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1巻
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ばたんと扉を閉め、余裕のない足取りで戻ったアナスタシアを、司祭は驚いた表情で迎えた。
「おかえりなさい。遅かったのですね」
周りも見ず無心に歩いてきたアナスタシアは、声をかけられてようやく自分が礼拝堂に帰り着いていたことに気がついた。
昇りはじめた太陽の光がステンドグラスの窓からさんさんと射しこみ、座席や床の上に淡い色彩の幾何学模様を描き出している。色鮮やかな礼拝室の中央には柔和な微笑を浮かべた金髪の美青年が立っていた。若くして王宮の礼拝堂を任されている司祭のレナードだ。
アッシュモーブの瞳と目が合って、アナスタシアははっと頭を下げる。
「も、申し訳ありません……庭園の景色に見惚れておりましたら、遅くなってしまいました」
レナードはかまいませんよと頭を上げさせてから、王宮の風景を思い返すように窓に目をやった。
「今は王家の薔薇がちょうど見頃ですしね」
王家という言葉が出た瞬間、アナスタシアは分かりやすく身を強ばらせてしまう。そしてすぐに後悔した。レナードが苦笑して気遣わしげに表情を和らげる。
「あなたがそんなふうに感情をあらわにするのはめずらしいですね。オーランド様となにかありましたか?」
彼の名前を的確に言い当てられてしまい、アナスタシアはきゅっと唇を引き結んだ。
なにかあった、というほどのこともない。望みがないとなかば諦めていた恋の相手が別の女性と密会しているのを偶然目撃してしまっただけ。けれど、心を決めきれずにいたアナスタシアが答えを出すには十分な後押しだった。
「……オーランド様の妃になるのは、諦めようと思います」
言葉少なに告げると、レナードがかすかに目を丸くした。ほんのひととき落ちた沈黙に、アナスタシアはいたたまれなさを覚える。
ふっと控えめな吐息のあとに司祭は口を開いた。だが、続いた声音は思いのほか明るいものだった。
「……さようでしたか。なら、修道女になるというのはいかがでしょう?」
「――え?」
突然の提案に固まるアナスタシアをレナードはにこやかに見つめる。
「一つの選択肢としてお考えいただけたら嬉しいです。毎日のおつとめも真面目にこなされて、このまま教会にとどまってもらえたらと以前から思っていたのですよ。それに、オーランド様とのお話がなくなれば、すぐに別の縁談が舞いこんでくるでしょう?」
「あ……」
まだそこまで考えが及んでいなかったアナスタシアは、思わず口元を押さえた。
宰相家と結びつきをもちたい貴族は多いはずだ。妃候補から降りることが公になれば、複数の家から縁談を申しこまれることは間違いない。オーランド以外の男性に嫁ぐ日が、そう遠くない未来にやってくるのだ。
己の行く先を想像し、アナスタシアはぎゅっと手を握る。
――修道女になれば。
レナードの提案は、アナスタシアにとって決して悪いものではなかった。
見習いではなく正式な修道女となるには、神に身を捧げることを誓い、生涯独身を貫かなければならない。それは逆を言えば、ずっと結婚せずにオーランドを想いつづけていられるということだ。
もう成就することのない恋だとは分かっている。それでもせめて、ただ密やかに恋い慕うことを許されたなら。そう願わずにはいられない。けれど。
「私の一存で、決められるものではありません。……私は、侯爵家の娘ですから」
結婚は貴族の義務だ。もちこまれた縁談をどうするかは家長である父が判断する。優しいブラッドレイ侯爵ならおそらくは本人の希望を尊重してくれるだろうが、だからこそアナスタシアは結婚が侯爵家のために少しでも役に立つなら、その期待に応えたかった。
アナスタシアは養子だ。生まれは、ブラッドレイ侯爵家よりもいくらか家格の低い貴族の家。自分を温かく迎え入れてくれた侯爵家の人々には並々ならぬ恩がある。それを少しでも返すことができるなら、望まぬ縁談も受け入れるくらいの覚悟はあった。
「分かっていますよ」
内心の悲愴感が頑なな声音に表れてしまっていたのかもしれない。レナードは少し困ったような顔で苦笑しつつ頷いた。
「これは単なる教会の希望です。とはいえ貴族の子女でも例がないわけではありませんから。もし、ブラッドレイ侯爵にお許しいただけるのなら、そういう道も考えていただけませんか?」
明るい光の中で美しい司祭が首を傾げ、わずかな希望をアナスタシアに託そうとする。
貴族としてなすべきことを考えれば、そんな未来は決して許されてはいけないと思う。
それでも、今だけは――夢を見ても、いいだろうか。
アナスタシアは細い首をわずかに動かし、小さく首肯した。
第二章 教会からの打診
ブラッドレイ侯爵家に引き取られたとき、アナスタシアは五歳だった。
生家のことはあまり多く覚えていない。五歳といえば十分物心もついている年頃であるのに、具体的な情景を伴う記憶は驚くほど少ない。そこにはただ恐怖と怯えと悲しみの感情が横たわっているだけだった。
それでも鮮明に胸に焼き付いている場面がある。
生家でのアナスタシアは、一緒に遊べる兄弟も友もおらず、一人遊びに慣れていた。絵を描いたり、人形遊びをしたり、庭の草花を眺めたり。特に好きなのは本を読むことだった。
その日、アナスタシアはお気に入りの絵本が見当たらないことに気がつき、自室の掃除を担当するメイドの姿を捜していた。
廊下の先にある半開きの扉から聞き覚えのある声が漏れ出していた。鼻の頭につくくらい伸びた前髪が視界を極端に狭めていたせいで、アナスタシアはそこが誰の部屋かきちんと認識できていなかった。
部屋に入ると、捜していたメイドは使用人仲間とともにテーブルを囲んでなにかの作業をしているようだった。広げられているのはキラキラとした宝飾品だ。
名を呼ぶとメイドは振り返り、手の中にあるものがきらりと光った。
アイスブルーの宝石がついた豪奢な髪飾り。きらめくチェーンが幾重にも垂れさがった上に、薄い水色の石が載っている。それは美しく透き通って、澄んだ氷のようだった。
「きれい……」
輝きに目を奪われたアナスタシアは思わず手を伸ばす。メイドは困ったように眉を下げ、髪飾りをもった手を胸元に引き寄せた。
「いけません、これは奥様の大切な――」
たしなめるような言葉が最後までたどりつかぬうちに、ぱんっという乾いた音が響き渡った。頬に熱い衝撃が走り、強烈な勢いに小さな体が尻もちをついた。
見上げると、恐ろしい形相をした母のシャロンが手を振り切ったままの体勢で見下ろしていた。途端にアナスタシアの身体は硬く強ばる。
「私の部屋でなにをしているの。これはあなたが触れていいものではないわ」
鋭い叱責は母の苛立ちを如実に表していた。
失敗してしまった。謝らなければ。
反射的にそう思ったが、すくんだ身体では喉すら動かすことがかなわない。勝手に流れ落ちてくる涙がぼたぼたと頬を伝い、ただ震えていることしかできなかった。
アナスタシアの乱れた前髪に気づき、シャロンは眉をひそめる。
「きちんと前髪を下ろしておきなさいと言ったでしょう。穢れたその瞳を私に見せないで!」
冷たい言葉で突き放したあと彼女はふんと顔を背けた。
母に手を上げられたことはあとにも先にもその一度だけだ。けれどそれはなんの慰めにもならない。鋭い言葉や険のある表情と態度で、心は常にぼろぼろに傷つけられていたから。
父はそんなアナスタシアを悲しげに見ているだけだった。最初の頃はかばってくれていたけれど、そうするとますます母の苛立ちが増し、仕打ちがひどくなるので、温和な彼には手出しができなかったのだろう。
シャロンの姉であるブラッドレイ侯爵夫人とその子息が屋敷を訪ねてきたのは、平手打ちの一件から数日後のことだった。
子供たちは遊んでいなさいと、アナスタシアは子息とともに庭に出され、両親と侯爵夫人は神妙な顔をしてどこかの部屋に入っていった。
アナスタシアはほかの子供との付き合い方など知らずに育ったから、エリオットという名であるらしい年上の少年にどう接したらいいのか分からなかった。
気まずさのあまり裏庭に逃げ出してしまう。そうしてどこかの部屋の窓の下にやってきたとき、風に乗って誰かの湿っぽい声が耳に届いた。
不思議に思ってカーテンの隙間からのぞいてみると、泣いていたのはあの母だった。
「あの子を育て上げる自信がないの」
ハンカチを口に当てて涙ながらに訴えるシャロンの姿に衝撃を受けたのを覚えている。
「あの赤い目で見つめられるたびに責められている気がするの」
夫に背中をさすられながらシャロンは大粒の涙を流していた。
ようやっと吐き出したというような苦渋に満ちた声音が幼い胸にじくりと響く。
アナスタシアは急いで窓から離れ、屋敷の壁に背中を押しつけた。心臓が狂おしいほど早鐘を打っていた。
自分の存在が母を苦しめている。
円満に過ごしていた両親の生活に暗雲をもたらしている。
自分が生まれなければ、うまくいっていたはずなのに。
懸命に嗚咽を吐息に逃がして深呼吸を繰り返していたとき、握りしめていたこぶしに誰かのぬくもりが触れる。
はっと顔を上げると、真横に立っていたのはエリオットだった。今にも泣き出しそうなアナスタシアを見て悲しげに微笑む。
「うちに来る?」
「どうして……?」
思わず聞き返す。けれど本当は、その質問がどういう意味なのかアナスタシアにはよく分かっていた。
今日彼らがここに来たのは、自分を引き取るためなのだ。
両親は自分を含めて家族として暮らしていくことを諦めてしまった。
返事の代わりに、ただ強く首を縦に振る。母にとっても自分にとっても、きっとそのほうがいい。
言葉は出なかった。言葉にしようとすると途端に泣き声になりそうで、アナスタシアはただ震える喉に力を込めて、声を押し殺していることしかできなかった。
そうしてアナスタシアは生まれた家を離れた。
ブラッドレイ侯爵家に養子として引き取られたあとも、アナスタシアはどこか他人行儀な態度を崩せなかった。侯爵家の人々はとても優しくて、新しい娘の頑なな態度に戸惑っているのがよく伝わってくる。けれど、アナスタシアはいつまでここにいられるのだろうという不安ばかりが先立った。自分の色は他人を不快にするものだと信じて疑わなかったから。
新しい家族はみんな柔らかな栗色の髪をしていて、瞳はエリオットと侯爵が緑、侯爵夫人がはしばみ色だった。とても綺麗な、普通の色だった。自分の色はおかしいのだ。どこへ行っても馴染むことができない。前髪を切ろうと提案されても頷くことはできなかった。
警戒心をなかなか解かない娘に、彼らは寛容だった。
侯爵夫人は反応の薄い娘を根気強くいたるところに連れ回した。養子の届け出をするために王宮に出向くときも、当然のようにアナスタシアの手を引いた。
彼女が書類を確認している間にそばから離れてしまったのは完全にアナスタシアの不注意だった。初めて見る王宮があまりにもきらびやかだったので、見惚れているうちに夫人の目の届かないところまでやってきてしまったのだ。
そうして困っておろおろとしているところに現れたのが、オーランドだった。
「ねえ、君。大丈夫?」
蜂蜜色の金髪がさらりと揺れる。天使のような少年がじっとこちらを見ていた。アナスタシアは輝く金の髪と深い青の瞳に目を奪われて、自分の瞳を隠すことすら忘れていた。
なのに、彼もどうしてか同じような惚けた表情をしていて、アナスタシアは不思議に思ったのを覚えている。まさか彼も自分の色に見惚れていたとは想像もしなかったのだ。君の色が好きだと言ってもらえたとき、生まれて初めて、ここにいてもいいのだと許されたように感じた。
王宮から帰ったアナスタシアが髪を切ると言うと、侯爵家の人々はとても喜んでくれた。
銀のとばりが取り払われたとき、地面ばかりを映していたアナスタシアの世界は一変した。
最初に驚いたのは視界が広くて明るいことだ。さまざまな色彩が一度に目の中に飛びこんできて、アナスタシアは何度も瞬きをした。
侯爵家の屋敷は控えめな意匠の調度品で品よくまとめられていて、その温かい色彩をすぐに好きになった。窓から顔をのぞかせれば、庭には緑が溢れて、遠目には赤レンガの屋根が並ぶ王都の街並み、そして乳白色の王宮が見える。反対の方角には丘や森が広がり、可愛らしい歌声を奏でながら小鳥が飛び立つ。
とばりの向こうの世界はとてつもなく広大で、美しい色彩に満ちていた。
どこまでも続きそうな青空の下には、自分を受け入れてくれた父や母や兄――家族が、アナスタシアを見て微笑んでいる。
ここにいたい。
幼いアナスタシアは初めてそう思えた。
そして、あの人の一番近くに行きたい。
その願いは卵からかえったひな鳥のすりこみのように無垢でひたむきで、だからこそ切実だった。
兄に励まされ、父母に見守られながら、アナスタシアはすくすくと成長した。家族同士の付き合いや基礎教育の修了を通して、他人と接することにも徐々に慣れていった。
オーランドと会うことはめったになかったが、顔を合わせるといつもアナスタシアの大好きな優しい笑顔で頭を撫でてくれた。
豊穣祭の聖女に選ばれ、多大な注目を浴びる中で完璧に役目を果たしたことは、アナスタシアにとって大きな自信となった。
努力は着実に実を結んでいる。
アナスタシアは期待していた。彼の隣に並び立てる日がいつかやってくることを。
転機がなんだったかと問われれば、社交界へのデビューにほかならない。
その一夜はこれまでにない歓喜と失望を同時にアナスタシアに味わわせた。
貴族の子女が社交界にデビューするとき、まず顔を出すのは、実りの季節の宮廷舞踊会と決まっている。
きらびやかな空間に、光が踊る。
王宮の大広間を一言で表現するならそれだ。広間そのものも、緻密な装飾も、居並ぶ人々も、すべてがきらめく豪奢な世界。
デビュタントの純白のドレスを身にまとったアナスタシアは、初めての舞踏会で目の眩むような光の奔流にただただ圧倒されていた。ぽかんと口を開けてしまわないだけの冷静さは残っていたけれど、自分を導くエリオットのエスコートがなければとっくに逃げ出していたかもしれない。
いや、それでもきっと踏みとどまっただろう。
ここへ来ることを長年夢見ていたのはアナスタシア自身だったから。
誰かを捜していたエリオットが不意に立ち止まり、「ほら」とでも言いたげにこちらを振り返った。示されたほうへ目を移し、アナスタシアは思わず呼吸を止める。ずっと焦がれつづけた人の姿がそこにはあった。
正直に言うと、このとき少しだけ気後れも感じていた。会場で見つけたオーランドは、自分の知る彼とはなにかが違って見えたから。王族の威厳とでも言うのだろうか。周囲の者と社交的に挨拶を交わす彼は、穏やかな微笑みを浮かべているのに、どこか踏みこむのを躊躇わせる雰囲気があった。
けれど、その目がアナスタシアを捉えた瞬間、そんな恐れは跡形もなく霧散する。
「アナスタシア! デビューおめでとう。君とここで会えて嬉しいよ」
一瞬にしてオーランドの空気がふわりと和らぐ。柔らかな笑顔は、アナスタシアの強ばった心をいとも簡単に安堵と喜びで塗り替えた。
満面の笑みで応えようとして、はっと思いとどまる。感情を露骨に表すのは子供のすることだ。しずしずと歩み寄ったアナスタシアはそっとドレスの裾をつまみ、優雅にお辞儀してみせた。
「ありがとうございます。オーランド様とこうしてお会いできる日を心待ちにしておりました」
社交辞令のごとく告げた言葉は、しかしまごうことなき真実だ。幼少の出会いから実に十一年間、アナスタシアはずっとこの日を待っていた。王宮で出会う偶然に頼らずとも彼と会えるようになる、この日を。
初めて目にするオーランドの盛装を感動とともに見つめる。紺青の上衣と金色の刺繍は、髪と瞳の色に合わせているのだろうか。臙脂のクラヴァットが差し色となって全体を引き締め、その立ち姿は一枚の絵画のようだった。
感極まって言葉を続けられずにいると、彼はくすくすと笑った。
「緊張しているの? 安心していいよ。君は完璧な淑女だ」
緊張は不安のせいなんかじゃなくて、オーランド様が素敵すぎるから。
そんな率直な言葉を口にできるはずもなく、ただ黙って頬を熱くし、瞳を潤ませる。
するとオーランドがふと真顔になって上体を軽く傾け、彼の端整な顔が間近に迫った。深海のようとも言われる瞳は吸いこまれてしまいそうなほどに美しい。アナスタシアがうっとりと魅入られていると、彼の瞳がわずかに揺れ、目元にうっすらと赤みが差した気がした。
「殿下、もしや私の存在をお忘れではないでしょうね」
兄の声が耳に飛びこみ、陶然とする妹の心を現実に引き戻した。
「――ああ、すまない。君もいたんだったね、エリオット」
あっさりと上体を起こしたその表情からは、すでに動揺の色が消えている。
冗談めかした軽口にエリオットはやれやれとため息をついた。
「お気持ちは分かりますが、私の妹に近づくのでしたらきちんとした作法にのっとっていただかなければ困ります」
「少し見つめ合っただけじゃないか。厄介なお目付け役だな、君は」
少年めいた口調で不平を漏らし、オーランドは肩をすくめる。しかしすぐに表情を改めると、アナスタシアの正面に立ち、わざとらしいほど真面目な面持ちで頭を垂れた。
手袋に包まれた手が恭しく差し出される。
「ダンスのお相手をお願いしても? レディ・アナスタシア」
「――は、はい。もちろんです、オーランド様」
口先ではどうにか平静を装ったけれど、努力できたのはそこまでだ。上目遣いに捕らえられれば、アナスタシアは目を逸らせなくなる。
震える指先をそっと手のひらに乗せると、慈しむように優しく握りこまれた。久しぶりに触れる彼の手は骨張っていて、頼もしい大人の男性のそれに成長していた。大きさだって、子供の頃とは比べるまでもない。
「兄君もこれで文句はないでしょう? しばし妹御をお借りしますよ」
からかうオーランドと仏頂面のエリオットが視線の応酬を交わすが、アナスタシアは腰に回された手が気になってそれどころではなかった。
硬いコルセットを着用していて本当によかった。彼の長い指で柔らかな腰を撫でられでもしたら、恥ずかしくて卒倒してしまう。
「行こうか」
余裕たっぷりに促され、アナスタシアは夢見るような心地で彼の隣を歩いた。
広間にかすかな反響を残してカドリーユが終わり、二人は定められた位置に着く。
手を握り合えば、自然と距離は縮まった。オーランドの手を背中に感じ、触れられた場所が甘く痺れる。初めての舞踏会、初めてのダンスの相手。憧れの人を前に気持ちはこの上なく張り詰めていた。
うまく踊れなかったら、どうしよう……
少しの間のあとワルツのメロディが流れはじめると、アナスタシアの鼓動は最高潮に達する。
そのとき、背中の指先が不意をつくように肌をくすぐり、アナスタシアの肩がびくりと震えた。悪戯をとがめようと顔を上げたその瞬間、ごく自然なリードが最初の一歩を促す。
魔法にかけられたように、右足が前に出ていた。流れは止まることなく、滑らかに次のステップへと移る。
いつもの自分のぎこちないダンスではない。アナスタシアが瞳をまたたかせてオーランドを見ると、形のいい唇がゆるりと深い弧を描いた。彼の手や足や視線が、見えない糸でも手繰るようにアナスタシアを向かうべき先へと誘う。
直前まで懸命に思い返していたダンスのレッスンなどすっかり頭から消え去っていた。周囲の目を意識して肩肘張ることもない。アナスタシアはただ音楽に合わせ、オーランドについていけばよかった。
弦楽器の軽やかな調べが徐々に重なり合い、曲調を高めていく。曲の変化を感じながらステップを踏むと、自然と笑みがこぼれ落ちた。二人の動きは寸分のずれもなくぴたりと一致して、手を握り合ったまま明かりのきらめく広間をくるくると回ると、オーランドの瞳の中をいくつもの光が横切っていく。アナスタシアはその様をうっとりと眺めていた。
基本のステップを何度か繰り返し、本当に大丈夫だという自信が生まれはじめた頃、ようやく声をかけられた。
「上手だね。初めての舞踏会だとは思えない」
「それは……っ。オーランド様が、リードしてくださるからです。こんなにダンスが楽しいのは初めて、です」
心がはやるあまり言葉がつかえてしまう。
アナスタシアはあまりダンスが得意ではない。教師にも出来が悪いと叱られていたくらいだ。恥をかかない程度には猛練習してきたが、兄相手ではここまで踊れない。
「だったら、僕が練習した甲斐も少しはあったのかな」
「オーランド様は、十分お上手ではないですか。練習なんて必要ないでしょう?」
「単に踊るだけなら、ね。女性に気持ちよく踊ってもらうのはまた別だよ。実は今夜のために、妹をだいぶ練習に付き合わせたんだ」
「――私のため、ですか?」
ぽつりと尋ねてから、あまりに自惚れた発言で狼狽えてしまう。浮かれすぎだ。
「も、申し訳ありません。この舞踏会は王家の主催ですし、デビューの令嬢たちのためにオーランド様がそういった配慮をされても、なにもおかしくは――」
続けようとした言葉は、真摯な眼差しにひたと見据えられて立ち消える。
「君のためだよ、もちろん」
オーランドははっきりと答えた。それからやや逡巡し、躊躇いがちに付け足す。
「僕のリードが下手だなんて、君には絶対に思われたくなかったんだ。もともと下手ではなかったはずだけれど……」
最後のほうはぼそぼそと呟き、わずかに視線を外す。もしかして、照れているのだろうか。今度は見間違えようもなく彼の目元が赤くなっているのが分かって、アナスタシアにまでそれが伝染してしまう。
胸が高鳴るあまり足元をふらつかせてよろめいた身体を、すかさずオーランドが危なげなく受け止めた。
互いに顔を上げると視線が絡んで、二人はしばし見つめ合う。
青い瞳に、火が灯っているようだった。そこに込められた熱量は、自分のそれとまったく差がないように思われた。
――この人が好きだ。
心からそう思う。幼かったアナスタシアは、恋とはどんなものかを知識として得る前に心で理解した。その想いは年を追うごとに深まっていく。
王宮で偶然出会うだけでは足りなくて、夜会で手を取り合ってもまだ遠い。
もっと、そばに。一番近くにいさせてほしい。
――オーランド様も、同じ気持ち?
「おかえりなさい。遅かったのですね」
周りも見ず無心に歩いてきたアナスタシアは、声をかけられてようやく自分が礼拝堂に帰り着いていたことに気がついた。
昇りはじめた太陽の光がステンドグラスの窓からさんさんと射しこみ、座席や床の上に淡い色彩の幾何学模様を描き出している。色鮮やかな礼拝室の中央には柔和な微笑を浮かべた金髪の美青年が立っていた。若くして王宮の礼拝堂を任されている司祭のレナードだ。
アッシュモーブの瞳と目が合って、アナスタシアははっと頭を下げる。
「も、申し訳ありません……庭園の景色に見惚れておりましたら、遅くなってしまいました」
レナードはかまいませんよと頭を上げさせてから、王宮の風景を思い返すように窓に目をやった。
「今は王家の薔薇がちょうど見頃ですしね」
王家という言葉が出た瞬間、アナスタシアは分かりやすく身を強ばらせてしまう。そしてすぐに後悔した。レナードが苦笑して気遣わしげに表情を和らげる。
「あなたがそんなふうに感情をあらわにするのはめずらしいですね。オーランド様となにかありましたか?」
彼の名前を的確に言い当てられてしまい、アナスタシアはきゅっと唇を引き結んだ。
なにかあった、というほどのこともない。望みがないとなかば諦めていた恋の相手が別の女性と密会しているのを偶然目撃してしまっただけ。けれど、心を決めきれずにいたアナスタシアが答えを出すには十分な後押しだった。
「……オーランド様の妃になるのは、諦めようと思います」
言葉少なに告げると、レナードがかすかに目を丸くした。ほんのひととき落ちた沈黙に、アナスタシアはいたたまれなさを覚える。
ふっと控えめな吐息のあとに司祭は口を開いた。だが、続いた声音は思いのほか明るいものだった。
「……さようでしたか。なら、修道女になるというのはいかがでしょう?」
「――え?」
突然の提案に固まるアナスタシアをレナードはにこやかに見つめる。
「一つの選択肢としてお考えいただけたら嬉しいです。毎日のおつとめも真面目にこなされて、このまま教会にとどまってもらえたらと以前から思っていたのですよ。それに、オーランド様とのお話がなくなれば、すぐに別の縁談が舞いこんでくるでしょう?」
「あ……」
まだそこまで考えが及んでいなかったアナスタシアは、思わず口元を押さえた。
宰相家と結びつきをもちたい貴族は多いはずだ。妃候補から降りることが公になれば、複数の家から縁談を申しこまれることは間違いない。オーランド以外の男性に嫁ぐ日が、そう遠くない未来にやってくるのだ。
己の行く先を想像し、アナスタシアはぎゅっと手を握る。
――修道女になれば。
レナードの提案は、アナスタシアにとって決して悪いものではなかった。
見習いではなく正式な修道女となるには、神に身を捧げることを誓い、生涯独身を貫かなければならない。それは逆を言えば、ずっと結婚せずにオーランドを想いつづけていられるということだ。
もう成就することのない恋だとは分かっている。それでもせめて、ただ密やかに恋い慕うことを許されたなら。そう願わずにはいられない。けれど。
「私の一存で、決められるものではありません。……私は、侯爵家の娘ですから」
結婚は貴族の義務だ。もちこまれた縁談をどうするかは家長である父が判断する。優しいブラッドレイ侯爵ならおそらくは本人の希望を尊重してくれるだろうが、だからこそアナスタシアは結婚が侯爵家のために少しでも役に立つなら、その期待に応えたかった。
アナスタシアは養子だ。生まれは、ブラッドレイ侯爵家よりもいくらか家格の低い貴族の家。自分を温かく迎え入れてくれた侯爵家の人々には並々ならぬ恩がある。それを少しでも返すことができるなら、望まぬ縁談も受け入れるくらいの覚悟はあった。
「分かっていますよ」
内心の悲愴感が頑なな声音に表れてしまっていたのかもしれない。レナードは少し困ったような顔で苦笑しつつ頷いた。
「これは単なる教会の希望です。とはいえ貴族の子女でも例がないわけではありませんから。もし、ブラッドレイ侯爵にお許しいただけるのなら、そういう道も考えていただけませんか?」
明るい光の中で美しい司祭が首を傾げ、わずかな希望をアナスタシアに託そうとする。
貴族としてなすべきことを考えれば、そんな未来は決して許されてはいけないと思う。
それでも、今だけは――夢を見ても、いいだろうか。
アナスタシアは細い首をわずかに動かし、小さく首肯した。
第二章 教会からの打診
ブラッドレイ侯爵家に引き取られたとき、アナスタシアは五歳だった。
生家のことはあまり多く覚えていない。五歳といえば十分物心もついている年頃であるのに、具体的な情景を伴う記憶は驚くほど少ない。そこにはただ恐怖と怯えと悲しみの感情が横たわっているだけだった。
それでも鮮明に胸に焼き付いている場面がある。
生家でのアナスタシアは、一緒に遊べる兄弟も友もおらず、一人遊びに慣れていた。絵を描いたり、人形遊びをしたり、庭の草花を眺めたり。特に好きなのは本を読むことだった。
その日、アナスタシアはお気に入りの絵本が見当たらないことに気がつき、自室の掃除を担当するメイドの姿を捜していた。
廊下の先にある半開きの扉から聞き覚えのある声が漏れ出していた。鼻の頭につくくらい伸びた前髪が視界を極端に狭めていたせいで、アナスタシアはそこが誰の部屋かきちんと認識できていなかった。
部屋に入ると、捜していたメイドは使用人仲間とともにテーブルを囲んでなにかの作業をしているようだった。広げられているのはキラキラとした宝飾品だ。
名を呼ぶとメイドは振り返り、手の中にあるものがきらりと光った。
アイスブルーの宝石がついた豪奢な髪飾り。きらめくチェーンが幾重にも垂れさがった上に、薄い水色の石が載っている。それは美しく透き通って、澄んだ氷のようだった。
「きれい……」
輝きに目を奪われたアナスタシアは思わず手を伸ばす。メイドは困ったように眉を下げ、髪飾りをもった手を胸元に引き寄せた。
「いけません、これは奥様の大切な――」
たしなめるような言葉が最後までたどりつかぬうちに、ぱんっという乾いた音が響き渡った。頬に熱い衝撃が走り、強烈な勢いに小さな体が尻もちをついた。
見上げると、恐ろしい形相をした母のシャロンが手を振り切ったままの体勢で見下ろしていた。途端にアナスタシアの身体は硬く強ばる。
「私の部屋でなにをしているの。これはあなたが触れていいものではないわ」
鋭い叱責は母の苛立ちを如実に表していた。
失敗してしまった。謝らなければ。
反射的にそう思ったが、すくんだ身体では喉すら動かすことがかなわない。勝手に流れ落ちてくる涙がぼたぼたと頬を伝い、ただ震えていることしかできなかった。
アナスタシアの乱れた前髪に気づき、シャロンは眉をひそめる。
「きちんと前髪を下ろしておきなさいと言ったでしょう。穢れたその瞳を私に見せないで!」
冷たい言葉で突き放したあと彼女はふんと顔を背けた。
母に手を上げられたことはあとにも先にもその一度だけだ。けれどそれはなんの慰めにもならない。鋭い言葉や険のある表情と態度で、心は常にぼろぼろに傷つけられていたから。
父はそんなアナスタシアを悲しげに見ているだけだった。最初の頃はかばってくれていたけれど、そうするとますます母の苛立ちが増し、仕打ちがひどくなるので、温和な彼には手出しができなかったのだろう。
シャロンの姉であるブラッドレイ侯爵夫人とその子息が屋敷を訪ねてきたのは、平手打ちの一件から数日後のことだった。
子供たちは遊んでいなさいと、アナスタシアは子息とともに庭に出され、両親と侯爵夫人は神妙な顔をしてどこかの部屋に入っていった。
アナスタシアはほかの子供との付き合い方など知らずに育ったから、エリオットという名であるらしい年上の少年にどう接したらいいのか分からなかった。
気まずさのあまり裏庭に逃げ出してしまう。そうしてどこかの部屋の窓の下にやってきたとき、風に乗って誰かの湿っぽい声が耳に届いた。
不思議に思ってカーテンの隙間からのぞいてみると、泣いていたのはあの母だった。
「あの子を育て上げる自信がないの」
ハンカチを口に当てて涙ながらに訴えるシャロンの姿に衝撃を受けたのを覚えている。
「あの赤い目で見つめられるたびに責められている気がするの」
夫に背中をさすられながらシャロンは大粒の涙を流していた。
ようやっと吐き出したというような苦渋に満ちた声音が幼い胸にじくりと響く。
アナスタシアは急いで窓から離れ、屋敷の壁に背中を押しつけた。心臓が狂おしいほど早鐘を打っていた。
自分の存在が母を苦しめている。
円満に過ごしていた両親の生活に暗雲をもたらしている。
自分が生まれなければ、うまくいっていたはずなのに。
懸命に嗚咽を吐息に逃がして深呼吸を繰り返していたとき、握りしめていたこぶしに誰かのぬくもりが触れる。
はっと顔を上げると、真横に立っていたのはエリオットだった。今にも泣き出しそうなアナスタシアを見て悲しげに微笑む。
「うちに来る?」
「どうして……?」
思わず聞き返す。けれど本当は、その質問がどういう意味なのかアナスタシアにはよく分かっていた。
今日彼らがここに来たのは、自分を引き取るためなのだ。
両親は自分を含めて家族として暮らしていくことを諦めてしまった。
返事の代わりに、ただ強く首を縦に振る。母にとっても自分にとっても、きっとそのほうがいい。
言葉は出なかった。言葉にしようとすると途端に泣き声になりそうで、アナスタシアはただ震える喉に力を込めて、声を押し殺していることしかできなかった。
そうしてアナスタシアは生まれた家を離れた。
ブラッドレイ侯爵家に養子として引き取られたあとも、アナスタシアはどこか他人行儀な態度を崩せなかった。侯爵家の人々はとても優しくて、新しい娘の頑なな態度に戸惑っているのがよく伝わってくる。けれど、アナスタシアはいつまでここにいられるのだろうという不安ばかりが先立った。自分の色は他人を不快にするものだと信じて疑わなかったから。
新しい家族はみんな柔らかな栗色の髪をしていて、瞳はエリオットと侯爵が緑、侯爵夫人がはしばみ色だった。とても綺麗な、普通の色だった。自分の色はおかしいのだ。どこへ行っても馴染むことができない。前髪を切ろうと提案されても頷くことはできなかった。
警戒心をなかなか解かない娘に、彼らは寛容だった。
侯爵夫人は反応の薄い娘を根気強くいたるところに連れ回した。養子の届け出をするために王宮に出向くときも、当然のようにアナスタシアの手を引いた。
彼女が書類を確認している間にそばから離れてしまったのは完全にアナスタシアの不注意だった。初めて見る王宮があまりにもきらびやかだったので、見惚れているうちに夫人の目の届かないところまでやってきてしまったのだ。
そうして困っておろおろとしているところに現れたのが、オーランドだった。
「ねえ、君。大丈夫?」
蜂蜜色の金髪がさらりと揺れる。天使のような少年がじっとこちらを見ていた。アナスタシアは輝く金の髪と深い青の瞳に目を奪われて、自分の瞳を隠すことすら忘れていた。
なのに、彼もどうしてか同じような惚けた表情をしていて、アナスタシアは不思議に思ったのを覚えている。まさか彼も自分の色に見惚れていたとは想像もしなかったのだ。君の色が好きだと言ってもらえたとき、生まれて初めて、ここにいてもいいのだと許されたように感じた。
王宮から帰ったアナスタシアが髪を切ると言うと、侯爵家の人々はとても喜んでくれた。
銀のとばりが取り払われたとき、地面ばかりを映していたアナスタシアの世界は一変した。
最初に驚いたのは視界が広くて明るいことだ。さまざまな色彩が一度に目の中に飛びこんできて、アナスタシアは何度も瞬きをした。
侯爵家の屋敷は控えめな意匠の調度品で品よくまとめられていて、その温かい色彩をすぐに好きになった。窓から顔をのぞかせれば、庭には緑が溢れて、遠目には赤レンガの屋根が並ぶ王都の街並み、そして乳白色の王宮が見える。反対の方角には丘や森が広がり、可愛らしい歌声を奏でながら小鳥が飛び立つ。
とばりの向こうの世界はとてつもなく広大で、美しい色彩に満ちていた。
どこまでも続きそうな青空の下には、自分を受け入れてくれた父や母や兄――家族が、アナスタシアを見て微笑んでいる。
ここにいたい。
幼いアナスタシアは初めてそう思えた。
そして、あの人の一番近くに行きたい。
その願いは卵からかえったひな鳥のすりこみのように無垢でひたむきで、だからこそ切実だった。
兄に励まされ、父母に見守られながら、アナスタシアはすくすくと成長した。家族同士の付き合いや基礎教育の修了を通して、他人と接することにも徐々に慣れていった。
オーランドと会うことはめったになかったが、顔を合わせるといつもアナスタシアの大好きな優しい笑顔で頭を撫でてくれた。
豊穣祭の聖女に選ばれ、多大な注目を浴びる中で完璧に役目を果たしたことは、アナスタシアにとって大きな自信となった。
努力は着実に実を結んでいる。
アナスタシアは期待していた。彼の隣に並び立てる日がいつかやってくることを。
転機がなんだったかと問われれば、社交界へのデビューにほかならない。
その一夜はこれまでにない歓喜と失望を同時にアナスタシアに味わわせた。
貴族の子女が社交界にデビューするとき、まず顔を出すのは、実りの季節の宮廷舞踊会と決まっている。
きらびやかな空間に、光が踊る。
王宮の大広間を一言で表現するならそれだ。広間そのものも、緻密な装飾も、居並ぶ人々も、すべてがきらめく豪奢な世界。
デビュタントの純白のドレスを身にまとったアナスタシアは、初めての舞踏会で目の眩むような光の奔流にただただ圧倒されていた。ぽかんと口を開けてしまわないだけの冷静さは残っていたけれど、自分を導くエリオットのエスコートがなければとっくに逃げ出していたかもしれない。
いや、それでもきっと踏みとどまっただろう。
ここへ来ることを長年夢見ていたのはアナスタシア自身だったから。
誰かを捜していたエリオットが不意に立ち止まり、「ほら」とでも言いたげにこちらを振り返った。示されたほうへ目を移し、アナスタシアは思わず呼吸を止める。ずっと焦がれつづけた人の姿がそこにはあった。
正直に言うと、このとき少しだけ気後れも感じていた。会場で見つけたオーランドは、自分の知る彼とはなにかが違って見えたから。王族の威厳とでも言うのだろうか。周囲の者と社交的に挨拶を交わす彼は、穏やかな微笑みを浮かべているのに、どこか踏みこむのを躊躇わせる雰囲気があった。
けれど、その目がアナスタシアを捉えた瞬間、そんな恐れは跡形もなく霧散する。
「アナスタシア! デビューおめでとう。君とここで会えて嬉しいよ」
一瞬にしてオーランドの空気がふわりと和らぐ。柔らかな笑顔は、アナスタシアの強ばった心をいとも簡単に安堵と喜びで塗り替えた。
満面の笑みで応えようとして、はっと思いとどまる。感情を露骨に表すのは子供のすることだ。しずしずと歩み寄ったアナスタシアはそっとドレスの裾をつまみ、優雅にお辞儀してみせた。
「ありがとうございます。オーランド様とこうしてお会いできる日を心待ちにしておりました」
社交辞令のごとく告げた言葉は、しかしまごうことなき真実だ。幼少の出会いから実に十一年間、アナスタシアはずっとこの日を待っていた。王宮で出会う偶然に頼らずとも彼と会えるようになる、この日を。
初めて目にするオーランドの盛装を感動とともに見つめる。紺青の上衣と金色の刺繍は、髪と瞳の色に合わせているのだろうか。臙脂のクラヴァットが差し色となって全体を引き締め、その立ち姿は一枚の絵画のようだった。
感極まって言葉を続けられずにいると、彼はくすくすと笑った。
「緊張しているの? 安心していいよ。君は完璧な淑女だ」
緊張は不安のせいなんかじゃなくて、オーランド様が素敵すぎるから。
そんな率直な言葉を口にできるはずもなく、ただ黙って頬を熱くし、瞳を潤ませる。
するとオーランドがふと真顔になって上体を軽く傾け、彼の端整な顔が間近に迫った。深海のようとも言われる瞳は吸いこまれてしまいそうなほどに美しい。アナスタシアがうっとりと魅入られていると、彼の瞳がわずかに揺れ、目元にうっすらと赤みが差した気がした。
「殿下、もしや私の存在をお忘れではないでしょうね」
兄の声が耳に飛びこみ、陶然とする妹の心を現実に引き戻した。
「――ああ、すまない。君もいたんだったね、エリオット」
あっさりと上体を起こしたその表情からは、すでに動揺の色が消えている。
冗談めかした軽口にエリオットはやれやれとため息をついた。
「お気持ちは分かりますが、私の妹に近づくのでしたらきちんとした作法にのっとっていただかなければ困ります」
「少し見つめ合っただけじゃないか。厄介なお目付け役だな、君は」
少年めいた口調で不平を漏らし、オーランドは肩をすくめる。しかしすぐに表情を改めると、アナスタシアの正面に立ち、わざとらしいほど真面目な面持ちで頭を垂れた。
手袋に包まれた手が恭しく差し出される。
「ダンスのお相手をお願いしても? レディ・アナスタシア」
「――は、はい。もちろんです、オーランド様」
口先ではどうにか平静を装ったけれど、努力できたのはそこまでだ。上目遣いに捕らえられれば、アナスタシアは目を逸らせなくなる。
震える指先をそっと手のひらに乗せると、慈しむように優しく握りこまれた。久しぶりに触れる彼の手は骨張っていて、頼もしい大人の男性のそれに成長していた。大きさだって、子供の頃とは比べるまでもない。
「兄君もこれで文句はないでしょう? しばし妹御をお借りしますよ」
からかうオーランドと仏頂面のエリオットが視線の応酬を交わすが、アナスタシアは腰に回された手が気になってそれどころではなかった。
硬いコルセットを着用していて本当によかった。彼の長い指で柔らかな腰を撫でられでもしたら、恥ずかしくて卒倒してしまう。
「行こうか」
余裕たっぷりに促され、アナスタシアは夢見るような心地で彼の隣を歩いた。
広間にかすかな反響を残してカドリーユが終わり、二人は定められた位置に着く。
手を握り合えば、自然と距離は縮まった。オーランドの手を背中に感じ、触れられた場所が甘く痺れる。初めての舞踏会、初めてのダンスの相手。憧れの人を前に気持ちはこの上なく張り詰めていた。
うまく踊れなかったら、どうしよう……
少しの間のあとワルツのメロディが流れはじめると、アナスタシアの鼓動は最高潮に達する。
そのとき、背中の指先が不意をつくように肌をくすぐり、アナスタシアの肩がびくりと震えた。悪戯をとがめようと顔を上げたその瞬間、ごく自然なリードが最初の一歩を促す。
魔法にかけられたように、右足が前に出ていた。流れは止まることなく、滑らかに次のステップへと移る。
いつもの自分のぎこちないダンスではない。アナスタシアが瞳をまたたかせてオーランドを見ると、形のいい唇がゆるりと深い弧を描いた。彼の手や足や視線が、見えない糸でも手繰るようにアナスタシアを向かうべき先へと誘う。
直前まで懸命に思い返していたダンスのレッスンなどすっかり頭から消え去っていた。周囲の目を意識して肩肘張ることもない。アナスタシアはただ音楽に合わせ、オーランドについていけばよかった。
弦楽器の軽やかな調べが徐々に重なり合い、曲調を高めていく。曲の変化を感じながらステップを踏むと、自然と笑みがこぼれ落ちた。二人の動きは寸分のずれもなくぴたりと一致して、手を握り合ったまま明かりのきらめく広間をくるくると回ると、オーランドの瞳の中をいくつもの光が横切っていく。アナスタシアはその様をうっとりと眺めていた。
基本のステップを何度か繰り返し、本当に大丈夫だという自信が生まれはじめた頃、ようやく声をかけられた。
「上手だね。初めての舞踏会だとは思えない」
「それは……っ。オーランド様が、リードしてくださるからです。こんなにダンスが楽しいのは初めて、です」
心がはやるあまり言葉がつかえてしまう。
アナスタシアはあまりダンスが得意ではない。教師にも出来が悪いと叱られていたくらいだ。恥をかかない程度には猛練習してきたが、兄相手ではここまで踊れない。
「だったら、僕が練習した甲斐も少しはあったのかな」
「オーランド様は、十分お上手ではないですか。練習なんて必要ないでしょう?」
「単に踊るだけなら、ね。女性に気持ちよく踊ってもらうのはまた別だよ。実は今夜のために、妹をだいぶ練習に付き合わせたんだ」
「――私のため、ですか?」
ぽつりと尋ねてから、あまりに自惚れた発言で狼狽えてしまう。浮かれすぎだ。
「も、申し訳ありません。この舞踏会は王家の主催ですし、デビューの令嬢たちのためにオーランド様がそういった配慮をされても、なにもおかしくは――」
続けようとした言葉は、真摯な眼差しにひたと見据えられて立ち消える。
「君のためだよ、もちろん」
オーランドははっきりと答えた。それからやや逡巡し、躊躇いがちに付け足す。
「僕のリードが下手だなんて、君には絶対に思われたくなかったんだ。もともと下手ではなかったはずだけれど……」
最後のほうはぼそぼそと呟き、わずかに視線を外す。もしかして、照れているのだろうか。今度は見間違えようもなく彼の目元が赤くなっているのが分かって、アナスタシアにまでそれが伝染してしまう。
胸が高鳴るあまり足元をふらつかせてよろめいた身体を、すかさずオーランドが危なげなく受け止めた。
互いに顔を上げると視線が絡んで、二人はしばし見つめ合う。
青い瞳に、火が灯っているようだった。そこに込められた熱量は、自分のそれとまったく差がないように思われた。
――この人が好きだ。
心からそう思う。幼かったアナスタシアは、恋とはどんなものかを知識として得る前に心で理解した。その想いは年を追うごとに深まっていく。
王宮で偶然出会うだけでは足りなくて、夜会で手を取り合ってもまだ遠い。
もっと、そばに。一番近くにいさせてほしい。
――オーランド様も、同じ気持ち?
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