にならないギリギリの内容で、かつ、もっとも冷淡に聞こえる言葉をあえて選んだ。

「……条件を考えたんだ」

 無機質で端的な言葉に彼女が振り返った。その視線が横顔に突き刺さる。人工的な街並みを眺める素振りで鷹瑛はそれを受け流した。

「条件? ずいぶん冷たい言い方」
「事実だからな」
「条件ってなあに? あなたが女性に求めるものがなんなのか、興味があるわ」
「一言でいうのは難しい。雪乃について言うなら、支えてくれそうなところ、かな」
「なに? それ。かなり酷いこと言ってるけど――」

 一段低くなった声が、どうしてか中途半端なところで途絶える。
 意見を率直に述べる市川のことであるから、軽い嫌味くらいはあるだろうと覚悟していた。けれども、その声が再び紡ぎ出したのは同意の言葉だった。

「……でも、なんとなく分かるわ。私たちって一緒にいても、一人でいるみたいだったもの。ダブルスなのに、個人プレーをしているみたいな……。二人ともなんでも自分一人でできてしまうから、自己完結してたせいね」

 鷹瑛はそこで初めて気が付いた。過去の哀愁は、自分一人のものではなかったのだ。

「もしかして、僕を振ったのは、それが原因?」
「そう。いつまでも他人行儀で、もどかしかったのよ。お互い情が薄いわけではないから、なにかトラブルでも起きていれば、それをきっかけにできたのかもしれないけど。そんな偶然はなかったし、それより先に私は彼に出会ってしまったし」
「そう、だな……」

『ごめんなさい、好きな人ができたの。その人と付き合うことになったの』

 二人の交際を終わらせたのは、そんな言葉だった。心の底から申し訳なさそうに頭を下げる市川に、分かったと聞き分けよく頷きながら、鷹瑛は疑問に思ったものだ。
 人一倍の誠実さと責任感をあわせ持つ彼女が、恋人のある身でどうしてそんな行動に走ったのか。彼女もまた自分と同じ違和感を覚えていたのだ。

 人と人の共存は、単なる足し算ではない。互いを補い合い、高め合い、相乗効果を生み出して、二人分以上の力を生み出す。それが誰かと共に在ることの真価だと思う。
 けれど、自分たちにはそれができなかった。一人と一人で、ただの二人にしかなれなかった。

 市川だけではない。鷹瑛の恋愛は常にそういうものだった。
 女性との関係はいつも、自信に満ちた積極的な相手に声を掛けられるか、自分から声を掛けることで始まった。独立的な思想を持った者同士の恋愛は、大人としての分別をわきまえたお手本のような交際である。

 だがそれは、つまるところ表層的なのだ。一緒に過ごすのはもちろん楽しい。けれども、肉体関係があるほかは「友人」と大差ない。
 そんな恋愛に恋愛たる価値はあるのだろうか。少なくとも鷹瑛には、その価値が見つけられなかった。だから考えたのだ。二人でいることに意味を見出せる相手、その条件を。

「英さんは、尽くすタイプみたいだから、個人プレーにはなりようがないものね」
「ああ、その通りだ」

 こんな身勝手な恋人の選び方は非難されるものだろうか。けれど、恋愛は本質的にエゴだろう。その人を選ぶか選ばないかという傲慢な判断は、究極的には自分の利益になるかどうかという点に尽きる。

 ただ一つの誤算は、自分が心から雪乃に愛情を感じるようになったことで、それは予想外の幸福だった。
 己の中にある大事な人への想いを強く意識すると、先ほどまで胸にのしかかっていた暗澹たる気分が和らぐのを感じた。

 大丈夫だ。僕はまだ自分を保てる。

 確かめるように小さく頷くと、もやもやとした暗雲を心の深い淵に沈ませる。「まだ」という無意識の一言に込められた予感が、彼の意識に上ることはついになかった。

 バルコニーを去る直前に市川は風に紛れそうな声で呟く。

「……もしかしたら、英さんは氷室くんにとって別の意味で難しいかもしれないけど」
「どういうことだ?」
「そんな気がしただけよ」

 その真意を鷹瑛が知るのは、もう少し先のことである。

 それからしばし風に身を委ねたあとで屋内に戻ると、給湯室に据え付けられた鏡の前で好き放題に乱された髪を整えた。後ろ髪まできちんと直ったのを確認しようと首を傾けたところで、流しのそばに置き去りにされたマグカップが目に入る。

 黒猫のシルエット柄が控えめで可愛らしいそれは、雪乃が愛用している品である。きっちりしている彼女にしてはめずらしい忘れ物だ。猫のしっぽを模した持ち手に指を引っ掛けると、それをそのまま営業二課に持ち帰った。

 一日の業務時間も後半に差し掛かったオフィスは、電話の話し声やキーボードを叩く音で騒がしい。集中している部下たちの様子に何気なく目を走らせてから島の間を通り抜け、奥の自席に鞄を置いた。

 手に残ったマグカップを返すために、持ち主のデスクに歩み寄る。椅子に座っている彼女は、少し俯いているようだった。

「英さん。給湯室に忘れ物」

 視界に入るようにマグカップをデスクに置く。すると雪乃は全身をびくっと震わせて大げさな動作でこちらを振り仰いだ。

「あ、ど、どうもありがとうございます……」

 一瞬だけ視線が合ったのに、礼を口にするときにはもう逸らされていた。
 けれど、鷹瑛は見てしまった。その目が赤くなっているのを。

「どうかしたのか?」

 声にほんの少し、職場でも不自然にならない程度に心配を滲ませる。少しずつ心を開いてくれている今なら、本心からの気遣いを読み取ってなんらかの反応を返してくれると期待したのだ。

 けれども彼女はただ微笑むだけだった。

「ちょっと目にゴミが入っちゃっただけです。大丈夫なので気にしないでください」

 その言葉が透明な壁となって二人の間に立ちはだかるのを、鷹瑛は理屈でなく感じ取った。
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