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僕と彼女とそのお酒②
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安堵のあまり全身から力が抜ける。へなへなと背もたれに寄りかかった僕に頼子さんが気遣わしげな顔をした。
「もう酔いが回っちゃった? お水もってこようか」
「まだ大丈夫です……。あ、でもお水はお願いします」
すぐに差し出された冷たい水で喉を潤した僕は、気がかりが消えてすっかり晴れやかな気分だった。そこからは、手料理のちゃんこ鍋をつつきながら、心置きなく会話に興じることができた。
頼子さんも心なしかいつもより饒舌で、ダバダ火振をとっかかりにした話題は、プライベートのこと、家族や友人のことと徐々に広がっていく。知らなかった彼女を知るたびに、少しは距離を縮められたかな、なんて胸を弾ませた。
鍋の味付けは塩気がちょうどよくて、焼酎によく合っていた。お酒はちょっと強かったけれど、ゆっくりめのペースでチェイサーを挟んでいれば気持ちのいい酔いが全身を包み込む。そして目の前にいる頼子さんも、同じように気分よさげに過ごしてくれているのがこの上なく嬉しかった。
箸や取り皿を扱う彼女の所作はやっぱり一ミリの乱れもなくて、隙を見せてはくれないけれど――。
とそこで、あることに気がついてしまった。しばらく前から頼子さんのグラスがちっとも減っていないのだ。最初は二人とも同じくらいのペースだったのに、いつの間にやら僕ばかりが杯を重ねていた。
言動にも顔色にも変化は見受けられないから、飲みすぎたわけではないと思う。酒豪という話が真実なら、彼女にはまだまだ余裕があるはずだ。
なのに、どうして飲むのをやめたのだろう。
――やっぱり僕は、信頼されていない?
楽しい気分がみるみるしおれていった。
「どうしたの? やっぱり気分悪くなった?」
頼子さんがすぐに気づいて心配してくれる。本当に冷静そのもの。仕事をしているときとなんら変わらない。
僕はふるふると首を横に振り、じっと彼女を見つめた。
「お酒……飲まないんですか? さっきから全然減ってないじゃないですか」
「あ……うん。度数高いし、もうやめとこうかなって」
「全然顔色変わってないのに? お酒が好きで、たくさん飲まれるって聞きましたけど」
頼子さんが痛いところを突かれたという顔をした。その表情に僕は泣きたくなった。なんだかアルハラでもしている気分だ。
「すみません。僕の前で酔うのが嫌なんですよね、分かってます……。でも僕って、そんなに頼りないでしょうか。これでも、彼氏なのに……」
こんな女々しいことを言うはずではなかったのに、僕はかなり酔っていたみたいだ。感情が昂って涙まで滲んできて、泣き上戸ってやつかもしれない。
頼子さんは黙り込んだまま、その瞳に戸惑いの色を浮かべていた。とても困らせている。分かっていたのに、口からはひとりでに言葉が流れ出ていく。
「全然気を許してくれないし、会わなくても平然としてるし――頼子さんは僕のこと、ほんとはちっとも好きじゃないんでしょう」
これは決定打。言ってはいけないことだ。けれど、感情が坂道を転がるように落ちていって、コントロールできなかった。
頼子さんがショックを受けたように目を潤ませた。
「そんなふうに、思ってたの……?」
「だって、そうじゃないですか! いつまでも他人行儀で、クールで……こうして二人きりで会っても、会社にいるときと全然変わらない……っ」
こんなふうに相手を責めるのは、間違っている。
そもそも交際を押しきったのは僕じゃないか。お試しでもいいって、好きにならなくてもいいって言ったのは僕だ。頼子さんに非はない。勝手な期待を押し付けるほうが悪い。
だからこれは、完全に僕の一人相撲。
「……頭、冷やしてきます」
バッグをつかみ、つかつかと玄関に向かった。ドアノブに手をかけたとき、「待って」と声がかかった。
「その、違うの、私……ごめんなさい……」
揺らいだ声音。頼子さんはなにかを伝えようとして言葉を探しているみたいだ。肩越しに振り返ってみれば、ひどく狼狽えた彼女がいた。
違うってなにが?
その「ごめんなさい」はなんの謝罪?
後ろ向きな想像ばかりが思い浮かんでしまう。答えを知りたくなくて、僕はとっさに逃げた。
「待って! 話を聞いて、オミくん!」
普段の冷静さを失った彼女が背後で必死に声を上げている。だけどそれらを振り切り、僕は部屋を飛び出した。最後に聞こえた呼び名すらまともに理解しないまま、共用通路を突っ切って階段を駆け下りた。
心臓がばくばくしている。呼吸が苦しい。頭は酔いでぐるぐるしているし、胃はひっくり返りそうに気持ち悪い。
だけど足は止まらなかった。逃避したところで問題を先送りにするだけだって分かっている。それでも走って走って、通りを突き進んで、駅について、その端でようやく立ち止まり、壁に手をついた。
「う……」
吐き気が込み上げて、慌てて抑え込む。その場にずるずるとしゃがみこみ、全力疾走で荒れ狂う身体をなんとか鎮める。
時間が経つにつれて呼吸がだんだん楽になって、心臓や胃が落ち着いてくる。けれど、心の痛みだけはいつまで経っても治まらなかった。
自分の発言が頭の中で何度も何度もリピート再生される。
あんなの、駄々をこねる子供と一緒だ。なんであんなこと言っちゃったんだよ。今までの失敗なんか比べものにならないくらい酷い。
失望されただろうか。さすがに怒ったかな。……嫌われたかもしれない。
好かれていなくても、彼氏になれるだけで嬉しいと思っていたはずなのに。
「僕の馬鹿……」
落ち込む僕を慰めてくれる人なんて、ここにはいなかった。
「もう酔いが回っちゃった? お水もってこようか」
「まだ大丈夫です……。あ、でもお水はお願いします」
すぐに差し出された冷たい水で喉を潤した僕は、気がかりが消えてすっかり晴れやかな気分だった。そこからは、手料理のちゃんこ鍋をつつきながら、心置きなく会話に興じることができた。
頼子さんも心なしかいつもより饒舌で、ダバダ火振をとっかかりにした話題は、プライベートのこと、家族や友人のことと徐々に広がっていく。知らなかった彼女を知るたびに、少しは距離を縮められたかな、なんて胸を弾ませた。
鍋の味付けは塩気がちょうどよくて、焼酎によく合っていた。お酒はちょっと強かったけれど、ゆっくりめのペースでチェイサーを挟んでいれば気持ちのいい酔いが全身を包み込む。そして目の前にいる頼子さんも、同じように気分よさげに過ごしてくれているのがこの上なく嬉しかった。
箸や取り皿を扱う彼女の所作はやっぱり一ミリの乱れもなくて、隙を見せてはくれないけれど――。
とそこで、あることに気がついてしまった。しばらく前から頼子さんのグラスがちっとも減っていないのだ。最初は二人とも同じくらいのペースだったのに、いつの間にやら僕ばかりが杯を重ねていた。
言動にも顔色にも変化は見受けられないから、飲みすぎたわけではないと思う。酒豪という話が真実なら、彼女にはまだまだ余裕があるはずだ。
なのに、どうして飲むのをやめたのだろう。
――やっぱり僕は、信頼されていない?
楽しい気分がみるみるしおれていった。
「どうしたの? やっぱり気分悪くなった?」
頼子さんがすぐに気づいて心配してくれる。本当に冷静そのもの。仕事をしているときとなんら変わらない。
僕はふるふると首を横に振り、じっと彼女を見つめた。
「お酒……飲まないんですか? さっきから全然減ってないじゃないですか」
「あ……うん。度数高いし、もうやめとこうかなって」
「全然顔色変わってないのに? お酒が好きで、たくさん飲まれるって聞きましたけど」
頼子さんが痛いところを突かれたという顔をした。その表情に僕は泣きたくなった。なんだかアルハラでもしている気分だ。
「すみません。僕の前で酔うのが嫌なんですよね、分かってます……。でも僕って、そんなに頼りないでしょうか。これでも、彼氏なのに……」
こんな女々しいことを言うはずではなかったのに、僕はかなり酔っていたみたいだ。感情が昂って涙まで滲んできて、泣き上戸ってやつかもしれない。
頼子さんは黙り込んだまま、その瞳に戸惑いの色を浮かべていた。とても困らせている。分かっていたのに、口からはひとりでに言葉が流れ出ていく。
「全然気を許してくれないし、会わなくても平然としてるし――頼子さんは僕のこと、ほんとはちっとも好きじゃないんでしょう」
これは決定打。言ってはいけないことだ。けれど、感情が坂道を転がるように落ちていって、コントロールできなかった。
頼子さんがショックを受けたように目を潤ませた。
「そんなふうに、思ってたの……?」
「だって、そうじゃないですか! いつまでも他人行儀で、クールで……こうして二人きりで会っても、会社にいるときと全然変わらない……っ」
こんなふうに相手を責めるのは、間違っている。
そもそも交際を押しきったのは僕じゃないか。お試しでもいいって、好きにならなくてもいいって言ったのは僕だ。頼子さんに非はない。勝手な期待を押し付けるほうが悪い。
だからこれは、完全に僕の一人相撲。
「……頭、冷やしてきます」
バッグをつかみ、つかつかと玄関に向かった。ドアノブに手をかけたとき、「待って」と声がかかった。
「その、違うの、私……ごめんなさい……」
揺らいだ声音。頼子さんはなにかを伝えようとして言葉を探しているみたいだ。肩越しに振り返ってみれば、ひどく狼狽えた彼女がいた。
違うってなにが?
その「ごめんなさい」はなんの謝罪?
後ろ向きな想像ばかりが思い浮かんでしまう。答えを知りたくなくて、僕はとっさに逃げた。
「待って! 話を聞いて、オミくん!」
普段の冷静さを失った彼女が背後で必死に声を上げている。だけどそれらを振り切り、僕は部屋を飛び出した。最後に聞こえた呼び名すらまともに理解しないまま、共用通路を突っ切って階段を駆け下りた。
心臓がばくばくしている。呼吸が苦しい。頭は酔いでぐるぐるしているし、胃はひっくり返りそうに気持ち悪い。
だけど足は止まらなかった。逃避したところで問題を先送りにするだけだって分かっている。それでも走って走って、通りを突き進んで、駅について、その端でようやく立ち止まり、壁に手をついた。
「う……」
吐き気が込み上げて、慌てて抑え込む。その場にずるずるとしゃがみこみ、全力疾走で荒れ狂う身体をなんとか鎮める。
時間が経つにつれて呼吸がだんだん楽になって、心臓や胃が落ち着いてくる。けれど、心の痛みだけはいつまで経っても治まらなかった。
自分の発言が頭の中で何度も何度もリピート再生される。
あんなの、駄々をこねる子供と一緒だ。なんであんなこと言っちゃったんだよ。今までの失敗なんか比べものにならないくらい酷い。
失望されただろうか。さすがに怒ったかな。……嫌われたかもしれない。
好かれていなくても、彼氏になれるだけで嬉しいと思っていたはずなのに。
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落ち込む僕を慰めてくれる人なんて、ここにはいなかった。
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