あをによし ~年下宰相様は日本画家の地味系女子にご執心です~

柚木音哉

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24.骨描きしましょう。

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「…………ふぅ」
 床に直接座り、息を吐いて、美月はゆっくりと墨を擦る。溜まっていく黒い液体の表面がゆらりと揺れるのをぼんやりと見つめながら。

 下絵を写して、骨描こつがきと言う本画に下絵を描いていく作業がある。その骨描き為に、墨を擦る作業が美月は好きだった。
 静かな気持ちでゆっくりと手を動かしていると、墨の匂いと相まって気持ちが落ち着くような気がするのだ。

 以前こちらの世界に来た時、存在を危惧していたが、この世界にも幸い墨は存在していた。その昔、この世界にやって来た――話を聞くと、恐らくは中国の昔の客人まれびとが遺したものらしい。
 ――問題は、その骨描きをする前の作業だった。

 裏に木炭と濃い鉛筆を擦り付けたレオンハルトの下絵の紙を本画制作の前に大体の位置を決めて固定し、予め水張りしておいた紙の上から竹ペンでなぞると、パネルの紙に下絵が転写される。念紙の上から書いたようには色濃くは写らないが、目安が付けやすくなるのでやらないよりやった方が、墨で描く骨描きをしている中での失敗が少ない。

(今後この作業をするには下絵を本紙に写す為に鉛筆を使わずに出来るようにしなければならないなぁ……)

 念紙はカーボン紙のように、下絵を本画に写す時に使うものだが、自作するなら薄美濃紙に日本酒と顔料、膠を少し混ぜたものを塗って乾かした後に少し揉み、竹ペンなどでなぞると下絵の線が本画に写しとることが出来る。薄美濃紙は近年貴重だが、こちらには同じものは当然無い。その上、こちらの世界には日本酒も無いので、紙も日本酒も他のもので上手く代用出来るか試してみなければならない。
(この先も……)

 この先も、この世界で絵を描くのなら、こちらの世界でも出来る方法を考えなければ。

 そう考えて、ふと気付いた。

 『この先』を考えている自分がいる。

 絵を描く時にする、一つ一つの準備作業も美月は大好きだ。わくわくする。
 その楽しい気持ちのまま、自分が将来のことまで何の疑問も持たずに考えていることが、不思議だった。

 ここは、美月の居た世界では無い。
 それなのに、この先をこの世界で生きることを自分は――望んでいる?

 そこまで考えて、我に返った。

「――!! 集中、集中……」
 下絵を写した線を墨を含ませた骨描き筆でなぞっていく。
 ここまで来たら無心で描くしかない。
 筆先に神経を集中させ、時折梅皿に薄めた墨で濃淡をつけ、口にもう一本咥えた隈取り筆も時折使いながらするすると描いていく。
 無音の部屋の中、微かな紙の音と美月の部屋の外の枯れ葉が、カサカサとした乾いた音を立てているのが聞こえる。

 息をつめて、画面に覆い被さるようにして、無言のまま画面に向き合う。

 出来上がりの小下図は下絵の横にある。
 しかし、美月の頭の中には、もう完成したもののイメージが明確に出来ている。

 美月が一番好きな彼の笑い方をしている彼を描きたいのだ。
 肖像画と言うと、あまり笑っている男性が描かれたものは無いように思うから、美月が描こうとしているものが、果たして彼の言う肖像画に適うか分からない。
 だけど、美月が描きたい彼はこれなのだ。

 画面に覆い被さったまま、日が傾いていく。少しずつ部屋が薄暗くなり、肌寒くなっていることに気づいた時には窓の外は夕焼け色に染まっていた。

「……描けた」
 ゆっくりと起き上がり、骨描きの終わった画面を見ながら、美月が息を吐く。

 畳の上で描くのとは違い、膝頭が痛い。背中と肩も痛くなったが、上手く描けたようだ。
 首をこきこきと回し、手をぐいっと天井に向けて伸ばすと縮こまった身体がようやく人心地ついた。

 朝食をとった後からずっと描いていた下絵が全て完成した。
 ここまで来ると、この後の色塗りが楽しみだ。

「美月」

「え?! あ、わわわっ!」
「危ない!」
 突然背後から声をかけられて、美月は驚いて立ち上がろうとした。が、立ち上がる前に痺れた足に力が入らず、転びそうになってしまった。
「あ、ありがとう。レオン……え、えへへ……足痺れちゃった……」
 咄嗟にレオンハルトが美月を支えて、事無きを得ると、彼女は照れ笑いをしながら自らの身体を支える腕の主に礼を言った。
 文武両道を掲げているルーデンボルグ家の当主の腕は、自身は文官でありながら、意外とがっしりとした硬い腕をしている。
 抱え込まれてから、間近にふわりと彼の匂いを感じて、どぎまぎした。

 昨日の今日でこれでは落ち着かない。
「ああ……気をつけて。夕食の準備が出来たから一緒にと思ってね。呼びに来たんです」
 しかし、今日のレオンハルトはまるで何事も無かったかのように、すっと僅かに身体を退いた。
(あ……れ……?)
 笑顔を浮かべ、美月を見つめる表情はいつもと同じように見える。
「ノックはしたんです。君がまだ絵を描くのに集中していた様子だから、少し入り口で待っていたんですよ。急に声をかけて驚かせたね」
 柔らかな声だ。これも、いつも通り。
 だが、何かが違う。

 昨夜のことを美月は気にしていた。それこそ、気がそぞろになるくらいには。


 朝食はいつも通りに二人でとった。互いに昨夜のことには触れず、レオンハルトはいつも通りに見えた。
 あまりにいつも通りだから、昨夜のことは夢だったのでは無いかと疑ったくらいだ。

 色々と思うところはあったが、気まずくなりたい訳では無い。
 やり場の無いモヤモヤを抱えたまま、たわいのない会話をして、美月は朝食を食べてすぐに逃げるように下絵を写す作業を始めたのだ。
 レオンハルトのことを避けたい訳ではなかったが、今は正直どんな顔をすれば良いのか分からず、あまり会いたく無かった。
「どうしました? ずっと描いていたんでしょう? お腹空きませんか?」
「レオンは……」
「はい?」
 彼は笑っている。でも、笑っているのに笑っていない。
 きっと怒っているのでは無いのだと思うけども、その笑みがいつもとは少し違う気がして、美月は戸惑っていた。
 その瞳の奥を覗こうと、美月が青い瞳を捉えると、レオンハルトが見つめ返して来る。

 その青い瞳の奥にあるものを覗き込もうとしたのは美月なのに、まるで美月の瞳を絡めとられるように、レオンハルトが見つめている。

 
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