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1巻

1-3

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 かすかなうめき声が上がって、男の太い腕が和香を抱き寄せる。その直後、硬い先端がぐぐっと奥の行き止まりに押しつけられ、次の瞬間、収縮するような動きをお腹の奥が捉えた。
 熱いものが広がるような感覚はイメージから来る錯覚だったのかもしれない。総司は避妊具をつけていたのだから。
 和香は彼と同時に達していた。焦らされつづけたあとの絶頂はあまりにも強烈で、ふわりと身体が浮き上がるような多幸感を覚えたところで記憶はぷっつりと途絶えている。和香はそのまま気を失ってしまったのだった。


 翌朝、和香は案の定頭を抱えていた。
 ホテルの客室の洗面所は照明が明るく、沈んだ気分が浮き彫りにされる。あまり見たくもない鏡の中には目を真っ赤にらした残念な女が立っていた。化粧は中途半端に剥げている。
 最悪。
 自暴自棄になっていたとはいえ、総司を自ら求めてしまった昨夜を思い出し、洗面台に手をついてうなだれる。なんて迂闊うかつなことを。
 いくら元恋人といえど相手は既婚者だ。たった一度でも不倫は不倫。感情的になっていたことは言い訳にならない。
 しかも、行為の最中にやたら感傷的な気分になって、ひどくよがってしまった。穴があったら入りたい。あんなのはシチュエーションに酔っただけだ。そう自分に言い訳したくなる。
 落ち込む気持ちにさらに追い打ちをかけたのは、丁寧にクローゼットにかけられていた衣服だった。昨夜は総司に脱がされてそのあたりに散らかっていたはずなのに、きちんとしまわれていたということは、和香が寝入ったあとに彼が片付けたのだろう。
 そんなマメさをいつの間に習得したのか。奥様にしつけられたのかなどと勘ぐってしまうのは、決して穿うがちすぎではないと思う。しわのない袖に腕を通しながら、このうえなく申し訳ない気持ちになったのは言うまでもない。
 ちなみに当の旦那様はまだ眠っている。この隙に立ち去るべきか、否か。先ほどからその二つの選択肢が頭の中をぐるぐると巡っていた。
 しかし、その結論はあっさりと下されることになる。備え付けのアメニティで見つけたメイク落としで顔を洗っていたところ、ベッドルームで総司が起きだす気配がしたのだ。
 もう逃げることはかなわない。肌の水気を拭き取り、見苦しくない程度に身なりを整えた和香は、覚悟を決めて部屋に戻った。

「あの……昨日は、ごめんなさい」

 入り口から半身をのぞかせ、おそるおそる謝罪する。寝衣を身にまとった彼はこちらの姿を視界に捉えると、ベッドに腰かけた状態で固まっていた。しばらくして、はーっと長い息を吐きながら全身を脱力させる。

「帰ったかと思った……」

 その呟きに、和香はどんな顔をしていいか分からなかった。
 帰れるものならよほど帰ってやりたかった。だが、それはあまりにも不義理だと思ったのだ。

「一応、昨日は助けてもらったから……ありがとう」

 迷惑をかけてごめん、というのは最初の発言とかぶるので呑み込んだ。
 返ってきたのは「ああ」だか「うん」だか曖昧あいまいな返事だけだった。
 総司はそれきり口元を手で覆い、朝日の差し込む窓へ顔をそむけてしまう。その横顔がどうにも苦虫を噛みつぶしたように見えて、もしかしたら自分が残っていたのはまずかったかと和香は不安になった。
 ――そうよね。不倫の事実は変わらなくても、顔を合わせずすっぱり別れたほうが後腐れなく一夜の過ちで済むもの……
 きっと彼も昨夜の行いを後悔しているのだ。

「あの……私は、これで。お礼を言いたかっただけだから」

 空気を読んで出ていこうとすると、総司が焦ったふうに立ち上がった。

「待て」
「え?」

 動きを止めた和香のもとに彼が足早にやってきて手を伸ばす。しかしその手は、触れることを躊躇ためらうように虚空こくうをさまよい、やがてゆっくりと下ろされた。代わりに、荒っぽい手つきで自身の前髪をかきあげる。あらわになった眉間には深いしわが刻まれていた。

「総司……?」

 怪訝けげんに思って顔をのぞき込むと、ややあってから意を決した強い眼差しで見つめ返される。

「和香、その……これからも、こんなふうに……会って、くれないか」

 瞬時に意図が掴めなくて、和香は真顔になった。
 こんなふうに。それは、昨夜のような行為をこれからも続けていきたいということだろうか。
 理解が脳の中心に達すると同時に、身体が強ばった。

「なにを、言ってるの……?」

 そんなのダメに決まっている。それはもう過ちですらなく、本気の不倫だ。道理から完全に外れてしまっている。総司だって理解しているはずだろう。
 しかし彼は、こちらの反応など分かりきっていたかのように、ただ薄く苦笑するだけだった。そうして沈痛な面持ちで口を開く。

「やっぱり、俺は……君のことが、諦められない。好きなんだ、和香」

 好き。
 甘いはずの響きが、まるで別物みたいだった。
 その声が頭の中で何度もリピートする。けれど、それをどう受け止めていいのか分からない。呆然として頭がうまく働かなかった。

「好きって……なに? あなたにとってそれは、別の人との指輪をはめていても口にできる言葉なの……?」

 浮かんだ疑問をそのまま口にすると、総司は苦しげに表情を歪めた。

「だったら、なんて言えばいい。離婚……する、と、言えばいいのか? そんな口先だけの約束を、君は信じるのか? 和香なら……俺の気持ちが分かるんじゃないのか」

 卑怯な言い方。
 和香なら。そんなふうに言われれば、無理やりに引き裂かれた失恋の記憶がまたずるりと引き出されてしまう。
 二人が積み重ねた苦悩と葛藤。そして、どれほど自分が彼を愛していたか。
 夕べ重ね合わせた肌にはまだ、熱く抱き合った感触が生々しく残っている。それに手繰り寄せられるように、思い出の中の感覚や感情が再び現実の色を取り戻していく。
 総司の気持ちが、痛いほどよく分かる。
 和香だからこそ、分かってしまう。
 でもダメだ。それは、分かってはいけないものだ。
 彼の目がすがるように和香を見つめている。その頬に触れて、抱きしめてあげたい。そうできたらどんなによかったか。だけど――

「ごめん……総司。私は分かってあげられない……ごめん……」

 震えそうな声で告げると、見つめ合った瞳に失望の色が広がっていく。それを悲しい気持ちで眺めた。
 こんなことで、彼に道を踏み外させるわけにはいかない。二人の真っ直ぐだった恋に汚点を残すこともしたくない。だから突き放すしかなかった。
 ごめん。きっと何度言っても足りない。拒絶して傷つけることしかできないなら、もっと徹底的に総司を避けるべきだった。油断なんてしてはいけなかった。今さら後悔しても遅い。
 今の自分にせめてできることと言えば、すみやかにこの場から姿を消すことくらいだ。

「ごめんなさい……本当に、さよなら」
「和香!」

 名前を呼ばれたけれど、彼がそれ以上の行動に出ることはなかった。バッグを手にした和香は半ば走る勢いで客室を飛び出し、黙々とエレベーターを目指した。
 ホテルのエントランスを出て五歩くらい進んでから、ようやく背後を振り返る。
 予想どおり、昨日のように追いかけてきているなんてことはなかった。ロビーを行き交うのはホテルマンと、チェックアウトや朝食に向かう宿泊客だけだ。
 きらびやかな内装や人々の洗練された振る舞いから、普通のビジネスホテルよりもいくらか格上なのが察せられた。
 そう、総司がいるべきなのはこういう世界。お金や肩書きがあるとかではなくて、教養や品性を備えて人々の先頭に立つ人なのだ。
 だから、後ろ暗いことなど抱えずに、常に堂々と明るい道を歩んでいてほしい。彼のそういうところに和香は惹かれたのだから。
 自分の考えを自覚して、くすりと悲しい笑みがこぼれる。

「結局、たった一晩でひっくり返されちゃったな……」

 五年かけて消し去った想いは、実際のところ全く吹っ切れていなかったらしい。
 込み上げる寂しさを胸の奥にしまい込み、そっとホテルをあとにした。


「矢野さんはそういうタイプだったかあ……。やっぱり和香に一言でも注意しておけばよかった」

 一度自宅に戻ってからショップに出勤した和香がひととおりの説明を終えると、共同経営者であり、長年の親友でもある有紗ありさいきどおりもあらわに顔をしかめた。
 店内に客の姿はなく、二人はそれぞれに商品の陳列や整理で手を動かしつつ雑談に興じている。
 有紗の溌剌はつらつとした印象の顔立ちには悔しげな色がにじんでいた。しくじったとでも言わんばかりのその反応を和香は不思議に思う。

「注意って、有紗は知っていたの? 私はとてもショックだったんだけど」
「それは……うーん、別に分かってたわけじゃなくて。ただ、なんとなく胡散うさん臭いなーって思ってたの」
胡散うさん臭い?」

 矢野の普段の様子を思い返し、やはり首を傾げる。あの裏切りさえなければ、彼は穏やかで優しく、かなり好感の持てる男性だったと思う。仕事も丁寧だった。今となってはむしろ、仕事だけは、と言うべきかもしれないけれど。

「ほら、矢野さんって大人っぽい色気があるし、女性の扱いもそつがないでしょ。ああいう男性は黙ってても女の人が寄ってくるはず。なのに、三十代で結婚の気配もないし、恋愛に消極的になってた和香にわざわざ手を出そうとするあたり、クセ者の匂いがするなあって」
「なるほど……。私、疑いもしなかった」

 確かにあんないかにもモテそうな男性が一途に何年も自分だけを想ってくれるなんて、話がうますぎる。
 大失恋のせいで恋愛に前向きになれないのだとは、最初に口説かれたときに軽く伝えてあった。けれど矢野は、和香がそろそろ次の恋に向かうべきだと気持ちを持ち直すまで一度も急かすことはなかったのだ。
 その態度がこちらの目には余裕のある大人の男性に映っていたわけだが、真実が発覚してしまえばなんてことはない、彼は和香にそこまで惚れ込んではいなかったのだ。昨夜のあの様子では、彼が関係を持つ女性があの一人だけなのかも怪しい。
 総司のことを吹っ切ろうと焦って視野が狭くなっていた部分もあったのかもしれない。
 思えば、矢野が褒めるのは和香の無機質なまでに整った容姿ばかりだった。紳士的な振る舞いとこまやかな気遣いに誤魔化ごまかされていたが、彼も容姿目当てで近づいてくる男たちと同類だったのかもしれない。そういう相手を見分けるすべは学生時代にとうに身につけたつもりでいたのに。
 自省する背中を、隣にやってきた有紗の手が優しく叩いた。

「それはしかたないよ。私だって確信がなかったから言わなかったんだし。悪いのは百パーセント向こうなんだから、和香が自分を責める必要はないよ」
「……うん」
「二股しておいて悪びれもしないって、相当クズでしょ。早めに分かってよかったくらい。気づかず付き合いつづけてたらどれだけ時間を無駄にしてたか」

 清々しいくらいのポジティブシンキングだった。
 十三歳のときにイギリスのインターナショナルスクールで知り合った二人だが、海外の暮らしが合わず三年ほどで日本に戻った和香に対して、有紗は子供時代の半分を海外で過ごしている。そのためか、思考が合理的で思い切りがいい。優柔不断なところのある和香は、彼女のこういう割り切り方にいつも感心してしまう。

「でも、仕事では迷惑かけちゃうよね……」

 矢野も自分たちと同様にアンティークディーラーを生業なりわいにしている。彼のほうは、店舗を持たず、仕入れたアンティークを業者相手に売る旗師はたしという業態をとっていた。国内のアンティーク事情にも詳しいので、二人にとっては商品の仕入れ先の一つであるとともに、ショップ経営のよき相談相手でもあった。
 別れたからといって、仕事上の関係まですぐに切ってしまうわけにはいかない。けれど、有紗はにっこりと微笑むと、あとの対応は全部私がやるから安心して、と頼もしく請け負う。和香は負い目を感じつつも結局それに甘えるほかなかった。

「それより問題は宗像さんだよ。五年経ってそれってことは、和香に相当未練があるんじゃない?」

 すっかり話が終わったつもりでカウンターのノートパソコンを開こうとしていた和香は、指摘されて目を瞬く。そして戸惑い気味に視線をらした。

「そう、なるのかな……」

 語尾を曖昧あいまいに濁しながらも、実際そのとおりであろうことは理解していた。

「もしかしたらまたコンタクトとってくるかも。いくら普段は東京で勤めているって言っても、新幹線を使えば大した距離じゃないし」

 具体的な交通機関を提示され、往復にかかる時間をうっかり計算してしまう。土日を使って行き来するとしたら、全く問題にはならない距離だ。店という場所がある以上、和香は逃げ隠れできない。
 あんなことがあったのだから、もう絶対に総司と関わることがあってはならない。けれど、現実問題として彼が本気で接触しようとしてくれば、それを防ぐ手立てはなかった。
 ホテルを出るときは、とにかく離れなければという一心で総司を突き放すことができた。だが、和香の中には五年を経てもなお消えずに残った彼への愛情がある。
 久しぶりに目にした昔の恋人は記憶の中よりも大人びて、たくましくなっていた。その表情や仕草を頭の中に思い描くだけで、鼓動がひとりでに速まっていく。懐かしさすら覚える恋の感覚。
 愛しい思いを自覚した今、自分はどれだけ毅然きぜんとした態度を保っていられるだろうか……

「和香? 大丈夫?」

 状況の悪さを認識して軽くめまいを覚えていると、有紗が気遣わしげに顔をのぞき込んできた。

「う、ん……ちょっと、まだ驚きから抜け出せてないみたい」

 控えめに言いつくろった和香に対し、彼女はすっと真面目な面持ちになる。

「関わっちゃダメ。……って言うのは簡単だけどね。和香にとっては大切な人だし、実際に顔を合わせたら情に流される部分もあると思う。でも、線引きだけはちゃんとして。不倫するつもりがないなら」
「……うん、分かってる」

 思いやりに満ちたその忠告を、和香は真摯しんしに受け止めた。
 もうあんな過ちを犯してはいけない。呼び戻された恋情がつらい痛みを訴えても、総司をきちんと拒絶する。そう心に決める。
 彼の告白を聞いたとき、なりふりかまわず抱きしめてあげていたなら、互いのぬくもりに幸福を感じることができたのだろう。
 けれど彼の手に指輪がある限り、それは一時的なものに過ぎない。それでは意味がないのだ。
 守りたいから突き放す。そういう選択をすべきところなのだと思う。
 私は大丈夫。
 周囲を見回せば、かたわらには付き合いの長い親友がいて、小さいながらも自分たちの店がある。大好きなアンティークに囲まれて過ごせる今に和香は満足している。
 総司とは二人で幸せに過ごせた時間も確かにあったのだ。その思い出さえあればいい。
 そう自分に言い聞かせようとした和香は、しかしふと親友の薬指に光る指輪に目を留めて、自分の表情が強ばるのを感じた。
 資産家の娘である有紗には、見合いで決められた婚約者がいる。名家同士を結びつける目的の結婚だが、当人同士は幼い頃からの顔見知りで、仲も良好だ。
 和香は思わず、己の左手を押さえた。なにもついていない空白の薬指。
 三十歳を目前にして、結婚に対する焦りは別段いだいていなかった。だがそれは、独り身でも平気だという意味では決してない。恋愛すらままならない今の状況で、その先にある結婚というものを自分とうまく結びつけられずにいただけだ。
 けれど、有紗には、生涯をともにする人がいる。
 ――総司にだって。
 この先の人生、彼らの隣にはずっとその相手が寄り添うのだ。
 嫉妬にも似た孤独感が、唐突に胸に込み上げる。
 不穏にざわつく感情を和香はぐっと呑み込み、ただ黙って左手を握りしめた。 



   回想Ⅰ『はじまり』


 感情を表に出すのが苦手で、上手に人を頼れない。それは昔からの和香の欠点だった。
 三姉弟の長女として育ち、幼いときから我慢することには慣れていた。高校に入学すると、親元を離れて祖父母と暮らすようになったので、周囲をわずらわせないように平気な顔を取りつくろう癖はますます強固になった。
 同世代の友人たちは、年齢を重ねるにつれて自分の世界を広げていく。一方の和香は、本音を閉じ込め、漠然とした孤独をいつも抱えていた。
 思えば、そんな寂しさに気づき、いやしてくれた唯一の存在が総司だったのだろう。
 数多くいる同期の一人だった彼をとりわけ意識するようになったのは、株式会社宗像百貨店に入社して三ヶ月ほどが経ったときのことだ。
 新人研修が終わり、同期たちがそれぞれの部署に散ってしばらくが過ぎた頃。和香は配属された宣伝部で、一日でも早く仕事を覚えようと日々努力していた。
 けれど、自分がほかの同期と違っていたのは、クリエイティブ職という特殊な枠で採用されたという点だった。要するに和香は、外注するまでもない社内のデザイン業務を一手に引き受けるインハウスデザイナーチームに所属することが最初から決まっていたのだ。
 デザイナーチームはほんの数人でチラシ、ウェブ、プロモーションなど多岐にわたる制作物を扱う。そのため、ほかの職種ほど指導は手厚くないし、できることはどんどん任される。丁寧に世話しなくても問題ないと判断されたら、先輩からのフォローだって最低限になる。
 和香は真面目な性格が災いして、与えられる仕事を執拗しつようなまでにきっちりとこなしてしまい、早々にこの新人は大丈夫だと周囲に認識されてしまっていた。
 そうして梅雨の真っ只中に少しの晴れ間がのぞいた日、世話役の先輩からそれは言い渡された。

「倉田さんには基本的な制作業務をひととおり経験してもらったし、そろそろ一人で一つの制作物を担当してみようか」
「えっ……もう、ですか?」

 声音に交じったわずかな狼狽ろうばいの色は、先輩の明るい励ましで軽く流された。

「大丈夫だよ。倉田さんの作ったものはどれもよくできてるし。最初は中吊り広告だから、そんなに難しくないと思う」

 中吊り広告……!
 それを聞いて内心で悲鳴を上げたが、幸か不幸かそういった心情はあまり表に出ない。ほんの少し面持ちが硬くなった程度では、初めて一人で担当する仕事に緊張を覚えているだけだとみなされてもしかたのないことだろう。
 困ったことがあったらいつでも声をかけてくれてかまわないから、と優しい先輩はフォローを忘れなかったが、きっと問題ないだろうという楽観的な信頼が言葉の端々に漂っていた。和香にとっては重いプレッシャーでしかない。

「ありがとうございます……頑張ります」

 頬が引きつりそうな微笑でそう答えて先輩の前を辞すると、お手洗いに行くふうを装ってふらふらと廊下に抜け出した。
 ああ、どうしよう。いや、やるしかないんだけど……
 額に手を当てて煩悶はんもんしつつあてもなくフロアを進む。
 前方の角から長身の男性の影がぬっと現れたのは、不注意な足どりがそこに差しかかるまさに直前だった。
 はっとしたときにはすでに遅く、その人物の白いワイシャツに頭から突っ込んでいた。
 瞬間、森林のような香りがふわりと鼻先をかすめ、他人の体温が間近に伝わる。そのがっしりとした体躯は、想像以上の安定感をもって和香を受け止めた。

「……も、申し訳ありませんっ」

 我に返って数歩引き下がった和香は、謝罪を口にしてから、その相手が同期入社の宗像総司だと気がついた。

「なんだ、宗像君か……」

 思わず出た安堵あんどの台詞はすかさず聞きとがめられた。

「なんだとはご挨拶だな」
「あ、違う違う。ホッとしたの。相手が先輩や目上の人だったら困るでしょう?」

 一応は彼も社長の息子という立場だが、当の本人がそんな肩書きなど存在しないかのようにフランクに振る舞うので、新人研修の間にすっかり同期の輪に溶け込んでいた。そのうえで何事にも動じない頼もしさから、すでに一目置かれる存在になっている。
 和香が早口に言い訳すると、新入社員のくせにやたらスーツ姿が様になっている総司はあっさりと表情を緩め、「冗談だよ」と笑った。それから少し首を傾げる。

「めずらしく上の空だったみたいだが、考えごとか?」
「ああ、うん。ちょっと仕事で……」
「困ってることがあるなら先輩か上司にさっさと相談したほうがいいと思うぞ」
「うーん……まだ困ってはいない、かな。自信がないだけなの」

 苦笑で応じつつ、こういうところの気遣いはやはり会社を経営する側の人間に近い発言だな、と思う。いや、彼の場合は根っからのリーダー気質で面倒見がいいのか。
 そんなことを考えていると、総司が「自信?」と不思議そうに眉を上げた。

「そんな難しい仕事、もう任されてるのか?」

 その声音が真剣な色を帯びたので、和香は慌てて否定する。

「難しい仕事ではないんだと思う。ただ私が苦手っていうだけ」
「なんの仕事なんだ?」
「電車の中吊り広告のデザイン」

 たっぷり十秒間黙考してから彼は口を開いた。

「――苦手なのか? ……あ、俺はデザインの仕事には詳しくないんだが」

 控えめに付け足すが、言いたいことは分かる。
 チラシに比べたら配置する要素は少ないし、プロモーションなどよりもセンスの鋭さは要求されない。新人に最初に任せるには最適な題材だろうとは和香だって思う。それでも。

「デザインのチェックで……赤字が入るでしょう。チラシも同じだけど。フォントを太字に、とか。もっと目立つ色に、とか。そのほうが集客効果が見込めるからだっていうのは理解してるんだけど、せっかく綺麗に整えたデザインが台無しにされてるのを見ると、この仕事にデザイナーって必要なのかな……って思っちゃうんだよね……」

 セオリーが決まっているなら、そのとおり機械的に作成すればいいだけだ。そこにクリエイティブな仕事は求められていないように思えてしまう。

「ごめん。こんなこと言われても宗像君だって困るよね」

 聞かれたからつい答えてしまったが、入社一年目の同期で部署も違う彼には言われたってどうしようもないことだろう。
 一人で話を畳もうとした和香を、しかし冷静な声が引き止めた。

「いや、気持ちは少し分かる気がする」
「え?」
「インハウスデザイナーは、どうしてもデザインそのもののクオリティより売上とかの数字を優先しないといけないだろう? 芸大や美大を出たばかりの新卒じゃあ、そこのバランスのとり方に最初は苦戦してもおかしくない」
「あ、うん……」

 頷きつつ、総司の口にしたバランスという言葉がすっと腑に落ちる。


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