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43.すぐに手をのばしていれば
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「…………」
夕陽に照らされ、茜色に染まる実習室の畳の上で、浩介はゆっくりと目を開けた。
制作展の締め切りが迫っていて、この所あまり眠っていなかったせいか、考え事をしながら仰向けに寝っ転がっているうちに、いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。
い草の香りに膠特有の匂いが混ざり、馴染みの匂いに安心する……日本画専攻科の実習室なのだから当たり前だが。
最初はこの膠特有の匂いが臭いなどと思っていたこともあったが、慣れて来るとそんなものなのかもしれない。
寝転んだまま周囲を見渡すが、担当の教授が個展の準備に学外へ出かけているせいか、今日はもう実習室の周囲に人の気配は無い。
「……ねぇ、レヴィン。君はどうするの」
眼鏡のズレを直し、唐突に誰も居ない実習室で浩介はぽつりと宙に尋ねた。
「君は彼女を……名塚さんを追って来たんでしょ?」
尋ねる声に返答は――無い。
はぁ、と溜め息を吐いて、浩介は後ろ手に手をついてその場に身を起こす。カサ、と畳みが乾いた音をたてた。
「レヴィン」
もう一度、その名前を浩介以外に誰も居ない実習室で呼ぶ。
――最初は、何の冗談だろうかとすら思っていた。
それは、異世界の王子の名前。
『……どうもしない。僕は、彼女と出会うのが遅過ぎたんだ』
やがて、浩介の焦れたような声に無視し続けるのは無理だと思ったのか、長い沈黙の後、少し悲しげにも聞こえる弱々しい声が聞こえて来た。
浩介以外誰も居ないこの部屋の、どこから声がするのかと言えば――
『コースケ、お前には世話になったな。僕には恐らく……もう、あまり時間は残されていない』
「……行く、のか?」
『ああ』
「そうか……」
そう言ったきり黙り込み、浩介は自分の胸に手を宛てた。
五十嵐浩介の中に居る人物。
そう。彼こそが、今現在、美月やレオンハルトの住まうあちらの世界から、意識だけが飛ばされて来たアルスラ王国の王太子――レヴィンである。
誓約で召喚すべき相手である美月が、この世界から既に喚ばれていた頃には既に浩介の意識の中に居た。
彼は、誓約の儀式を行う時期を間違えたのだ。
彼が五十嵐浩介の中に意識だけ飛ばされてしまう以前の話をしよう――。
生きてきた年数を思えば短い間と言える『五十嵐浩介』と言う美大院生の男の意識の片隅に居たレヴィンだ。今となって思えば、その作品は技術も描き方もまだまだ未熟だったのかもしれない。
写実的とは言っても、写真のように精巧とまでは行かない――
それでも、何故か脳裏に焼き付いてしまった名塚美月の絵。
どうして、あの時、すぐにでも手に入れなかったのか……
レヴィンは今でも後悔している。
レオンハルトが美月の絵を買い取った際にルーデンボルグの城に訪れた旅の商人は、それより以前にアルスラの王宮にも訪れていた。
少々愛嬌のある顔をした黒と白の斑柄の体格の良い馬に括り付けられた荷物は、この国はおろか大陸中を探してもあまり見ない珍しくも美しい肌触りの良い織物や、とても凝った細工の装飾品をたんまりと積んでいて、大いに女心を擽る品揃えだった。
まだまだ流通の便ではあまり発達していない世界で、旅商と言うのは貴重で、珍しいもの新しいものを目にする機会がなかなか無いものには、堪らないものだった。特に女子供、金持ちには退屈を紛らわす娯楽にもなっている。
例に漏れず、珍しいものや美しいものに目がないレヴィンの母親は、ウキウキとその旅商を招き、その商品の中から気に入ったいくつかを購入していた。
しかし、レヴィンはと言えば、それらに興味を示すことは一切無かったのだ――初めのうちは。
アルスラと言う国は、大層裕福と言う訳でも、際立って貧しい訳でも無い、中堅規模の国だ。
レヴィンもまた王族であるが故に倹約家であるだとか、浪費家であるだとか、そのような人物では無かった。どちらかと言えばそのどちらかですら無く、装飾品や服装に頓着が無い男で、彼の私物は飾り気の無いものばかりの無機質なものばかり。
レヴィンは、なかなか子の出来なかったアルスラ国の国王の息子として、年をとってから出来た子だ。
王太子と言う立場は、それこそ、絵に描いたように決まっていて、そのせいなのかは分からないが、彼自身にとって実に面白みの無い人生を送っていた。
決められたレールの上、決められた毎日。
それらにどこか漫然と流されて日々を過ごすうちに、彼自身が人にも物にもあまり頓着の無い、悪く言えば作りもののように無機質な性格になって行った。
放って置けば何も無い部屋になりそうな彼を見兼ねたのか、王太子の応接室には王妃であるレヴィンの母や、身の回りの世話をする王宮の使用人達が揃えたものは置いてある。
それくらい美術品に縁遠い人間だった。
旅商は何日の間か滞在したのだから、その間に買ってしてしまえば良かったのだが、何となく『絵』というものに興味を抱いたことの無い自分が、それを自ら買うことに気恥ずかしさのようなものを感じて躊躇っているうちに、とうとう機を逃してしまった。
それが、美月の描いた自画像だ。
レヴィンは黒髪の女性を見たことが無かった。
隣国オーレリアの王族は黒髪のものもいると聞いたが、アルスラの民は総じて色素が薄いし、大陸中を探しても黒い髪黒い瞳の両方を持つ人種は聞いたことが無い。
だからこそ、初めて見るその独特の雰囲気を持つその女性に魅せられたのだろう。
黒曜石と琥珀を合わせたような、不思議な色の瞳を持つ娘。
その絵を見て、まずそこから興味を惹かれた。
見たことの無い人種の異国の人間を描いた絵。娼婦であるのか、そこに描かれているその人物は半裸でその真っ白な背中越しにこちらを見つめている。
じっと見つめていると、この人物が何を見て、何を思っているのかを知りたくなった。
レヴィンの興味はこの、淑やかだけれどどこか艶めかしさも感じる、絵の中の女性自身にも向けられるようになった。
しかし、それに気付いたのは随分と時間が経ってからのことだ。
「絵の娘は存在するのだろうか?」
絵の中の異国の娘が気になり、旅商に絵を見せて貰った折にこう尋ねた。すると、商人は金になると踏んだのか、愛想良く絵について話し始めた。
「おや、この絵に興味がお有りで? 流石お目が高い! 珍しい絵の具で描かれていますが、それもそのはず。この絵の女は客人らしいんですよ。らしいってのは……何でも、絵を拾った者が見たんだそうで――」
「――その娘は、助かったのか?」
「そ、それは私には分かりません。ただ、倒れていたと……あ、お、王太子殿下……まさか、私をお疑いで? こっ、これはきちんと金を払って正規に私めが買い付けた物ですんで、又聞きのそのまた又聞きですよ」
「……そうか」
人の良さそうな顔をした旅商の男は、自分が疑われるやもしれぬと慌てたが、それきりレヴィンは興味無さそうに口を噤んだのを機に、この絵の話はしなくなった。
絵の話はこれきりとなってしまったのだ。
旅商は、旅の商人だ。ある程度商品が売れれば、また新たな商品を仕入れて新たな地へ旅をする。
彼らはいつか旅立つものだ。
結局、旅商は貴族や王族、レヴィンの母へ装飾品を幾つか売ると、数日後には自分が疑われ無いようにと言う気持ちもあったのか、絵を購入する前に彼は旅立っていた。
去って行った商人から母が購入した品々を見ていて――そして、レヴィンは漸く後悔した。
名もない画家の肖像など、価値も無いと切り捨てた母の隣で、レヴィンは体面上は頷きながらも彼女に内心反発を抱いたことに驚いた。同時に、何故そう思ったのか考え、やっと自分があの絵を初めて欲しいと思っていたことに気づいた。
無欲……と、言うよりは、無頓着で無関心になっていた彼に、子供の頃からあまり覚えたことの無い、確かな欲と言うものが芽生えた瞬間だった。
夕陽に照らされ、茜色に染まる実習室の畳の上で、浩介はゆっくりと目を開けた。
制作展の締め切りが迫っていて、この所あまり眠っていなかったせいか、考え事をしながら仰向けに寝っ転がっているうちに、いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。
い草の香りに膠特有の匂いが混ざり、馴染みの匂いに安心する……日本画専攻科の実習室なのだから当たり前だが。
最初はこの膠特有の匂いが臭いなどと思っていたこともあったが、慣れて来るとそんなものなのかもしれない。
寝転んだまま周囲を見渡すが、担当の教授が個展の準備に学外へ出かけているせいか、今日はもう実習室の周囲に人の気配は無い。
「……ねぇ、レヴィン。君はどうするの」
眼鏡のズレを直し、唐突に誰も居ない実習室で浩介はぽつりと宙に尋ねた。
「君は彼女を……名塚さんを追って来たんでしょ?」
尋ねる声に返答は――無い。
はぁ、と溜め息を吐いて、浩介は後ろ手に手をついてその場に身を起こす。カサ、と畳みが乾いた音をたてた。
「レヴィン」
もう一度、その名前を浩介以外に誰も居ない実習室で呼ぶ。
――最初は、何の冗談だろうかとすら思っていた。
それは、異世界の王子の名前。
『……どうもしない。僕は、彼女と出会うのが遅過ぎたんだ』
やがて、浩介の焦れたような声に無視し続けるのは無理だと思ったのか、長い沈黙の後、少し悲しげにも聞こえる弱々しい声が聞こえて来た。
浩介以外誰も居ないこの部屋の、どこから声がするのかと言えば――
『コースケ、お前には世話になったな。僕には恐らく……もう、あまり時間は残されていない』
「……行く、のか?」
『ああ』
「そうか……」
そう言ったきり黙り込み、浩介は自分の胸に手を宛てた。
五十嵐浩介の中に居る人物。
そう。彼こそが、今現在、美月やレオンハルトの住まうあちらの世界から、意識だけが飛ばされて来たアルスラ王国の王太子――レヴィンである。
誓約で召喚すべき相手である美月が、この世界から既に喚ばれていた頃には既に浩介の意識の中に居た。
彼は、誓約の儀式を行う時期を間違えたのだ。
彼が五十嵐浩介の中に意識だけ飛ばされてしまう以前の話をしよう――。
生きてきた年数を思えば短い間と言える『五十嵐浩介』と言う美大院生の男の意識の片隅に居たレヴィンだ。今となって思えば、その作品は技術も描き方もまだまだ未熟だったのかもしれない。
写実的とは言っても、写真のように精巧とまでは行かない――
それでも、何故か脳裏に焼き付いてしまった名塚美月の絵。
どうして、あの時、すぐにでも手に入れなかったのか……
レヴィンは今でも後悔している。
レオンハルトが美月の絵を買い取った際にルーデンボルグの城に訪れた旅の商人は、それより以前にアルスラの王宮にも訪れていた。
少々愛嬌のある顔をした黒と白の斑柄の体格の良い馬に括り付けられた荷物は、この国はおろか大陸中を探してもあまり見ない珍しくも美しい肌触りの良い織物や、とても凝った細工の装飾品をたんまりと積んでいて、大いに女心を擽る品揃えだった。
まだまだ流通の便ではあまり発達していない世界で、旅商と言うのは貴重で、珍しいもの新しいものを目にする機会がなかなか無いものには、堪らないものだった。特に女子供、金持ちには退屈を紛らわす娯楽にもなっている。
例に漏れず、珍しいものや美しいものに目がないレヴィンの母親は、ウキウキとその旅商を招き、その商品の中から気に入ったいくつかを購入していた。
しかし、レヴィンはと言えば、それらに興味を示すことは一切無かったのだ――初めのうちは。
アルスラと言う国は、大層裕福と言う訳でも、際立って貧しい訳でも無い、中堅規模の国だ。
レヴィンもまた王族であるが故に倹約家であるだとか、浪費家であるだとか、そのような人物では無かった。どちらかと言えばそのどちらかですら無く、装飾品や服装に頓着が無い男で、彼の私物は飾り気の無いものばかりの無機質なものばかり。
レヴィンは、なかなか子の出来なかったアルスラ国の国王の息子として、年をとってから出来た子だ。
王太子と言う立場は、それこそ、絵に描いたように決まっていて、そのせいなのかは分からないが、彼自身にとって実に面白みの無い人生を送っていた。
決められたレールの上、決められた毎日。
それらにどこか漫然と流されて日々を過ごすうちに、彼自身が人にも物にもあまり頓着の無い、悪く言えば作りもののように無機質な性格になって行った。
放って置けば何も無い部屋になりそうな彼を見兼ねたのか、王太子の応接室には王妃であるレヴィンの母や、身の回りの世話をする王宮の使用人達が揃えたものは置いてある。
それくらい美術品に縁遠い人間だった。
旅商は何日の間か滞在したのだから、その間に買ってしてしまえば良かったのだが、何となく『絵』というものに興味を抱いたことの無い自分が、それを自ら買うことに気恥ずかしさのようなものを感じて躊躇っているうちに、とうとう機を逃してしまった。
それが、美月の描いた自画像だ。
レヴィンは黒髪の女性を見たことが無かった。
隣国オーレリアの王族は黒髪のものもいると聞いたが、アルスラの民は総じて色素が薄いし、大陸中を探しても黒い髪黒い瞳の両方を持つ人種は聞いたことが無い。
だからこそ、初めて見るその独特の雰囲気を持つその女性に魅せられたのだろう。
黒曜石と琥珀を合わせたような、不思議な色の瞳を持つ娘。
その絵を見て、まずそこから興味を惹かれた。
見たことの無い人種の異国の人間を描いた絵。娼婦であるのか、そこに描かれているその人物は半裸でその真っ白な背中越しにこちらを見つめている。
じっと見つめていると、この人物が何を見て、何を思っているのかを知りたくなった。
レヴィンの興味はこの、淑やかだけれどどこか艶めかしさも感じる、絵の中の女性自身にも向けられるようになった。
しかし、それに気付いたのは随分と時間が経ってからのことだ。
「絵の娘は存在するのだろうか?」
絵の中の異国の娘が気になり、旅商に絵を見せて貰った折にこう尋ねた。すると、商人は金になると踏んだのか、愛想良く絵について話し始めた。
「おや、この絵に興味がお有りで? 流石お目が高い! 珍しい絵の具で描かれていますが、それもそのはず。この絵の女は客人らしいんですよ。らしいってのは……何でも、絵を拾った者が見たんだそうで――」
「――その娘は、助かったのか?」
「そ、それは私には分かりません。ただ、倒れていたと……あ、お、王太子殿下……まさか、私をお疑いで? こっ、これはきちんと金を払って正規に私めが買い付けた物ですんで、又聞きのそのまた又聞きですよ」
「……そうか」
人の良さそうな顔をした旅商の男は、自分が疑われるやもしれぬと慌てたが、それきりレヴィンは興味無さそうに口を噤んだのを機に、この絵の話はしなくなった。
絵の話はこれきりとなってしまったのだ。
旅商は、旅の商人だ。ある程度商品が売れれば、また新たな商品を仕入れて新たな地へ旅をする。
彼らはいつか旅立つものだ。
結局、旅商は貴族や王族、レヴィンの母へ装飾品を幾つか売ると、数日後には自分が疑われ無いようにと言う気持ちもあったのか、絵を購入する前に彼は旅立っていた。
去って行った商人から母が購入した品々を見ていて――そして、レヴィンは漸く後悔した。
名もない画家の肖像など、価値も無いと切り捨てた母の隣で、レヴィンは体面上は頷きながらも彼女に内心反発を抱いたことに驚いた。同時に、何故そう思ったのか考え、やっと自分があの絵を初めて欲しいと思っていたことに気づいた。
無欲……と、言うよりは、無頓着で無関心になっていた彼に、子供の頃からあまり覚えたことの無い、確かな欲と言うものが芽生えた瞬間だった。
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