上 下
2 / 47

2.はじまりのはじまり。

しおりを挟む
 初めて彼を見た時、私は天使だと思った。

 ふわふわサラサラの金色の髪に、賢そうな青い瞳。色白でその顔立ちは甘く、可愛らしい砂糖菓子のような外見の美少年――それが、彼、レオンハルトの最初の印象だった。





師匠せんせい、頼まれていた絵具ここに置いておきますよ?」

 古めかしい小さな街角の家で、中の人間の返事も待たず、入り口の木の扉を開けて入って来たのは長い黒髪を一つに束ねた男……では無く、男物の黒っぽい服を着た女性である。全身が黒尽くめの為、黒髪と相まって肌の白さが際立つ。
「…………」
 男装の女性は声をかけた師匠の方を見るが、さほどの大きな声でも無いが小さくも無い彼女の問いかけに、彼は振り返ることも無く、無言でひたすら黙々と絵筆を握っている。しかし、これはいつものことなので、彼女もまた気にせずに無言で荷物をそっと木の卓の上に置く。
 テンペラと油の匂いの中、微かな筆音が聞こえるだけだ。

「……私も制作に入りますね」
 そう言って軽く頭を下げて、美月は師匠のアトリエから出て行こうとした。

「美月」
 相変わらず絵に向かったままで、彼女の師匠が美月を呼び止めたので、部屋の入り口の扉に手を掛けたまま振り返る。

「何でしょう?」
 出て行こうとしていた身体の方向を変え、師匠である画家ヘリオス・ランガスタに向き直る。

「依頼が来ておる」

 ヘリオスの口から出て来た言葉に、美月は無言でその言葉の先を待つ。彼への依頼はいつものことだ。わざわざ呼び止めてまで美月に言うことも無い。

 彼は何を言いたいのだろうか?
 戸惑って首を傾げると、ヘリオスは珍しくやや焦れたように美月を見た。

「……なんじゃ? その間抜けな顔は。ワシにでは無く、美月への依頼じゃよ」
 一瞬、言われた意味が分からなかった。いつもなら聴き逃さないはずの、合間に挟まれた失礼な言い回しにも気付かぬ程の衝撃だ。
 彼にでは無く、美月への……依頼?


「私への……依頼ぃっ?!」


 たっぷりと間が空いた後、目を見開き、ぽっかりと口を開けたまま固まってしまった弟子の様子を尻目に、しわがれた声で彼女にそう言い渡しながら、微かに目を細めたヘリオスはどこか嬉しげな様子だ。

「そうじゃ。さっきからそう言っておろう。明日から、ベルンシュタイン公の城へ上がってくれ。そこで、お前の絵に必要なものは何でも揃えてくれると言うておる」
「な、何でも?!」
 ベルンシュタインと言えば、この世界の人間では無い美月さえ一般常識として知っている貴族の名門ルーデンボルグ家が治める領地だ。王家にも繋がる古い家柄で、御領地は王家に次いで一番広く、現在の当主は国と王家の政務中枢を支える宰相様。当然資産はたんまりあるだろう。貧乏な画家見習いの自分にはまさに渡りに船の、願ってもない依頼である。
 そう、有り得ない程美味しい話だ。

(……美味しい話には裏がある)
 そこで、美月ははたと正気に戻った。
 画材の為にかなりの節約生活を送っていた元来貧乏性の美月だ。頭の中でぐるぐるとヘリオスから聞いた情報でウハウハしてすっかり舞い上っていたが、ここは美月の居た世界では無い。元居た世界の一般常識が、ここでは全く通用しないこともままあることを、数ヶ月の短い間に美月は身を以て学んでいた。

 訝しげに師匠を見ると、彼は珍しく上機嫌な様子だ。

 いつだって不機嫌そうな顔で、偏屈で、めんどくさがりで、ケチな師匠が上機嫌――これは、ますます怪しい。

「どうした? 嬉しいじゃろ?」
「お師匠」
「な、なんじゃ?」
 美月の様子に何かを感じ取ったヘリオスは、少し吃りながらゆっくりと目を逸らしていく。

 あ。
 これは売ったな。

 美月はその瞬間に全てを把握した。


 数ヶ月の間ではあったが、突然やって来たこの見知らぬ世界で、美月が途方に暮れていた時にヘリオスに引き取られた。
 身寄りも無く、見た目も地味で怪しげな、見ず知らずの自分をヘリオスは引き取ってくれた。そのことに恩義を感じ、美月はやがて衣食住を与えて貰う代わりに彼の身の回りの世話や、彼が手掛けている宗教画の手伝いなどをするようになっていた。だから……なのかもしれない。美月は、自分が彼の弟子にして貰えたのだと思っていた。
 だが、この様子だと、どうやらそれも自分の勘違いだったのかもしれない。

 そのことは美月に少なからず衝撃を与えた。

「ひどい!! 私を売りましたね! 幾らで売ったんですか?!」
「う、売ってなどおらん。わ、ワシはただ美月に……うっ――」

 美月の涙を浮かべた目が初老の男を見据える。

「……幾らです?」
「……当面の援助と、生活費に困らない程度の給金……」

「それと?」
「……教会の宗教画の依頼が幾つか……」

 美月は口をひき結んで身体をわなわなとさせると、キッとヘリオスを睨みつける。
「……分かりました。今までお世話になりました」
「美づ――」
「明日からとは言わず、今から出て行きます! 見ず知らずの私を助けて頂き、ありがとうございましたっ」

 ガバッと勢い良く頭を下げると、部屋の奥へ進み、ガチャガチャと荷物を纏める。哀しいくらい荷物の少ない自分の部屋を見て、美月はまた込み上げて来るやるせない気持ちに蓋をすると、まだ茫然としているヘリオスの前を過ぎり、入り口の木の扉の前で立ち止まる。そして、深々と頭を垂れた。
「美月、ワシは――」
 何事かを言いかけたヘリオスの方を振り返ること無く、静かに扉を閉める。

「幸せに……おなり」

 扉が閉まるその瞬間、呟かれた師匠の言葉は美月の耳には届かぬまま、宙に消えた。






 まさか、師匠が私をそんなに疎んでいたとは思わ無かった。

 役に立つことは自分なりに考え、それなりにやって来たつもりだった。数ヶ月の間に彼にこの世界の画法を学びながら、師弟としても信頼して貰えつつあって、自分はヘリオスと上手くやれていると思っていた。

 だが、考えてみれば確かに自分は、絵を描ける以外には特にこれと言って特徴が無い人間だ。
 話術が得意な訳でも無い。手先が特段器用だと言う訳でも無い。何か専門的な技術を持っている訳でも無い。
 この世界にやって来て、そのことを改めて痛感した。
 ただの美大生であった美月が得意なことと言えば、師匠の世話を出来る程度に家事が得意なこと……ぐらいだろうか。

 それに加えて自分の容姿もまた、特に目立つ容貌でも無かった。
 背中の真ん中まで伸びた真っ直ぐの黒髪。黒目がちな瞳。年頃の娘にはあるまじきだろう化粧っ気の無い自分の顔。痩せぎすとまではいかないが、胸ばかりが目立つ薄い身体。
 そして、その細い身体を包むのはゆったりした男物の服。
 この出で立ちの所為で、この世界で何度男に間違われたか分からない。
 
「……っ……」
 いかん。涙が出て来た。
 何を取っても地味。地味しかない。
 今まで生きて来て、地味であることに劣等感を抱いたことは無いのだから、当然だ。

 しかし、自分がもっと保護欲を誘うような可愛らしい女の子なら、師匠も娘のように可愛がってくれたかもしれない。
 彼の、亡くなった娘さんのように――。
(美術家と言うのは、美しいものが好きだから)

 この世界に突然やって来た美月には、当然身寄りが無い。
 天涯孤独となった美月にとって、短い間ではあったがヘリオスはただの師匠では無く、父親のように慕う存在でもあった。
 だからこそ、ショックだった。
 まるで、裏切られたような気分だったのだ。

 それは他でもない自分が、ヘリオスと言う存在に勝手に家族のような、ある種の信頼を寄せつつあったものをあっさりと否定されたことが原因だと思う。それは美月の気持ちの問題で、ヘリオス自身に非がある訳では無いことも、頭では理解している。
 理解しているけれど、やはりキツい。

 すっかりやさぐれてしまった自分に、自身も少しうんざりして、ショゲてしまった心を無理矢理奮い立たせるように涙の滲んだ目をぐいっと擦る。

「……ベルンシュタインでは、上手くやろう。与えられた仕事を、ちゃんと!」

 今度こそ。

 とは言ったものの、ベルンシュタインはこの王都からは遠く、歩いて行くなら一日近くはかかるだろう。トボトボと途方に暮れながら重い足取りを引きずり、ベルンシュタイン方面へと向かう馬車を探す。
「失礼。そこの方……もしや、ミヅキ殿でございますか?」
 その時、背後から声を掛けられた。のろのろと振り向くと、そこには立派な身なりの騎士が一人、馬を返しながらこちらを見ていた。
「? そうですが」
「おお。やはり! この国では珍しい黒髪のご婦人と聞き及んでおりましたので!」
 騎士は馬から降りると、こちらへ近づいて来る。大きな男だ。美月も女性にしては背が高い方だが、彼は美月よりも背が高く、身体も大きい。

「? どなたですか?」

 美月が不思議そうな顔をすると、彼は美月の前で片膝を立てて跪いた。

 



 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

異世界転移したら、推しのガチムチ騎士団長様の性癖が止まりません

冬見 六花
恋愛
旧題:ロングヘア=美人の世界にショートカットの私が転移したら推しのガチムチ騎士団長様の性癖が開花した件 異世界転移したアユミが行き着いた世界は、ロングヘアが美人とされている世界だった。 ショートカットのために醜女&珍獣扱いされたアユミを助けてくれたのはガチムチの騎士団長のウィルフレッド。 「…え、ちょっと待って。騎士団長めちゃくちゃドタイプなんですけど!」 でもこの世界ではとんでもないほどのブスの私を好きになってくれるわけない…。 それならイケメン騎士団長様の推し活に専念しますか! ―――――【筋肉フェチの推し活充女アユミ × アユミが現れて突如として自分の性癖が目覚めてしまったガチムチ騎士団長様】 そんな2人の山なし谷なしイチャイチャエッチラブコメ。 ●ムーンライトノベルズで掲載していたものをより糖度高めに改稿してます。 ●11/6本編完結しました。番外編はゆっくり投稿します。 ●11/12番外編もすべて完結しました! ●ノーチェブックス様より書籍化します!

麗しのシークさまに執愛されてます

こいなだ陽日
恋愛
小さな村で調薬師として働くティシア。ある日、母が病気になり、高額な薬草を手に入れるため、王都の娼館で働くことにした。けれど、処女であることを理由に雇ってもらえず、ティシアは困ってしまう。そのとき思い出したのは、『抱かれた女性に幸運が訪れる』という噂がある男のこと。初体験をいい思い出にしたいと考えたティシアは彼のもとを訪れ、事情を話して抱いてもらった。優しく抱いてくれた彼に惹かれるものの、目的は果たしたのだからと別れるティシア。しかし、翌日、男は彼女に会いに娼館までやってきた。そのうえ、ティシアを専属娼婦に指名し、独占してきて……

【R18】軍人彼氏の秘密〜可愛い大型犬だと思っていた恋人は、獰猛な獣でした〜

レイラ
恋愛
王城で事務員として働くユフェは、軍部の精鋭、フレッドに大変懐かれている。今日も今日とて寝癖を直してやったり、ほつれた制服を修繕してやったり。こんなにも尻尾を振って追いかけてくるなんて、絶対私の事好きだよね?絆されるようにして付き合って知る、彼の本性とは… ◆ムーンライトノベルズにも投稿しています。

【完結】R-18乙女ゲームの主人公に転生しましたが、のし上がるつもりはありません。

柊木ほしな
恋愛
『Maid・Rise・Love』  略して『MRL』  それは、ヒロインであるメイドが自身の体を武器にのし上がっていく、サクセスストーリー……ではなく、18禁乙女ゲームである。  かつて大好きだった『MRL』の世界へ転生してしまった愛梨。  薄々勘づいていたけれど、あのゲームの展開は真っ平ごめんなんですが!  普通のメイドとして働いてきたのに、何故かゲーム通りに王子の専属メイドに抜擢される始末。  このままじゃ、ゲーム通りのみだらな生活が始まってしまう……?  この先はまさか、成り上がる未来……? 「ちょっと待って!私は成り上がるつもりないから!」  ゲーム通り、専属メイド就任早々に王子に手を出されかけたルーナ。  処女喪失の危機を救ってくれたのは、前世で一番好きだった王子の侍従長、マクシミリアンだった。 「え、何この展開。まったくゲームと違ってきているんですけど!?」  果たして愛梨……もとい今はルーナの彼女に、平凡なメイド生活は訪れるのか……。  転生メイド×真面目な侍従長のラブコメディ。 ※性行為がある話にはサブタイトルに*を付けております。未遂は予告無く入ります。 ※基本は純愛です。 ※この作品はムーンライトノベルズ様にも掲載しております。 ※以前投稿していたものに、大幅加筆修正しております。

皇帝陛下は皇妃を可愛がる~俺の可愛いお嫁さん、今日もいっぱい乱れてね?~

一ノ瀬 彩音
恋愛
ある国の皇帝である主人公は、とある理由から妻となったヒロインに毎日のように夜伽を命じる。 だが、彼女は恥ずかしいのか、いつも顔を真っ赤にして拒むのだ。 そんなある日、彼女はついに自分から求めるようになるのだが……。 ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

【R18】純情聖女と護衛騎士〜聖なるおっぱいで太くて硬いものを挟むお仕事です〜

河津ミネ
恋愛
フウリ(23)は『眠り姫』と呼ばれる、もうすぐ引退の決まっている聖女だ。 身体に現れた聖紋から聖水晶に癒しの力を与え続けて13年、そろそろ聖女としての力も衰えてきたので引退後は悠々自適の生活をする予定だ。 フウリ付きの聖騎士キース(18)とはもう8年の付き合いでお別れするのが少しさみしいな……と思いつつ日課のお昼寝をしていると、なんだか胸のあたりに違和感が。 目を開けるとキースがフウリの白く豊満なおっぱいを見つめながらあやしい動きをしていて――!?

大事な姫様の性教育のために、姫様の御前で殿方と実演することになってしまいました。

水鏡あかり
恋愛
 姫様に「あの人との初夜で粗相をしてしまうのが不安だから、貴女のを見せて」とお願いされた、姫様至上主義の侍女・真砂《まさご》。自分の拙い閨の経験では参考にならないと思いつつ、大事な姫様に懇願されて、引き受けることに。  真砂には気になる相手・檜佐木《ひさぎ》がいたものの、過去に一度、檜佐木の誘いを断ってしまっていたため、いまさら言えず、姫様の提案で、相手役は姫の夫である若様に選んでいただくことになる。  しかし、実演の当夜に閨に現れたのは、檜佐木で。どうも怒っているようなのだがーー。 主君至上主義な従者同士の恋愛が大好きなので書いてみました! ちょっと言葉責めもあるかも。

冷酷無比な国王陛下に愛されすぎっ! 絶倫すぎっ! ピンチかもしれませんっ!

仙崎ひとみ
恋愛
子爵家のひとり娘ソレイユは、三年前悪漢に襲われて以降、男性から劣情の目で見られないようにと、女らしいことを一切排除する生活を送ってきた。 18歳になったある日。デビュタントパーティに出るよう命じられる。 噂では、冷酷無悲な独裁王と称されるエルネスト国王が、結婚相手を探しているとか。 「はあ? 結婚相手? 冗談じゃない、お断り」 しかし両親に頼み込まれ、ソレイユはしぶしぶ出席する。 途中抜け出して城庭で休んでいると、酔った男に絡まれてしまった。 危機一髪のところを助けてくれたのが、何かと噂の国王エルネスト。 エルネストはソレイユを気に入り、なんとかベッドに引きずりこもうと企む。 そんなとき、三年前ソレイユを助けてくれた救世主に似た男性が現れる。 エルネストの弟、ジェレミーだ。 ジェレミーは思いやりがあり、とても優しくて、紳士の鏡みたいに高潔な男性。 心はジェレミーに引っ張られていくが、身体はエルネストが虎視眈々と狙っていて――――

処理中です...