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32.生きる意味と不死の男
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「――……」
アイリスは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れぬ天井を見つめたまま、ぱち、ぱちと瞬きを繰り返すと、ぼんやりとしている頭の中が徐々に覚醒してくる。
(? ……ここは?)
たっぷり時間をとって、一つ大きく息を吸い込む。すると、漸く、この少し古臭く煤けた天井が、自分達が滞在している宿の一室のものであることを思い出した。
(……あ、れ?)
辺りを見回すと、何だか薄暗い。
そっとその場に身を起こし、いつもなら隣りにいるはずのコーウェンの姿を探すが、その姿はおろか気配すらもここには無い。
そして、いつの間に着替えたのか、アイリスは生成りの貫頭衣のような寝衣を身につけている。公爵家の邸で着ていたものよりも遥かにゴワゴワと固い布地だが、汚れも無くさらりとしていて着心地は悪くない。
(……でも、おかしいな……私はいつ、着替えたんだっけ? それに、なんだか――)
頭は何だかふわふわしているのに、身体は重く感じる。それに何故か妙に暑くて、じっとりと自分が汗ばんでいるのが気持ち悪かった。
自分は熱でもあるのかもしれない。
「……コーウェン?」
何度見回してもコーウェンの姿は、やはり見当たらない。
この宿には食堂が付いていないので、また夕食の買い出しに行ってくれているのかもしれない。
急に心細くなったアイリスは、ベッドから抜け出し、ペタペタと歩いて窓際に近づく。
踏みしめた裸足のままの足元からは、氷のように冷え切った床の冷たさが身にしみる。だけど、今は身体が火照っているのか、慣れてくるとかえってその冷たさが心地よく感じる。
「今は……朝? それとも、夕刻?」
魔道具を用いた家々のオレンジ色の灯りが、ぽつぽつと点り始めている……やはり、陽が沈んだばかりだろうか。
そこまで考えて、ふと、アイリスのいるこの部屋も薄暗いことを思い出す。灯りを灯そうと思い立ち、背後を振り返ると、いつの間に帰って来たのか、気配もなくそこに佇んでいる人の姿に気付き、目を瞠った。
「あ、おかえ――」
「おかえり」と、アイリスがそう最後まで口を動かす前に、突然もの凄い力で腕を引き寄せられ、抱き竦められた。
「な、何?」
「――っの、バカが! 心配させやがって……」
――どうやら、私は二日も目を覚まさなかったらしい。
****
「呪薬を使った薬湯だ……とりあえず、飲め。……楽になる」
アイリスは、二日も寝ていた自分にまだ寝ているようにしつこく促すコーウェンに困惑しながら、彼のいれてくれた温かいお茶を啜った。
ほんのりと嗅いだことの無い甘ったるい花のような香りが口の中に広がる。薬湯だと思って苦いのを覚悟していたが、意外にも蜂蜜でも入っているのか飲みやすかった。
コーウェン曰く、「ティバリーの魔術師が得意とするのは、何も術の行使だけではない。呪薬の精製も仕事のうちだ」だそうで。
魔術師達は魔道具を精製するように、様々な薬や毒を精製することも仕事のうちなのだそう。
呪薬と言われるそれは、材料を様々な植物や鉱物を使って錬成するものらしい。これもまたティバリーの魔術師の副業とも言える大事な資金源だ。
やれ惚れ薬だの、毒薬だの、痺れ薬だの……内訳を並べてみると何だか特殊で物騒なものばかりだが、毒や痺れ薬を精製するだけでは無くて、それらを解除する呪薬の精製もしている。
これらの呪薬と言われるものはとにかく貴重だ。
何故ならば、この呪薬を産出出来るのが広いオスタリア大陸の中でも、唯一、魔術師の国と呼ばれるティバリーだけだからである。
薬師と言う職業も存在するが、魔術師の呪薬のほうが魔力と共に精製されている為に効力がある。そして、それを精製出来るのは高位魔術師のみなのだ。
高価な代物ではあるのだが、薬師達から手に入る安価な薬湯よりも効き目は確かな上、格段に即効性がある。それ故に需要もあり、高値で取引されるのだそうだ。
まだ温かい薬湯の入ったカップに口をつけながら、アイリスはそっとコーウェンの様子を伺った。
何かを考え込むかのように、ベッドに座ったアイリスの前で腕組みをしながら、窓の外を見ている。心ここにあらずの様子だ。
取り乱した様子のコーウェンを、アイリスは初めて見た気がする。
普段から自信に溢れていて頼りになる男だ。そんな風に思っていたからこそ、彼の様子に驚いていた。
(コーウェンのあんな……泣きそうな顔……初めて見たかも。それに――何だか、疲れてるように見える)
心配気な表情に、少し疲れたような隈がうっすらと浮いていて、何だか痛々しい。
(そう言えば、最近、あまり眠れてなかったようだし……)
薬湯の入ったカップを小さな木製のサイドテーブルに置く。
「――?!」
アイリスは徐ろに立ち上がり、コーウェンの頬にそっと手を伸ばした。
驚いて、窓の外を見ていたコーウェンがアイリスへと目を向ける。
「コーウェン、ごめんなさい」
「…………」
「あの……」
「……ずっと目を覚まさないから――」
その先の言葉を眉根を寄せた少し苦い表情を浮かべて飲み込むと、コーウェンはアイリスの腕を引いて引き寄せ、抱き締めた。
アイリスは唐突に気付いた。
何故、この人が、取り乱したのかを。
『死ねない魔術師』であるこの人は、目の前で大切な人の生と死をどれほど見送ってきたのだろうか。
不死の身体と長い長い……気の遠くなるような時間を生きる中で。
彼の腕に抱き竦められた身体から、彼のぬくもりが直に伝わってくる。
(『死ねない魔術師』で有ろうと無かろうと、この人は今ここに居る)
この腕も、このぬくもりも、その声も――
長い長い時間を生きて、生きてくれていたからこそ、今、アイリスの目の前に存在するのだ。
そのことに考えが至ると、胸がキュッと軋んだ。
私が目を開けなかった間のこの人は、どんな思いだったのだろう?
もしも、彼と自分の立場が逆であったなら、私はどんな思いで彼の目覚めを待つだろうか?
それは、きっと不安で不安で……恐ろしくて……想像しただけでも辛い。
「コーウェン……大丈夫。私、そばにいるから」
『これからもずっと長い時間を過ごすから、私が隣りに居るの。だから、寂しく無いよ』
「……アイリス」
絞り出すかのようなコーウェンの声にアイリスは微笑みを返し、ぎゅっと包まれた腕の中で頬を擦り寄せ、自らもその大きな背中に腕を回し、彼を抱き締め返した。
アイリスは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れぬ天井を見つめたまま、ぱち、ぱちと瞬きを繰り返すと、ぼんやりとしている頭の中が徐々に覚醒してくる。
(? ……ここは?)
たっぷり時間をとって、一つ大きく息を吸い込む。すると、漸く、この少し古臭く煤けた天井が、自分達が滞在している宿の一室のものであることを思い出した。
(……あ、れ?)
辺りを見回すと、何だか薄暗い。
そっとその場に身を起こし、いつもなら隣りにいるはずのコーウェンの姿を探すが、その姿はおろか気配すらもここには無い。
そして、いつの間に着替えたのか、アイリスは生成りの貫頭衣のような寝衣を身につけている。公爵家の邸で着ていたものよりも遥かにゴワゴワと固い布地だが、汚れも無くさらりとしていて着心地は悪くない。
(……でも、おかしいな……私はいつ、着替えたんだっけ? それに、なんだか――)
頭は何だかふわふわしているのに、身体は重く感じる。それに何故か妙に暑くて、じっとりと自分が汗ばんでいるのが気持ち悪かった。
自分は熱でもあるのかもしれない。
「……コーウェン?」
何度見回してもコーウェンの姿は、やはり見当たらない。
この宿には食堂が付いていないので、また夕食の買い出しに行ってくれているのかもしれない。
急に心細くなったアイリスは、ベッドから抜け出し、ペタペタと歩いて窓際に近づく。
踏みしめた裸足のままの足元からは、氷のように冷え切った床の冷たさが身にしみる。だけど、今は身体が火照っているのか、慣れてくるとかえってその冷たさが心地よく感じる。
「今は……朝? それとも、夕刻?」
魔道具を用いた家々のオレンジ色の灯りが、ぽつぽつと点り始めている……やはり、陽が沈んだばかりだろうか。
そこまで考えて、ふと、アイリスのいるこの部屋も薄暗いことを思い出す。灯りを灯そうと思い立ち、背後を振り返ると、いつの間に帰って来たのか、気配もなくそこに佇んでいる人の姿に気付き、目を瞠った。
「あ、おかえ――」
「おかえり」と、アイリスがそう最後まで口を動かす前に、突然もの凄い力で腕を引き寄せられ、抱き竦められた。
「な、何?」
「――っの、バカが! 心配させやがって……」
――どうやら、私は二日も目を覚まさなかったらしい。
****
「呪薬を使った薬湯だ……とりあえず、飲め。……楽になる」
アイリスは、二日も寝ていた自分にまだ寝ているようにしつこく促すコーウェンに困惑しながら、彼のいれてくれた温かいお茶を啜った。
ほんのりと嗅いだことの無い甘ったるい花のような香りが口の中に広がる。薬湯だと思って苦いのを覚悟していたが、意外にも蜂蜜でも入っているのか飲みやすかった。
コーウェン曰く、「ティバリーの魔術師が得意とするのは、何も術の行使だけではない。呪薬の精製も仕事のうちだ」だそうで。
魔術師達は魔道具を精製するように、様々な薬や毒を精製することも仕事のうちなのだそう。
呪薬と言われるそれは、材料を様々な植物や鉱物を使って錬成するものらしい。これもまたティバリーの魔術師の副業とも言える大事な資金源だ。
やれ惚れ薬だの、毒薬だの、痺れ薬だの……内訳を並べてみると何だか特殊で物騒なものばかりだが、毒や痺れ薬を精製するだけでは無くて、それらを解除する呪薬の精製もしている。
これらの呪薬と言われるものはとにかく貴重だ。
何故ならば、この呪薬を産出出来るのが広いオスタリア大陸の中でも、唯一、魔術師の国と呼ばれるティバリーだけだからである。
薬師と言う職業も存在するが、魔術師の呪薬のほうが魔力と共に精製されている為に効力がある。そして、それを精製出来るのは高位魔術師のみなのだ。
高価な代物ではあるのだが、薬師達から手に入る安価な薬湯よりも効き目は確かな上、格段に即効性がある。それ故に需要もあり、高値で取引されるのだそうだ。
まだ温かい薬湯の入ったカップに口をつけながら、アイリスはそっとコーウェンの様子を伺った。
何かを考え込むかのように、ベッドに座ったアイリスの前で腕組みをしながら、窓の外を見ている。心ここにあらずの様子だ。
取り乱した様子のコーウェンを、アイリスは初めて見た気がする。
普段から自信に溢れていて頼りになる男だ。そんな風に思っていたからこそ、彼の様子に驚いていた。
(コーウェンのあんな……泣きそうな顔……初めて見たかも。それに――何だか、疲れてるように見える)
心配気な表情に、少し疲れたような隈がうっすらと浮いていて、何だか痛々しい。
(そう言えば、最近、あまり眠れてなかったようだし……)
薬湯の入ったカップを小さな木製のサイドテーブルに置く。
「――?!」
アイリスは徐ろに立ち上がり、コーウェンの頬にそっと手を伸ばした。
驚いて、窓の外を見ていたコーウェンがアイリスへと目を向ける。
「コーウェン、ごめんなさい」
「…………」
「あの……」
「……ずっと目を覚まさないから――」
その先の言葉を眉根を寄せた少し苦い表情を浮かべて飲み込むと、コーウェンはアイリスの腕を引いて引き寄せ、抱き締めた。
アイリスは唐突に気付いた。
何故、この人が、取り乱したのかを。
『死ねない魔術師』であるこの人は、目の前で大切な人の生と死をどれほど見送ってきたのだろうか。
不死の身体と長い長い……気の遠くなるような時間を生きる中で。
彼の腕に抱き竦められた身体から、彼のぬくもりが直に伝わってくる。
(『死ねない魔術師』で有ろうと無かろうと、この人は今ここに居る)
この腕も、このぬくもりも、その声も――
長い長い時間を生きて、生きてくれていたからこそ、今、アイリスの目の前に存在するのだ。
そのことに考えが至ると、胸がキュッと軋んだ。
私が目を開けなかった間のこの人は、どんな思いだったのだろう?
もしも、彼と自分の立場が逆であったなら、私はどんな思いで彼の目覚めを待つだろうか?
それは、きっと不安で不安で……恐ろしくて……想像しただけでも辛い。
「コーウェン……大丈夫。私、そばにいるから」
『これからもずっと長い時間を過ごすから、私が隣りに居るの。だから、寂しく無いよ』
「……アイリス」
絞り出すかのようなコーウェンの声にアイリスは微笑みを返し、ぎゅっと包まれた腕の中で頬を擦り寄せ、自らもその大きな背中に腕を回し、彼を抱き締め返した。
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