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1巻
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楽団の奏でる音楽がこの上なく盛り上がり、オーランドの手に導かれてアナスタシアはくるりと身を翻す。幾重にも重なった純白の裾がふわりと舞った。次いで背中に触れた手が腰元まで下りて、華奢な身体を仰け反らせる。間近に迫った彼の表情は――少し、苦しそうだった。
そして、楽団が最後の音を響かせる。
「踊ったら疲れたか? すみにソファが用意されているから、少し休もうか、アン」
オーランドからアナスタシアを取り戻したあと、エリオットが真っ先に口にしたのがそれだった。ダンスの高揚があとを引き、心ここにあらずの状態だったアナスタシアは、エリオットの提案に素直に頷いた。
アンというのは、ブラッドレイ侯爵家の人々がアナスタシアを呼ぶときの愛称だ。殿下と同じ呼び方はなんだか悔しいと言って、少年だったエリオットがつけてくれた。悔しいという心情がどういう理由によるものなのか、その時分のアナスタシアにはよく分からなかったけれど、自分のためにわざわざ考えてくれた呼び名が純粋に嬉しかった。
エリオットと空いている座席を探しながらふと思う。
オーランドは、いつの頃からかシアと呼んでくれることがなくなった。親しみを込めてそう呼ばれるのが、アナスタシアは密かに好きだったのに。
おそらくここ一年のことだと思う。理由は深く考えないようにしていた。それがデビューを間近に控えた令嬢に対する当然の敬意だと言うのなら、寂しいけれど仕方がない。けれど、もし彼がアナスタシアと距離を置きたいと感じていたなら……なんて、後ろ向きに憶測しはじめたらきりがない。
でも、と先ほどの彼を思い出す。
もしそうなら、そもそもアナスタシアにダンスなど申しこみはしないだろう。君のためだよ、なんて期待をもたせることも言わないはずだ。あんな瞳で見つめて――まるで、愛の告白でもされているように錯覚しそうな。
再び頬に熱が灯りそうになり、ぼけた思考を頭から追い出す。ちょうど人のいなくなったソファを見つけて腰を下ろした。
「レモン水をもらってくるから、少し待ってて」
そう言って踵を返したエリオットを見送り、アナスタシアは軽く息をつく。
夜会が盛り上がるのはこれからだ。まだ多くの人は中央のダンスフロアの付近にいて、このあたりはすいている。だからといって完全に油断するわけにはいかないけれど、緊張しすぎて少し疲れていた。
賑わいの中心から離れてみれば、王宮の大広間は本当に広くて、この場にどれだけの人がいるのだろうと気が遠くなってしまう。
このあとアナスタシアも、ブラッドレイ侯爵家とつながりの深い貴族たちのもとへ挨拶に赴かなくてはならない。それは初めて社交の場に出た良家の子女に求められる当然の礼儀だった。
父が宰相なので挨拶すべき相手はいささか多いが、王太子妃候補として立つ身であることを考えれば、少しでも顔は売っておくべきである。
お兄様が戻ってきたら、あの中に戻ろう。
そう決めて背もたれに寄りかかったとき。
「なに? あの色」
くすくす、と嫌悪感のにじむ笑い声を耳が拾い上げる。ゆったりと流れる音楽の狭間から、陰湿な囁きがひゅっと飛びこんできた。
息を詰めると、立て続けに言葉の矢が飛ぶ。
「見て。変な色。人じゃないみたい」
「ほんと、髪なんて色が全然なくて、おばあさんみたいよ」
「あんな気持ち悪い目の色ってある? どこかおかしいんじゃないかしら」
声の出どころはソファの脇に立つ三人の令嬢だった。アナスタシアは無視を決めこんだ。こんな展開には慣れている。何度も言われてきたことだ。
じっと口をつぐんで素知らぬ顔をしていると、こちらの反応が面白くなかったのか、彼女らはさらに続けた。
「あんな容姿で王太子妃になろうなんてどうかしてるとしか思えないわ。すでにクラリス様がいらっしゃるのに」
「あの方以上にオーランド様の妃にふさわしい方なんているはずありませんものね。とても立派なお方で、憧れている令嬢も多いですもの。妃になれば誰もが喜ぶに違いありませんわ」
「ブラッドレイ侯爵はよほど権力がほしいのではなくて? お父様も苦言を呈しておりました。すでにご子息が王太子の側近として召し抱えられているのに、ご令嬢までなんて、やることがあからさますぎると」
「しかもご令嬢は養子のうえに、あの色でしょう? それで推挙なさるなんて、よほど必死なのかしら。見苦しい」
父を悪しざまに言われ、アナスタシアは思わず立ち上がっていた。しかし、口にすべき言葉が見当たらない。馬鹿にするようにまたくすくすと笑う声が耳に届いて、奥歯を噛み締める。
違うと言い返したかった。ブラッドレイ侯爵は権力など望んでいない。エリオットが側近に就いているのはオーランドたっての希望があったからだ。アナスタシアが妃候補に名を連ねているのはアナスタシアのわがままだ。
父はいつだって優しくて公平で、国のことを考えている。見苦しいなんて評されるような人では決してないのに。
けれど、ここで言い返したところでどうにもならないのは目に見えていた。状況は悪化こそすれ、好転はしない。アナスタシアはぎゅっとこぶしを握って耐える。
「こんな人が王太子妃になんてなったら、お仕えする側も困ってしまいますわね。他国から舐められるに違いありませんもの」
「特にあの赤い瞳。血のようですわ。穢らわしい。王家にまったくふさわしくありませんわ」
ほんとに、ふふ。彼女たちは笑い声を上げる。
胃の底から気持ち悪いなにかがぐっと込み上げるのを感じ、アナスタシアは咄嗟に口元を押さえた。喉に力を込めてなんとか抑えこむが、もやもやとした吐き気が胸のあたりでうずまいている。
血のよう。穢らわしい。
その言葉を耳にした瞬間、頭から血の気が引いたのをはっきりと自覚した。
なぜそんな言葉にこれほど動揺してしまったのか、すぐには分からなかった。しかし、少し考えて気がつく。それは実母が言い放った言葉とまるきり同じだったのだ。
アナスタシアの瞳の色を嫌悪して前髪で隠すことを強要した実母。ずっと忘れていたのに。もう過去のことだと振り切ったつもりでいたのに。
打たれた頬の熱さが、見上げた実母の怒りの形相が、そのとき覚えたとてつもない恐れの感情が、鮮やかに脳裏によみがえる。
全身から冷や汗が噴き出して、肩が大きく上下する。呼吸が浅くなっていき、頭がくらくらして真っ直ぐ立っていられなくなった。
ここから出なきゃ。無様な姿はさらせない。
「どうしましたの?」
わざとらしい猫なで声で令嬢たちがすり寄ってくるのを振り払い、扉に向かった。背後で非難の声が上がったけれど、気にとめている余裕はなかった。
足早に歩を進めると、途中でどんっと誰かにぶつかってよろめく。
「も、もうしわけありませ……っ」
息も絶え絶えに謝罪して振り返れば、俯きがちの視界に、しずくの滴るワイングラスと男性の胴体が入りこむ。派手さはないが品のいい衣服を着ていた。名のある家の当主かもしれない。
しかし、視線を上げて彼の瞳を捉えると同時に、ぞくりと冷たいものが背すじを駆け上がる。
透き通るようなアイスブルー。
それはかつて実母が所有していた髪飾りの宝石とまったく同じ色をしていた。
彼はアナスタシアを見るなり驚いたように目を瞠ったが、すぐに表情を緩めて気遣わしげに眉根を寄せた。
「私は平気だ。あなたこそ休んだほうがいいだろう。顔色が悪い。それにワインが……」
グラスからはアルコールの匂いが立ちのぼっている。それがさらに胃を刺激して吐き気を強めた。
「大丈夫、です、から……っ」
アナスタシアはそれだけを言い、出口に突き進んだ。
必死の思いで会場を出て廊下をさまよい、人目につかない柱の陰にしゃがみこむ。
しばらくじっとしているとだんだんと悪心は治まり、全身に血の巡る感覚が戻ってきた。ほっと安堵の吐息を漏らして立ち上がると、足元のふらつきはなくなっていた。肌に残る汗が若干不快ではあったけれど、人前に出られないほどではない。
急いで広間に戻らなければ。きっと兄が心配している。挨拶回りだってあるのに。
しかし、身だしなみに問題がないかドレスを確かめたところで、アナスタシアの表情は凍りついた。腰から大きくふくらんだ純白のスカートに、赤々と大きな染みができていたのだ。
男性のもっていたワインがかかったのだろう。時間の経過で布地に染みこんだそれは、デビューを象徴する清らかな白を不格好なまだら模様で台無しにしていた。
「どうしよう……」
あまりのことに頭が真っ白になってしまう。
咄嗟の状況でも、相手の衣服に汚れがないことは確認していたが、自分のドレスにまでは気が回っていなかった。
こんな格好では広間に戻ることなどとてもできない。染みはスカートの上部からなかばにかけて広がっており、とても隠せるものではなかった。
取り返しのつかない失敗をしてしまった。その事実が、思った以上にアナスタシアを打ちのめした。
スカートを掴む手が震えている。ふと目をとめれば、その肌はいつにもまして青ざめて血の気がなく、死人のようだった。
人じゃないみたい。
令嬢たちから投げつけられた悪意がじわじわと心を侵していく。ほかの人と同じ色をしていたら、こんな失敗などしなかったはずなのに。
「わたし、どうしてこんな色なの……?」
情けない泣き言が漏れて、その場にくずおれた。
成長した自分は、容姿のことでなにか言われても平然としていられるはずだった。けれどそれは単に、アナスタシアの心が痛みに鈍くなっていただけなのだ。何度言われたって、誹謗の言葉に慣れることなどない。表向きはいくら平気な顔をしてみせたって、傷ついた心をなかったことにはできない。
『深い色のルビーみたいで、僕は好きだよ』
いつか彼がくれた言葉を祈るような気持ちで思い出す。そうしてアナスタシアは、懸命に自分を奮い立たせようとした。
そのあと、妹を捜しに来たエリオットに無事に見つけられ、アナスタシアは早々に夜会をあとにすることになった。
アナスタシアの居場所がすぐに分かったのは、ワイングラスを手にしていた紳士――王弟がエリオットを呼んでくれたかららしい。銀髪に赤い瞳という特徴的な容姿から、ぶつかってきた相手がブラッドレイ侯爵家の娘だと察するのは容易だっただろう。
いくら切羽詰まっていたとはいえ、王家の血筋にも連なる高貴な人に無作法な真似をしでかしたうえ、そんな配慮までさせたことに、アナスタシアは落ち込む。
王弟のことを口にするエリオットはどこか複雑そうな顔をしていたが、このときのアナスタシアにはそんなことに気をとめている余裕はなかった。
ただただ侯爵家の娘としてうまく振る舞えなかったのが申し訳なくて、帰りの馬車の中でごめんなさいと繰り返す。そんな妹をエリオットは優しく励ました。こんな失敗は誰にでもあるから、気にすることはないのだと。屋敷に帰ると父も同じことを言った。
けれど、それはアナスタシアに対する彼らの甘さだ。ブラッドレイ侯爵家と懇意にしている貴族たちは、デビューの令嬢から挨拶がなかったことを不満に思っているだろう。
その証拠に、次の夜会であらためて挨拶に向かったとき、幾人かの貴族はじろじろとあからさまに値踏みするような視線を向けてきた。その中には国内で大きな発言力をもつ大貴族のランズベリー公爵も含まれていた。
デビューの挨拶もまともにできない不出来な娘。そうみなされたのだと思うと、情けなくて消え入りたかった。
幼い頃から地道に努力を重ね、自信を積み上げてきた。
それを台無しにしたのはほかでもない、アナスタシア自身だった。
・‥…―*―…‥・
オーランドとクラリス嬢が庭園で落ち合うのを目にしてから数日が経った。
このところ貴族たちの間にはとある噂が流れている。まだアナスタシアが婚約者候補を辞退することは公にされていないにもかかわらず、オーランドの妃はクラリス嬢で決まりらしいというのである。
王宮の片隅で二人が睦まじく語り合っていたという話に端を発したその噂は、ほかの目撃談も多数あったことで信憑性を増していた。
噂はもちろんアナスタシアの耳にも届いている。これほど話題になるのだから、おそらく彼らの逢瀬はあの一度だけではなかったのだろう。アナスタシアはあれ以降オーランドの姿すら目にしていない。もともと夜会以外ではめったに会えない程度の関係性でしかないのだ。
もしかしたらオーランドが夜会で話したいと言ったのも、クラリス嬢を選んだことをただ直接伝えたかっただけなのかもしれない。誠実な彼ならけじめをつけるためにそうしようとしても、なんら不思議はなかった。
クラリス嬢とのことを彼から告げられる場面を想像するたびアナスタシアの胸はひどく痛んだけれど、もともと諦めるつもりでいたのだから同じことだ。そう言い聞かせて無理やり自分を納得させていた。
夕食後、父に呼ばれたアナスタシアは、執務室の扉を控えめにノックする。入室の許可を得て扉を開くと、執務机の奥に立つ父が振り返った。応接用のソファには母が座っている。
父母がそろった状況にアナスタシアはかすかに身構えた。
「教会から書簡が届いたよ」
そう言って父は手にしていた書類を差し出す。文面を読んでみれば、それはアナスタシアを正式に教会に迎え入れたいという要望書だった。かしこまった硬い文章で、豊穣祭での活躍や普段の勤勉な奉仕態度などを評価する内容が綴られている。
突然のことに声を出せずにいると、父が先に口を開いた。
「驚いたよ。まさか、教会じきじきにそんなものを送ってくるとはね」
「そんなにめずらしいことなのですか?」
「一令嬢を迎え入れるためだけに要望書を出すなんて初めてのことじゃないかな。聖女を担った経歴があるにしても異例のことだ」
そして父は窺うようにこちらを見る。アナスタシアはどう反応すべきか迷った。確かにレナードからは打診を受けたし、修道女になりたいとは望んでいたけれど、こうまでして自分は求められる存在なのだろうか。なぜ、という困惑が先立ってしまう。
「それだけ、アンの仕事が評価されたということでしょう。王都の人々の間では聖女を務めたあなたのことがいまだに話題に上るそうよ。教会がほしいと思うのも当然じゃないかしら。誇っていいことだと思うわ」
母が励ますようににっこりと微笑む。とかく自分を否定しがちなアナスタシアの思考を、この家の人たちはよく理解しているのだった。
「お父様は、どう思われますか……?」
なおも確証をもてずにアナスタシアが尋ねると、父は思案顔で顎をさすりながら答えた。
「そうだね、確かに教会の対応には少し疑問が残るけれど、君が評価されたというのは事実だろう。自分を必要としてくれる場所で生きていくのは悪いことじゃない。だから、アンが考えるべきことは一つだけだ。君は教会に入りたい?」
真っ直ぐに問われて、アナスタシアは静かに、けれど確かな意志をもって頷いた。他家に嫁ぐ覚悟はあっても、心の中にある切実な思いをなかったことにはできない。
オーランドとの結婚を願う気持ちはもはや潰えている。妃の座の行く末に人々の注目が集まる中あのような噂まで流れて、もしかしたらという可能性に期待できるほど、アナスタシアは楽観的ではない。
父は特に難色を示すこともなく鷹揚に頷いた。
「分かった。なら、そうしなさい」
あまりにもあっさりと出された許可に、アナスタシアのほうが狼狽えた。願いを口にはしたけれど、父が望むのなら政略結婚も受け入れるつもりでいたのに。
「で、ですが……っ、お父様には、私に期待する役割が、ほかにおありだったのでは……?」
「役割?」
父はきょとんという顔をして、すぐに得心がいったように「ああ」と声を漏らした。
「まったく君は、少し真面目がすぎるね」
母が傍らで苦笑していた。まるで、仕方のない子ね、と愛おしむように。
「もちろん、娘の結婚は侯爵家にとって便利なカードではある。けれど、君に強制するつもりはない。それに、身内に教会関係者がいるというのも、なかなか都合のいいものなんだよ。見習いとしての働きも評価されているようだし、いい選択じゃないか」
「お父様……」
涙腺がぐっと緩み、アナスタシアは瞬きを繰り返した。
「妃候補を辞退することは、今日陛下にお伝えしておいた。追って沙汰するとのおおせだ。もうすぐ殿下の生誕記念式典があるから、そこでなんらかの発表があるだろう。修道女となることはそれから周囲に伝えていけばいい」
父はそこまで語ると、アナスタシアのそばに歩み寄り、その小さな手を両手に包んだ。
「着飾ったアンを見るのは生誕記念式典の夜会で最後になるかもしれないな。綺麗な姿を父に見せておくれ」
微笑む目尻にはしわが寄っている。愛情をもって育てられた年月を思い、アナスタシアの赤い瞳からひとしずくだけ涙がこぼれた。
「はい。ありがとうございます、お父様……」
頬のしずくを指先でそっと拭う。見守る両親の目に満ちるぬくもりをアナスタシアは確かに感じ取った。
「そういうことなら、次の夜会はとびきりのドレスを仕立てないといけませんね」
やる気になった様子の母が娘をソファに呼び寄せる。素直にその隣に腰を下ろしつつ、アナスタシアの頭にはかすかな懸念が浮かんでいた。
「ですが、夜会までもう日が迫っております。今から新しいものを仕立てるのは難しいのでは?」
「大丈夫よ。仕立て屋が一年で一番忙しいのは、ご令嬢たちがデビューする時期だもの。宮廷舞踏会はついこの間終わったところだから、今は暇でしょう。少しの無理なら聞いてもらえるわ」
そう話す母は実に自信ありげだ。おそらくあてがあるのだろう。もとより貴婦人の服飾に通じている母であるから、世間知らずな娘が気を回すのは余計なお世話というものだ。
むしろ。それどころか。
きっとこの場で両親が求めているのは自分のわがままだ。
最後は娘の納得いく形で締めくくらせてやりたい。そんな彼らの愛情をひしひしと感じて、アナスタシアの瞳はまた潤んでしまう。
「まずは、ドレスの色よね。どれがいいかしら? アクセサリーも合うものを選ばないといけないし……手持ちの中で着けていきたいものはある?」
「え、と……」
促されて宝石箱の中身を思い出すが、自分の所有しているアクセサリーはサファイアばかりだ。
ちらり、と母の耳元に目をやると、そこにはエメラルドのイヤリングがきらめいている。その色はブラッドレイ侯爵の瞳と同じ。
この国では、将来を誓い合った相手の瞳と同じ色の宝石を身につけるのがならわしだ。アナスタシアも、いつかの未来を願って夜会のたびに青い宝石のアクセサリーを選んできた。
そんな日々も、もう終わるのだ。
唐突な実感が押し寄せ、ぽたり、と再び涙がこぼれ落ちる。母がまあまあと苦笑して娘の震える背中に手を添えた。とんとんと優しくあやされ、アナスタシアはとうとう両手で顔を覆ってしまう。
手持ちの宝石はもう、どれも身につけられない。目にするたびに叶わなかった初恋を思い出すのでは、あまりにも悲しすぎる。一つ残らず売り払ってくれるように父に頼もう。
代わりに、最後の夜会は真っ青なドレスを着る。それで終わり。
十二年間の初恋は、そこで幕を下ろすのだ。
ドレスの相談を終えて執務室を出ると、すぐの廊下で待ち受ける人物がいた。
もたれていた壁から背中を起こすのは、兄のエリオットだ。こちらに歩み寄った彼は、アナスタシアの濡れた目元に気づいて手を伸ばした。
「泣いたのか」
「少しだけ……でも、もう大丈夫です」
小さく微笑むと、妹の様子に察するものがあったのか、エリオットはかすかに息を詰めた。
「修道女になると、決めたのか?」
「はい……。お父様も許してくださいました」
「アンが望むなら、父上も母上も否やはないよ。もちろん俺も。けど……」
そこで兄は黙りこみ、もどかしそうに口元を歪めた。王太子の側近を務める彼なら、オーランドについてアナスタシアが知らないことも知っているのかもしれない。
「オーランド様は、ご不快に思われるでしょうか」
アナスタシアが尋ねると、エリオットはなにか言おうと口を開きかけ、迷った末に閉ざした。やがて力なく首を振る。
「……分からない。この件については、俺も殿下のお心を計りかねているんだ。妃候補の身内という立場では俺から直接なにかを言うわけにもいかないし……。力になれなくてすまない」
「いえ、いいのです。お兄様が気に病むことはありません」
すべては自分が不甲斐ないせいだ。
頭を下げた兄の肩にそっと触れる。けれど、エリオットの表情ににじむ憂慮の色は和らぎそうもなかった。
「本当に、決心してしまったんだな?」
「……はい」
「なら、アンの思うとおりにすればいい。だけど俺や、父上や母上が、いつもお前の幸せを願っていることは忘れるな」
優しい兄はそう言って、小さな妹の頭を肩に引き寄せ、慰めるようにぽんぽんと叩いた。
第三章 舞踏会の別れ
王宮へ向かう馬車が石畳の段差でがたがたと音を立てる。アナスタシアはその揺れに身を任せながら、窓の外に視線を投げ出していた。
今夜、オーランドの誕生日を祝う夜会が王宮の大広間で開かれる。アナスタシアはまだ数えるほどしかその絢爛な広間に足を踏み入れたことがない。
思い出すのは最初の舞踏会だ。すべてがきらめいて見えた明るい世界。その真ん中にいたオーランド。アナスタシアのデビューを心から喜び、「君のためだよ」と甘く囁いた。恋の喜びがアナスタシアの中を駆け巡った夜。
オーランドにとって、自分はなんだったのだろう。
ぼんやりとそんな疑問をいだく。
もしも彼が確かな言葉を与えてくれたなら、どんなことがあっても諦めたりはしなかった。異質な容姿に眉をひそめられても、誉れ高いクラリス嬢と対峙することになっても、きっと耐えることができた。
結局彼も、アナスタシアは妃にふさわしくないと判断したのだ。もしかしたら彼にとって自分は妹のような存在だったのかもしれない。庭園での二人の姿を思い出すと、胸が軋む。彼の優しさも甘さも、恋愛感情によるものではなかったのだ。
馬車はゆっくりと速度を落として止まり、すぐにまた動き出した。城門を通過したのだ。
そして、楽団が最後の音を響かせる。
「踊ったら疲れたか? すみにソファが用意されているから、少し休もうか、アン」
オーランドからアナスタシアを取り戻したあと、エリオットが真っ先に口にしたのがそれだった。ダンスの高揚があとを引き、心ここにあらずの状態だったアナスタシアは、エリオットの提案に素直に頷いた。
アンというのは、ブラッドレイ侯爵家の人々がアナスタシアを呼ぶときの愛称だ。殿下と同じ呼び方はなんだか悔しいと言って、少年だったエリオットがつけてくれた。悔しいという心情がどういう理由によるものなのか、その時分のアナスタシアにはよく分からなかったけれど、自分のためにわざわざ考えてくれた呼び名が純粋に嬉しかった。
エリオットと空いている座席を探しながらふと思う。
オーランドは、いつの頃からかシアと呼んでくれることがなくなった。親しみを込めてそう呼ばれるのが、アナスタシアは密かに好きだったのに。
おそらくここ一年のことだと思う。理由は深く考えないようにしていた。それがデビューを間近に控えた令嬢に対する当然の敬意だと言うのなら、寂しいけれど仕方がない。けれど、もし彼がアナスタシアと距離を置きたいと感じていたなら……なんて、後ろ向きに憶測しはじめたらきりがない。
でも、と先ほどの彼を思い出す。
もしそうなら、そもそもアナスタシアにダンスなど申しこみはしないだろう。君のためだよ、なんて期待をもたせることも言わないはずだ。あんな瞳で見つめて――まるで、愛の告白でもされているように錯覚しそうな。
再び頬に熱が灯りそうになり、ぼけた思考を頭から追い出す。ちょうど人のいなくなったソファを見つけて腰を下ろした。
「レモン水をもらってくるから、少し待ってて」
そう言って踵を返したエリオットを見送り、アナスタシアは軽く息をつく。
夜会が盛り上がるのはこれからだ。まだ多くの人は中央のダンスフロアの付近にいて、このあたりはすいている。だからといって完全に油断するわけにはいかないけれど、緊張しすぎて少し疲れていた。
賑わいの中心から離れてみれば、王宮の大広間は本当に広くて、この場にどれだけの人がいるのだろうと気が遠くなってしまう。
このあとアナスタシアも、ブラッドレイ侯爵家とつながりの深い貴族たちのもとへ挨拶に赴かなくてはならない。それは初めて社交の場に出た良家の子女に求められる当然の礼儀だった。
父が宰相なので挨拶すべき相手はいささか多いが、王太子妃候補として立つ身であることを考えれば、少しでも顔は売っておくべきである。
お兄様が戻ってきたら、あの中に戻ろう。
そう決めて背もたれに寄りかかったとき。
「なに? あの色」
くすくす、と嫌悪感のにじむ笑い声を耳が拾い上げる。ゆったりと流れる音楽の狭間から、陰湿な囁きがひゅっと飛びこんできた。
息を詰めると、立て続けに言葉の矢が飛ぶ。
「見て。変な色。人じゃないみたい」
「ほんと、髪なんて色が全然なくて、おばあさんみたいよ」
「あんな気持ち悪い目の色ってある? どこかおかしいんじゃないかしら」
声の出どころはソファの脇に立つ三人の令嬢だった。アナスタシアは無視を決めこんだ。こんな展開には慣れている。何度も言われてきたことだ。
じっと口をつぐんで素知らぬ顔をしていると、こちらの反応が面白くなかったのか、彼女らはさらに続けた。
「あんな容姿で王太子妃になろうなんてどうかしてるとしか思えないわ。すでにクラリス様がいらっしゃるのに」
「あの方以上にオーランド様の妃にふさわしい方なんているはずありませんものね。とても立派なお方で、憧れている令嬢も多いですもの。妃になれば誰もが喜ぶに違いありませんわ」
「ブラッドレイ侯爵はよほど権力がほしいのではなくて? お父様も苦言を呈しておりました。すでにご子息が王太子の側近として召し抱えられているのに、ご令嬢までなんて、やることがあからさますぎると」
「しかもご令嬢は養子のうえに、あの色でしょう? それで推挙なさるなんて、よほど必死なのかしら。見苦しい」
父を悪しざまに言われ、アナスタシアは思わず立ち上がっていた。しかし、口にすべき言葉が見当たらない。馬鹿にするようにまたくすくすと笑う声が耳に届いて、奥歯を噛み締める。
違うと言い返したかった。ブラッドレイ侯爵は権力など望んでいない。エリオットが側近に就いているのはオーランドたっての希望があったからだ。アナスタシアが妃候補に名を連ねているのはアナスタシアのわがままだ。
父はいつだって優しくて公平で、国のことを考えている。見苦しいなんて評されるような人では決してないのに。
けれど、ここで言い返したところでどうにもならないのは目に見えていた。状況は悪化こそすれ、好転はしない。アナスタシアはぎゅっとこぶしを握って耐える。
「こんな人が王太子妃になんてなったら、お仕えする側も困ってしまいますわね。他国から舐められるに違いありませんもの」
「特にあの赤い瞳。血のようですわ。穢らわしい。王家にまったくふさわしくありませんわ」
ほんとに、ふふ。彼女たちは笑い声を上げる。
胃の底から気持ち悪いなにかがぐっと込み上げるのを感じ、アナスタシアは咄嗟に口元を押さえた。喉に力を込めてなんとか抑えこむが、もやもやとした吐き気が胸のあたりでうずまいている。
血のよう。穢らわしい。
その言葉を耳にした瞬間、頭から血の気が引いたのをはっきりと自覚した。
なぜそんな言葉にこれほど動揺してしまったのか、すぐには分からなかった。しかし、少し考えて気がつく。それは実母が言い放った言葉とまるきり同じだったのだ。
アナスタシアの瞳の色を嫌悪して前髪で隠すことを強要した実母。ずっと忘れていたのに。もう過去のことだと振り切ったつもりでいたのに。
打たれた頬の熱さが、見上げた実母の怒りの形相が、そのとき覚えたとてつもない恐れの感情が、鮮やかに脳裏によみがえる。
全身から冷や汗が噴き出して、肩が大きく上下する。呼吸が浅くなっていき、頭がくらくらして真っ直ぐ立っていられなくなった。
ここから出なきゃ。無様な姿はさらせない。
「どうしましたの?」
わざとらしい猫なで声で令嬢たちがすり寄ってくるのを振り払い、扉に向かった。背後で非難の声が上がったけれど、気にとめている余裕はなかった。
足早に歩を進めると、途中でどんっと誰かにぶつかってよろめく。
「も、もうしわけありませ……っ」
息も絶え絶えに謝罪して振り返れば、俯きがちの視界に、しずくの滴るワイングラスと男性の胴体が入りこむ。派手さはないが品のいい衣服を着ていた。名のある家の当主かもしれない。
しかし、視線を上げて彼の瞳を捉えると同時に、ぞくりと冷たいものが背すじを駆け上がる。
透き通るようなアイスブルー。
それはかつて実母が所有していた髪飾りの宝石とまったく同じ色をしていた。
彼はアナスタシアを見るなり驚いたように目を瞠ったが、すぐに表情を緩めて気遣わしげに眉根を寄せた。
「私は平気だ。あなたこそ休んだほうがいいだろう。顔色が悪い。それにワインが……」
グラスからはアルコールの匂いが立ちのぼっている。それがさらに胃を刺激して吐き気を強めた。
「大丈夫、です、から……っ」
アナスタシアはそれだけを言い、出口に突き進んだ。
必死の思いで会場を出て廊下をさまよい、人目につかない柱の陰にしゃがみこむ。
しばらくじっとしているとだんだんと悪心は治まり、全身に血の巡る感覚が戻ってきた。ほっと安堵の吐息を漏らして立ち上がると、足元のふらつきはなくなっていた。肌に残る汗が若干不快ではあったけれど、人前に出られないほどではない。
急いで広間に戻らなければ。きっと兄が心配している。挨拶回りだってあるのに。
しかし、身だしなみに問題がないかドレスを確かめたところで、アナスタシアの表情は凍りついた。腰から大きくふくらんだ純白のスカートに、赤々と大きな染みができていたのだ。
男性のもっていたワインがかかったのだろう。時間の経過で布地に染みこんだそれは、デビューを象徴する清らかな白を不格好なまだら模様で台無しにしていた。
「どうしよう……」
あまりのことに頭が真っ白になってしまう。
咄嗟の状況でも、相手の衣服に汚れがないことは確認していたが、自分のドレスにまでは気が回っていなかった。
こんな格好では広間に戻ることなどとてもできない。染みはスカートの上部からなかばにかけて広がっており、とても隠せるものではなかった。
取り返しのつかない失敗をしてしまった。その事実が、思った以上にアナスタシアを打ちのめした。
スカートを掴む手が震えている。ふと目をとめれば、その肌はいつにもまして青ざめて血の気がなく、死人のようだった。
人じゃないみたい。
令嬢たちから投げつけられた悪意がじわじわと心を侵していく。ほかの人と同じ色をしていたら、こんな失敗などしなかったはずなのに。
「わたし、どうしてこんな色なの……?」
情けない泣き言が漏れて、その場にくずおれた。
成長した自分は、容姿のことでなにか言われても平然としていられるはずだった。けれどそれは単に、アナスタシアの心が痛みに鈍くなっていただけなのだ。何度言われたって、誹謗の言葉に慣れることなどない。表向きはいくら平気な顔をしてみせたって、傷ついた心をなかったことにはできない。
『深い色のルビーみたいで、僕は好きだよ』
いつか彼がくれた言葉を祈るような気持ちで思い出す。そうしてアナスタシアは、懸命に自分を奮い立たせようとした。
そのあと、妹を捜しに来たエリオットに無事に見つけられ、アナスタシアは早々に夜会をあとにすることになった。
アナスタシアの居場所がすぐに分かったのは、ワイングラスを手にしていた紳士――王弟がエリオットを呼んでくれたかららしい。銀髪に赤い瞳という特徴的な容姿から、ぶつかってきた相手がブラッドレイ侯爵家の娘だと察するのは容易だっただろう。
いくら切羽詰まっていたとはいえ、王家の血筋にも連なる高貴な人に無作法な真似をしでかしたうえ、そんな配慮までさせたことに、アナスタシアは落ち込む。
王弟のことを口にするエリオットはどこか複雑そうな顔をしていたが、このときのアナスタシアにはそんなことに気をとめている余裕はなかった。
ただただ侯爵家の娘としてうまく振る舞えなかったのが申し訳なくて、帰りの馬車の中でごめんなさいと繰り返す。そんな妹をエリオットは優しく励ました。こんな失敗は誰にでもあるから、気にすることはないのだと。屋敷に帰ると父も同じことを言った。
けれど、それはアナスタシアに対する彼らの甘さだ。ブラッドレイ侯爵家と懇意にしている貴族たちは、デビューの令嬢から挨拶がなかったことを不満に思っているだろう。
その証拠に、次の夜会であらためて挨拶に向かったとき、幾人かの貴族はじろじろとあからさまに値踏みするような視線を向けてきた。その中には国内で大きな発言力をもつ大貴族のランズベリー公爵も含まれていた。
デビューの挨拶もまともにできない不出来な娘。そうみなされたのだと思うと、情けなくて消え入りたかった。
幼い頃から地道に努力を重ね、自信を積み上げてきた。
それを台無しにしたのはほかでもない、アナスタシア自身だった。
・‥…―*―…‥・
オーランドとクラリス嬢が庭園で落ち合うのを目にしてから数日が経った。
このところ貴族たちの間にはとある噂が流れている。まだアナスタシアが婚約者候補を辞退することは公にされていないにもかかわらず、オーランドの妃はクラリス嬢で決まりらしいというのである。
王宮の片隅で二人が睦まじく語り合っていたという話に端を発したその噂は、ほかの目撃談も多数あったことで信憑性を増していた。
噂はもちろんアナスタシアの耳にも届いている。これほど話題になるのだから、おそらく彼らの逢瀬はあの一度だけではなかったのだろう。アナスタシアはあれ以降オーランドの姿すら目にしていない。もともと夜会以外ではめったに会えない程度の関係性でしかないのだ。
もしかしたらオーランドが夜会で話したいと言ったのも、クラリス嬢を選んだことをただ直接伝えたかっただけなのかもしれない。誠実な彼ならけじめをつけるためにそうしようとしても、なんら不思議はなかった。
クラリス嬢とのことを彼から告げられる場面を想像するたびアナスタシアの胸はひどく痛んだけれど、もともと諦めるつもりでいたのだから同じことだ。そう言い聞かせて無理やり自分を納得させていた。
夕食後、父に呼ばれたアナスタシアは、執務室の扉を控えめにノックする。入室の許可を得て扉を開くと、執務机の奥に立つ父が振り返った。応接用のソファには母が座っている。
父母がそろった状況にアナスタシアはかすかに身構えた。
「教会から書簡が届いたよ」
そう言って父は手にしていた書類を差し出す。文面を読んでみれば、それはアナスタシアを正式に教会に迎え入れたいという要望書だった。かしこまった硬い文章で、豊穣祭での活躍や普段の勤勉な奉仕態度などを評価する内容が綴られている。
突然のことに声を出せずにいると、父が先に口を開いた。
「驚いたよ。まさか、教会じきじきにそんなものを送ってくるとはね」
「そんなにめずらしいことなのですか?」
「一令嬢を迎え入れるためだけに要望書を出すなんて初めてのことじゃないかな。聖女を担った経歴があるにしても異例のことだ」
そして父は窺うようにこちらを見る。アナスタシアはどう反応すべきか迷った。確かにレナードからは打診を受けたし、修道女になりたいとは望んでいたけれど、こうまでして自分は求められる存在なのだろうか。なぜ、という困惑が先立ってしまう。
「それだけ、アンの仕事が評価されたということでしょう。王都の人々の間では聖女を務めたあなたのことがいまだに話題に上るそうよ。教会がほしいと思うのも当然じゃないかしら。誇っていいことだと思うわ」
母が励ますようににっこりと微笑む。とかく自分を否定しがちなアナスタシアの思考を、この家の人たちはよく理解しているのだった。
「お父様は、どう思われますか……?」
なおも確証をもてずにアナスタシアが尋ねると、父は思案顔で顎をさすりながら答えた。
「そうだね、確かに教会の対応には少し疑問が残るけれど、君が評価されたというのは事実だろう。自分を必要としてくれる場所で生きていくのは悪いことじゃない。だから、アンが考えるべきことは一つだけだ。君は教会に入りたい?」
真っ直ぐに問われて、アナスタシアは静かに、けれど確かな意志をもって頷いた。他家に嫁ぐ覚悟はあっても、心の中にある切実な思いをなかったことにはできない。
オーランドとの結婚を願う気持ちはもはや潰えている。妃の座の行く末に人々の注目が集まる中あのような噂まで流れて、もしかしたらという可能性に期待できるほど、アナスタシアは楽観的ではない。
父は特に難色を示すこともなく鷹揚に頷いた。
「分かった。なら、そうしなさい」
あまりにもあっさりと出された許可に、アナスタシアのほうが狼狽えた。願いを口にはしたけれど、父が望むのなら政略結婚も受け入れるつもりでいたのに。
「で、ですが……っ、お父様には、私に期待する役割が、ほかにおありだったのでは……?」
「役割?」
父はきょとんという顔をして、すぐに得心がいったように「ああ」と声を漏らした。
「まったく君は、少し真面目がすぎるね」
母が傍らで苦笑していた。まるで、仕方のない子ね、と愛おしむように。
「もちろん、娘の結婚は侯爵家にとって便利なカードではある。けれど、君に強制するつもりはない。それに、身内に教会関係者がいるというのも、なかなか都合のいいものなんだよ。見習いとしての働きも評価されているようだし、いい選択じゃないか」
「お父様……」
涙腺がぐっと緩み、アナスタシアは瞬きを繰り返した。
「妃候補を辞退することは、今日陛下にお伝えしておいた。追って沙汰するとのおおせだ。もうすぐ殿下の生誕記念式典があるから、そこでなんらかの発表があるだろう。修道女となることはそれから周囲に伝えていけばいい」
父はそこまで語ると、アナスタシアのそばに歩み寄り、その小さな手を両手に包んだ。
「着飾ったアンを見るのは生誕記念式典の夜会で最後になるかもしれないな。綺麗な姿を父に見せておくれ」
微笑む目尻にはしわが寄っている。愛情をもって育てられた年月を思い、アナスタシアの赤い瞳からひとしずくだけ涙がこぼれた。
「はい。ありがとうございます、お父様……」
頬のしずくを指先でそっと拭う。見守る両親の目に満ちるぬくもりをアナスタシアは確かに感じ取った。
「そういうことなら、次の夜会はとびきりのドレスを仕立てないといけませんね」
やる気になった様子の母が娘をソファに呼び寄せる。素直にその隣に腰を下ろしつつ、アナスタシアの頭にはかすかな懸念が浮かんでいた。
「ですが、夜会までもう日が迫っております。今から新しいものを仕立てるのは難しいのでは?」
「大丈夫よ。仕立て屋が一年で一番忙しいのは、ご令嬢たちがデビューする時期だもの。宮廷舞踏会はついこの間終わったところだから、今は暇でしょう。少しの無理なら聞いてもらえるわ」
そう話す母は実に自信ありげだ。おそらくあてがあるのだろう。もとより貴婦人の服飾に通じている母であるから、世間知らずな娘が気を回すのは余計なお世話というものだ。
むしろ。それどころか。
きっとこの場で両親が求めているのは自分のわがままだ。
最後は娘の納得いく形で締めくくらせてやりたい。そんな彼らの愛情をひしひしと感じて、アナスタシアの瞳はまた潤んでしまう。
「まずは、ドレスの色よね。どれがいいかしら? アクセサリーも合うものを選ばないといけないし……手持ちの中で着けていきたいものはある?」
「え、と……」
促されて宝石箱の中身を思い出すが、自分の所有しているアクセサリーはサファイアばかりだ。
ちらり、と母の耳元に目をやると、そこにはエメラルドのイヤリングがきらめいている。その色はブラッドレイ侯爵の瞳と同じ。
この国では、将来を誓い合った相手の瞳と同じ色の宝石を身につけるのがならわしだ。アナスタシアも、いつかの未来を願って夜会のたびに青い宝石のアクセサリーを選んできた。
そんな日々も、もう終わるのだ。
唐突な実感が押し寄せ、ぽたり、と再び涙がこぼれ落ちる。母がまあまあと苦笑して娘の震える背中に手を添えた。とんとんと優しくあやされ、アナスタシアはとうとう両手で顔を覆ってしまう。
手持ちの宝石はもう、どれも身につけられない。目にするたびに叶わなかった初恋を思い出すのでは、あまりにも悲しすぎる。一つ残らず売り払ってくれるように父に頼もう。
代わりに、最後の夜会は真っ青なドレスを着る。それで終わり。
十二年間の初恋は、そこで幕を下ろすのだ。
ドレスの相談を終えて執務室を出ると、すぐの廊下で待ち受ける人物がいた。
もたれていた壁から背中を起こすのは、兄のエリオットだ。こちらに歩み寄った彼は、アナスタシアの濡れた目元に気づいて手を伸ばした。
「泣いたのか」
「少しだけ……でも、もう大丈夫です」
小さく微笑むと、妹の様子に察するものがあったのか、エリオットはかすかに息を詰めた。
「修道女になると、決めたのか?」
「はい……。お父様も許してくださいました」
「アンが望むなら、父上も母上も否やはないよ。もちろん俺も。けど……」
そこで兄は黙りこみ、もどかしそうに口元を歪めた。王太子の側近を務める彼なら、オーランドについてアナスタシアが知らないことも知っているのかもしれない。
「オーランド様は、ご不快に思われるでしょうか」
アナスタシアが尋ねると、エリオットはなにか言おうと口を開きかけ、迷った末に閉ざした。やがて力なく首を振る。
「……分からない。この件については、俺も殿下のお心を計りかねているんだ。妃候補の身内という立場では俺から直接なにかを言うわけにもいかないし……。力になれなくてすまない」
「いえ、いいのです。お兄様が気に病むことはありません」
すべては自分が不甲斐ないせいだ。
頭を下げた兄の肩にそっと触れる。けれど、エリオットの表情ににじむ憂慮の色は和らぎそうもなかった。
「本当に、決心してしまったんだな?」
「……はい」
「なら、アンの思うとおりにすればいい。だけど俺や、父上や母上が、いつもお前の幸せを願っていることは忘れるな」
優しい兄はそう言って、小さな妹の頭を肩に引き寄せ、慰めるようにぽんぽんと叩いた。
第三章 舞踏会の別れ
王宮へ向かう馬車が石畳の段差でがたがたと音を立てる。アナスタシアはその揺れに身を任せながら、窓の外に視線を投げ出していた。
今夜、オーランドの誕生日を祝う夜会が王宮の大広間で開かれる。アナスタシアはまだ数えるほどしかその絢爛な広間に足を踏み入れたことがない。
思い出すのは最初の舞踏会だ。すべてがきらめいて見えた明るい世界。その真ん中にいたオーランド。アナスタシアのデビューを心から喜び、「君のためだよ」と甘く囁いた。恋の喜びがアナスタシアの中を駆け巡った夜。
オーランドにとって、自分はなんだったのだろう。
ぼんやりとそんな疑問をいだく。
もしも彼が確かな言葉を与えてくれたなら、どんなことがあっても諦めたりはしなかった。異質な容姿に眉をひそめられても、誉れ高いクラリス嬢と対峙することになっても、きっと耐えることができた。
結局彼も、アナスタシアは妃にふさわしくないと判断したのだ。もしかしたら彼にとって自分は妹のような存在だったのかもしれない。庭園での二人の姿を思い出すと、胸が軋む。彼の優しさも甘さも、恋愛感情によるものではなかったのだ。
馬車はゆっくりと速度を落として止まり、すぐにまた動き出した。城門を通過したのだ。
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