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第四幕・魔鏡伝説(後編-02)

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 ファナの部屋――

「なぁ、ファナ」
「何スか? 未羽姉ちゃん?」
「ヴィオレーテに逢いたいか?」
そう訊ねる未羽の表情は硬い。

「母さん、無事なんスか?」
「それは・・・」
未羽は一瞬、言葉を飲み込んだ。

 つい先日、ヤミの作った抗【MDMA】剤をヴィオレーテに投薬し、一瞬は正気に戻ったものの僅か数分で元の中毒状態に戻る、の繰り返しだったのである。

「抗【MDMA】剤だって、身体に無害な訳じゃ無いからね」
「ファナにヴィオレーテを会わせられないのか? ヤミ?」
「いいとこ、2分が限界。それに、抗【MDMA】剤を使う度にどんな副作用が現れるのか、ボクにも分からない」
「このまま治療を続けて、少しずつ回復させる事は?」
「残念だけど、ヴィオレーテは既に神経まで【MDMA】に冒されているからね。ボクもお手上げ状態さ」
「ファナに決めさせては、どうだ? 未羽?」
「紅蘭・・・」
「実の父を失って、更に母のあの状態を見せるのは忍びないが。いずれ付けなければならないケジメだ」
「ファナはまだ17才だ。あまりに酷い」
「未羽ちゃん。残酷な様だけど、これが最後に逢えるチャンスだとしたら? 未羽ちゃんも14才で辛い別れを経験した、でも立ち直ったんじゃないか」
「ヤミ・・・」
「ワタシも実の両親の記憶は無い。育ててくれた王文と月影しか知らないが、一目でも良い。両親に逢ってみたいと何度も思ったものだ」
「ボクもね・・・」
何かを言い掛けたが、ヤミは口を噤んだ。

(お母様、ボクは)
一瞬、躊躇した表情を見せたヤミ――

「ファナちゃんが全てを受け入れる覚悟があるなら、ボクも全力を尽くすつもり」
「ファナもいずれ通らなければならない関門だ」
「ヤミ、紅蘭」

 こうして、未羽はファナの部屋へと向かったのである。



「余程、良くないんスね。母さん」
「っ!」
寂しく目を伏せるファナ。

「薄々、気付ていたっス。ヤミさんがずっと居なかったり、未羽姉ちゃんと紅蘭さんが一緒に来なかったり」
「ファナ・・・」
「あの時、父さんはもう・・・。母さんを助けてくれたけど。アチキには逢わせられない状態なんスよね?」

 廊下では、ヤミと紅蘭がこの会話をずっと聞いていた。

「母さんに逢いたいっス。例え、喋る事が出来なく手も、顔が見たいっス」
ファナの眼から<ポロポロ>と涙が零れ落ちた。

「覚悟は出来てるっス。どんな姿であっても、母さんに逢いたいっス」
「本当に良いんだな?」
「後悔たしくないっスから」
そう言って、溢れそうになる涙を耐えながら無理に笑顔を作るファナであった。



 ヴィオレーテの部屋の前――

「ファナちゃん。今から、凄く辛いモノを見る事になる」
「分かってるっス」
「気を強く持て。ワタシ達も付いている」
「ありがとうっス」
「ルイスとヴィオレーテに受けた恩をこんな形で返さなければならないなんて。本当に済まない」
「未羽姉ちゃん、いいんっスよ。父さんも母さんも、きっと喜んでくれてるっス」

「じゃあ、入るっスね」
意を決したファナが頷くと紅蘭が扉を開け、未羽が車椅子を押して中へと入る。

部屋の中央には、両手両足を固定されたヴィオレーテがげっそりと痩せた姿で椅子に座っている。

「母さん!」
「だ・・・だれ? くすりを頂戴・・・」
微かに反応したヴィオレーテの左腕静脈にヤミが穿刺し注射器から、薬剤が注入された。

<ガクリ>
吊り糸を切られたマリオネットの様に首を傾げたヴィオレーテだが、少しするとゆっくりと首を持ち上げた。

「その声・・・。ファナ・・・? ファナ・・・、なのね?」
「母さん!」
ヴィオレーテは声を頼りにファナを探す様に手を伸ばし、未羽がファナの乗った車椅子ょ近づける。

「ファナ、良かった。無事で・・・」
「未羽姉ちゃんが助けてくれたっス」
「ファナ、良く聞いて・・・。ルイスは・・・、ホセに殺された・・・」
「やっばり、父さんはっ!」
「私もクスリのせいで・・・、そう長く・・・無い」
「大丈夫っス。未羽姉ちゃんも紅蘭さんって味方も居るっス。ヤミさんはクスリに詳しくて。今にきっと母さんを治してくれるっス。だから、心配無いっスよ

ファナは助けを求める様にヤミ達の顔を何度も見つめる。

「ファ・・・。あっ、あぁぁぁぁっ!」
突如、ヴィオレーテが身体をガタガタと震わせて奇声を上げ始めた。

「抗【MDMA】剤の耐性時間が短くなった。もう、これ以上は打てない。最後だよ」
慌てて、ヤミは2本目を静脈に穿刺した。

「ハァ、ハァ・・・」
苦し気に息を付きながら、ヴィオレーテは正気を取り戻す。

「未羽・・・。ファナの事・・・、お願い」
「母さん、何言ってるっス? また、一緒に暮らすっスよ!」
「ごめんね・・・。もう、母さん・・・。それより、私、過去…思い出し・・・。あっあぁぁぁぁっ!」
「ヤミ! 注射を! 早く!」
「もう打てないって言った筈だよ! ヴィオレーテを殺す気?」
「お願いするっス! ヤミさん!」
「ヤミっ」
「ヤミ!」
「全く、無茶言うんだからぁ」
その場に居た全員が懇願する様にヤミを見つめている。

「お願い・・・。ファナに・・・、どうしても・・・伝え・・なけ・・・」
ヴィオレーテの口が片言でヤミへと向かって語った。

「もう、分かったってばぁ。但し、あまり時間は無いからねっ!」
ヤミは覚悟を決めて3本目を静脈に穿刺した。
その瞳に涙が光っていたのに気付いたのは、未羽と紅蘭だけだったであろうか。

「ファナ・・・」
ヴィオレーテは手を伸ばしてファナに触れ様とするが空振りし、更に拘束具がその動きを妨げる。

「未羽、もしかしてヴィオレーテは目が見えていないのか?」
「あぁ、恐らく副作用だろう。急ぐぞ、紅蘭」
未羽と紅蘭は頷き合うと、ヴィオレーテの拘束具を迅速に外していった。

「ファナ・・・。どこ・・・?」
「母さん! ここに居るっスよ!」
ヴィオレーテの瞳は既に光を失っていた。
空しく空中を彷徨うヴィオレーテの両手を優しく包み込んだヤミは、そっとファナの手に合わせた。

(ごめん。ボクにはもう、こんな事ぐらいしか・・・)
項垂れているヤミの表情は伺えない。
ヴィオレーテとファナの手を重ね合わせたヤミは、そのままゆっくりと後退する。

「ファナ・・・。よく・・・聞いて・・・」
「母さん、何スか?」
「私の名前・・・、【紺堂菫礼】(こんどうすみれ)。日本に・・・父と母・・・居る」

(そうか。だから【コンドー】と言う名前に反応したのか、ヴィオレーテ)
未羽は過去の事を思い出す。

「伝えて・・・。菫礼は・・・幸せ・・・、だった・・・」
「嫌っス。アチキはそんな事伝えないっス。母さんが直接言えばいいっス」
「聞き・・・分け・・・、無い子。でも・・・、可愛い娘・・・」
「母さん!」
ヴィオレーテは両手でファナの顔に、頭に順に触れ、そして何度も何度も、柔らかな髪を撫でた。

「私・・・、ルイス・・・。自慢の・・・。娘・・・」
「母さん! 母さん! しっかり、するっス」
蕾が花開く様に微笑むヴィオレーテ。

「強く・・・生きて・・・、ファナ。ルイス・・・、私の分まで・・・」
最後にそう呟くと、ヴィオレーテは静かに目を閉じた。
永延の眠りに付いたのである。

「母さん! 母さん! 目を開けてっス!」
車椅子から立ち上がろうとしてよろけたファナを未羽が支えた。

「未羽姉ちゃん! 母さんが! 母さんがっ!」
「ヤミっ!」
ヤミは慌ててヴィオレーテに駆け寄ると脈を取り、黙って首を横に振る。

「逝ってしまった」
椅子に座って目を閉じてたヴィオレーテは微睡している様であった。

「母さんは寝てるだけっス。こうして揺すったら起きてくれるっス。いつもの様に、<ファナ、お早う>って言ってくれるっス。母さん! 母さん!」
 俄かに母親の死を受け入れられないファナは、動かずに冷たくなっていくヴィオレーテの身体を揺さぶり続ける。


「ファナ! もう、止めろ! 止めてくれ」
「ファナ。ヴィオレーテを静かに眠らせてやろう」
未羽と紅蘭が錯乱するファナをヴィオレーテが引き離そうとするが――

「邪魔しないでっス!」
このままでは、ファナの心が壊れてしまうと案じた未羽と紅蘭、だが為す術も無い。

「未羽ちゃん、紅蘭ちゃん! ファナちゃんをそのまま押さえて!」
ヤミの大声にビクリと反応する未羽と紅蘭。

「ヤミ! ファナを救ってくれ!」
「頼む! ヤミ!」
「いいから後は、ボクに任せて!」
未羽と紅蘭に両脇から抑えられたファナに正面からヤミが近づく。

「手を放してっス!」
尚も暴れるファナに近づいたヤミは、軽く眼鏡を持ち上げると自らに呟く。


「棗(なつめ)、君の出番」
一瞬、目を瞑ったヤミの表情が変わっていく。
理知的かつ淑やかな表情に――

「ヤミの別人格・・・」
「誰なんだ? 今度は?」
驚く紅蘭と未羽にその人物が語り掛けた。

「初めまして。ワタクシは棗(なつめ)・ゲシュタルト。【サイレンス(静寂の)・アドラー】とも呼ばれております。以後、お見知り置きを」

そう言うと、棗はペンデュラムを左手に持ちファナへと近づいたのであった。

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