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 翌朝目を覚ましたら、アルベルトは本当に姿を消していた。公爵夫妻もすでに領地へ発っていて、王都の公爵邸にはリーゼだけが残された。あとは屋敷を管理する使用人たちしかいない。

 離縁を考えるって本気なのかしら……。

 昨夜のアルベルトを思い出すと、いまだに身震いする。運命の力は容易く人の心を塗り替えてしまう。その事実を見せつけられたようだった。積み重ねた思いも時間も、まるで最初からなかったかのように消し去られる。それは恐怖という言葉では足りないくらいおぞましいことに思えた。
 逃げたい――運命などという得体の知れない力が及ばないところまで、一刻も早く。アルベルトのことを忘れて、運命に出会う前の自分に戻りたかった。
 どうにかして離縁を認めてもらわなければならない。運命の番として公爵家に嫁いだリーゼが別の恋人を見つけるなんて簡単なことではないけれど、リーゼはもうそれしか考えられなかった。

 じりじりとした焦燥感とともに数日を過ごした。

 屋敷を一人の男が訪ねてきたのは、空に暗い雲がたれこめる午後のことだった。リーゼは応接間で幼なじみのニコラスと顔を合わせた。

「リーゼはどうしてるかなって気になってさ」

 どこか煮え切らない様子で頬をかきつつ、彼は訪問の理由をそう説明した。
 リーゼはふと、幼い頃胸に秘めていた恋心を思い出した。温和な年上の少年は小さなリーゼにとって憧れの対象だった。

 これが最初で最後のチャンスかもしれない。

 リーゼは卓上の大きな手に己のそれを重ねた。びくりと強ばる感触が伝わってきたが、逃げようとする素振りはない。大丈夫、と自分を励まして、リーゼはすがるようにヘーゼルの瞳を見つめた。

「来てくれてよかった、ニコ。一人では心細かったの……」

 弱々しい声で漏らすと、ニコラスの顔色がさっと深刻なものに変わる。

「リーゼ。正直に教えてほしいのだけど、アルベルト様とは上手くいっていないの?」
「実は、結婚した翌日から帰ってきてくださらないの。初夜だってまだだし……もしかして、運命の番というのは勘違いだったのかもしれない」

 ああやっぱり、とニコラスは天井を仰いだ。

「社交界で噂が流れているんだよ。君たちは白い結婚で、アルベルト様は君をないがしろにしているって。しかも噂の出どころはアルベルト様自身だ。君はつまらない女性だと人前でけなしていたらしい」

 ずきん、という胸の痛みに気をとられていると、重ねた手の上下がいつの間にか入れ替わっていた。ニコラスが真剣な顔をしてリーゼを見つめる。

「僕と結婚しよう、リーゼ。ずっと言えなかったけど、君が好きなんだ。一度は諦めようと思ったけど、大切にされていないと聞いて見過ごすことはできない」

 願ってもない申し出のはずなのに、リーゼは頷くことができなかった。

 なに、これ……?

 お腹の中に氷を詰め込まれたようなおぞけが全身に広がる。先ほどまでなんともなかったニコラスの手が、急に気持ちの悪いものに変わった。鳥肌すら立ちそうな嫌悪感に、リーゼは思わず手を振り払っていた。

「触らないで」

 ぴしゃりと言い放ち、長椅子から立ち上がる。ニコラスは困惑の色を浮かべ、追いすがるようにリーゼに手を伸ばした。

「どうして? 君だってここから連れ出してほしいんだろう? だから僕の手に触れたんだよね。大丈夫、僕が守ってあげるから。怖がらなくていい」
「いや! あなたとは行けない!」

 掴まれた手に吐き気すら覚えて、リーゼは渾身の力で男を突き飛ばした。だがニコラスは少しよろめいただけで、反動でリーゼのほうが長椅子に倒れ込む。すぐに体勢を立て直した彼の瞳に危険な色がともった。

「なんだよ、その態度。意味がわからない。君は明らかに僕を誘っていただろう!?」

 男の手がドレスにかかり、またたく間に胸元を引き裂いた。

「やぁっ! なにをするの!?」
「僕と行きたくないなら、今だけ我慢すればいい。傷物にしてあげるよ。そうすれば初夜すら済ませていない結婚なんか白紙に戻る」

 とんでもないことを言って、ニコラスはあらわになった肌にべたべたと触る。卒倒しそうなほどリーゼの血の気が引いた。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
 しかし、ニコラスの手が柔らかな双丘にかかったところで、突如彼の身体が真横に吹っ飛ぶ。
 彼の背後にいつの間にか長身の男が立っていた。蹴り飛ばした長い脚を下ろしつつ、ごみを見るような目でニコラスを見下ろすのは、ここにいないはずのアルベルトだった。

「人の妻に手を出すなら、それなりの覚悟は出来ているんだろうね?」

 よろよろと立ち上がったニコラスは、アルベルトの放つ殺気に気づくや、ひいっと悲鳴を上げて部屋から飛び出していった。その後ろ姿をアルベルトは興味なさげに一瞥して、長椅子に横たわるリーゼに視線を移した。

「アルベルト、どうして。別邸にいたのではないの?」
「君は気づいていなかったようだけれど、僕はこの屋敷にずっといたよ。隠れて夜会に出て噂を流してみたんだ。ニコラス君はまんまと引っかかってくれたようだね」

 美しく口角を引き上げ、彼は笑う。瞳の奥に暗い炎が見えるようだった。リーゼはその場に凍りつく。

「ニコラス君と束の間の夢を見れて楽しかったかい? リーゼ」

 穏やかで抑揚のない声に、ぞくぞくと背筋が寒気を覚えた。固く強ばった喉を叱咤して、リーゼはようやく声を出す。

「ごめんなさい。私、分かったわ。あなた以外の人に恋はできない」

 ニコラスに求婚されたときに悟った。彼のことは嫌いではないはずなのに、あの瞬間、全身が拒んだ。吐き気を催すほどの嫌悪感など尋常ではない。
 そして今は、幼なじみとしての親愛の情さえリーゼの中から失われてしまっている。差し伸べられた手をあのように拒んで、罪悪感すら微塵もない。自分の心の変わりようが恐ろしかった。
 蒼白になるリーゼを見つめ、アルベルトはうっとりと目を細めた。

「そうだよ、リーゼ。僕たちはね、もうお互い以外の相手を選べないんだ」

 アルベルトが長椅子に片膝をつき、長い指がリーゼの鎖骨に触れた。そして徐々に下へと降りていく。暴かれたままの胸元をいたわるような手つきだった。リーゼは動けなかった。

「僕も最初は信じられなかったよ。自分の気持ちがこんな簡単に変わってしまうなんてね。クラウディアを愛していたんだ、確かに。なのに今は君を愛している」

 胸の谷間に指を擦り付けると、アルベルトはリーゼの背中と膝裏に腕を入れて抱き上げた。そのまま応接間を出てどこかの部屋へと向かう。

「君も自分に失望したかな? 自分の心が信じられなくなるだろう? ねえ、君は本当の愛を探すと言ったけど、僕らの運命の前では、本当の愛なんて容易く塗りつぶされてしまう幻みたいなものなんだよ」

 アルベルトは穏やかに笑っているのに、その表情はどこか陶然として狂気的だった。
 リーゼはぎくりと身体を強ばらせる。どうしてアルベルトがわざわざ離縁の機会など与えたのか理解できたからだ。

 自分と同じ思いを、リーゼにも味わわせるために。

 親しみを抱いていたはずの相手が大切ではなくなる。酷い仕打ちをしているはずなのに心が動かなくなる。自分の心が自分のものではないような、恐ろしい感覚だった。彼のクラウディアに対する愛情も、こんなふうに消えていったのだろうか。

「だからね、リーゼ」

 小柄な妻を寝室の寝台に下ろしながらアルベルトは歌うように言う。

「僕らは運命を受け入れるしかないんじゃないかな」
「でも」

 リーゼは震える声を懸命に吐き出した。

「私は、きっと、あなたを愛してはいないわ。あなたの虚像を愛しているだけ。あなた自身を見ているわけじゃない」

 あらわになった胸を腕でかばいながら、逃げるように身をよじる。覆いかぶさったアルベルトは薄く笑った。

「そう。君はよほど本当の愛にこだわりたいんだね」
「だって! こんな愛は、自然じゃない……怖いの」

 熱くなった目元から涙が一筋滑り落ちた。

「あなたのそばにいると、どんどん心が惹き付けられる。どんな姿を見ても、なにをされても、好きだと思う。愛情が大きくなっていくのが分かるの。ねえ、これは本当に私の心なの? 見えない力に侵食されていく気がする」
「可哀想に。疑心暗鬼に囚われているんだね」

 アルベルトの優しい声が、耳にどろりと流し込まれた。張り詰めた心の糸が、ぷつりと切れる音がした。

「……怖いわ。苦しい。どうして。私はただ幸せな恋がしたかっただけなのに」
「大丈夫だよ。君の心は、君のものだ。運命に抗いさえしなければ」

 番以外に愛情を抱かなければ、表面的には穏やかに過ごせる。彼はそう言いたいのだ。

「でも、そんなの、現実から目を逸らしているだけじゃないかしら」
「いいんだよ。不都合な現実なんて気づかなければ、存在しないのと変わらない」
「でも……」

 ひたと見据えられ、リーゼは口を閉ざした。真っ直ぐに向けられる青の瞳は凪いでいて底が知れない。

「僕への愛は君自身の心だ。信じさせてあげるよ」

 胸を守る腕をよけられてリーゼは弱々しく抵抗した。

「無理よ……嘘だって分かりきってる」
「嘘じゃないよ。僕の愛が本物なように、君の愛も本物なんだ。証明してあげる」

 アルベルトの手が白い肌の上を滑り、柔らかな胸を包み込む。

 ――そんなわけ、あるはずないのに……。

 言葉を返すことはかなわなかった。唇を塞がれたからだ。
 リーゼはシーツの波間に溺れ、アルベルトの与えるものをただ甘受する。彼の触れ方は繊細な慈しみに満ちていて、本当に愛されているみたいだった。

 ……愛されているのかもしれない。

 少なくとも彼は、自分の愛が本物だと信じているようだった。

 ……そう見せかけているだけかもしれない。

 どちらなのか、判断の境目がリーゼにはもう分からない。区別できない本物と偽物の差に、意味はあるのだろうか。

 眠りに落ちる直前、左の薬指になにかがはめられた。
 リーゼを囚える枷だ。もう逃げられない。

 誰かを傷つけても、
 まがいものでも、
 受け入れられなくても、

 ただ彼と、墜ちていくしか。
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みんなの感想(1件)

せち
2023.12.22 せち

凄い好きなお話✨
運命の番…とても深いですね…考えすぎて沼にハマってしまいそうでした😱

むつき紫乃
2023.12.23 むつき紫乃

感想ありがとうございます!
おそらく読む人を選ぶ作品だと思うので、好きと言っていただけてたいへん嬉しいです- ̗̀(⑉• •⑉) ̖́-♡
運命の番、よくよく考えると業が深いですよね…いろいろ考えるきっかけにしていただけて幸いです!

解除

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