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 少し変わっているこの人との時間は、いつだって優しく穏やかだった。
 他愛ない雑談を交わしたり、時には本来の目的通りに俺が舞って、彼はそれをただ見つめていたりと、特別何をするわけでもない。
 それでも、他人と接する際に傷つかないように身構えることが多い俺にとって、久しぶりに味わう穏やかで気の休まる時間だった。
 諏訪さんは、俺といる時に第三者の話をしない。
 田舎につきものの、あの家はどうだとかあの人はこうだとか、そういう噂話を一切口にしないのだ。
 それどころか、会話に人がほとんど出てこない。
 まぁ、一人暮らしなのだから家族の話が出てこなかったとしても、不思議ではない。しかし、村の人や友人や……とにかく彼の話には“人”が出てこなかった。
 多少の不自然さを感じてはいたけれども、田舎特有の話題に心底辟易へきえきしていた俺は、無視を決め込むことにした。
 彼と過ごす時間はとても居心地のいいものだったから。
 その不自然さに触れることで今の関係が変わってしまうのなら、気づかないふりをしていたかった。

 邪魔なんかじゃないと伝えて以来、諏訪さんは練習終わりに欠かさず顔を出すようになり、俺は彼の来訪を見込んで、毎回居残るようになった。
 鍵の受け渡しが面倒なのだろう。集会所の管理者には嫌な顔をされたけれど、祭りをいいものにしたいのだと主張すると、それ以上は何も言われなかった。
 会ってすることといったら相変わらずで、とりとめもない話か舞の練習かのどちらかだった。
 正直、行動範囲も人間関係も狭い俺はあまり話題を持っていない。なので話すことがなくなると、ただ並んで座っているだけのことすらあった。
 だけど、その沈黙は決して気まずくなどなく、むしろ気を遣わずにいられる関係の証明のようで、どこか嬉しくすらあった。
 開けたままの窓から入るひんやりとした秋の風が、さらりと肌を撫でていくのは気持ちよかったし、虫の声も耳に心地よかった。
 ……この音色に孤独感を強めたのは、わずか半月ほど前ではなかったか。
 聞こえるものは変わっていないはずなのに、いつの間にこんな風に感じられるようになったのだろう。
 そんなの、答えは簡単だ。
 隣に、諏訪さんがいる。
「臣、気づいてる? 今夜は月がとても綺麗なんだ」
 立ち上がった諏訪さんが、パチンと電気を消した。俺は、舞って熱くなった体を窓際で風に当てていて、彼はその隣に来ると、畳に仰向けになる。
「一緒に見ない?」
 闇の中で、微笑んだ気配がする。部屋の暗さに目が慣れないまま手探りで距離を測ると、トン、と諏訪さんに指先が触れた。
 ぶつからないように体を横たえようとしたその時、不意に肩を抱くようにして諏訪さんの隣へと導かれた。
「諏訪……さん……?」
 仰向けではなく、彼の方を向いて抱き寄せられるような体勢に戸惑う。
 そんな俺にはお構いなしで、背中に回った腕には力が込められ、もう片方の手が頭に触れた。小さな子供を宥めでもするかのように撫でられる。
 もうとっくにそんなことをしてもらうような年齢ではない。
(こんな風に誰かに優しく触れてもらったのは、いつ以来だろう)
 記憶を辿ったけれど、思い出せない。
(困った。気持ちいい……)
 急に触れられた瞬間は驚いて体に力が入っていたけれど、撫でられ続けるうちに、徐々に緩んでいくのが分かる。
きっと諏訪さんも、俺の変化に気づいているんだろう。
(もう子供じゃないのに恥ずかしい)
 そう思うのに、ゆっくりと撫でてくれる少しひんやりとした手を、自分から止める気にはなれなかった。それどころか、少しでも長く続けば良いのにとすら思ってしまう。
 そのせいか、気づいたら言葉が勝手にこぼれ出していた。
「子供の頃……」
「ん?」
「子どもの頃に、俺、神社で不思議な人に会ったんです」
「不思議な人?」
「どこの誰か、分からないんです。見たこともない格好をしていて……ほんの一瞬会っただけなんですけど。俺、その人に、俺のことを待っていたって言ってもらったんですよね。機が熟せばまた会える、って言葉を信じて、その時をずっと待ってるんです」
 もう15年近く経つのに、まだ会えていないんですけど、と苦笑とともに付け加える。
「でも、俺、自分を必要としてもらえたと思うと嬉しくて、その言葉を忘れられなかったんです。だから、高校を卒業しても、村を離れられなかった。自分でも何をしているのかと思うんですけど、この村でどれだけ嫌な目に遭ってもやってこられたのは、その人の言葉が支えになってくれたからで」
 目を閉じると、あの日の光景が浮かんでくる。すっかりぼやけているのに、今になっても思い出すと胸が高鳴る。
「いつか、お礼を言えたらいいなって思ってるんです。でも、ずっと村にいるのに会えないんだから、きっとここの人じゃないんだろうなぁ」
 独り言にも近い俺の話を、諏訪さんは黙って聞いていた。安易に“きっと会えるよ”なんて言わないのがこの人らしい。
 話し終わってしばらくすると、不意にぎゅっと抱きしめられた。耳のすぐ近くで諏訪さんが言う。
「僕は、臣が頑張ってきたって知っているよ。だから、明日の本番はきっとうまくいく。頑張れ」
 気合いを入れるかのように、ぽん、と背中を軽く叩くのを合図に、彼は俺から手を離し、再び仰向けに転がった。俺も合わせて、同じように体勢を変える。
「この天気なら、明日もきっと晴れる」
 心地の良い声が、耳に届いてゆっくりと消える。
 諏訪さんがきれいだと言った月の光は柔らかくて、触れる手が優しくて、思わず気持ちが緩んだ。
 あの人のことは、今まで啓にしか話したことがなかったのに。
 酔うってこんな感じなんじゃないかと思うほど、現実感が薄くて頭がふわふわする。
 今だったらどんなことでも話せるような気がしたのだけれど、一番答えが欲しい問いは、結局口にすることができなかった。
(ねぇ、諏訪さん。祭りが終わっても、俺と会ってくれる?)

 ——祭り当日は、諏訪さんが言ったとおり、気持ちのいい秋晴れになった。
 両親はすでに祭りの準備にかり出されていて、俺は家でひとり、リハーサルまでの時間を持て余していた。
 朝食を兼ねた少し早い昼を終えた頃、ピコン、とスマホがメッセージの着信を知らせる。残念ながら、相手は一人しか心当たりがない。
「啓、今日来るのか……」
 表示されたのは、啓からの激励のメッセージ。
「『全部押しつけやがって。猛練習の成果、しっかり見とけよ。』……っと」
 返信するとすぐに、謝罪のスタンプと、土産を買ってきたからお楽しみに、というメッセージが立て続けに送られてきた。
 村にいると、とにかく色んなものが手に入らない。だから、外から持ち込まれるものは新鮮だし楽しい。それを知っているからこそ、わざわざ買ってきてくれたのだろう。
(会うの、春に啓がこの村を出て行って以来だ……)
 たまに簡単な近況のやりとりはしているものの、ゆっくり話せるのは久しぶりだ。
 啓の話をたくさん聞きたいし、俺の話も聞いてほしい。
 きっと今までだったら、話せることは何もなかったに違いない。でも、奉納神楽で舞うことになって、諏訪さんと出会った。
 俺、啓以外にも話をする人ができたんだよ、と伝えたら、どんな顔をするだろう。
 その反応を直接見たくて、諏訪さんのことはずっと言わずにいた。
 きっと驚くだろうな、と思うと、つい頬が緩む。けれど同時に、ネガティブな考えも頭をよぎる。
(……啓が世界の全てだった俺は、きっと重かっただろうから。ようやく肩の荷が下りると安心されるかもしれない)
 親しい相手が啓しかいないのは当然知られていただろうけれど、だからといってアイツに俺と同じであってほしいと思ったことは一度もない。束縛めいたことは一度だってしてこなかったはずだ。
 負担をかけないようにと気をつけてきたつもりではあったけれど、手を離れたと安堵されたら、それはそれで少し淋しい。
そんな暗い考えを断ち切るかのように、四度よたび着信音が鳴る。
『神社に入るの何時? 迎えに行こうか?』
『いいよ、一人で行く。準備やリハーサルがあるし、向こうでただ待たせることになっちゃうから』
『むしろリハーサルも見たい』
『啓がいいなら構わないよ。遅くとも一時には神社にいないとまずいかな』
『わかった。20分前までには行く。家で待ってて』
『了解』
 それを最後に、スマホは静かになった。
(……そういえば諏訪さんは見に来てくれるのかな)
 何の約束もしていなかったことに、今更気付く。当たり前に来てくれるものだと思い込んでいた。
「あれ? ……あー、そうか。俺、連絡先知らないのか……」
 スマホを手に、俺は一人呟いた。
 練習の日に居残っていればそのうち来てくれる、というのが恒例だったから、連絡を取る必要なんてなかったのだ。
 そもそも、誰かと連絡先を交換するなんて、思いつきもしなかった。
 自分の人間関係の狭さを嘆いたところで、どうしようもない。これでは来てくれるかどうか、尋ねることもできないじゃないか。
 練習後に集会所で会っていたのだって、よく考えてみれば、約束したわけではなかった。
「なんだ……俺、何にも知らないんじゃん。諏訪さんが会いに来てくれなかったら、俺からはなんにもできない」
 一旦小さなほころびに気がついてしまうと、次々と不自然なことに思い当たる。
(諏訪さんの家、村の外れって言ってたけど、どこにあるの?)
(“諏訪”は、苗字? それじゃ、下の名前は?)
(俺を若いって言うけれど、一体何歳なんだろう)
(なんでこんな村に一人きりで住んでるの?)
(そもそも、あんな夜遅くに出かける必要ってある?)
(なんで、村で疎まれている俺なんかに声をかけたの……?)
「……ヤバい」
 思わず口元を手で覆った。
 俺は、諏訪さんのことを何も知らない。
 そして同時に、こんなに強く誰かのことを知りたいと思ったのは初めてだと気付いてしまう。
 なのに、初めてだからこそ、どうしたら良いのか分からない。
 知りたいことはたくさんあるのに、尋ね方を知らない。どこまでなら踏み込んでも大丈夫で、どこからはダメなのか、想像もつかない。
「……怖い」
 思い切って訊いて、彼の表情が嫌そうに歪んだら、どうしたらいい?
(知りたい。もっともっと深く、あの人のことを)
 そう思うのに、啓以外の他人と関係を築く機会を得られずに来た俺は、そのきっかけすら見つけることが出来ない。
 まだ小さかった頃、啓の方から俺に声をかけてきてくれたことが、今になってとんでもなくすごいことのように感じられる。
 普通の人はどうやって他人と仲を深めていくのだろうか。
「俺は、こんなことも経験しないで育ってきちゃったんだなぁ」
 情けない、と脱力する。崩れるように倒れ込んだ畳から見上げた空は青かったけれど、夏の頃より確実に白っぽく、遠くなっている。もう、秋だ。
昨夜見上げたのとは違う空を見ながら、あの時へと思いを馳せる。
“きっとうまくいく。頑張れ”
 柔らかく、でも力強く響く声。
「確かに、俺が出来ないことは多いのかもしれないけど、自分の役割くらいはちゃんと果たしたい、よな」
 ぐ、と手に力を入れて握りしめた。
 来てくれるという確証はないけれど、約束をしていなくても、集会所では会えていた。
 きっと、今日だって大丈夫。
「見ててよ、諏訪さん。練習につきあってもらった成果、ちゃんと見せられるように頑張るから」
 気合いを入れて立ち上がった瞬間、それを見ていたかのようにインターホンが鳴った。
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