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29.色を重ねていきますよ。

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 膠を厨房の端を借りて煮溶かし、それを少し高そうなポットのようなものに移すと、美月はその陶器製の容器と水を容れた筆洗代わりの大きな皿を持って部屋に戻った。
 部屋に戻る途中の広い廊下には絨毯が敷き詰められているが、すっかり冬の陽気になったベルンシュタインでは足先からしんしんと冷たくなっていく。
 窓の外を見れば、ちらちらと白いものが空から舞い落ちていた。

「……雪……」
 白い息混じりに呟く。

(そう言えば、この世界に初めてやって来たのも手が悴むくらいに寒い日の夜だったっけ……)
 邸の中だと言うのに、今日は冷え込む。
 早く暖炉の火を焼べてある自室に戻ろうと、足を速めた。

 部屋の中に入り、膠と水の入った皿を制作途中の絵の脇に置くと、美月は布を重ねて作った座布団擬きの上に横座りになって絵を眺めた。
 絵の全体の雰囲気を見る為、その絵は離れた壁に立て掛けてある。
 座ったまま絵を眺め、美月は溜息する。
「……レオン」
 背景はあれから何度か群青と薄い紫、それから白緑が柔らかく塗り重ねられ、寒色の割に柔らかな雰囲気になっている。人物部分はスケッチブックに木炭で描いたスケッチを見ながら、少しずつ背景から描き起こしている途中だ。

 絵の中のレオンハルトは、いつも口元に優しい笑みを浮かべている。

 ヘリオスが美月の元へ立ち寄った日を境に、レオンハルトの姿を邸の中で見かけることが極端に減っていった。
 彼の従兄弟ローウェルが隣国へと旅立って以後、その隣国アルスラはどうも大変な災害が起こり続けており、陸地の国境を接しているこのオーレリアへは難民が押し寄せているのだそうだ。当然、この国の宰相であるレオンハルトは大忙しで、王宮に仕事漬けで連日泊り込みをしていてベルンシュタインへは帰って来ない。
 ポルトレバースの別荘であったあれやこれやは、美月の中に波紋を投げかけてはいたが、一緒に過ごした数日間はとても楽しかった。
 しかし、どうしてもあれから考えずに居られなくなってしまうのは、レオンハルトの真っ直ぐな告白が耳に……脳裏に焼き付いているからだ。

(私、どうしたらいいんだろう?)
 今回は今までみたいに仄めかすとかそんなレベルでは無い。あれだけ逃げ場も無いくらい直球で、はっきりとした告白をされたら、自分もきちんと向き合わなければ相手にも失礼だと思う。
 だからこそ、悩んでいるのだ。

 一度目の来訪で、彼が美月に想いを向けてくれていた時、年の差や身分を気にしていたのもあるが、彼の気持ちに真っ直ぐに向き合うことが出来なかったのは、一番に自分に自信が無かったことも関係していると思う。

 あちらの世界での私は地味で、その他大勢の中の一人で、恋愛だとか彼氏だとか、そんなものは面倒なだけだと思っていた。
 今はどうだろう?
 もう一度こちらの世界にやってきて、それから自分の考えはどう変わっただろう?

 レオンハルトに好きだと言われて、嬉しいのに……彼のことを考えて、こんな風に気持ちが切なくなるのに、どうして後一歩を踏み出せないんだろう。
 後、たった一歩を踏み出せば、きっと彼はその手を握ってくれるのに。
 それも、あの言い方ではまるで――まるで、結婚だとか将来を考えているような言い方だった。自分を彼の隣りにと望んでくれる気持ちは、本音を言えばものすごく……嬉しい。嬉しいのに、怖い。

 勇気が無い。

 その手を握る勇気が。

 自らを卑下するなとレオンハルトは言ったが、美月は絵を描いている時以外で生活は常に質素に地味に、目立たないように生きて来たのだ。
 その自分が、レオンハルトのようなハイスペックな男性に求愛されたからと言って、すぐに変われる訳も無い。だから、こうしてまだウジウジ思い悩んでいる。


 ――そんな美月の中で、最近は変化が起こっている。
 腰まである艶のある黒髪は、あちらの世界にいる時にはぞんざいに括られているだけだったが、徐々に見た目にも気を遣うようになり、今では美しく結い上げられているし、着ている服も男物の黒づくめの味気ない衣装から、レオンハルトが褒めてくれたドレスを好んで身に付けるようになった。
 それは些細な変化ではあったが、確実にレオンハルトが美月の考え方に変化を与え始めている証だ。


 美月は立て掛けたパネルを床に寝かせ、小さな絵皿を取ると、小瓶の中から小指の先ほどの水浅葱みずあさぎを取り出し、膠液を垂らして中指で練る。ぐりぐりとその指先に絵の具の粒子が感じられ無くなるほどしっかりと練り混ぜ、水を少しずつ加える。
 膠独特の匂いが絵皿から微かに漂い鼻先を掠める。
 穂先を濡らした隈取り筆で水を塗り、そのまま隈取り筆を口に咥えたまま、細い平筆でレオンハルトの瞳の部分をゆっくりとぼかしながら塗っていく。
 美月の好きな、彼の青い瞳。
 瞳に色が入るとその絵に少し生気が入ったように感じられる。

 長い睫毛に縁取られた彼の青い瞳を思い出し、美月は再び溜息した。

 もうどれくらい、この青い瞳を見ていないだろうか?
 茶色味がかった自分の瞳とは違う、透き通るような青い瞳。自分を真っ直ぐに見つめてくる時、その瞳が潤んで、美月の瞳を捕まえる。
 二十日……いや、別荘から帰って来てすぐに忙しくなったから、もう、かれこれひと月近くはまともに彼とは話すらしていない。

 なんだか胸が苦しい――などと、乙女みたいな台詞が口を突いて出てしまいそうだ。

 画面の中のレオンハルトには毎日向かい合っている。描いている間は無心だけれど、ずっとこの場に居ない彼のことを頭に思い描いているのだから、結局は彼のことばかり考えているということになるのかもしれない。
 この所、美月は溜め息ばかり吐いていることを、本人だけが気付いていなかった。

 指先を拭うと、絵の中のレオンハルトの上にそっと手を置く。
「……会いたい、な……」
 息遣いなど感じる訳も無いのに。




「……綺麗な色ですね」

「ふぁっ?!」

 思わず変な声が出てしまったのは、そこに居るはずの無い人物の声を聞いたからだ。
「美月、不用心ですよ。リーリアに先触れさせたのですが、また随分と集中していたみたいですね」
「れ、れれれれレオン?! い、いつから?!」
「……さぁ? いつからだと思います?」
 美月が口をパクパクと開けたり閉めたりしているのを、彼は楽しそうに目を細めて見ている。
「……今じゃないの?」
「そちらの筆を口に咥えて、そっちの青色を――」
「!! ま、待った! わかった! それ以上は良いです!!」
 つまりは、私が溜め息をつきながら画面の中のレオンを撫でていたりだとかしたのを、更には「会いたい」とか呟いちゃったりしたのを、本人がずっと見ていたと?!

「筆を口に咥える人なんて、初めて見ましたけど、なかなか……煽情的ですね」
「なっ?! こ、これは結構やる人いるの! わっ……私だけじゃ無いから! 日本画だとぼかす時にこの筆使うから」
 美月が慌てて言い募ると、レオンハルトは何故か更ににこにこと笑みを浮かべる。
「……そうなんですか。でも、きっと僕がそう感じるのは君だからでしょうね」

「!!」
 軽口を叩くようにそう話す彼を、美月がぽかんとして見たが、レオンハルトはただ穏やかに笑っている。

 この時になって初めて、美月は彼の顔をまじまじとまともに見た。
(また少し……痩せた?)
 元々細身の彼は身体の線が更に細くなったように見える。疲れているのか顔の肉が削げ、瞼も重そうだ。
「……レオン、おかえりなさい。大丈夫? 疲れているように見えるけど……」
 美月が少し痩けたその頰に手を伸ばすと、レオンハルトの手がそっとそれを掴んだ。
「ただいま戻りました。長く、留守にしてすみません。困ったことは……ありませんでしたか?」
 その手にそっと頰に寄せられ、甘やかさの滲む視線を絡めながらそう尋ねられると、美月は瞬間湯沸し器にでもなったかのようにパッと真っ赤になった。

 この世界の人間は、何故こうもスキンシップを取りたがるのだろうか? それとも、レオンハルトだからだろうか? 
 あちらの世界の、まるで外国の映画みたいなこういったシチュエーションにはどうしても戸惑ってしまう。日本人らしく、それでいて奥手な部類に入る美月にはどうにも刺激が強く、恥ずかしいと言う気持ちが優ってしまうのだ。
 しかも、この美しい顔を見るのは久方ぶりで、抑えようにも勝手に鼓動が早くなっていく。
「美月?」
「……っ、なっ……何にも。大丈夫っ……です……」
 不自然に言葉を噛んでしまったことに更に焦りながら、レオンハルトは美月の綺麗に結い上げられた髪をさらりと撫でた。

「……可愛らしい髪型ですね。貴女は女性らしい格好をあまり見せてくれなかったから、なんだか嬉しいです」

「……レオ、ン? やっぱりいつもと様子が違う気が――」
 レオンハルトの様子があまりにも終始穏やかで美月が不安になった時、レオンハルトの身体が傾いだ。


「――レオン!!」



 
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