花懐古

柚木音哉

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6.落ちて来た娘(清十郎)

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 生れながらに人ならざる者を視て、その血脈に受け継ぐ特殊な力を持った男は、空から落ちて来た娘を前に思案していた。


 先日初めて出会ったばかりのこの娘の名は、一ノ瀬春花と名乗った。
 一ノ瀬と言う姓はこの辺りでは耳にしたことが無い。
 この娘が歳は十九になったばかりと本人に聞いた時は意外に感じたものだ。長い睫毛に覆われた瞳は垂れ目だが大きく、鼻も小造りながら通っていて、唇はぽってりとしている。女としては美しい顔立ちだが、同時に少し年齢より幼く見えたからだ。
 細く背の小さい華奢な身体を包むのは、奇妙な形の白くて薄いぴったりとした上衣と、ひらひらとした紺色の腰巻のようなもの。膝から下は脹脛ふくらはぎからきゅっとしまった足首まで丸見え、それどころか受け止めた時は柔らかな腰巻が捲れあがり、生っ白い太腿も見え隠れしていた。腕も肩口までほとんど見えていたから、始めは商売女かと思った程だ。

 暫くは黙って娘を観察していたが彼女は混乱していて、自分の置かれた状況が上手く飲み込めていない様子だった。幸い、その時は乱心してぎゃあぎゃあと取り乱すようなことも無く、心底安堵したのだが、自ら面倒ごとに巻き込まれてやるほど、俺は暇な身では無い。そもそも面倒事が大嫌いだ。
(ついでに言えば、面倒くさい女はもっと嫌いだ)
 最初はこの娘を放り出して帰るつもりで居たが、何故あの時それがそれが出来なかったのか、自分でも分からない。
 彼女について特筆すべき特徴は、その特異な霊視の力だ。この世界では霊能者は希少で、その力次第では要職に就いた事例もある。視える人間は珍重されるのだ。彼女が怨霊と化した女に身体を乗っ取られかけた時、視えているばかりで祓えないのだと気付いた。或いは、まだ対処法を知らないのか。

 怯え震えるその仕草が演技では無く、本物であったから、そして、人間味のあるその感情や表情の豊かさに、俺は興をそそられたのかもしれない。
 面倒な女は嫌いなはずの、俺が。
 出会って数刻も経たぬが……しかしまあ、驚いたり怯えたり、哀しげな表情を見せたりと忙しない女だ。

 万事控え目な女しか見たことが無い俺自身が、彼女に興味が湧いて、俺は春花を助けてみることにした。

 数年前から少しずつだが、ある大名の台頭により争いが減りつつあるとは思っている。しかし、この世はいまだ戦乱の渦中にある。俺は他国の間者(スパイ)は常に出入りしていると見ている。だから、春花のことも最初はその線でも疑ったが、彼女は自分がどこに居るのか、ここはどこなのかもやはり把握出来ずにいたようで、ここが花菱と言う国の不知火(しらぬい)と言う領地であると説明すると、驚いた表情で「ここは日本では無いのか」と何度も訊ねられた。
 俄かには信じ難いことが起きたのは確かのようだ。 

 最初はそんな風に、俺はまだ異なる世界から来ただとか信じて居らず、世迷いごとかと思っていたが、例え理解し難いことであったとしても、自分自身の目の前で起きた出来事を無かったことには出来ない。
 それも、自分の腕の中に。
 空から落ちて来た美しい娘。

 これは何の因果なのだろうとも思うが、この娘が空から突然落ちて来たことには、何か意味があるのだろうと結論づけた。

 







「っ清十郎さまぁぁぁ」

 今日も涙目で鼻水も出そう……いや、出ているのか?凄い顔をした春花がこちらへ走って来る。髪を振り乱して、それでも真っ直ぐに向かって来る様は、一心不乱に駆ける仔犬でも見ているようだ。
 美しい顔をしているのに、涙でぐちゃぐちゃになったそんな必死の形相で走って来る様子は、仔犬のそれでは無いが。
「……あんた、また連れて来たのか。懲りぬな」
「わ、私だって……視えなかったら大丈夫なんですよ? 視え無かったらね! でも、今の私にはフィルターがわりの眼鏡が壊れてるから不可抗力なんですっ!」
「……ふぃるたーとは何だ?」
「フィルターって言うのは……っひぃぃぃ!」
 駆け寄って来た春花が俺の背に回り、ふいに着物越しの背中に柔らかな感触を感じて、俺は驚いて背後を見る。怯えた様子の春花がぴったりとくっつき、震えながら目を瞑っている。

 そんな風に、俺に頼ってくれるのなら、あんたを守ってやってもいい。
 彼女が俺に頼ってくれているということが、そう悪くは無い気がした。


 俺の力は、視ることが出来るだけでは無い。それは、生まれながらのもので、それらを力の弱いものなら一瞬で霧散させる力がある。世間では浄化だとか、調伏ちょうぶくだとか言われるものだ。
 視える者には強力な武器となる力だが、視えない者には脅威的な力のように映るらしい。
 怖いだとか、恐れられていることは多々あった。
 だから、そんな風に見られることは慣れている。しかし、この女のように好き好んで俺に、しかも、全身を預けるほど頼られるということは生まれてこの方無かった。

 怯えた小さな身体を片手で引き寄せ、もう片方の手を突き出した。
『…――!!』
 声無き声をあげ、春花を追って来た靄が目の前で霧散していく。

「……終わったぞ」

 暫くの間無言で抱き締めたその暖かく柔らかな身体を、俺は何故か惜しいような気持ちになりながら離すと、春花の様子がおかしい。

「なんで……泣くんだ」

 春花はポロポロと涙を流して泣いていた。いつものあれらに追われている時のような泣き方でも無く。
「…っ強く……なりたい」
 小さな声がそれだけを紡いで、唇を閉じた。

「そうか」
 己の無力さに打ちのめされることは、誰にでもあるだろう。それは時に権力であったり、金であったり、人との繋がりであったりするだけだ。彼女の場合は、この特異な霊能力なだけで。 


 気付けば、春花の頭をそっと撫でて、腕に引き寄せて再び抱き締めていた。

 春花の身体からは、いつも良い香りがする。

 その小さな身体一つで、この世界に放り出された彼女を、誰が支えてやれるのだろう。
 もし、彼女を救う手があるのなら、俺はそれになっても良いと思った。

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