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26.森の中で
しおりを挟むアイリスは、震えそうになる身体を抱き抱えるようにして、大きな木の根元に腰掛けていた。
パチパチと音を立てて、焚き木が燃え、辺りを照らす。
ここは、メンフィスの邸から少々離れたケイオスの森の中だ。
メンフィスの領域である彼の邸を後にして、森に出た時、すっかり夜が更けていた。
コーウェンにとっては夜間にこの森を越えることなど造作も無いことだが、アイリスには無理だ。
闇に塗れた森の中には、危険な獣も出るし、落ち葉や草に覆われた足元も良くない。
この時刻になって、広大な森を抜けることが難しいとコーウェンが判断したのだ。
「…………」
じっとしていると、メンフィスとの間にあった出来事がフラッシュバックしてしまい、どうにも落ち着かない。
――お前を、俺の花嫁にする。
(『花嫁』……か……)
本気……なのだろうか?
私を花嫁になんて。
彼は私を好きだから、愛しているから……あんなことを言ったのでは無い。確かに以前、自分から「結婚してくれ」と、迫ったことはあった。
(……断られちゃったけど)
――お前と同じ時間を生きられないんだ。
そう言った彼の表情を思い出す。彼の決意は固いことを悟らせるに易い、真剣な表情だったし、気持ちは生半可なことでは揺るがないと思う。
それならば、何故……今回は私を自分の花嫁にする――などと言ったのか?
それに、コーウェンは大丈夫だと言っていたが、メンフィスの言っていた“契約は完了した”と言う言葉が気にかかっていた。
(契約って、何のことだろう?)
『“死ねない魔術師”の花嫁』の存在を、アイリスは知らなかった。しかし、コーウェンは知っていたはずだ。彼本人が死ねない魔術師なのだから。
(コーウェンは、大丈夫だって言ってた。だけど……そんなこと、本当に可能なの?)
契約は契約。魔術の絡む契約の破棄と言うのは難解なのだと、昔、母上との馴れ初めを尋ねた時、父上が言っていたのを聞いたことがある。
そっと、隣に座り焚き火に木を焚べるコーウェンの横顔を盗み見る。
(……信じていない訳じゃない)
ただ、なんだか不安なのだ。
魔術師の扱う術と言うものは、アイリスには難しい。だから、その原理や約束事なんて解らない。それなのに、漠然とした不安がある。
気のせいなら良い。
しかし、アイリスは先見の力を持っている。こうした時に感じるこの落ち着かないざわざわとした感覚は、その力もあって、割と良い方にも悪い方にも当たる。
(危険じゃなければ良いのだけど……)
端正な顔立ちが焚き火のゆらゆらと揺れる炎に照らされて、オレンジ色に染まっている。少し長めの赤茶の髪の下から覗く以外にも長い睫毛と切れ長の目、高く整った鼻梁から口元へと続く輪郭。
そこまで辿った所で、彼の薄い唇に目が留まる。
(……思い……出しちゃった……)
思っていたよりも柔らかく、少しだけカサついていた唇の感触をまざまざと思い出し、アイリスは慌てて下を向いた。
顔が熱い。耳が熱い。
(思い出しちゃ、だめ……)
「……アイリス」
そんなアイリスの葛藤を遮るように、突然話しかけられて、びくりと肩が跳ねる。
「な、何?」
「どうした? なんか気になることでもあるのか?」
コーウェンがこちらを向いて、アイリスの顔を覗き込んで来るのを、素知らぬ風にしてそっと避けるように背ける。
ざわりと暗い森を風が吹き抜けていく。
パチパチと爆ぜた焚き火の音が、静かな森に響いた。
「……っ」
「一雨来そうだな……」
頬を撫でる温く湿った空気に、彼が空を見上げるので、うっかり釣られて下を向いていた顔を上げてしまった。
「顔が赤い」
「!」
空を見上げていたはずの彼は、いつのまにか私を見ていて、面白そうに笑っていた。
「なっ……ななな……」
「さっきから視線を感じるけど、何にも話しかけて来ないから気になってたんだ……お前、何かいやらしいことでも考えてたのか?」
「ちっ……ちちちちちち……」
「ち?」
(当たらずとも遠からず……)
ぶわりと赤い顔が更に赤くなるのを感じる。
「お? 真っ赤。図星か?」
「うるさいわね! あっ……暑いのよ。だいたい……こ、こんな薄暗い所で見える訳……っ」
「なーんだ。暑いのか? 寒いならこの俺があっためてやろうと思ったのに」
「なっ――」
思わず絶句したアイリスにコーウェンは彼女の顎に手をかけて、意味ありげに低く掠れた声が囁いた。
「残念」
顔が熱い。揶揄われているのは分かっているのに、ムキになって言い返せば言い返すほど、何故かコーウェンは楽しそうに笑った。
複雑な気持ちで彼を睨みつけ、顎を固定する彼の大きな手を剥がそうと手をかけた瞬間、逆に腕を掴まれた。
「なぁ、アイリス、お前……もし、俺が死にたいって言ったら、どうする?」
「え?」
笑みを潜め、急に真剣な表情をして、コーウェンがアイリスを見つめて来る。意表を突かれ、アイリスは瞬きすら忘れて彼を見つめ返す。
「今じゃない。例えば……の話だ。お前が俺の花嫁になったとして」
「……でも、“死ねない魔術師”は死なないんでしょう?」
「……本当に……そう思うか?」
腕を掴まれたまま、アイリスは目を見開き、コーウェンをまじまじと見つめ返した。
「どういう……意味?」
「…………」
ザワザワと、またあのぬるい風が吹く。
どこかで梟が鳴く声が聞こえ、アイリスはこくりと唾を飲み込んだ。
「……殺すわ」
「“死ねない魔術師”をどうやって?」
「……っ、それはっ……まだ、わからない。でも、コーウェンがそれを望むとしたら、そうせざるを得ない時でしょう?」
コーウェンが僅かに目を見開く。
アイリスはやがて、ゆっくりと息を吸って吐いてから、乾いた唇を濡らして告げた。
「あなたが望むならそうしようと思う。だけど――」
「ん?」
「もし、私があなたを殺したら、私も一緒に死ぬわよ」
コーウェンの大きな手がアイリスの細い腕に食い込む。
「あなたが……私を選んだのなら、だけど」
例え話だとしても、こんな話したくない。
不快だし。なんだか縁起でもないから。
それでも、答えなくてはいけない気がして、アイリスはアイリスなりの答えを出した。
今までふわりとしていたものが、口に出すと、途端に実感を得る。
(もしも、彼が私を選んで、私が彼を殺してしまったのだとしたら……私は、きっと耐えられない。想像するだけで、苦しい)
そう。耐えられない。
……この人を愛してしまったとしたら。
それが例えばの話だとしても、私がとる行動はきっと変わらない。
私はこの人と離れたくない。そばに居たいと願うだろう。
「……あなたが、私の夫だったなら。私は、あなたの後を追います」
「馬鹿だな」
「馬鹿でもいい。私、多分寂しくて死んじゃうわ。この場合は私が殺すのよね? もしも、私の夫なら……そばに居たいもの」
「そりゃ、情熱的だな」
「あら? 知らなかった? 私、一途なのよ」
掴まれた手に、また少し力が入って、少し痛い。しかし、コーウェンは、その手を離す様子が無い。
「……一途、なぁ?」
「な、何よ。これは例え話でしょう? ――って、え?」
掴まれた手を引き寄せられ、気付けばコーウェンの腕の中に居た。
「悪くない」
背中越しにじんわりと伝わる人肌のぬくもりに包まれ、僅かに動揺する。と、同時に感じた安心感は、相手が彼だからなのだろう。
秋風の吹く夜の空気は肌寒いが、ここは彼に守られて暖かい。
すぐ近くに彼の息遣いを感じて、鼓動が早まる。
あまり近くに居たら、聞こえてしまうかもしれない。それでも、なんだか離れ難い気がして、抵抗もせずに素直にその腕に収まった。
「……っだから、あなたは死んだらダメなのよ? あなたが殺されたら、私も死ぬんだから」
ぽつりと付け足すように呟いてしまったのは、例え話とはいえ、そんな事態になることは嫌だったからだ。
殺すなんてこと、したくないし、彼には死んで欲しくない。
肩口に顔を埋められ、コーウェンの脚の間に収まった彼女のお腹に腕を回すようにして背後から抱き締めて、コーウェンは一つ溜め息を吐いた。
「……アイリス」
「な、何よ?」
「結婚しようか」
「はっ?!」
今日は、少しおかしい。
夕暮れ前に、彼が私を助けに来て、助けてくれた時には『私を花嫁にする』と言い、今度は『結婚しようか』などと言い出す。
(何で急に?)
私が結婚したいと言った時には、ダメだと言ったその口で、今度は求婚するの?
何故、私にキスをしたの?
「……この間は、私を振ったくせに」
「ああ」
「私を……好きじゃないくせに」
「好きだ」
「っ嘘!」
コーウェンは嘘つきだ。
「……私が、メンフィスの花嫁にならないようにするためなんでしょう?」
そこに、あなたの気持ちは無い。
私を守るために、この人は私を自分の花嫁にしようとしてるんだ。
「素直じゃないな……」
「コーウェンだって……」
「俺は、お前が好きだよ。多分、ずっと惹かれてたし、お前に欲情もする」
「へ?」
「既に『死ねない魔術師』の花嫁を俺のものにするには、お前を抱くしかない。上書きするしかないからな」
「な、何言って――」
「お前が、あいつに触れられてるのを見ていたら、あいつを殺してやりたくなった」
「俺はお前を誰にもやりたくない」
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