5 / 8
僕と彼女とその一夜①
しおりを挟む
翌日、マントルよりも深く沈みこんだ心を叱咤して出勤した僕は、抜け殻状態でひたすらパソコンとにらめっこしていた。そこへやってきた教育係の主任が手にした書類を丸め、ぱこんっと僕の頭を叩く。
「……なんでしょう?」
痛くもない頭をさすりながら、ゆっくりとした動作で振り仰ぐと、主任が呆れたため息をついた。
「お前、今日どうしたんだよ。いつもにこにこなのに無表情でさあ。淡々と作業してるから声掛けにくいぞ。悩みがあるなら聞いてやるから、仕事中はちゃんとしてろ」
「あ……はい。すみません」
反省して、表情を和らげるように努めたけれど、心は曇ったままだった。
あれから頼子さんには連絡していない。なにを伝えたらいいのか考えがまとまらないのだ。
もしかしてこのまま僕がなにもしなかったら、破局を迎えるのだろうか。そう思うと悲しくなった。好きだったのは僕だけだから、自分が手放したら簡単に終わる関係なのだ。本当に一方通行の恋だったのだと今さら実感してしまう。
でもひょっとしたら彼女からなにか言ってくれるかもしれない。そんな期待も実はほんのちょびっとだけあって、定時を過ぎたあたりからスマホが気になって仕方がなかった。
案の定、連絡なんか入らなくて、僕は家でビールをあおっていたわけだけれど、どうしてか全然酔えなかった。
おかしい、いつもなら缶ビール一本でいい感じに酔えるのに、もう三本目だ。意識ははっきりしている。
「ダバダ火振でも飲めば酔えるのかな」
残念ながら、彼女の部屋に置いてきてしまったけれど。
そのとき、テーブルの上に投げ出していたスマホがブブッと震えた。飛びつくように確認したら、彼女からのメッセージ……ではない。送り主は彼女の名前だけど、中身は先日飲み会で隣になった先輩からだった。借りたスマホから送信してきたらしい。
いわく、『頼子がべろんべろんに酔っ払ってるので責任とって迎えにくるよーに!』とのことだ。
とりあえず靴をひっかけて家を飛び出したけれど、頭の中は疑問符でいっぱいだ。
べろんべろん? 彼女が? 想像できない。一体なにがあったのだろう。
混乱しながら、教えてもらった店の場所に駆けつけた。
そこは飲み放題二時間いくらの大衆居酒屋だった。昨日家であれだけせがんでも飲んでくれなかったのに、なんでこんな場所で酔っ払ってるんだよ、なんて八つ当たり気味の苛立ちを感じずにはいられなかった。
しかし、奥のテーブル席に頼子さんと先輩の姿を見つけた瞬間、そんな苛立ちは霧散する。正確には、彼女が僕の姿を見つけた瞬間。
「オミくん、迎えに来てくれたの?」
誰かと思うほど甘い声が、知らない呼び名を呼んだ。
いや、僕のことを呼んでいるんだ。それは分かる。長谷部直臣だから、オミくん。分かるけど、分からない。頼子さんがなんで僕をそう呼ぶのか、てんで理解できない。
しかも、常に凛としているはずの整った顔は今や無防備に綻んで、喜色満面の笑顔だ。彼女の全身からほわほわとした空気が溢れだしている。
いつものピシッとした緊張感はどこへ?
緩みきった雰囲気はまるで別人だ。
僕がどうやってもしっかり者の鎧を崩せなかったのに、先輩は一体どんな魔法を使ったのだろう。
二人の間のテーブルに視線を移せば、ビールが入っていたと思しき空のピッチャーがあった。加えて、お猪口にワイングラス、飲みかけで残っているのはハイボール。どんだけちゃんぽんしたんだと少々引いた気持ちになる。
アルコールという名の魔法をしこたま摂取したわりに足取りのしっかりした頼子さんは、ゆっくりした動作で立ち上がり、なんと僕に抱きついてきた。
「あの、ここでは、ちょっと。人目がありますし!」
酒気で熱くなった身体を慌てて引き離そうとすると、それに歯向かうように彼女は胸元に頬を寄せてくる。やがて上目遣いでこちらを見上げ、にこっと目を細める。それがすこぶる可愛くて、たしなめようという気持ちは瞬時に消え去ってしまった。
「お会計はもうもらってるから。その酔っ払いさっさと連れて帰っちゃって」
しっしっと追い払う仕草をする先輩に「またね」と頼子さんはのんきに手を振っている。僕は軽く頭を下げてから、その手を握り、店をあとにした。
「……なんでしょう?」
痛くもない頭をさすりながら、ゆっくりとした動作で振り仰ぐと、主任が呆れたため息をついた。
「お前、今日どうしたんだよ。いつもにこにこなのに無表情でさあ。淡々と作業してるから声掛けにくいぞ。悩みがあるなら聞いてやるから、仕事中はちゃんとしてろ」
「あ……はい。すみません」
反省して、表情を和らげるように努めたけれど、心は曇ったままだった。
あれから頼子さんには連絡していない。なにを伝えたらいいのか考えがまとまらないのだ。
もしかしてこのまま僕がなにもしなかったら、破局を迎えるのだろうか。そう思うと悲しくなった。好きだったのは僕だけだから、自分が手放したら簡単に終わる関係なのだ。本当に一方通行の恋だったのだと今さら実感してしまう。
でもひょっとしたら彼女からなにか言ってくれるかもしれない。そんな期待も実はほんのちょびっとだけあって、定時を過ぎたあたりからスマホが気になって仕方がなかった。
案の定、連絡なんか入らなくて、僕は家でビールをあおっていたわけだけれど、どうしてか全然酔えなかった。
おかしい、いつもなら缶ビール一本でいい感じに酔えるのに、もう三本目だ。意識ははっきりしている。
「ダバダ火振でも飲めば酔えるのかな」
残念ながら、彼女の部屋に置いてきてしまったけれど。
そのとき、テーブルの上に投げ出していたスマホがブブッと震えた。飛びつくように確認したら、彼女からのメッセージ……ではない。送り主は彼女の名前だけど、中身は先日飲み会で隣になった先輩からだった。借りたスマホから送信してきたらしい。
いわく、『頼子がべろんべろんに酔っ払ってるので責任とって迎えにくるよーに!』とのことだ。
とりあえず靴をひっかけて家を飛び出したけれど、頭の中は疑問符でいっぱいだ。
べろんべろん? 彼女が? 想像できない。一体なにがあったのだろう。
混乱しながら、教えてもらった店の場所に駆けつけた。
そこは飲み放題二時間いくらの大衆居酒屋だった。昨日家であれだけせがんでも飲んでくれなかったのに、なんでこんな場所で酔っ払ってるんだよ、なんて八つ当たり気味の苛立ちを感じずにはいられなかった。
しかし、奥のテーブル席に頼子さんと先輩の姿を見つけた瞬間、そんな苛立ちは霧散する。正確には、彼女が僕の姿を見つけた瞬間。
「オミくん、迎えに来てくれたの?」
誰かと思うほど甘い声が、知らない呼び名を呼んだ。
いや、僕のことを呼んでいるんだ。それは分かる。長谷部直臣だから、オミくん。分かるけど、分からない。頼子さんがなんで僕をそう呼ぶのか、てんで理解できない。
しかも、常に凛としているはずの整った顔は今や無防備に綻んで、喜色満面の笑顔だ。彼女の全身からほわほわとした空気が溢れだしている。
いつものピシッとした緊張感はどこへ?
緩みきった雰囲気はまるで別人だ。
僕がどうやってもしっかり者の鎧を崩せなかったのに、先輩は一体どんな魔法を使ったのだろう。
二人の間のテーブルに視線を移せば、ビールが入っていたと思しき空のピッチャーがあった。加えて、お猪口にワイングラス、飲みかけで残っているのはハイボール。どんだけちゃんぽんしたんだと少々引いた気持ちになる。
アルコールという名の魔法をしこたま摂取したわりに足取りのしっかりした頼子さんは、ゆっくりした動作で立ち上がり、なんと僕に抱きついてきた。
「あの、ここでは、ちょっと。人目がありますし!」
酒気で熱くなった身体を慌てて引き離そうとすると、それに歯向かうように彼女は胸元に頬を寄せてくる。やがて上目遣いでこちらを見上げ、にこっと目を細める。それがすこぶる可愛くて、たしなめようという気持ちは瞬時に消え去ってしまった。
「お会計はもうもらってるから。その酔っ払いさっさと連れて帰っちゃって」
しっしっと追い払う仕草をする先輩に「またね」と頼子さんはのんきに手を振っている。僕は軽く頭を下げてから、その手を握り、店をあとにした。
0
お気に入りに追加
92
あなたにおすすめの小説
やさしい幼馴染は豹変する。
春密まつり
恋愛
マンションの隣の部屋の喘ぎ声に悩まされている紗江。
そのせいで転職1日目なのに眠くてたまらない。
なんとか遅刻せず会社に着いて挨拶を済ませると、なんと昔大好きだった幼馴染と再会した。
けれど、王子様みたいだった彼は昔の彼とは違っていてーー
▼全6話
▼ムーンライト、pixiv、エブリスタにも投稿しています
可愛い後輩ワンコと、同棲することになりました!
奏音 美都
恋愛
晴れて恋人となり、ハルワンコの策略にはまって同棲することになった美緒。
そんなふたりの様子と、4月の人事異動について描いてます。
こちらの作品は、
「【R18】バレンタインデーに可愛い後輩ワンコを食べるつもりが、ドS狼に豹変されて美味しく食べられちゃいました♡」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/699449075
その後を描いたエピソードになります。
副社長氏の一途な恋~執心が結んだ授かり婚~
真木
恋愛
相原麻衣子は、冷たく見えて情に厚い。彼女がいつも衝突ばかりしている、同期の「副社長氏」反田晃を想っているのは秘密だ。麻衣子はある日、晃と一夜を過ごした後、姿をくらます。数年後、晃はミス・アイハラという女性が小さな男の子の手を引いて暮らしているのを知って……。
若妻シリーズ
笹椰かな
恋愛
とある事情により中年男性・飛龍(ひりゅう)の妻となった18歳の愛実(めぐみ)。
気の進まない結婚だったが、優しく接してくれる夫に愛実の気持ちは傾いていく。これはそんな二人の夜(または昼)の営みの話。
乳首責め/クリ責め/潮吹き
※表紙の作成/かんたん表紙メーカー様
※使用画像/SplitShire様
【R18】男嫌いと噂の美人秘書はエリート副社長に一夜から始まる恋に落とされる。
夏琳トウ(明石唯加)
恋愛
真田(さなだ)ホールディングスで専務秘書を務めている香坂 杏珠(こうさか あんじゅ)は凛とした美人で26歳。社内外問わずモテるものの、男に冷たく当たることから『男性嫌いではないか』と噂されている。
しかし、実際は違う。杏珠は自分の理想を妥協することが出来ず、結果的に彼氏いない歴=年齢を貫いている、いわば拗らせ女なのだ。
そんな杏珠はある日社長から副社長として本社に来てもらう甥っ子の専属秘書になってほしいと打診された。
渋々といった風に了承した杏珠。
そして、出逢った男性――丞(たすく)は、まさかまさかで杏珠の好みぴったりの『筋肉男子』だった。
挙句、気が付いたら二人でベッドにいて……。
しかも、過去についてしまった『とある嘘』が原因で、杏珠は危機に陥る。
後継者と名高いエリート副社長×凛とした美人秘書(拗らせ女)の身体から始まる現代ラブ。
▼掲載先→エブリスタ、ベリーズカフェ、アルファポリス(性描写多め版)
優しい微笑をください~上司の誤解をとく方法
栗原さとみ
恋愛
仕事のできる上司に、誤解され嫌われている私。どうやら会長の愛人でコネ入社だと思われているらしい…。その上浮気っぽいと思われているようで。上司はイケメンだし、仕事ぶりは素敵過ぎて、片想いを拗らせていくばかり。甘々オフィスラブ、王道のほっこり系恋愛話。
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる