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「……え?」
そこに、舞台はなかった。
観客も、村の人たちもいない。目線の先にあるはずの、本殿も見えない。
知らない場所……というか、辺り一面真っ白だった。
ぽかんとしていると、俺に両腕でぐいっと遠ざけられた諏訪さんが、手のひらの先で小さく笑った。
「二人で話がしたかったからね。連れてきてしまった」
(連れてきたってどこへ⁉ というか、いつの間に?)
状況がつかめず、俺は何も言うことができない。
「まだ気づかない? 状況がおかしいことは分かっているだろうに」
諏訪さんが尋ねる。その目は、明らかに楽しそうだ。
そうだ、分かってる。
ただ、自分のたどり着いた答えがあり得なさすぎる気がして、口にするのをためらっているだけだ。
すると、それを見ていた諏訪さんに、仕草で言えと促された。
「あー……諏訪さんて……もしかして……」
目の前の相手は、何も言わずにただ悠然と微笑んだ。
言いたいことは伝わっているのだろう。
そして、この笑みはおそらく肯定。
「嘘だろぉ……?」
思わず口から言葉が漏れる。
「嘘ではないよ」
「でも、まさかそんな……」
「信じられないようなものを、君は子供の頃からたくさん見てきているだろう? 臣」
「でも、だからって……」
「僕も、そんなものたちと大差ないよ」
「大差なくないじゃないですか! ……だって諏訪さん、神様なんでしょう⁉」
諏訪さんのあんまりな物言いに、考えていたことが思わず口から飛び出てしまった。
「そうだね」
短く返された肯定の言葉。
あっさりと肯定されて、俺はしゃがみ込んでしまいたい気分だった。
「本当に?」
「本当に」
「嘘じゃなく?」
「僕は一度も臣に嘘など言っていないと思うけれど?」
「嘘は言ってないかもしれないけど、本当のことも教えてくれなかったじゃないですか」
「君が僕のことを覚えているか分からなかったからね。そもそも、突然やってきた知らない男に“君が子供の頃に出会ったのは僕だよ”とか“僕は実は神なんだ”なんて言われたら、臣は信じられた?」
そう告げる声は穏やかで、俺を責めるものではなかったけれど、その状況を想像して言葉に詰まってしまう。
本当のことを信じてもらえない辛さは、十分に知っている。それでもそんな出会い方をしていたら、俺はきっと、彼を不審者扱いしたことだろう。
(……あ)
不審者、という言葉で、俺はとある可能性に思い至る。
「諏訪さん……? ひとつ、聞きたいことがあるんですけど」
言いながら、嫌な予感はどんどん高まっていく。
「さっき諏訪さん、自分の正体は俺が今まで見てきたようなものと大差ない、って言いましたよね?」
俺の問いかけに、諏訪さんは不思議そうな顔をしながらも肯定を返してくれる。俺が今まで見てきたもの、ということはつまり……。
「もしかして諏訪さんって、俺にしか見えなかったりします……?」
「……気付いていなかったのか」
諏訪さんは、心底驚いた様子で目を丸くした。
(……ちょっと……っ)
今度こそ、俺はその場にしゃがみ込んだ。
何が“俺はもう大丈夫”だ。少しも大丈夫なんかじゃない。諏訪さんが他の人には見えないことに、全く気付いていなかったのだから。
真実を知った今なら、俺が一人の時にしか諏訪さんが姿を現さなかったことも納得できる。
皆先に帰ったと思っていたけれど、もし、俺が諏訪さんと喋っているところを誰かが見ていたとしたら……。
(不審者は俺の方じゃないか)
がっくりと、体中の力が抜ける。
(そんなところを見てしまったら、頭がおかしいと言いたくなるのも分かる……)
なんの理由もなくいびられていたわけではなかったのかもしれない。今更、そんなことに気付くだなんて。
思わず苦笑を浮かべた俺を見て、諏訪さんが俺を呼ぶ。どうやら心配させてしまったらしい。
「……何でもないです。ちょっと、予想もしなかったことに気付いて脱力しちゃっただけです」
(自分で気付いていなかったのも相当な衝撃だけど……それ以上に、諏訪さんが“あの人”で、神様だっていうことの方が、よっぽど驚く)
「諏訪さんは覚えているか分からなかったって言いましたけど、覚えてましたよ、ずーっと。言ったでしょう? 俺、諏訪さんに会いたくて、ここから離れられなかったんです。今日は会えなかったけど、もしかしたら明日は会えるんじゃないかって、いつまで経っても諦められなくて。その繰り返しで今日まで生きてきたんです」
(やっと、やっと会えた)
長い間積み重ねてきた“あの人”への想いが溢れそうで、声が震える。
「諏訪さんこそ、覚えてますか? 俺が子供の頃に会った時、あなたは俺に、“ずっと君を待っていた”って言ってくれたんです。俺、他の人には見えないものが見えるせいで、あの頃にはもう変な奴ってレッテルを貼られてて。啓……幼なじみなんですけど、あいつ以外で俺と関わってくれる人なんてほとんどいなかったんです。大人の人たちが俺を見ると嫌な顔をすることには気付いていました。俺は嫌われ者なんだ、ってずっと思ってました。そんな俺なんかを待ってたって言ってくれた人を、忘れられるわけないじゃないですか。ずっと、あなたに会いたかったんです」
まさかその相手が神様だなんて、思いもしなかったですけど。そう言って笑うと、諏訪さんは困ったような表情を浮かべ、何かを言おうとして開いた口を、少しためらって閉じてしまった。
それを見た俺は、焦って言葉を重ねる。
「諏訪さんが人だろうが神様だろうが、全然関係ないです。俺を求めてくれたことに変わりはないんですから。すごく、嬉しかったんです」
神様だなんて思わなかった、と言ったことが良くなかったんじゃないかと思って、慌ててフォローしたつもりだった。けれど、諏訪さんは困った、を通り越して辛そうな顔で言った。
「臣。僕に少し時間をくれる? 君に話さなきゃいけないことがあるんだ」
そこまで言って、俺が戸惑いながらも頷くのを確認すると、諏訪さんは真っ白い世界に腰を下ろした。
視界は真っ白で、なんだか変な感じがする。けれど立っていられるのだから、そこには床のような何かがあるのだろう。
どこに座ろうかちょっと迷って、隣を選んだ。
俺が腰を下ろしたのを確認して、諏訪さんが尋ねる。
「……臣は、僕が君を求めてくれて嬉しかったって言ったけれど、神が人を求めるってことがどういう意味を持つか分かる?」
それは、まるで血を吐くような、聞いたことのない声音だった。何だか分からないけど、もしかしたらとても怖いことを訊かれているのではないかと気づき、俺は無意識に唾液を飲み込んだ。
「神様が……人……を?」
なんとか諏訪さんの言葉を繰り返してみたけれど、喉が張り付きそうなほどに乾いていて、上手く声にならない。
「そう。考えてみてよ。よくある話だから」
そう言われて、俺は記憶を辿る。
神様と、人。
神様に求められたら、人はどうなる……?
(そもそも、求められるって、なんだ? 神様が、人を欲しいって思うってことか……?)
考え込んだ末、生け贄だとか人柱だとか、この上なく不穏な言葉が思い浮かんで、スウッと体温が下がるのを感じる。
それらは、人が降りかかる不幸を避けるために自主的に差し出したものだっただろうか。それとも、神様から要求されたのだっただろうか。
そういえば、神隠しなんていうのも聞いたことがある。こっちの方が少しは穏便かと思ったけれど、どちらにしても、神様に求められたら、その人は人間の世界からはいなくなる。
「え……? あ……もしかして……殺されるとか、連れ去られるとか、そういう……?」
言葉にすることでその重大さを自覚して青ざめていく俺に、諏訪さんは肯定も否定もしない。答えをくれる代わりに、重ねて尋ねてくる。
「ねぇ臣。もうひとつ、気がついて欲しいことがあるんだけど」
伸びてきた指先が、そっと頬に触れた。
その指先はするりと輪郭をなぞるように顎へと降りて行く。それは、今までの優しい触り方とは違って……なんていうか、そういう行為を連想させて、腰の辺りがなんだか落ち着かない。
俺がそわそわしている間に指先は顎へとたどり着き、そっと力を加えてくる。俺は抗う術もなく、視線が合うよう上を向かせられてしまった。
視線の先では、諏訪さんが妖艶に微笑んでいた。
「僕は同居人を必要としているわけではないんだよね」
含みのある言い方と、情事を連想させる触れ方。
恋愛なんて何ひとつ経験のない俺でも流石に何を言わんとしているのか察しがついて、さっき青ざめたばかりの顔に、今度は一気に血が上る。
諏訪さんがそういうことをするなんて、全然想像出来ない。だってこの人はとても綺麗で、手の届かない存在で、何より神様で。俗っぽいこととは無縁に思える。しかも、その相手が俺だなんて。
「……もしかして、出会ってすぐに自分が女性だったらよかったのにって言ったのは、それが理由ですか?」
そう尋ねると、諏訪さんは、
「その方が、臣にとっては都合がいいでしょう?」
と困ったように微笑む。
絶対的な力を持つ存在が、人である俺の気持ちを優先して、行動を起こすのをためらっている。
(なんだそれは。神様なんて、何だって思い通りにできるものじゃないのか?)
「……諏訪さん、お人好しすぎですよ」
思わず吹き出した俺を、諏訪さんは面食らったように見つめる。
「俺が小さい頃に出会ったのが諏訪さんだってすぐに言わなかったのも、俺が信じるか分からない、覚えてないならそれでもいいと思ったからだって言いましたよね。覚えてなかったら、俺のこと、見逃すつもりだったでしょう」
そう問われて、目が泳いだのが答えだった。
「俺の立場をなんて呼んだらいいのか分からないですけど……諏訪さんに必要だから“待っていた”んでしょう? それなのに見逃そうと思ってたとか……。俺がいなかったら、諏訪さんが困るんじゃないんですか?」
「困らない」
今度は妙にきっぱりと言い切った。そのせいで、逆にすぐに嘘だと分かる。この神様はどうしてこんなに不器用なんだ。
「はは、嘘つき。さっきのだってそうですよ。わざと怖がらせようとしたでしょう、俺のこと。俺が、辛い選択をしなくて済むように」
俺は、むぅ、とわざと深刻そうな顔をする。
「それとも、俺のことを深く知ったら、手元に置きたくなくなりました?」
すると、はじかれたように俺を見た。
「そんなこと!」
思わずといった様子で強い語気で言った後、……あるわけない、と諏訪さんは小さく付け加えた。
「僕たち神が近くに置くべき人間はね、その人が生まれた時から決まっているんだよ」
俺の手を取った諏訪さんは言いにくそうに、そしてそれを紛らわすように、俺の指を弄ぶ。そっと撫でて、きゅっと握って。いつも以上にひんやりとしている指が、微かに震えている。
(緊張……している? 諏訪さんが?)
俺よりもずっと大人でいつも余裕があるように見える諏訪さんの、見たこともない様子に驚く。同時に、そんなに言いづらいことなのかと戸惑った。
何も言えずにいると、やがて諏訪さんは意を決したように口を開いた。
そこに、舞台はなかった。
観客も、村の人たちもいない。目線の先にあるはずの、本殿も見えない。
知らない場所……というか、辺り一面真っ白だった。
ぽかんとしていると、俺に両腕でぐいっと遠ざけられた諏訪さんが、手のひらの先で小さく笑った。
「二人で話がしたかったからね。連れてきてしまった」
(連れてきたってどこへ⁉ というか、いつの間に?)
状況がつかめず、俺は何も言うことができない。
「まだ気づかない? 状況がおかしいことは分かっているだろうに」
諏訪さんが尋ねる。その目は、明らかに楽しそうだ。
そうだ、分かってる。
ただ、自分のたどり着いた答えがあり得なさすぎる気がして、口にするのをためらっているだけだ。
すると、それを見ていた諏訪さんに、仕草で言えと促された。
「あー……諏訪さんて……もしかして……」
目の前の相手は、何も言わずにただ悠然と微笑んだ。
言いたいことは伝わっているのだろう。
そして、この笑みはおそらく肯定。
「嘘だろぉ……?」
思わず口から言葉が漏れる。
「嘘ではないよ」
「でも、まさかそんな……」
「信じられないようなものを、君は子供の頃からたくさん見てきているだろう? 臣」
「でも、だからって……」
「僕も、そんなものたちと大差ないよ」
「大差なくないじゃないですか! ……だって諏訪さん、神様なんでしょう⁉」
諏訪さんのあんまりな物言いに、考えていたことが思わず口から飛び出てしまった。
「そうだね」
短く返された肯定の言葉。
あっさりと肯定されて、俺はしゃがみ込んでしまいたい気分だった。
「本当に?」
「本当に」
「嘘じゃなく?」
「僕は一度も臣に嘘など言っていないと思うけれど?」
「嘘は言ってないかもしれないけど、本当のことも教えてくれなかったじゃないですか」
「君が僕のことを覚えているか分からなかったからね。そもそも、突然やってきた知らない男に“君が子供の頃に出会ったのは僕だよ”とか“僕は実は神なんだ”なんて言われたら、臣は信じられた?」
そう告げる声は穏やかで、俺を責めるものではなかったけれど、その状況を想像して言葉に詰まってしまう。
本当のことを信じてもらえない辛さは、十分に知っている。それでもそんな出会い方をしていたら、俺はきっと、彼を不審者扱いしたことだろう。
(……あ)
不審者、という言葉で、俺はとある可能性に思い至る。
「諏訪さん……? ひとつ、聞きたいことがあるんですけど」
言いながら、嫌な予感はどんどん高まっていく。
「さっき諏訪さん、自分の正体は俺が今まで見てきたようなものと大差ない、って言いましたよね?」
俺の問いかけに、諏訪さんは不思議そうな顔をしながらも肯定を返してくれる。俺が今まで見てきたもの、ということはつまり……。
「もしかして諏訪さんって、俺にしか見えなかったりします……?」
「……気付いていなかったのか」
諏訪さんは、心底驚いた様子で目を丸くした。
(……ちょっと……っ)
今度こそ、俺はその場にしゃがみ込んだ。
何が“俺はもう大丈夫”だ。少しも大丈夫なんかじゃない。諏訪さんが他の人には見えないことに、全く気付いていなかったのだから。
真実を知った今なら、俺が一人の時にしか諏訪さんが姿を現さなかったことも納得できる。
皆先に帰ったと思っていたけれど、もし、俺が諏訪さんと喋っているところを誰かが見ていたとしたら……。
(不審者は俺の方じゃないか)
がっくりと、体中の力が抜ける。
(そんなところを見てしまったら、頭がおかしいと言いたくなるのも分かる……)
なんの理由もなくいびられていたわけではなかったのかもしれない。今更、そんなことに気付くだなんて。
思わず苦笑を浮かべた俺を見て、諏訪さんが俺を呼ぶ。どうやら心配させてしまったらしい。
「……何でもないです。ちょっと、予想もしなかったことに気付いて脱力しちゃっただけです」
(自分で気付いていなかったのも相当な衝撃だけど……それ以上に、諏訪さんが“あの人”で、神様だっていうことの方が、よっぽど驚く)
「諏訪さんは覚えているか分からなかったって言いましたけど、覚えてましたよ、ずーっと。言ったでしょう? 俺、諏訪さんに会いたくて、ここから離れられなかったんです。今日は会えなかったけど、もしかしたら明日は会えるんじゃないかって、いつまで経っても諦められなくて。その繰り返しで今日まで生きてきたんです」
(やっと、やっと会えた)
長い間積み重ねてきた“あの人”への想いが溢れそうで、声が震える。
「諏訪さんこそ、覚えてますか? 俺が子供の頃に会った時、あなたは俺に、“ずっと君を待っていた”って言ってくれたんです。俺、他の人には見えないものが見えるせいで、あの頃にはもう変な奴ってレッテルを貼られてて。啓……幼なじみなんですけど、あいつ以外で俺と関わってくれる人なんてほとんどいなかったんです。大人の人たちが俺を見ると嫌な顔をすることには気付いていました。俺は嫌われ者なんだ、ってずっと思ってました。そんな俺なんかを待ってたって言ってくれた人を、忘れられるわけないじゃないですか。ずっと、あなたに会いたかったんです」
まさかその相手が神様だなんて、思いもしなかったですけど。そう言って笑うと、諏訪さんは困ったような表情を浮かべ、何かを言おうとして開いた口を、少しためらって閉じてしまった。
それを見た俺は、焦って言葉を重ねる。
「諏訪さんが人だろうが神様だろうが、全然関係ないです。俺を求めてくれたことに変わりはないんですから。すごく、嬉しかったんです」
神様だなんて思わなかった、と言ったことが良くなかったんじゃないかと思って、慌ててフォローしたつもりだった。けれど、諏訪さんは困った、を通り越して辛そうな顔で言った。
「臣。僕に少し時間をくれる? 君に話さなきゃいけないことがあるんだ」
そこまで言って、俺が戸惑いながらも頷くのを確認すると、諏訪さんは真っ白い世界に腰を下ろした。
視界は真っ白で、なんだか変な感じがする。けれど立っていられるのだから、そこには床のような何かがあるのだろう。
どこに座ろうかちょっと迷って、隣を選んだ。
俺が腰を下ろしたのを確認して、諏訪さんが尋ねる。
「……臣は、僕が君を求めてくれて嬉しかったって言ったけれど、神が人を求めるってことがどういう意味を持つか分かる?」
それは、まるで血を吐くような、聞いたことのない声音だった。何だか分からないけど、もしかしたらとても怖いことを訊かれているのではないかと気づき、俺は無意識に唾液を飲み込んだ。
「神様が……人……を?」
なんとか諏訪さんの言葉を繰り返してみたけれど、喉が張り付きそうなほどに乾いていて、上手く声にならない。
「そう。考えてみてよ。よくある話だから」
そう言われて、俺は記憶を辿る。
神様と、人。
神様に求められたら、人はどうなる……?
(そもそも、求められるって、なんだ? 神様が、人を欲しいって思うってことか……?)
考え込んだ末、生け贄だとか人柱だとか、この上なく不穏な言葉が思い浮かんで、スウッと体温が下がるのを感じる。
それらは、人が降りかかる不幸を避けるために自主的に差し出したものだっただろうか。それとも、神様から要求されたのだっただろうか。
そういえば、神隠しなんていうのも聞いたことがある。こっちの方が少しは穏便かと思ったけれど、どちらにしても、神様に求められたら、その人は人間の世界からはいなくなる。
「え……? あ……もしかして……殺されるとか、連れ去られるとか、そういう……?」
言葉にすることでその重大さを自覚して青ざめていく俺に、諏訪さんは肯定も否定もしない。答えをくれる代わりに、重ねて尋ねてくる。
「ねぇ臣。もうひとつ、気がついて欲しいことがあるんだけど」
伸びてきた指先が、そっと頬に触れた。
その指先はするりと輪郭をなぞるように顎へと降りて行く。それは、今までの優しい触り方とは違って……なんていうか、そういう行為を連想させて、腰の辺りがなんだか落ち着かない。
俺がそわそわしている間に指先は顎へとたどり着き、そっと力を加えてくる。俺は抗う術もなく、視線が合うよう上を向かせられてしまった。
視線の先では、諏訪さんが妖艶に微笑んでいた。
「僕は同居人を必要としているわけではないんだよね」
含みのある言い方と、情事を連想させる触れ方。
恋愛なんて何ひとつ経験のない俺でも流石に何を言わんとしているのか察しがついて、さっき青ざめたばかりの顔に、今度は一気に血が上る。
諏訪さんがそういうことをするなんて、全然想像出来ない。だってこの人はとても綺麗で、手の届かない存在で、何より神様で。俗っぽいこととは無縁に思える。しかも、その相手が俺だなんて。
「……もしかして、出会ってすぐに自分が女性だったらよかったのにって言ったのは、それが理由ですか?」
そう尋ねると、諏訪さんは、
「その方が、臣にとっては都合がいいでしょう?」
と困ったように微笑む。
絶対的な力を持つ存在が、人である俺の気持ちを優先して、行動を起こすのをためらっている。
(なんだそれは。神様なんて、何だって思い通りにできるものじゃないのか?)
「……諏訪さん、お人好しすぎですよ」
思わず吹き出した俺を、諏訪さんは面食らったように見つめる。
「俺が小さい頃に出会ったのが諏訪さんだってすぐに言わなかったのも、俺が信じるか分からない、覚えてないならそれでもいいと思ったからだって言いましたよね。覚えてなかったら、俺のこと、見逃すつもりだったでしょう」
そう問われて、目が泳いだのが答えだった。
「俺の立場をなんて呼んだらいいのか分からないですけど……諏訪さんに必要だから“待っていた”んでしょう? それなのに見逃そうと思ってたとか……。俺がいなかったら、諏訪さんが困るんじゃないんですか?」
「困らない」
今度は妙にきっぱりと言い切った。そのせいで、逆にすぐに嘘だと分かる。この神様はどうしてこんなに不器用なんだ。
「はは、嘘つき。さっきのだってそうですよ。わざと怖がらせようとしたでしょう、俺のこと。俺が、辛い選択をしなくて済むように」
俺は、むぅ、とわざと深刻そうな顔をする。
「それとも、俺のことを深く知ったら、手元に置きたくなくなりました?」
すると、はじかれたように俺を見た。
「そんなこと!」
思わずといった様子で強い語気で言った後、……あるわけない、と諏訪さんは小さく付け加えた。
「僕たち神が近くに置くべき人間はね、その人が生まれた時から決まっているんだよ」
俺の手を取った諏訪さんは言いにくそうに、そしてそれを紛らわすように、俺の指を弄ぶ。そっと撫でて、きゅっと握って。いつも以上にひんやりとしている指が、微かに震えている。
(緊張……している? 諏訪さんが?)
俺よりもずっと大人でいつも余裕があるように見える諏訪さんの、見たこともない様子に驚く。同時に、そんなに言いづらいことなのかと戸惑った。
何も言えずにいると、やがて諏訪さんは意を決したように口を開いた。
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