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終わったら戸締りをして今日のうちに返しに来るように、と放り投げるように渡された集会所の鍵を受け取って、俺は皆が帰って行くのを見送る。
衣装の裾が気にかかって身のこなしがうまくいかない箇所があり、自主的に居残り練習を申し出たのだった。
集会所の鍵を管理している村の役員は、一緒に居残りをするのは御免だけれど、かといってよそ者に預けておくのも嫌だったのだろう。今日中に戻すようにと条件をつけた上で俺に鍵を渡し、足早に帰ってしまった。
鍵を返しに行くのが遅くなったら遅くなったで文句を言われそうなので、そんなに多くの時間をもらえたわけではない。
さっさと体に覚えこませてしまおうと、俺は練習を始めた。
「和服……マジ……」
動きづらい! と半ば八つ当たりのように片足を蹴り上げた。神楽の衣装は、変わった作りのせいで布に余計な部分が多い。そのおかげで、衣装の色は白と浅葱……というのだろうか、ほんの少し緑が入っただけの控えめなものなのだけれど、随分と華やかに見える。しかし動く度にまとわりつくので、どうしたって邪魔になる。
舞う際に腕の動きに気を取られがちな俺は、ちょっと気を抜くと足元への注意がおろそかになる。その結果、衣装の裾に阻まれてうまく足を運べずに、動きが遅れてしまうのだ。
そういえばこのちょっと変わった和服、なにかが引っかかる……とは思うものの、その既視感がどこから来るかは思い出せない。
(何だっただろう……)
神様に奉納する神楽だというのに、余計なことを考えながらやっていたから罰が当たったのだろうか。踏み出した拍子に畳の目に足を滑らせて、俺は派手に転んだ。
「……ってぇ……」
思いっきり床に打ち付けてしまった腰をさする。痛みが遠のくのを待って大きく息をつくと、一人で畳に転がっている今の状態が急に惨めに感じられた。村の人たちに対する反発心だけでもたせていたやる気に、パキッとヒビが入ったような気がして、そのまま大の字になる。
「はは、だっせぇ……」
そんな自嘲が向かう先は、無様に転んだことか、村の人たちにやられっぱなしでいることか。
ぼんやりと見上げた天井は、知っている場所なのに見覚えはなく、なんとなく落ち着かない。それが嫌で、目を閉じる。外から聞こえるのは虫の声だけで、不意に、
(あ。俺、なんか今すごく独りだ)
と思った。
啓が村を出てしまった今では、村内に親しい人はいない。仕事中を除けば、他人と言葉を交わすことなどほとんどなくて、時々今のような孤独感に襲われる瞬間がある。そのたびに、なぜ両親はこの村を出ようとしないのだろう、と思う。
相変わらず“他の人には見えないらしいもの”は見えているけれど、それをバカ正直に口にすべきではないと、今の俺は分かっている。親からしたら、この村に越してきた心配事はもう解消しているはずだ。ここにいる必要はもうないというのに。
「あー、でも……この村を出たら、俺があの人に会うチャンスはなくなっちゃうんだろうなぁ……」
身体を畳に投げ出したまま考える。
何の保証もない遠い日の約束を、ずっと大切に抱えて生きてきた。けれど、もういい加減に諦めた方がいいんじゃないだろうか。
そんな時、瞼越しに届く蛍光灯の明かりが、わずかながら翳ったように感じた。
怪訝に思って目を開けると、頭の方から上半身を直角に曲げ、俺の顔をのぞき込んでいる人物と思いっきり視線がぶつかる。
「おや、起きた」
その声を引き金にして俺は弾かれるように上体を起こし、そのままの勢いで後ずさって相手と距離をとった。
「え? な⁉ だ⁉」
え? なに⁉ 誰⁉ そう問いたかったが、驚きすぎて言葉が出てこない。
真っ先に目が行ったのは、ざっくりと結んである長い髪。
腰の辺り、毛先から辿るように視線を上げると、整った顔が困ったように微笑んでいた。声を最初に聞いていなければ、女性と間違えたかもしれない。
「ごめん、驚かすつもりじゃなかったんだ」
大丈夫? と、床にしゃがんでいる俺にむかって、手を差しだす。
他人から積極的に話しかけられる経験なんてほとんどなかったから、とても驚いた。俺はこの人を知らないけれど、きっとこの人も俺のことを知らないのだろう。
ぽかんと差し出された手を眺めてフリーズしていると、不意に相手は笑みを深めた。
「……困ったな。随分驚かせてしまったようだね」
俺を立たせるのは無理だと悟ったようで、逆に向こうがしゃがみ込んだ。
「その服、動きにくいでしょう。体の動かし方にコツがあるんだよ」
ほら立って、と伸ばされた手は、今度はこちらが取るのを待たず、呆気にとられている俺をぐいと引き上げた。
どこの誰かも分からない人の助言は的確で、教えてもらった通りに手足を動かすと、布地が脚にまとわりつくことはなくなった。
「すごい……経験者なんですか? あれ? でも……」
「ん? あー……奉納の舞はやったことないな。ちょっと和服を着る機会が普通の人より多いだけ」
「珍しいですね。若いのに」
「若いって……」
相手は俺の言葉にふふ、と愉快そうに笑って、
「君の方がよっぽど若いだろうに。その衣装を着てるってことは、まだ20歳になっていないんでしょう? それに正直に言ってしまうと、僕は見た目よりもずっと年いってるんだよね」
内緒だけど、と付け加える表情はいたずらっぽくて、その無防備さにドキッと心臓が跳ねる。
俺のことを自分より随分若いと言うのだから、20代後半くらいだろうか。いや……見た目ほど若くないと付け加えるくらいだから、もしかしたら30代……? とてもそうは見えないけれど、と心の中で苦笑する。
ひと目見た時は女性と間違えそうな容姿だと思ったけれど、立ち上がってみると、彼の方が余裕で背が高かった。しっかり男の人の体格だ。これなら俺のことだって簡単に立ち上がらせられるはずだ、と納得する。
「どうかした?」
俺の視線を感じたのか、目の前で相手が首をかしげる。その仕草は妙に色っぽくて、あぁ、雰囲気が女性っぽいんだ、と間違えかけた理由に気付く。
「あ、いえ、なんでもないです」
そう答えたものの、なにか感じるところがあったのか。相手はくすりと笑って言った。
「僕のこと、女性だと思った?」
「……すみません」
謝るのは肯定と同じだと思いながらも、そんな言葉しか出てこない。
「だからさっき、経験者なのかって聞いた後に“あれ? でも……”って言ったのか。神楽の主役は男にしか回ってこないものね。気にすることないよ。性別なんて些細なことだし、別に男性であることにこだわりがある訳じゃない。むしろ、女性だった方がよかったのにと思っていたところなんだ」
「え……?」
「あぁ、ごめん、こっちの話」
彼は言いながら、壁に掛かる時計に目をやった。つられて視線を動かすと、随分遅い時間になっていた。
「あ、鍵……」
返しに行かないと。と告げると、彼は頷いた。
「その方がいいね。僕も帰るとするよ」
「家、どの辺なんですか?」
「あー……ちょっと離れてるかな、ここからだと。今日はたまたま近くを通っただけなんだ」
先に廊下に出た相手に続こうと、ぱちん、と大広間の明かりを消す。
「……あれ……?」
行こうか、と廊下からこちらを振り返るその様子に、見覚えがある、と思った。
「あの……違ってたら申し訳ないんですけど……練習、時々見に来てます? いつも廊下からこっちを見てる人がいて……」
暗くて表情は分からない。
肯定も否定もされないまま、くしゃりと頭を撫でられる。
「またね」
彼はそう告げると、するりとドアを抜け、出て行ってしまう。突然触れられて驚いた俺が、正気に戻って追いかけた時には、もう姿は見えなくなっていた。
(……なんだったんだ)
離れたところに住んでるって人が、こんな夜遅くに集会所に何の用だったんだろう、と俺は首を捻る。
(“またね”って、言ってたな……)
「あ、名前……」
聞きそびれたし、言いそびれた。
そんなとりとめもない思考が止まったのは、少しでも早く鍵を返さなければならないことを思い出したからだった。
あの夜、“またね”と告げて去って行ったその人には、しばらく会えていない。
別に会いたかった訳ではないけども。
「またって言ったくせに……」
再会を約束した人とは会えないようにでもなっているのだろうか、俺。
神社で出会ったあの人も、この間の男の人も、俺の方から再会を約束したわけではない。
向こうが一方的に言い置いたことだというのに、それが叶わないとなると引きずってしまう自分に腹が立つ。
誰もいなくなった集会所で薄暗い廊下を見やっては、そこに人影がないのを確認して、ため息をつく。
「もうちょい、だなぁ」
あと少しで、本番になる。祭りが終わったら、元の生活に戻るんだ。
仕事が終われば、寄り道もせずただ家に帰る。
帰ったところで特にすることもないのだけれど、行く場所のないこの村では、ひたすら籠もっている他ないのだ。家にいると、息が詰まってしまうとしても。
嫌味を言われるのはもちろん嫌だし、聞きたくもないけれど、いつも持て余してしまう終業後の時間に価値を作り出せたのは、啓と過ごしていた高校の放課後以来ではないだろうか。
ごろん、と畳に転がる。
体の動かし方を教えてもらったおかげで格段に舞いやすくなったのだから、もう居残りをする必要はないのかもしれない。それでも閉塞感のある自宅に戻る気にはなれなくて、つい鍵を借りてしまった。
我ながら、いい年をして子供じみたことをしていると思う。両親が、俺以上にひどい目に遭ってきたであろうことを想像できないほど、もう子供ではない。そして、両親がそんな目に遭っているのが俺のせいだということも理解している。
もう大丈夫だから、違うところに引っ越そう、と言えばいい。分かっているのに、両親が俺のためにこの村に引っ越してきてくれたのだと思うと、再び生活を大きく変えるような提案を軽率に口にすることもできなかった。
言いたい、言えない。言った方がいい? 言わない方がいい? そんなことを繰り返し悩んでいるうちに、どんな顔をして接すればいいのかわからなくなってしまって、俺は徐々に家にいると息苦しさを感じるようになった。
「どうすればいいんだろ。家も職場も、俺がいていい場所じゃない気がする……」
「随分淋しいことを言うものだね」
不意にかけられた声に驚いて跳ね起きる。声の主を探して視線を巡らせると、先日の男性が広間の入り口に立っていた。
「あぁ、ごめん。僕は君を驚かせてばかりだね」
苦笑する顔を見るのも、久しぶりだ。
「だったらもうちょっと、声のかけようがあるでしょう」
そんな声のかけられ方をしたら普通驚きますって、とこちらも苦笑で返すと、
「人と会話するのに慣れていなくて……悪かったね」
などと、よくわからない返事をもらった。
「一人暮らしなんですか?」
「もう長いことね」
隣に来た彼は、どこか遠くを見るような目をして答える。
集会所は村のほぼ中央にある。皆が集まりやすい立地に建てたのだから当たり前だ。その集会所から離れたところに住んでいると言っていたのだから、彼の住まいは村の外れの方なのだろう。ただでさえ不便なこの地域の、更に不便な場所で一人暮らしとは……。
何か事情があるにしろ、そんな場所で生活するとなると、物を調達するだけでも大変だし、長い期間一人で生活するのはどんなに淋しいだろうと想像する。
「お会いするの、久しぶりですね」
「もっと早いうちに顔を出すつもりだったのだけどね」
「社交辞令だったのかと疑っていたところでした」
「そういうことは思っていても面と向かって言うものではないと学んだような気がするのだけど、僕が間違っているのかな」
「いえ、それで合っていると思います」
俺の答えを聞いて、ふは、と相手が破顔する。
普段よく見せる控えめな微笑みではなく、心底楽しそうに笑うものだから、一気に親しくなったような、気を許して貰ったような気になって、そわそわしてしまう。
「君は変わっているね、臣」
辺鄙なところにたった一人で住んでいる。
人と会話するのに慣れていないと言うくせに、向こうから俺に声をかけてくる。よりによって“村八分にされている俺”に。
「いや、貴方の方がよっぽど……」
(……って、え?)
「あれ? 名前……」
「え?」
俺の問いに、驚いたように大きく見開かれる切れ長の瞳。
そうなのだ。俺は名乗っていないし、彼の名前を聞いてもいない。
「あぁ……知っているよ。ずっと前から、ね」
彼はそう言って、困ったように微笑んだ。その表情に胸が痛むように感じたのは、何のせいだろうか。
「あ、え、えーと……名前……貴方の……」
その痛みを誤魔化すように口にした言葉は、動揺でかすれて途切れた。
「諏訪、だよ」
「すわ、さん?」
「そう」
「諏訪さん」
「ん?」
「いえ、試しに呼んでみただけです」
「やっぱり君は変わってるな。いいよ、いくらでも呼んで?」
中性的に整った顔がくしゃりと崩れる。さっきとは打って変わって楽しそうに笑うのを見ているうちに、胸の中の重いような痛いような感覚は、じわりと滲んで溶けていく。
色々話をしてみると、穏やかな人だと思っていた諏訪さんは、最初の印象よりもずっと表情豊かでとっつきやすかった。
「臣がいつも一人で残っているのは練習をするためだろう? 邪魔をしていないかな?」
練習をそっちのけにして二人でさんざん喋った帰り際に、集会所の外で振り向いた彼は軽く首を傾げて尋ねた。
「……そんなの、考えたこともなかったです。迷惑どころか話し相手ができて嬉しいくらいですよ」
「そう。なら、また寄っても?」
「こんなに遅くでいいなら」
「何の問題もないよ」
それじゃ、遠慮なく来させて貰うことにしよう、と微笑むと、おやすみ、と言い残して彼……諏訪さんは闇の中へと消えていった。
衣装の裾が気にかかって身のこなしがうまくいかない箇所があり、自主的に居残り練習を申し出たのだった。
集会所の鍵を管理している村の役員は、一緒に居残りをするのは御免だけれど、かといってよそ者に預けておくのも嫌だったのだろう。今日中に戻すようにと条件をつけた上で俺に鍵を渡し、足早に帰ってしまった。
鍵を返しに行くのが遅くなったら遅くなったで文句を言われそうなので、そんなに多くの時間をもらえたわけではない。
さっさと体に覚えこませてしまおうと、俺は練習を始めた。
「和服……マジ……」
動きづらい! と半ば八つ当たりのように片足を蹴り上げた。神楽の衣装は、変わった作りのせいで布に余計な部分が多い。そのおかげで、衣装の色は白と浅葱……というのだろうか、ほんの少し緑が入っただけの控えめなものなのだけれど、随分と華やかに見える。しかし動く度にまとわりつくので、どうしたって邪魔になる。
舞う際に腕の動きに気を取られがちな俺は、ちょっと気を抜くと足元への注意がおろそかになる。その結果、衣装の裾に阻まれてうまく足を運べずに、動きが遅れてしまうのだ。
そういえばこのちょっと変わった和服、なにかが引っかかる……とは思うものの、その既視感がどこから来るかは思い出せない。
(何だっただろう……)
神様に奉納する神楽だというのに、余計なことを考えながらやっていたから罰が当たったのだろうか。踏み出した拍子に畳の目に足を滑らせて、俺は派手に転んだ。
「……ってぇ……」
思いっきり床に打ち付けてしまった腰をさする。痛みが遠のくのを待って大きく息をつくと、一人で畳に転がっている今の状態が急に惨めに感じられた。村の人たちに対する反発心だけでもたせていたやる気に、パキッとヒビが入ったような気がして、そのまま大の字になる。
「はは、だっせぇ……」
そんな自嘲が向かう先は、無様に転んだことか、村の人たちにやられっぱなしでいることか。
ぼんやりと見上げた天井は、知っている場所なのに見覚えはなく、なんとなく落ち着かない。それが嫌で、目を閉じる。外から聞こえるのは虫の声だけで、不意に、
(あ。俺、なんか今すごく独りだ)
と思った。
啓が村を出てしまった今では、村内に親しい人はいない。仕事中を除けば、他人と言葉を交わすことなどほとんどなくて、時々今のような孤独感に襲われる瞬間がある。そのたびに、なぜ両親はこの村を出ようとしないのだろう、と思う。
相変わらず“他の人には見えないらしいもの”は見えているけれど、それをバカ正直に口にすべきではないと、今の俺は分かっている。親からしたら、この村に越してきた心配事はもう解消しているはずだ。ここにいる必要はもうないというのに。
「あー、でも……この村を出たら、俺があの人に会うチャンスはなくなっちゃうんだろうなぁ……」
身体を畳に投げ出したまま考える。
何の保証もない遠い日の約束を、ずっと大切に抱えて生きてきた。けれど、もういい加減に諦めた方がいいんじゃないだろうか。
そんな時、瞼越しに届く蛍光灯の明かりが、わずかながら翳ったように感じた。
怪訝に思って目を開けると、頭の方から上半身を直角に曲げ、俺の顔をのぞき込んでいる人物と思いっきり視線がぶつかる。
「おや、起きた」
その声を引き金にして俺は弾かれるように上体を起こし、そのままの勢いで後ずさって相手と距離をとった。
「え? な⁉ だ⁉」
え? なに⁉ 誰⁉ そう問いたかったが、驚きすぎて言葉が出てこない。
真っ先に目が行ったのは、ざっくりと結んである長い髪。
腰の辺り、毛先から辿るように視線を上げると、整った顔が困ったように微笑んでいた。声を最初に聞いていなければ、女性と間違えたかもしれない。
「ごめん、驚かすつもりじゃなかったんだ」
大丈夫? と、床にしゃがんでいる俺にむかって、手を差しだす。
他人から積極的に話しかけられる経験なんてほとんどなかったから、とても驚いた。俺はこの人を知らないけれど、きっとこの人も俺のことを知らないのだろう。
ぽかんと差し出された手を眺めてフリーズしていると、不意に相手は笑みを深めた。
「……困ったな。随分驚かせてしまったようだね」
俺を立たせるのは無理だと悟ったようで、逆に向こうがしゃがみ込んだ。
「その服、動きにくいでしょう。体の動かし方にコツがあるんだよ」
ほら立って、と伸ばされた手は、今度はこちらが取るのを待たず、呆気にとられている俺をぐいと引き上げた。
どこの誰かも分からない人の助言は的確で、教えてもらった通りに手足を動かすと、布地が脚にまとわりつくことはなくなった。
「すごい……経験者なんですか? あれ? でも……」
「ん? あー……奉納の舞はやったことないな。ちょっと和服を着る機会が普通の人より多いだけ」
「珍しいですね。若いのに」
「若いって……」
相手は俺の言葉にふふ、と愉快そうに笑って、
「君の方がよっぽど若いだろうに。その衣装を着てるってことは、まだ20歳になっていないんでしょう? それに正直に言ってしまうと、僕は見た目よりもずっと年いってるんだよね」
内緒だけど、と付け加える表情はいたずらっぽくて、その無防備さにドキッと心臓が跳ねる。
俺のことを自分より随分若いと言うのだから、20代後半くらいだろうか。いや……見た目ほど若くないと付け加えるくらいだから、もしかしたら30代……? とてもそうは見えないけれど、と心の中で苦笑する。
ひと目見た時は女性と間違えそうな容姿だと思ったけれど、立ち上がってみると、彼の方が余裕で背が高かった。しっかり男の人の体格だ。これなら俺のことだって簡単に立ち上がらせられるはずだ、と納得する。
「どうかした?」
俺の視線を感じたのか、目の前で相手が首をかしげる。その仕草は妙に色っぽくて、あぁ、雰囲気が女性っぽいんだ、と間違えかけた理由に気付く。
「あ、いえ、なんでもないです」
そう答えたものの、なにか感じるところがあったのか。相手はくすりと笑って言った。
「僕のこと、女性だと思った?」
「……すみません」
謝るのは肯定と同じだと思いながらも、そんな言葉しか出てこない。
「だからさっき、経験者なのかって聞いた後に“あれ? でも……”って言ったのか。神楽の主役は男にしか回ってこないものね。気にすることないよ。性別なんて些細なことだし、別に男性であることにこだわりがある訳じゃない。むしろ、女性だった方がよかったのにと思っていたところなんだ」
「え……?」
「あぁ、ごめん、こっちの話」
彼は言いながら、壁に掛かる時計に目をやった。つられて視線を動かすと、随分遅い時間になっていた。
「あ、鍵……」
返しに行かないと。と告げると、彼は頷いた。
「その方がいいね。僕も帰るとするよ」
「家、どの辺なんですか?」
「あー……ちょっと離れてるかな、ここからだと。今日はたまたま近くを通っただけなんだ」
先に廊下に出た相手に続こうと、ぱちん、と大広間の明かりを消す。
「……あれ……?」
行こうか、と廊下からこちらを振り返るその様子に、見覚えがある、と思った。
「あの……違ってたら申し訳ないんですけど……練習、時々見に来てます? いつも廊下からこっちを見てる人がいて……」
暗くて表情は分からない。
肯定も否定もされないまま、くしゃりと頭を撫でられる。
「またね」
彼はそう告げると、するりとドアを抜け、出て行ってしまう。突然触れられて驚いた俺が、正気に戻って追いかけた時には、もう姿は見えなくなっていた。
(……なんだったんだ)
離れたところに住んでるって人が、こんな夜遅くに集会所に何の用だったんだろう、と俺は首を捻る。
(“またね”って、言ってたな……)
「あ、名前……」
聞きそびれたし、言いそびれた。
そんなとりとめもない思考が止まったのは、少しでも早く鍵を返さなければならないことを思い出したからだった。
あの夜、“またね”と告げて去って行ったその人には、しばらく会えていない。
別に会いたかった訳ではないけども。
「またって言ったくせに……」
再会を約束した人とは会えないようにでもなっているのだろうか、俺。
神社で出会ったあの人も、この間の男の人も、俺の方から再会を約束したわけではない。
向こうが一方的に言い置いたことだというのに、それが叶わないとなると引きずってしまう自分に腹が立つ。
誰もいなくなった集会所で薄暗い廊下を見やっては、そこに人影がないのを確認して、ため息をつく。
「もうちょい、だなぁ」
あと少しで、本番になる。祭りが終わったら、元の生活に戻るんだ。
仕事が終われば、寄り道もせずただ家に帰る。
帰ったところで特にすることもないのだけれど、行く場所のないこの村では、ひたすら籠もっている他ないのだ。家にいると、息が詰まってしまうとしても。
嫌味を言われるのはもちろん嫌だし、聞きたくもないけれど、いつも持て余してしまう終業後の時間に価値を作り出せたのは、啓と過ごしていた高校の放課後以来ではないだろうか。
ごろん、と畳に転がる。
体の動かし方を教えてもらったおかげで格段に舞いやすくなったのだから、もう居残りをする必要はないのかもしれない。それでも閉塞感のある自宅に戻る気にはなれなくて、つい鍵を借りてしまった。
我ながら、いい年をして子供じみたことをしていると思う。両親が、俺以上にひどい目に遭ってきたであろうことを想像できないほど、もう子供ではない。そして、両親がそんな目に遭っているのが俺のせいだということも理解している。
もう大丈夫だから、違うところに引っ越そう、と言えばいい。分かっているのに、両親が俺のためにこの村に引っ越してきてくれたのだと思うと、再び生活を大きく変えるような提案を軽率に口にすることもできなかった。
言いたい、言えない。言った方がいい? 言わない方がいい? そんなことを繰り返し悩んでいるうちに、どんな顔をして接すればいいのかわからなくなってしまって、俺は徐々に家にいると息苦しさを感じるようになった。
「どうすればいいんだろ。家も職場も、俺がいていい場所じゃない気がする……」
「随分淋しいことを言うものだね」
不意にかけられた声に驚いて跳ね起きる。声の主を探して視線を巡らせると、先日の男性が広間の入り口に立っていた。
「あぁ、ごめん。僕は君を驚かせてばかりだね」
苦笑する顔を見るのも、久しぶりだ。
「だったらもうちょっと、声のかけようがあるでしょう」
そんな声のかけられ方をしたら普通驚きますって、とこちらも苦笑で返すと、
「人と会話するのに慣れていなくて……悪かったね」
などと、よくわからない返事をもらった。
「一人暮らしなんですか?」
「もう長いことね」
隣に来た彼は、どこか遠くを見るような目をして答える。
集会所は村のほぼ中央にある。皆が集まりやすい立地に建てたのだから当たり前だ。その集会所から離れたところに住んでいると言っていたのだから、彼の住まいは村の外れの方なのだろう。ただでさえ不便なこの地域の、更に不便な場所で一人暮らしとは……。
何か事情があるにしろ、そんな場所で生活するとなると、物を調達するだけでも大変だし、長い期間一人で生活するのはどんなに淋しいだろうと想像する。
「お会いするの、久しぶりですね」
「もっと早いうちに顔を出すつもりだったのだけどね」
「社交辞令だったのかと疑っていたところでした」
「そういうことは思っていても面と向かって言うものではないと学んだような気がするのだけど、僕が間違っているのかな」
「いえ、それで合っていると思います」
俺の答えを聞いて、ふは、と相手が破顔する。
普段よく見せる控えめな微笑みではなく、心底楽しそうに笑うものだから、一気に親しくなったような、気を許して貰ったような気になって、そわそわしてしまう。
「君は変わっているね、臣」
辺鄙なところにたった一人で住んでいる。
人と会話するのに慣れていないと言うくせに、向こうから俺に声をかけてくる。よりによって“村八分にされている俺”に。
「いや、貴方の方がよっぽど……」
(……って、え?)
「あれ? 名前……」
「え?」
俺の問いに、驚いたように大きく見開かれる切れ長の瞳。
そうなのだ。俺は名乗っていないし、彼の名前を聞いてもいない。
「あぁ……知っているよ。ずっと前から、ね」
彼はそう言って、困ったように微笑んだ。その表情に胸が痛むように感じたのは、何のせいだろうか。
「あ、え、えーと……名前……貴方の……」
その痛みを誤魔化すように口にした言葉は、動揺でかすれて途切れた。
「諏訪、だよ」
「すわ、さん?」
「そう」
「諏訪さん」
「ん?」
「いえ、試しに呼んでみただけです」
「やっぱり君は変わってるな。いいよ、いくらでも呼んで?」
中性的に整った顔がくしゃりと崩れる。さっきとは打って変わって楽しそうに笑うのを見ているうちに、胸の中の重いような痛いような感覚は、じわりと滲んで溶けていく。
色々話をしてみると、穏やかな人だと思っていた諏訪さんは、最初の印象よりもずっと表情豊かでとっつきやすかった。
「臣がいつも一人で残っているのは練習をするためだろう? 邪魔をしていないかな?」
練習をそっちのけにして二人でさんざん喋った帰り際に、集会所の外で振り向いた彼は軽く首を傾げて尋ねた。
「……そんなの、考えたこともなかったです。迷惑どころか話し相手ができて嬉しいくらいですよ」
「そう。なら、また寄っても?」
「こんなに遅くでいいなら」
「何の問題もないよ」
それじゃ、遠慮なく来させて貰うことにしよう、と微笑むと、おやすみ、と言い残して彼……諏訪さんは闇の中へと消えていった。
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