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僕と彼女とその一夜①

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 翌日、マントルよりも深く沈みこんだ心を叱咤して出勤した僕は、抜け殻状態でひたすらパソコンとにらめっこしていた。そこへやってきた教育係の主任が手にした書類を丸め、ぱこんっと僕の頭を叩く。

「……なんでしょう?」

 痛くもない頭をさすりながら、ゆっくりとした動作で振り仰ぐと、主任が呆れたため息をついた。

「お前、今日どうしたんだよ。いつもにこにこなのに無表情でさあ。淡々と作業してるから声掛けにくいぞ。悩みがあるなら聞いてやるから、仕事中はちゃんとしてろ」
「あ……はい。すみません」

 反省して、表情を和らげるように努めたけれど、心は曇ったままだった。
 あれから頼子さんには連絡していない。なにを伝えたらいいのか考えがまとまらないのだ。
 もしかしてこのまま僕がなにもしなかったら、破局を迎えるのだろうか。そう思うと悲しくなった。好きだったのは僕だけだから、自分が手放したら簡単に終わる関係なのだ。本当に一方通行の恋だったのだと今さら実感してしまう。
 でもひょっとしたら彼女からなにか言ってくれるかもしれない。そんな期待も実はほんのちょびっとだけあって、定時を過ぎたあたりからスマホが気になって仕方がなかった。
 案の定、連絡なんか入らなくて、僕は家でビールをあおっていたわけだけれど、どうしてか全然酔えなかった。
 おかしい、いつもなら缶ビール一本でいい感じに酔えるのに、もう三本目だ。意識ははっきりしている。

「ダバダ火振でも飲めば酔えるのかな」

 残念ながら、彼女の部屋に置いてきてしまったけれど。
 そのとき、テーブルの上に投げ出していたスマホがブブッと震えた。飛びつくように確認したら、彼女からのメッセージ……ではない。送り主は彼女の名前だけど、中身は先日飲み会で隣になった先輩からだった。借りたスマホから送信してきたらしい。
 いわく、『頼子がべろんべろんに酔っ払ってるので責任とって迎えにくるよーに!』とのことだ。
 とりあえず靴をひっかけて家を飛び出したけれど、頭の中は疑問符でいっぱいだ。
 べろんべろん? 彼女が? 想像できない。一体なにがあったのだろう。
 混乱しながら、教えてもらった店の場所に駆けつけた。
 そこは飲み放題二時間いくらの大衆居酒屋だった。昨日家であれだけせがんでも飲んでくれなかったのに、なんでこんな場所で酔っ払ってるんだよ、なんて八つ当たり気味の苛立ちを感じずにはいられなかった。
 しかし、奥のテーブル席に頼子さんと先輩の姿を見つけた瞬間、そんな苛立ちは霧散する。正確には、彼女が僕の姿を見つけた瞬間。

「オミくん、迎えに来てくれたの?」

 誰かと思うほど甘い声が、知らない呼び名を呼んだ。
 いや、僕のことを呼んでいるんだ。それは分かる。長谷部直臣ただおみだから、オミくん。分かるけど、分からない。頼子さんがなんで僕をそう呼ぶのか、てんで理解できない。
 しかも、常に凛としているはずの整った顔は今や無防備に綻んで、喜色満面の笑顔だ。彼女の全身からほわほわとした空気が溢れだしている。
 いつものピシッとした緊張感はどこへ?
 緩みきった雰囲気はまるで別人だ。
 僕がどうやってもしっかり者の鎧を崩せなかったのに、先輩は一体どんな魔法を使ったのだろう。
 二人の間のテーブルに視線を移せば、ビールが入っていたと思しき空のピッチャーがあった。加えて、お猪口にワイングラス、飲みかけで残っているのはハイボール。どんだけちゃんぽんしたんだと少々引いた気持ちになる。
 アルコールという名の魔法をしこたま摂取したわりに足取りのしっかりした頼子さんは、ゆっくりした動作で立ち上がり、なんと僕に抱きついてきた。

「あの、ここでは、ちょっと。人目がありますし!」

 酒気で熱くなった身体を慌てて引き離そうとすると、それに歯向かうように彼女は胸元に頬を寄せてくる。やがて上目遣いでこちらを見上げ、にこっと目を細める。それがすこぶる可愛くて、たしなめようという気持ちは瞬時に消え去ってしまった。

「お会計はもうもらってるから。その酔っ払いさっさと連れて帰っちゃって」

 しっしっと追い払う仕草をする先輩に「またね」と頼子さんはのんきに手を振っている。僕は軽く頭を下げてから、その手を握り、店をあとにした。
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