あをによし ~年下宰相様は日本画家の地味系女子にご執心です~

柚木音哉

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10.君が喚ぶから。

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「名塚さん、今から帰り?」

 美月は、大学院に進んでいた。
 日本画の専門知識を更に深める為だ。

 実習棟のある建物は、大学の最奥にある。赤い煉瓦造りのレトロな建物は、美月の好きな中世の街並みを思い出させ、時折胸が軋む。

 日本画教室のある、その実習棟を出た所で声をかけて来た男性は、同じ日本画専攻の同級生の五十嵐浩介と言う。
 この所、美月によく声を掛けて来る男だ。

「名塚さん、今回のテーマのモチーフ決まった?」

「うーん……まぁ」

 腰まで伸びた長い髪をゆるく巻いて綺麗に纏め上げ、薄っすらと控え目な化粧を覚え、ぴったりとしたスキニーに白いストレッチシャツ。ロングカーディガンを着たラフな姿の美月は、すらりとした容姿も相まって雑誌のモデルのようだと言われる。
 元々スレンダーで華奢な体型ではあったが、女らしく無いと卑下していた彼女の見た目は、三年半余りの時を経て大人の女性へと変わっていた。

「名塚さんさ、今度一緒に長谷川教授の個展見に行かない? 来週から始まるってやつ。名古屋であるでしょ?」

 大学を卒業後、大学院に進んですぐ、同じく日本画を専攻する彼とは言葉を交わすようになった。美月も控え目な容姿だが、彼もあまり目立つタイプの人間では無い。ただ、美月とは同じ日本画を専攻していて、考え方や学び方に共通点があるので、よく話をする。
 美月にとって、そこまで親しい間柄とは言えず、友人とまではいかないので、良く話をする同級生の一人という認識だ。美月と同じ日本画専攻をしている同い年の女性の友人も何人か居るので、それは度々のことでは無いが、時折授業や帰宅する時間が重なると、こうしてたまに彼から話しかけて来る。
 名古屋まで一緒に出かけるとなると車或いはバスを使うか、新幹線を使うかすることになるだろう。

 どちらにせよ、かなりの時間を二人きりで過ごすことになる。

「……考えておくね」

 彼の自分に対する様子がこの所、少し変わって来ていることに、美月は気付いていた。

「……それってさ、やっぱ俺と二人きりは無理ってこと? 遠回しに断わってる?」
 来た。
 何となく、彼が自分に好意を抱いてくれているような気がして、最近はあまり彼と話す機会を作らないようにしていた。講義の最中や、美術史のスライドの授業で薄暗い教室の端に座っていても、スケッチで学外に出掛ける時も……じっと、美月の動きを追うように絡む彼の視線を感じていた。意識すれば、気になるのが常で、居心地の悪さと同時にその視線に灯る仄かな熱と擽ったいような奇妙な甘さに引きづられて、苦くて「恋」と呼べるのかすら分からない、あの想いを思い出してしまう。
 四つ年下の、彼のことを。
 だから、避けていた。

 今も、時折胸が痛むのは、良く無い別れ方をしたからだ。それも、自分の考え無しの言葉のせいで。

「……うん。ごめん、五十嵐君。二人で行くのはちょっと……」

「――俺、名塚さんのこと、好きなんだけど」

 美月の足が止まった。
 斜め後ろに立つ、彼の方へ振り向く。
 少し長めの黒髪に眼鏡をかけた青年は、美月の方を真っ直ぐに見つめている。

 大学と大学院の合同制作展の時期が、また近づいていた。日が暮れた校内は、所々教室の明かりが灯ってはいるが、もう夜の八時を回っているので、人影はまばらだ。美月や彼を含めて数名しか残っていないだろう。
 冬が近づくこの季節には、木枯らしが身に染みる。大学三回生の、あの季節が近づく。

「……ごめん。私は今、そういうの、考えられない」

 迷いなく答えた美月に、五十嵐は困ったように笑った。
「付き合ってみて、それから好きになったりするかもとか……そういう可能性も……無い?」

「ごめん」

 五十嵐の顔が、少し寂しそうに歪んだ。
 けれども、やはり自分が彼の想いに応えられる気がしなかった。

 何故なら、美月の中にはまだの面影が残っているからだ。

 寂しそうな顔をした五十嵐を見ても、まず最初に思い出してしまうのは、傷付いたような顔をした、天使のように綺麗な顔立ちをした少年の姿を重ねてしまう。当時十七と言う、年齢の割りに大人びた言動とは裏腹に、まだあどけなさが残る容姿の彼のことを。
 青い瞳に見つめられて、胸が騒いだ冬を思い出す。


 レオンハルトの後ろ姿を見送った後、自らの言動で彼を傷つけて深く後悔したあの日――あれから、泣いて泣いて泣き疲れて眠ってしまった。

 翌朝、美月が目覚めると、何故か大学の日本画科の教室の、畳の上に倒れていた。知らぬ間に自分のいた世界に戻っていたのだ。
 守衛のおじさんにも挨拶をして、大学の門を確かに出た記憶はある。でも、その後大学へ戻った覚えは無い。それなのに、翌日の大学の日本画教室に居た。
 日付は翌日に変わっているだけで、あちらの世界に召喚されて過ごしたはずの数ヶ月の時間は、まるであれが全て夢だったみたいに、ごっそりと抜け落ち、初めから無かったことになっていた。

 ――もう一つ、おかしなことがある。

 美月が制作展に向けて描いていたはずの自画像が、忽然と消えていた。そして、描きかけの自画像の代わりに美月の目の前にあったのは、描きかけのレオンハルトの肖像画だった。

 自分が抱き締めたまま、この世界に持って来てしまったのだろうか?
 全てが無かったことになった訳ではなく、この世界では無いあちらの世界で、彼は確かに存在していた。その証は、美月の腕にしっかりと守るように抱えられて今、この世界にある。



「忘れられない人がいるから……」

 自分が、レオンハルトを恋愛対象として好きだったのかはわからない。ただ、彼を傷つけて、自分も傷ついた。その上、そのまま仲直りもしないで別れてしまった。だからこそ、今も後悔が胸を苛むのだ。
 忘れられない人……そんな風に、五十嵐に言ったのは、今も尚、彼を思い出して感傷的になり、泣きたくなる夜があるから。

「うん、わかった。名塚さん……困らせてごめんね」

 五十嵐は、美月の様子をじっと見つめた後、納得したように頷いて去って行った。




 美月は暗くなった大学を出て、帰路につく。
 部屋に画材は揃っているから、今日は持ち帰るものも僅かだ。自転車で十分程で、自宅であるアパートに着いた。

 アパートの裏の駐車場脇の庇だけある自転車置き場に、乗って帰った自転車を停め、前籠から荷物を取り出して抱え直し、カンカンと音を立てながら金属製の階段を三階まで登って行く。三階の突き当たり、奥から二番目の部屋が美月の借りている部屋だ。
 バッグから鍵を取り出し、ドアを開けて中へ入ると、靴を脱いで入り口の電気を点ける。
 入って左側にトイレ兼バスルーム、右側に小さなキッチン。そのまま真っ直ぐ歩くと、七畳の美月の城だ。
 白で統一されたワンルームの部屋の中は、主人が不在だったせいで冷んやりとしている。
 エアコンをつけようと、リモコンに手を伸ばしてから、ふと壁側に何枚も置いてある新聞紙に包まれた自分の作品に目が留まる。

「…………」

 その一番奥にあるのは、あの肖像画だ。
 美月はその作品を――長い間、どうしても見ることが出来なかった。

 持ち帰った作品は、あの後完成させていた。
 展示した時、担当の教授にも同級生達にも、急なモチーフ変更と、対象が知らない外国人の少年になっていることに奇妙な顔をされたが、作品としての評判は悪く無かった。
 だが、それを完成させるまでの美月の様子は、最悪だったのでは無いだろうか。
 美月は何かに取り憑かれるように、彼を――レオンハルトを思い出しながら、ひたすら描くことに没頭した。
 彼の表情、彼の声、自分に向ける視線。


 賞まで貰った作品だが、それは美月にとって意味のあるものでは無かったから、どんな賞であったかさえ忘れた。

 梱包してある新聞紙を少しずつ剥がし、壁に立て掛ける。

「……っ」

 金の髪に青い瞳、優しい笑みを浮かべてこちらを見るレオンハルト。優しい笑み……と、評したのは、制作展で批評してくれた事情を知らない同級生の言葉だ。他人から見れば、これは優しい笑みを浮かべているように見えるのかと、ぼんやりと思った。

 しかし、美月からみれば、これは……違う。
 あの日、最後に見た悲しげな表情を浮かべて、少年の姿のまま、こちらを見ているのだ。

 背景は、自画像と対になるような辰砂しんしゃに丹色。金茶に黄口朱色。
 朱に見えるのは、美月が見送った朝に見た、朝日の色。
 レオンハルトの瞳の青色に、そっと美月が好きな青を使った。
 彼の色を、思い出しながら。

「……レオンハルト……」
 その瞳に手を触れて、長い間封印していたその名を呼んだ。その瞬間――

『……き、……い!』

「え?」

『美月』

 何も無い空間から、自分を喚ぶ声が聞こえた気がした。
 がくん、と身体が浮く。

(まずい……これっ……この感覚……!)
 まさかと言う思いが、胸を過ぎる。

 一人の人間が、何度も喚ばれるなんてこと、あるのだろうか?

 美月は、慌てながらも必死に考えた。
 あちらの世界にもしも、また行くことが出来るなら、必要な物は何か?
 咄嗟に、帰宅した時に床に置きっ放しだったバッグへ、部屋の片隅に置いてあった画材をありったけ詰め込み、部屋の電気を全部消した。
 走り書きのメモに、両親への感謝を書こうかとした時、また声が聞こえた。

『美月』

 今度ははっきり聞こえた。
 自分を喚ぶ声は、レオンハルトの声だ。間違いない。美月の名を呼んでいる。

 そう思ったら、何故か胸が歓喜に震えた。

 もう、時間が無い。
 今度は、後悔をしないように……する。
 何があっても、それを他人事や何かのせいにしないで、ちゃんと真っ直ぐに向き合うんだ。


 部屋の電気を全部消して、荷物を手に持ち、最後にレオンハルトの肖像画を、抱き締めるように腕に抱える。


「今、行くよ。レオンハルト……」








 
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