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1巻

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 それに対し、エスカー国の薬師が診療するのは純血のヴァンパイアが大半で、彼らが他種族用に調合するものと言えば、魔物狩りで使う薬品くらいのものだった。ゆえに、ほかの種族の血が混じった患者についての知見が乏しく、ユリアに処方される薬は全く効かなかったり、逆に効きすぎたりして、副作用を及ぼすこともしばしばあった。

「私は身体が弱くて、昔は今よりもっと体調を崩すことが多かったの。なのにエスカー国の薬が身体に合わないものだから、自分で薬を調合できたらいいのにってふと思ったのよ。そうしたら自分の体質に合ったものが手に入るでしょう?」

 魔女の書物の中には、強い薬効を持つ薬草だけでなく、穏やかに体調を整えてくれるハーブなども多数紹介されていた。それらをうまく使いこなせれば、この面倒な体質を少しは改善できるかもしれない。そう考えたのだ。

「でも私がお義兄にい様にねだったのは薬草やハーブの種だけだったのよ? まさかこんな立派な温室まで用意されるなんて思わないじゃない」
「エスカー国は大陸の北部にあって、育ちにくい植物が多いですからね」

 そうなの、とユリアはため息をつきつつ頷く。

「気候のことまで頭が回らなかったのは私が幼かったせいだけど、温室を作ればいいじゃないか、なんて簡単に言い出すお義兄にい様もお義兄にい様よ」
「ベルンハルト様はユリア様のことをたいへん溺愛してらっしゃるようですから」

 屋敷に来て間もないノエルにまで笑い交じりにそう言われ、ユリアは気恥ずかしくなる。
 ガラス張りの構造物を組み立てるには、設計に関する深い知識と、透明で丈夫なガラスを製造する高度な技術が必要だ。それらがどんなに貴重なものか当時のユリアには分からなかったが、そうやすやすと建てられるものでないことくらいは想像できた。
 大変な贅沢を容易に叶えられてしまい、気後れするユリアに、ベルンハルトは言った。

『言っただろう、なにかあったら必ず僕に言ってって。必要なものを用意するくらいなんでもない。だからユリアは、余計なことは考えず、ただ受け取って、嬉しそうな顔を見せてくれればいいんだよ』

 なにかあったら――それを聞いて、そのときのユリアにはふと思い浮かぶものがあったが、口にすることはできなかった。
 本当は、ベルンハルトと二人きりで屋敷に閉じこもるばかりでなく、もっといろいろな場所に出かけてみたかったのだ。
 クニューベル夫妻と義兄の間で交わされるあまたの会話からは、おのおのに職を手にして生きるこの国の人々の姿をほんの少しだけ垣間見ることができた。ユリアはいつもそれをそばで聞きながら、活気に溢れた街の様子に思いを馳せてはわくわくしていた。
 だが、おそらくそんな願いは歓迎されないものなのだろう。魔女の血筋が呼び込みうる危険については、折に触れて何度もベルンハルトから注意を促されていた。
 だからユリアは、外に出ることを諦め、代わりにせっせと温室に通い、植物の世話に励んだのだ。
 はじめは殺風景だった温室の中は、今ではところ狭しとさまざまな草木が生い茂っている。
 それぞれが好き勝手に茎や葉を伸ばすせいで鬱蒼うっそうとした場所もあるが、観賞用の庭ではないため、生育に問題が生じない限り剪定せんていはしないことにしていた。
 ユリアは入り口近くにしゃがみ込み、そばに生えている植物たちを一つ一つ丁寧に観察していく。
 順調に成長しているか。栄養は十分足りているか。病気などにむしばまれていないか。
 毎日していることではあるが、夏が近づいて太陽の光を存分に浴びている草木の成長は一日でもその変化に目をみはるほどだ。
 水やりは庭師が適切な頻度で行ってくれている。ベルンハルトがそう手配してくれたので、非力なユリアが水を運んだりといった重労働をすることはない。
 甘やかされすぎていると思うのだが、ベルンハルトは義妹が必要とする助けをいつも先回りして叶えてしまうので、ユリアは結局甘えるばかりになってしまう。
 ――私にも、なにかお手伝いできることがあればいいのだけれど。政治のこととか……
 黙々と手を動かしながらも、そんなことを思う。
 それはこのところユリアが常々考えていることだったが、いざ義兄を前にするとなにも言い出せなくなってしまう。クニューベル家の一員として役に立ちたいという気持ちは強くあるのに、実際に屋敷を出てなにかをなすことを想像すると、どうしても気後れしてしまうのだ。安全で居心地のいいこの場所に長く引きこもりすぎた弊害かもしれない。自分の軟弱さが少し情けなかった。
 入り口の周辺に植えてあるものを全て確認し終えると、ユリアは立ち上がり、すぐ近くで雑草を取り除いてくれているノエルに視線で合図した。そして温室の奥へと少し移動する。
 そうやって徐々に作業の場を移しながら、草木に挟まれた見通しの悪い道を進んでいくと、やがて視界が一気に開ける。
 ガラス張りの天井から、気持ちのいい日の光が降り注いでいた。温室の最奥にある広場に出たのだ。
 ここだけは、薬草やハーブのほかに観賞用の花も植えていて、中央にはちょっとした噴水もある。水と緑に癒やされるこの空間はユリアのお気に入りの場所だった。
 しかし、噴水の水に触れようと歩み寄ったところで、先客がいたことに気づく。
 噴き出す水のベールの向こう側には、行き止まりのガラス壁が見えていた。その下のあたりでは、ちょうど咲き始めの赤い薔薇がひときわ存在を主張している。それらをそばで愛でていた人物は、人がやってきた気配を感じ取ったのか、くるりと身体の向きを変え、こちらを振り返った。
 緩く波打つ桃色がかった金髪が、太陽の光を弾いてキラキラと輝く。
 すらりとした長身でありながら、女性らしいおうとつがしっかりとあり、どこか妖艶な色気がある――というのは、ヴァンパイアの女性が多かれ少なかれ備えている特徴だが、その中でも彼女はひときわ美しい容姿をしていて、優美な笑顔はまるで女神のようだとまで評されていた。
 フランツィスカ・ウィスカー。
 ベルンハルトの婚約者である彼女は、ユリアの姿を目にしてにっこりと微笑んだ。

「おはよう。こんなところに温室があったのね。知らなかったわ。あなたが世話をしているの?」

 未来の義妹と少しでも良好な仲を築いておきたいのだろう。フランツィスカはいつも気さくに話しかけてくる。
 しかし、ユリアはそれにうまく応じることができないでいた。
 彼女の笑顔に、なにか裏があるような気がしてしまうのだ。そんなふうに感じてしまうのはおそらく、自分が義兄にいだく不適切な感情のせいなのだろう。

「ええ……はい、そうです」

 不自然に強張った声で答え、目を伏せる。
 ウィスカー家は薬師の一族で、幼いときに拒血症を患ったユリアを治療したのはフランツィスカだったと聞いている。命の恩人でもある相手に、不審の目を向けてしまう自分。彼女を前にすると、そんな己の至らなさを突きつけられるようで、どうしても自然に振る舞うことができない。
 今までフランツィスカを温室に案内したことはない。なのに、どうしてここにいるのだろう。
 そこでようやくユリアは、その場にいたもう一人の存在に気がついた。
 フランツィスカから少し離れた斜め後方。ちょうど茂った枝の陰になる位置にいたのは、飾り気のないシャツにベストを身につけた中肉中背の男だった。ヴァンパイアは個人差はあれどみなすらりとした体形をしているので、よそ者はひと目で分かる。だが、その人物はユリアにとって全く知らない相手というわけではなかった。
 植えられている樹木の葉を観察していたらしい彼は、背後で交わされる会話を聞きつけたのか、暗く陰になった場所から出てきて頭を下げた。

「失礼いたしました。どれも立派に生育しているので、つい夢中になってしまいました」

 素朴な顔立ちに人好きのする爽やかな笑みを浮かべるのは、人間の国とエスカー国を行き来している薬の商人である。
 ユリアが育てている植物の種や生育に必要なものは彼に仕入れてもらっていて、先日も新しい種と肥料を頼んだところだった。今日はそれを届けに来てくれたのだろう。と、彼が抱えている大小の布袋に目を向けたところで、フランツィスカがまた口を開いた。

「勝手に温室に入ってごめんなさいね。今日はベルンハルトに用事があって訪問したのだけれど、早く着きすぎてしまって。お庭を散歩しているところで彼の姿を見かけたものだから」

 そう言って商人のほうを手で示す。

「ほら、ウィスカー家は代々薬師をしているでしょう。彼はうちとも取り引きをしていて、懇意にしているのよ」

 要するに、見知った商人が屋敷の敷地内にいたものだから、雑談がてらついてきたところ、温室までたどり着いたということらしい。
 温室自体は屋敷の客人ならば特に出入りを制限していないから問題はない。ユリアの個人的な感情を除けば。

「別にかまいません」

 努めて冷静に応じたつもりが、言葉は思いのほか突き放したように響いて、ユリアは唇を噛む。
 ことフランツィスカに関しては、どうすれば己の言動を正せるのかが全く分からない。十八歳といえばエスカー国では成人で、長の娘にはそれに相応しい振る舞いが求められるというのに。

「それで、今日はこの間頼んだものを持ってきてくれたのよね?」

 やや強引に話を振ったユリアに対し、それでも商人は落ち着いた様子で頷き、二つの布袋を差し出した。
 肥料の袋は大きかったので、背後にじっと控えていたノエルが素早く出てきて引き受けてくれる。ユリアは種のほうの袋を手にとり、口を結ぶ紐を解いた。中には無数の黒い粒が見て取れる。一つ一つが小さくてまばらな形だ。

「ウェグワートは以前にも栽培したことがありましたね? 水はけがよく、直接日が当たらないところで育てるのがよいでしょう」

 詳細な説明は不要だと判断したのか、商人はそれだけを言い、ほかに新たな注文などがないかをユリアに確認すると、さっさと温室を出ていってしまった。フランツィスカをその場に残して。
 てっきり彼女も一緒に立ち去るものだと思っていたユリアは戸惑った。ノエルがいるので二人きりというわけではないが、客人の相手をするのに護衛の彼を頼るわけにもいかない。
 そんなこちらの内心など知るよしもなく、フランツィスカはほがらかに話しかけてくる。

「ウェグワート……というと、ハーブの一種ね。その根から作るコーヒーは体内に溜まった不要なものを排出してくれる効果があるわ」

 植物の名を聞いただけでその効能がすらすらと出てくるのは、さすが薬師を名乗っているだけはある。だが、そんなことはユリアだって知っている。だからこそ栽培しているのだ。
 遠慮なく温室内を歩き回り、ユリアが手塩にかけて育てた薬草やハーブを興味津々に眺める彼女に、なんとなくいやなものが胸に広がる。
 生の葉のほうが日常的な使い道が広がるのでユリアは自ら栽培しているが、ウィスカー家ではおそらく調合しやすい形に加工された状態のものを取り寄せているはずだ。だから、フランツィスカにとってこの薬草園がたいへん興味深いものであることは想像にかたくない。
 だがここは、ベルンハルトがユリアに与えてくれた温室で、薬草は、瘴気しょうきの森の魔女であるユリアの実母にまつわるものだ。なんの関係もないフランツィスカに無遠慮に踏み込まれたくはなかった。
 しかし、彼女はユリアがそんな不快感を覚えていることになど気づきもしないらしい。

「こんなにたくさん薬草ばかり育てているのはなにか理由があるの?」
「……フランツィスカ様もご存知のとおり、私は身体が弱いので、いろんな不調に自分で対応できるようにしているのです」
「そう、えらいのね」

 なんの他意もない言葉だとは思うが、子供を褒めるようなその口振りがかんに障った。
 だがそんな苛立ちはすぐに別のものに取って代わられる。

「薬草のことなら、私も力になれると思うわ。もし分からないことがあったら遠慮なく相談してね。もうすぐ家族になるのだから」
「――え?」

 フランツィスカが、まさに女神のごとく輝く笑顔で告げる。

「ベルンハルトとの結婚を、そろそろ正式に進めようと思っているの」

 用事とやらを済ませ、クニューベル家をあとにするフランツィスカの姿を、ユリアは自室の窓から見下ろしていた。
 彼女を乗せた馬車はすぐに走りだし、やがて門を出て見えなくなった。
 先ほど告げられた言葉が真実であるなら、今日は婚姻を結ぶまでの段取りを相談しに来たのだろう。
 その推測を裏付けるように、ユリアが温室から屋敷に戻ったとき、いつも仕事で忙しくしている父母がめずらしく日中に帰ってきていた。そして、ベルンハルトとフランツィスカを交え、四人は応接間に入っていった。
 こんな日がいつかやってくることは分かっていた。
 なのに今、ユリアの胸はまるで重しを詰め込まれたかのような痛みを訴えている。
 それでも、義兄の結婚はきちんと祝福しなければ。
 ユリアは窓から離れ、部屋を出た。

「お父様たちのところに行ってくるわ。あなたはここで待っていて」

 廊下で待機していたノエルにそう伝え、客人をもてなす応接間に足を向ける。
 一人で階段を下り、目指す部屋が近づいてくると、少しだけ開いたままになっていた扉の隙間から家族が談笑している姿が見えた。
 中は和やかな空気に満ちている。廊下にまで響く笑い声は主に両親のものだ。
 ユリアは扉の手前で一度立ち止まり、深く息を吸った。
 ――大丈夫、笑えるわ。
 完全なる強がりだと自覚していても、心の中で唱えればいくぶん気持ちが和らいだ。
 室内に足を踏み入れると、奥の長椅子に座っていた父とすぐに目が合った。

「おお、ユリア。今呼びに行かせようと思っていたところだ。いい知らせがある。そこに座りなさい」

 ユリアは言われたとおり、空いていた義兄の隣に腰を下ろす。そして家族の顔を見回した。
 向かいの長椅子に腰を下ろしているのは、クニューベル家のあかしたる黒髪とくれない色の瞳を持つ美丈夫だ。その横には見事なプラチナブロンドに青の瞳が神秘的な美女がいる。現実離れした美貌を持つベルンハルトの生みの親、クニューベル家の当主夫妻たるクラウスとコルネリアだ。二人の首には、コントラクトを結んだヴァンパイアのあかしである薔薇のつるのような揃いの紋様が浮かび上がっていた。

「ベルンハルトの結婚が半年後に決まった」

 明るく告げられたその知らせは、覚悟していた以上にユリアを打ちのめした。思いがけず飛び出した具体的な数字のせいだ。それでも、沈んだところを見せるわけにはいかない。

「……それは、喜ばしいことですね」

 ユリアはにこやかに応じ、そっとベルンハルトの表情をうかがった。
 義兄は相変わらずの澄まし顔であったが、特に不服を感じている様子はなかった。
 彼がこの結婚に異論をいだいていないのは知っていたが、こうやって当然のごとく受け止めている姿を目の当たりにするのは、思ってもみないほどに――こたえた。
 つい歪みそうになる表情を気力で抑えつけ、ユリアは懸命に笑顔を浮かべる。

「おめでとう、お義兄にい様」
「ああ。ユリア、ありがとう」

 ベルンハルトがふわりと目を細めて頷く。
 自分に向けられるその微笑みは常となんら変わりはない。なのに、ひどく遠いもののように感じられた。
 じわり、と涙がにじみそうになり、急いでまばたきで散らす。それでもほんの一瞬吐息を震わせてしまい、焦って周りに視線を走らせた。だが、そのときにはもう、誰もユリアになど注目してはいなかった。
 美しい母は、息子の結婚という喜ばしい話題にすっかり夢中のようだ。

「婚礼についてはウィスカー家とも相談するとして、私たちが準備しておかないといけないのはフランツィスカさんのお部屋ね。どんな内装にするのがいいかしら」
「ウィスカー邸のフランツィスカの部屋は女性らしく優美に整えられていますよ。母上の私室と雰囲気が似ているので、好みが近いのでは」
「なら、私の趣味で壁紙や調度品をある程度選んでしまっても問題ないかしら。もちろんあなたも手伝うのよ、ベルンハルト」
「分かっています」
「部屋はどこを使うんだ? 夫婦の部屋は内扉でつながっていたほうがいいだろう。お前の部屋も一緒に西翼に移したほうがいいんじゃないか」
「そうですね」

 クラウスとコルネリアがあれこれ検討事項を挙げるのに対し、ベルンハルトは淡々と、それでも面倒くさそうな顔は一切せずに応じている。当たり前だ。自身の結婚なのだから。
 ユリアはその様を見て虚しくなった。
 おめでとう。その一言を口にすることは、ユリアにとって多大な苦しみを伴うことだった。だが、その内心に気づく者はこの場に誰一人としていない。
 悟られぬよう振る舞っているのだからそれでいい。なんの問題があるだろう。
 でも――普段のお義兄にい様なら、見抜いたはずだわ。
 いつも目敏めざといくらいにユリアの変化に鋭い義兄。なのに、今回に限ってそれを見過ごしてしまうのは、彼にとっても己の婚姻は義妹など目に入らないくらいの重大事だということだろうか。

「婚姻、すなわちコントラクトは、ヴァンパイアの生涯において最も重要な儀式と言っても過言ではないからな。つつがなくり行えるように準備はなにを置いても最優先で進めておきなさい」

 まるでユリアの心を読んだかのようなタイミングでクラウスが言う。
 ――そのとおりだわ。
 優しい義兄はいつだってなによりも自分を優先してくれたから、つい甘えてしまいそうになる。
 だが、ユリアだってもう成人したのだ。大人にならなくては。
 そうやって己を律しようとしていたユリアは、しかしそこで一つのことに思い至る。
 フランツィスカという婚約者がいても、これまでベルンハルトの一番近くにいたのは自分だった。だが、彼が結婚して、フランツィスカが屋敷に移り住んでくれば、その立場を明け渡すことになるのだろう。
 そうなったら、義兄の関心も、妻となった女性に移っていくのだろうか。ちょうど今、彼の注意が別のものに逸れているように。
 夫が義妹より妻を大切にするのはきわめて自然なことだ。義妹を優先するほうがどうかしている。
 なのに――ベルンハルトの心が自分から離れていく。これまでユリアに向けられていた微笑みが、いずれはフランツィスカのものになる。そんな未来を想像しただけで、ユリアの胸は引き裂かれそうなほどの痛みを覚えた。
 笑っていたはずの表情が、徐々に硬くなっていく。それを自覚する。
 ダメだ。こんな身勝手な感情で、家族の祝いごとに水を差すわけにはいかない。
 笑わなくては。きちんと会話に参加しなくては。
 しかし、顔も口も、強張ったように動かない。

「どうした? ユリア」

 優しい声に、はっとした。
 視線を横に移すと、ベルンハルトが心配そうにこちらを見ていた。その瞳の奥には温かな慈愛がこもっている。

「体調でも悪いのか?」

 ――気づいてくれた。
 たったそれだけのことで感極まってしまいそうになる心を、ユリアは懸命になだめた。

「――そ、そう。ちょっと、頭が痛くて……」

 その場しのぎに口にした言い訳のせいでクラウスとコルネリアまでこちらを向いてしまい、ユリアは慌てて両手を振った。

「大丈夫よ。ちょっとだけだから。少し休めば治るわ。だから、その……私は部屋に戻るわね」

 硬直した喉からようやくそれだけを絞り出し、そそくさと応接間をあとにする。
 がらんとした長い廊下に、ユリアの心の動揺を表すような乱れた足音がどこまでも空虚に響き渡った。
 どうして平気なふりを最後まで貫けなかったのだろう。自分の反応が受け入れがたかった。
 愛する義兄が別の女性と結ばれることが、それほど悲しかった?
 自分への愛情が薄れることが、それほど不安だった?
 なのに、温かな気遣いを向けられて嬉しいと感じてしまう自分が惨めだった?
 だが――そんなことは、前々から覚悟してきたはずだ。
 現実と向き合わねばならない日が、とうとうやってきた。それだけのことなのに。
 胸が痛くて、無性に泣きたかった。
 早く自分だけの空間に引きこもって、誰にも声が届かないところで気の済むまで涙を流したかった。
 ユリアは感情に駆られるまま歩調を速めようとしたが、自室の前にノエルがいることを思い出し、立ち止まった。
 こんなただならぬ様子で戻ったら、きっと心配させてしまうだろう。
 胸に手を当てて深く呼吸し、千々に乱れる心をなんとか鎮めようとする。
 背後から呼び止められたのは、そのときだった。

「ユリア」

 声を聞いた瞬間、ぎくりと全身に緊張が走る。
 ――どうして追いかけてきたの。
 ぴたりと足を止めたまま、ユリアは振り返ることもできずにその場に立ち尽くした。
 今は顔を見せられない。表情を取り繕っている余裕がないのだ。
 こっちに来ないで。
 そんな胸中の祈りも虚しく、落ち着き払った彼の足音はすぐに真後ろまで近づいてきた。

「頭が痛いって、本当に大丈夫なのか? 朝食のときはなんともなさそうだったのに」

 回り込んで正面に立った彼が顔を覗き込もうとしてきて、ユリアは咄嗟にうつむいた。
 心配して来てくれたのだ。自身の結婚に関する相談を中断してまで。
 その思いやりが胸にじんと沁みて、また切なくなり、目元に涙がにじむ。熱い水滴がこぼれそうになって、ユリアはぎゅっと目を閉じた。今なにかを口にしたら、声が震えてしまいそうだった。
 下を向いたままなにも言えずにいると、慈しむような手付きで後頭部を撫でられ、ユリア、と温かく名前を呼ばれる。
 それから少し躊躇ためらうような間を空け、彼は切り出した。

「……本当は、僕の結婚がいやなんじゃないのか」

 ぴくり、とかすかにユリアの肩が揺れる。そして内心で狼狽うろたえた。こんなあからさまな反応を示す愚か者がどこにいるだろう。
 今さら違うとは言えなくて、しかしいやな理由を問われたとしても困ってしまう。
 一体どう言い訳したら――という苦悩は、すぐに無用のものになった。君の気持ちは分かっていると言わんばかりの口調でベルンハルトが続けたからだ。

「ユリアはずっと僕と一緒だったからね。僕をとられる気がして寂しいんだろう?」
「え……?」

 その指摘は、まさしくそのとおりのはずだった。なのに、ユリアは強烈な違和感を覚えた。
 思わず顔を上げると、ベルンハルトは微笑んでいた。微苦笑と言ったほうが近いのかもしれない。どちらにしろ明らかなのは、彼がそのことをさほど深刻に捉えていないということだった。
 二人の間に横たわる認識の落差に、ユリアは愕然がくぜんとした。
 この苦しみは決して、寂しいなんて生易しいものではない。
 寂しくて、悲しくて、つらくて――痛い。


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