あをによし ~年下宰相様は日本画家の地味系女子にご執心です~

柚木音哉

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1.落ちました。

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 ――何故、こうなった?


 名塚美月なづかみづき、二十四歳。
 職業は一応、日本画家をしている。
 「画家」とは、言ってもまだそれだけで食べていけるほど有名では無い。うん。
 まぁ、それは仕方ない。実力社会だからね……って、今それは良いのですよ。
 とりあえず、私の素性は後回しです。

 ……それより、今現在とても私は困惑しているのです。現在進行系で起こっている事態に。

 え? それは何故かって?

 それは、ですね……



「……美月、どこ見てるんですか?」

 この、金髪の青い瞳のふわふわした美少年……いや、今は美青年(?)になった超絶可愛らしく笑みを浮かべる年下の腹黒い天才宰相様に……

「僕を見てよ……美月。もう、逃さないからね」

 普段は書類とにらめっこばかりしている賢そうな瞳に、今は獲物を狙う肉食獣のような光を宿し、その綺麗な顔立ちに欲情を隠そうともせず、舌舐めずりでもしそうな様相で物欲しそうに美月を見ている。
(……そんな瞳で見ないで)
 そんな飢えた瞳で見られたら、どうしていいか分からなくなる。

 私は……一体、どうしたらいい?


 そう。私は今、まさにこの人に食べられそうな勢いで押し倒されているからです!!



 本当、何故こうなった!!
















 ――それはある日、突然起こった。




「あー……疲れたぁ……帰ったら、お風呂入って、制作頑張ろ」

 ある一角の部分だけ明かりが点いている薄暗い日本画専攻教室の畳みの上。エプロンを付けた長い黒髪の女学生が、畳の上に置かれた制作途中の作品から身を起こし、正座をしたまま両手を広げて伸びをする。
 三回生最後の大事な制作だ。もうすぐ後期の批評会を含めた合同制作展がある為、午前中から昼食もそこそこに長時間座ったまま作業をしていた。今は追い込みの最中で、緻密な描写を得意とする彼女の特性を活かした髪の一筋すら丁寧に描いた自画像を、今回のモチーフとしていた。
 ――何度も平場毛で色を塗り重ね、被写体を書き起こし、また刷毛で色を重ね、再び被写体を書き起こす。背景から浮き上がるように描かれた美月の絵。青色が好きな美月の作品らしく、白緑びゃくろく群緑ぐんろく群青ぐんじょう水浅黄みずあさぎ……その背景には様々な色が青を中心に刷毛で塗り重ねられている。その上に浮かぶ、背中を晒し、肩越しに振り向きながらこちらを見つめる素肌のままの自分は、見る者を真っ直ぐ見つめている。

 大きさや使う絵具の扱い方にもよるのだが、この大学ではイーゼルの上で描く者よりも、畳の上で正座をして、絵の上に覆い被さるようにして描く者が多い。
 伸びをした美月の背中やら腰やらが、ぎしぎしと音を立てたのは、長時間縮こまって描いていた姿勢から解放された為だろう。伸ばされた身体が解放感で心地よくて、暫く目を閉じてその姿勢のままでぼんやりしてから、我に返って教室を見回した。

「……誰もいない」

 しん、と静まり返った教室の中、い草の匂いと、日本画の絵具の定着剤として使う独特な匂いを放つにかわの匂いが満ちている。
 かなり集中していたようで、同じ教室で制作していた同級生達が帰って行った気配にも気づかなかったようだ。

 カーテンを開け放した窓から覗く、すっかり陽が落ちて薄暗くなった帰り道を思い、一つ息を吐く。

 絵を乾かしている間に道具を片付け、帰宅の準備をする。使いかけの絵皿を端に避け、明日の制作に使う分の膠をふやかす為、にかわ鍋に水と膠を入れて冷蔵庫に入れる。パタン、と冷蔵庫の扉を閉めながら、今夜の夕食をどうするべきか考えた。
(日にちが無いから作品を描きながら食べられるもの、うーん……うちに何かあったかなぁ……)
 冷蔵庫の中身を思い出す。昨夜、スーパーのアルバイトの帰りに序でに買っておいた食パンと、夕食の残り物のサラダがあったはずだ。


『――……!』


「え?」
 ふと、誰かに呼ばれた気がした。集中力がすっかり切れて、ぼんやりとしたまま美月が振り向いても誰も居ない。
「? 気のせいかー」
 不思議に思いながら首を傾げ、美月は帰宅する為に必要な物を纏める。最後に自画像の絵具が乾いているか確認した後、新聞で覆いを掛けると、戸締りと電気を消して教室を出た。




「御苦労さん。気を付けて帰りなねー」

 入り口の守衛さんに見送られ、軽く頭を下げて大学の外へ出る。

 冬の空気は肌に刺さるように冷たい。温かいコートのポケットに手を突っ込みたいところだが、今夜夜通し制作するつもりの美月は、持ち帰る大量の画材の入った大きなトートバックニつと作品パネルを抱えている。パネルが大きいから滑らないように手に手袋は無く、素手のままである。
「さむ、寒っ!」
 耳が千切れそうな寒さの中、白い息を吐きながら重い荷物を時折抱え直し、暗い夜道を一人歩き出した。

 大学から美月の住むアパートまでは徒歩で三十分程かかる。美月の実家は大学のある地域からは遠く、帰省には新幹線か飛行機を使わねばならない。
 幼い頃から絵が好きだった美月は、どうしてもこの大学に入りたくて、反対する両親を説得した。その所為もあり、出来る限り両親にはお金のことで負担は掛けたく無い。だけども、日本画の絵具は思いのほか高価だ。絵具や画材の為にアルバイトはしているが、学生である美月が一人暮らしをするには、家賃がそこまで高くないアパートを探す必要があった。その結果、少し離れた立地にあるが七畳ワンルームの、現在のアパートに住むことになったのだった。普段は自転車か大学の定期運行バスに乗るのだが、今日はパネルを持ち帰る為に自転車には乗れないし、大学の定期運行バスは終わってしまっていた。
 この街灯の少ない暗い道を、とぼとぼと歩いて帰るしか無かったのだ。

「……重い」

 息を吐きながら、荷物を置く。歩く度に手がかじかんで指の感覚が鈍くなる。このキンとした冬の空気は好きだが、今日の荷物の量では少しきつい。
 今日は、いつもならほんのりと行く先を灯してくれる月も無く、美月が踏みしめて進む帰路は真っ暗な道が続く。普段ならぽつぽつ通る車も、帰宅ラッシュの時間をとうに過ぎた今、この大きな川沿いの道路にはあまり通らない。

 とても、とても、静かな夜だ。

「はー」
 悴んだ手を擦り合わせ、息を吹きかける。白い息が僅かながら冷たくなった指先を撫でるが、外気の温度が冷たくて、留まることもなく熱は消えて行く。
(早く帰り着きたい)

 狭いワンルームでも、初めて手に入れた一人暮らしの自分の城だ。
 お風呂入って、あったまって、残り物サラダのサンドイッチを食べたら、この自画像の細部の描き込みをする。暖かい部屋で、イヤホンを取り付けたスマホで自分の好きな洋楽を聴きながら。
(……よし! 早く帰ろ!)
 そんなことを考えたら、少しだけ疲れた身体に気力が戻る。ちょっとだけ軽くなった気がする足に力を込めて、再び大きく重い荷物を持ち直し、歩を進めようとした……その時。


「え」


 大きなパネルを持ち上げたその時――悴んで感覚が鈍った指先から、かくん、と手が滑ってしまった。
(――まずい!!)
 慌てて絵を守ろうと、反射的に新聞の巻かれたパネルに向かって手を伸ばした――その瞬間、再び誰かに呼ばれた気がした。

『――よ、――を……!』

 あっ! と、思った時には何かに躓いていた。ふわり、と自分の体重がゼロになって、その次に、何故か重力の反対側に吸い寄せられるような奇妙な感覚に捉われる。

(……な、何これ?)

「?」

(ま、まさか……)

(いやいやいやいや、待て待て待て待てーーぃ!)

 次に、凄い勢いで――落ちた。

「き」

(嘘ぉぉぉぉぉーー?!)

「きゃあああああーーーー!!」



 



※膠=日本画の画材。動物、特に鹿や兎、魚の皮から作られる。ふやかして火で溶かし、絵具の定着剤として使われる。

※作品パネル(パネル)=日本画のキャンバスにあたるもの。木に和紙を貼って使う。
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