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第8章 戦の果てに
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徳川家康が天下人としての覇権を掴みつつある中、立花宗茂は加藤清正の領国肥後の高瀬で居候をしている。西軍で敗れた大名の家臣たちが増封となった東軍の大名に仕官を求めている。
そんな中、宗茂の家臣100名余りは主君の近くで仕えていたいという気持ちで一緒に肥後の高瀬で暮らしている。家老の中では立花三河のみ、黒田家への仕官が決まったが、由布雪下・小野和泉・十時摂津らはそのまま宗茂再興の道を探っている。
加藤清正の配慮で立花主従には不自由なく過ごす為の扶持米が給されたが、宗茂は何ら気後れすることなく、清正との付き合いを続けた。加藤清正も朝鮮で一緒に戦った盟友立花宗茂が高瀬にいることを心の底から喜び、機会ある毎に宗茂を呼んで、酒を酌み交わした。そんな宗茂も誾千代姫と共に生活することだけは家臣に対し気後れしている。
誾千代姫は2里ほど離れた玉名郡の腹赤村に住んでいる。離れて暮らすようになった宗茂と誾千代姫であるが、唯一の楽しみは旧領松延村庄屋の息子たちが届けてくれる柳河城下のお米であった。難儀な山道を越えて運ばれる旧領の心のこもった贈り物は立花家の主従を大いに慰めていた。
だが、新しい領主田中吉政の耳に入り、庄屋の息子たちは磔となって殺されたと聞き、皆心を塞いでしまった。
慶長6年(1601)6月、十時摂津が上方を探って戻ってきた。徳川家康は大阪城を出て、伏見城で政務を執り行っている。その家康が関ヶ原の戦後処理で上杉景勝を引見するという報せが入ってきた。
立花宗茂はすぐに伏見へ向かった。上杉景勝の処遇が固まる前に徳川家康に会い、今後の身の振りようを問うつもりである。
7月、立花宗茂は徳川家康の居城となった伏見城を訪れた。突然の訪問であったが、今まで会うことを拒んできた家康はすぐ大広間へと招き入れた。
「家康様、この度はお会い頂きありがとうございます。」
「昨年は申し訳なかった。何せ、忙しくて・・・。だが、久々に立花殿の顔が見たくなった。」
天下人となった徳川家康は鷹揚に応えていく。
「有難いお言葉でございます。私も家康様に申し上げたい議がございました。」
「なんでございますかな。」
「家康様に弓引きましたが、今は家康様に生かされている身でございます。亡き秀吉様への義理は十分に果たしました。これよりは家康様に忠節を尽くします。」
仁義に厚い立花宗茂の言葉は信頼に足る言葉であるが、家康は敢えて言葉の芯を外した。
「立花殿、どうぞ頭を上げてください。戦は全て時の運でございます。それに立花殿の身上については黒田殿も加藤殿もみな心配しておいでです。私も存念がある故、井伊直政がこちらへ上洛する折に今後の仕置きを報せましょう。」
回りくどい話である。
これで家臣たちに良い報せを届けられると思った宗茂は、すぐ肥後の高瀬に手紙を送った。
”伏見屋敷での家康様とのご内謁は無事に済み、安心している。家康様は井伊直政氏が上京の折に、私の身上を仰せ遣わるとのこと。家康様は来月には江戸へ下る。その前には返事があるであろう。
また、上杉景勝氏も近いうちに上洛する。佐竹義宣氏やその他の者たちと同じように国替えになると聞いている。島津氏だけは未だ何も聞いておらぬ。”立花宗茂は自ら聞いた風聞を全て手紙に記した。
高瀬にこもる家臣たちは宗茂の手紙に安堵した。何よりも、徳川家康と直接引見したのは大きい。この話は立花家家臣を預かる加藤清正にもすぐ報らされた。立花家の身上を心配し、ずっと家康に働きかけてきた加藤清正も間もなく吉報が訪れるであろうと期待した。
だが、徳川家康と謀臣本多正信はこのまま何も下知しない考えである。 関ヶ原の決戦は終わったが、豊臣家は未だ健在のままである。
その豊臣家に、家康は戦を仕掛けていく。西軍に属した立花宗茂は、これからの豊臣家に忠誠を尽くすかもしれない。家康は勇将と名高い立花宗茂に所領を渡すつもりは無く、飼い殺しにする方針である。
そんな思惑を知る由も無く、立花宗茂は上方で家康の返事を待ち続けた。
そんな思いを踏みにじり、家康は立花宗茂を黙殺したまま、江戸へ旅立っていった。宗茂も家康出発の報せを聞き、今まで自分が家康に誑かされたのに初めて気づかされた。だが、宗茂はこれを恨みと思わずに、ひたすら恭順すると決めた。家康に許されない限り、自分の身上は安堵されない。
だが、自らの矜持を捨ててまで懇願するつもりはない。また、西軍に参加したことで豊臣秀吉への義理は全て果たしている。これより先は豊臣家に合力する道理もない。
宗茂はただひたすらに家康の返事を待つこととした。
京都では大徳寺の大徳院と富士谷紹務の邸宅、大阪の御用を任せていた住吉屋と鍋屋を定宿とし、滞在を続けた。
宗茂が留まり続ける中、加賀前田家からの使いが宗茂の下を訪れた。
「どのような件で参ったのか?」
使いの重臣本多は、前田利家からの書状を恭しく差し出した。宗茂が書状を開き、目を通していった。宗茂が読み終えると、本多は平伏して話を始めた。
「主君は、何卒立花宗茂様をお迎えしたいと申しております。」
宗茂はその問いを涼やかに流した。
「そうであるか。」
本多は更に言葉を続けた。
「立花様は今、御浪人の御身でございます。主君は10万石でお越し頂きたいと申しております。」
宗茂は大徳院の庭を見ながら、ぶっきらぼうに応えた。
「お断りいたします。」
思わぬ返答に焦った本多は、更に言葉を続けた。
「えっ、家臣の皆様もご一緒にお越し頂いても当家は一向に構いません。」
宗茂は本多の顔を見据えて、ゆっくりと話をした。
「前田様は今まで御同輩でございました。浪人の身とはいえ、前田様にお仕えせねばならない義理は毛頭ございませぬ。申し訳ございませんが、お引き取り下さい。」
立花宗茂は矜持や意地を大切に考えてきた誇り高き大名である。その気持ちを理解しているからこそ、加藤清正は居候の宗茂を今までと同じように一人の大名として扱ってきた。関ヶ原の合戦前まで、立花宗茂と前田利家は同じ豊臣秀吉の直参であった。
宗茂にとって、東軍西軍に分れただけで前田利家の家臣になるなど、到底許せぬことである。宗茂からすると話を誘ってきたこと自体、失礼なことである。だが、後々この話を聞いた宗茂の家臣達は、多くの者が残念に思ったのだ。
宗茂は時が過ぎるのをひたすら待っている。焦っても何も進まないと観念し、耐えている。宗茂はこの余りある時間を使い、もう一度自らを鍛えようと思いたった。
亡き世戸口十兵衛の弓の流派である日置流と剣術の稽古を再び始めた。朝から宗茂は稽古に没頭し、体が許す限りの弓を放ち、剣を振り続け、萎えそうになる自らの気魂を叱咤した。
慶長7年(1602)3月、宗茂は精進した弓が認められ、日置流弓術免許皆伝の腕前と認められた。
宗茂が上方にいる間、玉名郡の腹赤村に残る誾千代姫はずっと耐えている。
“殿、殿・・・・、お会いしたい。”
宗茂が家康を追いかけて、上方へ移ってから既に1年が経っている。居候の身故、気晴らしの一騎駆けも出来ずに毎日家に籠もっている。薙刀や鉄砲の稽古も出来ず、誾千代姫の心は少しずつ病んでいく。静が話しかけても、ぼぉーと部屋の障子を眺めることが多くなり、食も細くなってきた。たまに気が晴れることもあり、静に宗茂との思い出を話す。
だが、決まって最後は“殿にお会いしたい・・・。”と泣きじゃくり、寝床に入っていく。静としては何とか宗茂に一目会いに来てほしいと思って、由布雪下に頼んでみた。由布雪下もさすがに今の立場では難しいと断りを入れてきた。宗茂本人の耳に入ったとしても、多くの家臣が苦しむ中、正室に会うだけの為に帰ることなど、当然断るはずである。
静は誾千代姫の心がすり減っていくことを何とか宗茂に知らせようとも思ったが、逆に心の負担になると思い、手紙を送ることを諦めた。
望みも叶わぬと生きている意味も希薄になるようである。誾千代姫は少しずつ衰弱していった。食事を摂らないので、稽古で鍛えてきた身体はみるみる痩せ細っていく。
慶長7年(1602)10月17日誾千代姫は夢を見ている。朝鮮征伐が休戦となり、4年ぶりに宗茂に再会した日の思い出が脳裏によみがえる。
「誾千代、お主に会いたかった。」
誾千代姫はこの言葉を一生の宝物として生きてきた。最後に誾千代姫は笑みを浮かべ、34歳の生涯を終えた。光照院殿泉誉良清大禅定尼という法名で葬られた。
宗茂は誾千代姫の死を由布雪下からの手紙で知らされた。宗茂は道雪の死、父高橋紹運の死、多くの家臣の死を受け止めてきた。
だが誾千代姫の死に、宗茂の心は破裂した。
“会いたかった。・・・・何も言えなかった。・・・・知らなかった。・・・・。何故知らせなかった。・・・・”
憤りと悲しさと哀れな気持ちが交錯する。宗茂は食事を断ち、稽古を休み、部屋に籠った。上方で宗茂の世話をする十時摂津は、宗茂の気持ちを慮り、全ての雑務を遠ざけた。
“宗茂様の深い哀しみは自らで乗り越えるべきである。”
4日経った朝、宗茂は凄惨な表情で部屋から出てきた。
「摂津、待たせたな。」
「はい、粥をご用意します。」
宗茂はゆっくりと噛みしめるように粥を体に流し込んだ。少しずつ、宗茂の身体に生気がよみがえる。
「摂津、誾千代とずっと話しておった。」
十時摂津がずっと堪えてきた涙が溢れ出てきた。
「あぁ・・。あぁ・・。」
十時摂津の声にならない嗚咽に、宗茂は眼を閉じて瞑目する。
「誾千代と約束した。誾千代はお主らのことを一番心配しておった。いつまでも、先が見えぬ私といても詮無いことである。皆、先の事を考えねばならぬ。さすがは女城主、すっかり教えられたわ。」
宗茂は家臣の行く末を思案し、立花家の再興を図ることとした。
2か月後の12月27日、島津忠恒と家久は伏見で家康に拝謁することになった。家康も今更九州最南端の島津家と合戦を行う気も無く、本領安堵をした。これで関ヶ原の戦後処理は全て終了し、宗茂は何の沙汰もないまま、高瀬に戻った。2年以上の浪人生活を続けたことで多くの家臣たちの生活は困窮している。
それでも皆は立花宗茂の家臣のままでいることを望んだが、何の所領も持たぬ宗茂にとって家臣を養えないことはあまりにも悲しい。この思いを汲んで、清正は宗茂に“是非、宗茂殿の家臣たちを召し抱えたい。”と願い出た。この清正の申し出は宗茂にとっても、宗茂の家臣にとっても有難い申し出であったが、もう宗茂の家臣には戻らない覚悟で仕えねばならない。
宗茂は加藤家に仕える家臣たちのまとめ役を決めた。
宗茂は、小野和泉を自室に呼んだ。
「和泉、頼むが清正様に仕えてくれぬか。」
小野和泉は沈黙し、苦悶の表情を浮かべた。
「殿、どうやら私しかおりませぬ。誰もおらぬ故引き受けますが、私は殿に一生仕えるつもりでございました。」
小野和泉は眼を見開いて宗茂を見た。
「すまぬ。お主しかおらぬ。」
宗茂も見開いた眼差しで小野和泉を見ている。
小野和泉は少し肩を落として、頭を左右に振った。
「主君に頼まれたら、断れませぬ。殿、少しお待ち頂けますか。」
小野和泉は部屋を出ていき、すぐに戻ってきた。暫くして障子が開き、近習が7百貫文(約5千万)の金子を運んできた。
「私が柳河城に参ってから、貯めてきた金子でございます。どうぞ、お使いください。」
宗茂は以前筑紫広門から、小野和泉が金を無心していることを聞いた。その時に守銭奴と呼ばれていることも知った。宗茂はその話を聞かされても、小野和泉への信頼は揺らがなかった。
だが、多くの人は小野和泉を誤解した。
「和泉、よくぞこれまで溜めてきたものであるな。」
「はい、陰口は聞いておりました。そのおかげで商人などはせっせと金子を持って参りました。」
主従揃って、久々の高笑いであった。その後、十時摂津も高瀬に小野和泉と共に留まることとなった。
小野和泉が加藤清正へ仕える家臣のまとめ役になってくれたことで、宗茂は安心して京・大坂へ移り住んだ。だが宗茂には何の所領も無いので、小野和泉からもらった財を切り詰めて生活するしかない。当然家臣に払う俸禄も無い。
家臣たちは自らの才覚で生きていく糧を探した。ただ、その生活を続けても、将来宗茂の身上が安堵される見込みは全くない。
全ては徳川家康が立花宗茂を許し、所領を与えない限り、困窮の生活は続いていく。それでも立花宗茂を主君として支えていきたいと考える家臣たちは多かった。宗茂は家臣たちの家族の生活を憂い、由布雪下に家臣たちへの説得を頼んだ。
由布雪下は宗茂の想いに応え、小野和泉に頼んで、多くの家臣を加藤清正に仕えさせた。激しく拒む者もいたが、由布雪下は普段の激情を堪え、説得を続けた。こうして、立花宗茂に仕える家臣は由布雪下・十時摂津ら20数名となった。
月日は流れていく。
上方へ移り住んだ立花主従は、金子を欠く毎日となっていった。日々の暮らしの金子は家臣たちの賄いによって、もたらされている。由布雪下・十時摂津は虚無僧となり、街を練り歩いて、お布施を頂くようになった。
由布雪下が奏でる尺八の音色は、先の見えない主従の哀しさそのものである。哀切に満ちた調べが多少の稼ぎとなった。
他の家臣たちは立花家中であることを隠し、人夫として働いている。家臣たちが身分を隠して金を稼ぐ中、宗茂は泰然自若の毎日を過ごしている。日々、弓と剣の稽古に励み、免許皆伝を授けられるまでに没頭した。稽古が出来ぬ雨の日は書見に励み、自らを研鑽した。
そんな毎日であるが、立花主従の食事はどんどん質素になっていく。ある日、何度目かの雑炊を食べていた宗茂は十時摂津に声を掛けた。
「摂津、飯と椀は一緒に入れて出さなくてもよい。私にもそれぐらいできる故、気にするでない。」
宗茂は見当違いの心づかいを見せた。十時摂津はこの言葉を聞き、逆に心打たれた。
“殿が雑炊を分かっておらぬことこそ、我が家中の救いである。”
主従の絆が深まる中、更に米粒にまつわる出来事があった。朝晩が涼しくなって、木々も色づき始めの頃、庭で家臣たちは残飯をまとめ、秋の陽に当て、干飯にしようとしていたが、突然の雨が降ってきた。家臣たちは皆ちょうど出払っている。
“何とか殿が気付いて、軒下に置いてくれまいか。”
家臣たちは密かに期待したが、無残にも残飯は雨に打たれ続けた。雨に濡れた残飯は、色づいた木々の葉にまみれている。そんなことを露とも知らぬ宗茂が縁台で書見を続けている。戻ってきた家臣たちはその姿に己の胸中を吐露した。
“殿がもしお気づきになって、片付けておいてくれたらなどという浅ましい気持に成り下がってしまった。”
“うむ、殿が変わらぬことが我らの誇り。”
“殿はこの殿のままでよい。また戦場を駆けねばならぬ。”
家臣達は更に日々の稼ぎにいそしんだ。
宗茂主従が困窮の生活を続ける中、世は移っていく。
慶長8年(1603)2月12日、後陽成天皇は徳川家康を征夷大将軍と右大臣に任命した。名実ともに天下が豊臣家から徳川家へ移り、徳川幕府による支配が進んでいった。
3月、家康は伏見城から二条城へ移った後、御所を参内し、跡継ぎの秀忠を次の征夷大将軍になるよう奏上した。
7月には、跡継ぎの徳川秀忠の娘千姫(七歳)が大坂城の豊臣秀頼(11歳)に嫁入りし、豊臣家への懐柔も企んだ。
また西国の大名に対し、人質を江戸に送るよう命じるなど天下人として振る舞っている。慶長10年(1605)1月、江戸を立った徳川家康が伏見城に入ると、この家康を追いかけて、3月12日徳川秀忠が東国の諸大名約16万人の大軍を従え上洛した。この示威行動は朝廷と豊臣家への大きな圧力となった。家康は朝廷に対し、4月7日将軍職辞任と秀忠の推挙を朝廷に奏上すると、16日秀忠は第2代征夷大将軍に宣下された。
これで徳川家の将軍職世襲は朝廷にも認められ、家康は建前上隠居となり“大御所”と呼ばれるようになった。もう天下は間違いなく徳川のものである。
新しい将軍となった徳川秀忠は江戸城で、大御所の家康は駿府城で二元政治を行うようになった。
関ヶ原の戦いが終わって6年、立花宗茂の存在は世から完全に忘れ去られた。加藤清正の家臣となった旧立花家家臣たちも、次第に古参の加藤家中と軋轢が生まれ、疎まれるようになっていた。旧立花家家臣をまとめる小野和泉は、加藤清正から物語や将棋に誘われるほど厚遇されていたが、加藤清正の重臣からは侮られた。
ある酒の席で、加藤清正の重臣らは酔っぱらって小野和泉を囲んで、武功話をねだった。
「我が加藤家には日本七本槍の飯田覚兵衛様と小野和泉様がいらっしゃいます。我らは昔から加藤家におります飯田様の武功を存じておりますが、小野様の武功を知りませぬ。」
小野和泉は自分の武功を語るほど酔狂ではない。それに酔っ払いに語ったところで酒の肴になるのが関の山と思い、黙して語らず、酒の席を後にした。
“七本槍とは言うが、それは柳河でのこと。ここ加藤家ではただの人であろう。”
このように小野和泉の無能さが吹聴され、旧立花家中は更に馬鹿にされるようになっていった。小野和泉はこの話を旧立花家中から聞き、数日後の酒宴で一芝居を打つこととした。
この日も加藤清正の重臣たちは武功話をせがんだところで、小野和泉は皆の前で着物を脱ぎ、上半身を見せつけた。60歳とは思えぬほどの筋骨凄まじき上半身である。その身体には無数の鉄砲・刀・槍傷が刻まれている。戦場で命を削った証である。
皆が無言になる中、小野和泉は小姓に持参させていた感状を手にした。
「先日も御所望されました武功話、今日は皆様にご披瀝致しましょう。ただ、武功話に嘘があってはならぬということで、私が仕えて参りました大友宗麟様・立花道雪様、そして主君宗茂様からの感状をお見せしながらお話ししましょう。」
小野和泉は感状を見せながら、大きな鉄砲傷や槍傷を受けた後、ひるまずに敵を攻め入った様子を淡々と話をしていく。多くの話が寡勢で大軍に挑む厳しい合戦である。加藤家の重臣たちは改めて立花軍の凄まじさと蔚山城の恩を思い出した。
「小野様、恐れ入りました。参った。参りました。」
加藤家の重臣たちが平伏する中、小野和泉は更に続けた。
「ではお教え頂きたい。私の新しい主君の清正様は仏木坂で天草の木山弾正を一騎討ちで勝ったと聞いております。」
加藤家の重臣たちが訝しむ中、小野和泉は声を張り上げた。
「あなた方はその時何をされておったのか。私は戦場で主君が危険な目に遭わぬよう、ましてや一騎打ちなど無いように戦を進めて参りました。私はこれからもそのつもりです。」
皆が感服し、小野和泉の武勇と忠誠心を敬うようになった。この後、旧立花家の家臣たちが冷遇されることは無くなった。
そんな出来事の後、小野和泉に立花宗茂からの書状が届いた。
“6年余り、上方での生活を続けたが、何ら変わりがない。徳川秀忠将軍がいる江戸に移り住むこととする。”
慶長11年(1606)6月、立花宗茂主従一行はなけなしの金をかき集め、江戸へと向かった。小野和泉はすぐさま金子をかき集め、20貫(150万)ほどを宗茂主従に送った。この20貫は江戸へ向かう道中の宗茂主従に届けられた。路銀が底を尽きかけたこの浪人所帯は大いに元気づけられた。
江戸に到着した立花主従を待っていたのは相変わらずの貧しい生活であったが、ふとしたきっかけで徳川家康が誇る勇将本多忠勝との再会を果たすこととなった。
ある日、いつものように十時摂津は虚無僧に扮し、托鉢をしていると、3人の浪人に絡まれた。十時摂津は面倒を避けようとしたが、執拗に絡む3人の浪人は刀を抜いて、十時摂津に刀で斬りかかった。やむなく、十時摂津は応戦し、浪人の刀を取り上げて、3人を斬り殺してしまう。この刀傷沙汰で奉行所は十時摂津を取り調べた。
そして、江戸幕府は立花宗茂主従20名が高田の寺にいることを知ったのだ。
たまたま、江戸城へ伺候した本多忠勝はこの話を老中の土井利勝から聞かされた。
「本多様、昔の話でございますが大御所様と一緒に、小田原攻めで秀吉と共に会った立花宗茂が江戸におります。」
「まことであるか。嗚呼・・・、あの若き古今無双の勇将が江戸にいるのか。これはすぐ行かねばならぬ。」
本多忠勝は江戸城を後にして、高田の寺に向かった。高田の寺に到着すると、立花宗茂は弓の稽古に没頭している。うだるように蒸し暑い強い夏の日差しの中、本多忠勝の姿に全く気付かずまま、遠くの的を目がけ、何度も早射を行っている。流れるような所作と正確な技は本多忠勝も及ばぬ腕前である。
宗茂は滴る汗を拭った折、初めて本多忠勝の姿に気づいた。
「本多様、お久しぶりでございます。」
昔と違わぬ涼やかな姿に本多忠勝は懐かしさがこみ上げてきた。
「立花殿、今宵は飲み明かそうと参上した。」
本多忠勝は小姓に持たせた酒を掲げ、満面の笑みを見せた。宗茂は弓の稽古を切り上げ、水浴びして、縁側で酒を酌み交わした。酒の肴は、関ヶ原の戦と朝鮮征伐の武功話である。本多忠勝は宗茂の話を聞きながら、改めてこの立花宗茂の類稀なる勇猛と采配を認めている。
“秀吉が西国一の一物と言ったのは間違いない。”
忠勝は縁側で酒を飲みながら、虚無僧と人足姿となった立花家家臣が寺に戻ってくるのを見ている。
“関ヶ原の戦も終わって、もう何年経つであろう。この立花主従を必ずや救って見せよう。”
本多忠勝は立花家の再興を心に期している。この日、本多忠勝と立花宗茂は、戦功話を朝まで続けた。
翌日より、本多忠勝は立花宗茂の復帰を江戸幕府内で触れ歩き、大御所にも秀忠将軍にも願い出た。本多忠勝は家康股肱の勇将として、多くの合戦で手柄を挙げてきたが、内政にはほとんど興味をみせてこなかった。
たった一度だけ、忠勝は娘婿の真田信之とともに関ヶ原の戦いで西軍に属した真田昌幸・真田幸村親子の助命を家康と秀忠に嘆願したことがある。家康も秀忠も死罪を命じるつもりであったが、忠勝は頑強に抵抗した。
“もしお聞き下されなければ、私は一戦交える覚悟です。”
本多忠勝は主君に折れるつもりが全くない。徳川家の武勇を支えた本多忠勝の強請に、さすがの家康も秀忠も困り果ててしまった。家康はやむなく真田親子の死を免じ、高野山の九度山に蟄居させたことがある。本多忠勝の立花宗茂への肩入れに、家康も謀臣本多正信と相談を重ねた。
“立花宗茂の6年の恭順は見事なものであった。当家を忌み嫌う者達との繋がりは全て断ち、徒党も組まず、ただただ我が許しを待つばかりであった。ここで救わねば、立花家は豊臣家に組するやもしれぬ。それに立花宗茂を慕う大名は多い。秀忠が将軍としての寛容を見せるに良き披露となるであろう。“
家康はすぐ江戸幕府に対して、立花宗茂の秀忠将軍拝謁を命じた。同時に十時摂津の3人斬りの無罪放免も決めた。
慶長11年(1606)9月、立花宗茂は杏葉紋の直垂を身に付け、江戸城へ登城した。付き添いには由布雪下が厳しい表情で連なっている。もし、主君の宗茂が辱めを受ければ、すぐに意地を見せる覚悟である。
宗茂は対照的に涼やかな表情で待っている。秀吉への忠節を貫き、ここ6年は西軍に味方した禊を十二分に果たしてきている。今日の評定如何では再び徳川家を敵とすればよい考えである。
覚悟を決める宗茂に対し、大広間の上座に座る秀忠将軍の顔はすっかり青ざめている。先ほどより、本多忠勝が憤怒の顔で秀忠将軍の評定を待っているからである。
「宗茂殿、知行5千石、大番頭を命ず。」
立花宗茂はじっと秀忠将軍の顔を見つめている。不敬ではあるが、宗茂に気後れすることなど何もない。小田原攻めの時、少しばかり見たことがある家康の長男が家康の後見で将軍になっている。
この新しい将軍を何とか支えたいという気持ちが生まれて、初めて自分の主君と云えるであろう。
「宗茂殿、如何であろうか?」
将軍とは思えぬ気弱で甲高い声に宗茂は心を決めた。
“これより、徳川家をお支えいたそう。”
「大番頭、しかと務めさせて頂きます。」
本多忠勝も由布雪下も破顔一笑し、宗茂の復帰を歓んだ。
宗茂の領地は奥州棚倉と決まった。肥後に留まる小野和泉に手紙を送ると、小野和泉はすぐに熊本城の加藤清正に報せた。
「清正様、宗茂様がやっと将軍様より赦されました。」
長年、気を揉んでいた清正も手を叩いて喜んだ。
「小野殿、待ったかいがあった。良かった。」
加藤清正は立ち上がって、感慨深げに熊本城から見える山々を見つめた。
「はい、秀忠将軍様より奥州棚倉の5千石を拝領しました。」
「それはよきことであるな。早く立花家中に知らせ、奥州に行きたい者を募るとよい。」
加藤清正は振り返って、笑みを見せている。
「え、そのようなこと・・・・。」
加藤家に仕えるようになった旧立花家中はそのまま加藤家へ忠節を尽くすのが武士の流儀である。だが、江戸へ連れていった20名の家臣だけでは、新しい領地を治めきれない。清正は立花宗茂に格別の恩義を感じている。それ故、家臣として預かった旧立花家の家臣たちが立花家へ戻ることをすぐに了承したのだ。
「構わぬ。宗茂殿に再仕したいものは申し出させよ。一向に構わぬ。」
清正の格別の計らいに旧家臣約20名が出立した。ただ、立花家の旧臣全てが奥州に行くわけではない。加藤清正への義理を全うする者も多くいるし、九州を離れたくない者もいる。
宗茂は、新たに棚倉で新規召し抱えを行った。
立花宗茂の復帰はすぐ日本国中の大名へと知らされた。信義に厚く、勇猛な立花宗茂の復帰は多くの大名に歓迎された。
縁故の深い大名たちはすぐに祝いの品を届けると同時に、大番頭として江戸城に詰める立花宗茂の下へ挨拶に伺っている。皆一様に感心したのは、浪人する前から全く変わらぬ立花宗茂の堂々とした振る舞いであった。また、裃姿から溢れる体躯は今も変わらぬ精進の賜物であることを察した。
江戸幕府も復帰した立花宗茂の真摯な奉公を認め、徳川秀忠将軍と江戸城の警固役を任されるようになった。復帰間もない外様大名の名誉ある登用には本多忠勝からの信頼と後押しも大いに加味されている。立花宗茂は共に耐え忍んできた家臣たちと共にこの重任に全てを注いだ。
その忠義な心と姿勢は、幕府のみならず徳川秀忠将軍も頼りとするようになっていった。幕府は宗茂の知行をすぐ1万石に加増した。
この宗茂の再起を一番喜んだのは肥後に留まる小野和泉であったが、慶長14年(1609)6月に死を迎えた。64歳の生涯の大半を立花道雪と宗茂に尽くした忠臣の死の報せは、江戸城警護に詰める宗茂に報らされた。伝えたのは老臣となっても宗茂を支えてきた由布雪下である。
「殿、・・・・。」
涙ぐむ由布雪下に宗茂は全てを察した。
「嗚呼、そうであるか。」
「和泉殿が・・・。」
由布雪下はうなだれたまま、涙をこぼしている。朝鮮征伐では体躯の弱った自分を領国に留め、老体に鞭打って宗茂の合戦を支えてきた。
不遇となった浪人時代には宗茂に仕えたい気持ちを全て捨て、旧立花家家臣のまとめ役として、今まで加藤清正に尽くしてくれた。守銭奴と呼ばれ、家臣らから非難を受けたこともあったが、主君への想いが全てであった。
宗茂は威儀を正してから、九州の方向へ体を向けて、合掌した。
“和泉殿、今まで尽くしてくれた忠勤は忘れない。必ずや九州へ戻って見せよう。”
宗茂はいつまでも合掌を続けた。
慶長15年(1610)2月、徳川秀忠将軍は大行列を従え、大御所の家康へ会う為に東海道を西へ向かっている。宗茂は秀忠将軍の警護役として、街道沿いに目を光らせている。駿府城に到着した秀忠将軍は大御所家康への挨拶に宗茂を同行させた。
徳川家康とは9年ぶりの再会である。秀忠将軍の警護役として付きそう宗茂の姿に、家康は一瞥すると優しく声をかけた。
「宗茂殿、この会が終わった後に茶室に参るがよい。久方ぶりの物語でもいたそう。」
宗茂はこの言葉に平伏して応えた。
駿府城の茶室からは駿河湾を望むことが出来る。暦では厳しい季節であるが、ここ駿府は暖かい日差しに包まれることが多い。今日も障子を開け放ってもよいほどの小春日和である。
立花宗茂が茶室に入ると家康と本多正信が待っていた。
「大御所様、お変わりなく。本多様、お久しぶりでございます。」
丁重に挨拶する宗茂に対し、家康はにこやかに、本多正信は鷹揚とした態度を見せた。
「宗茂殿、待たせたことは悪かったな。今の忠勤振りを聞くともう少し早く赦しても良かったかなと思っておる。」
天下を牛耳る大御所の言葉に少しだけ頭を下げ、再び顔を上げた。
「いえ、そちらにおられます本多様のお考えかと。」
本多正信は茶室から見える駿河湾から視線を外さない。家康は構わず、話を続けた。
「ところで、宗茂殿、聞いておきたかったことがある。もし、関ヶ原の戦で間に合っておったら、如何様に戦ったか。」
「そればかりは詮無いことでございます。」
宗茂はぶっきらぼうな顔で答えたが、合戦話に気を使うつもりは毛頭ない。
「こたえてみよ。」
駿河湾を遠く見つめる本多正信の言葉に宗茂は反応した。
「それがしの軍はその当時、父道雪より授かった技で他より3倍の鉄砲の弾を撃つことができました。我が軍が間に合えば、・・・・。」
宗茂は少しだけ間を空け、一気に畳み込んだ。
「当然、大御所様の命のみを狙って斬り込んでおります。さすれば、我らに続いて島津殿も動いたでございましょう。他の軍も恐らく・・・・。我が立花軍と島津軍が攻めれば、ここにお二人はいなかったはずでございます。」
西国一の一物と呼ばれた立花宗茂の見事な言い様であった。茶室に不穏な沈黙が一瞬満ちたが、家康が発した言葉で宗茂はこの後の一生を全て徳川家に授ける意思を固めた。
「戦に間に合えば、そうであったろう。だが、戦は紙一重。今わしがここにいるのも合戦と思うておる。これよりは徳川家の為、その武勇を生かして欲しい。」
宗茂の意地をそのまま受けてくれた家康の度量に宗茂は感服した。この対面後の4か月後、7月25日に宗茂は3万石に加増された。
この年、宗茂を幕臣に強く推してくれた本多忠勝は世を去った。翌年には加藤清正、翌々年の慶長17年(1612)には奥州棚倉の仕置きを任せていた老臣由布雪下も世を去っていった。宗茂は世の無常をしみじみ感じている。
“柳河へ戻る為に浪人して参ったのに・・・・。由布雪下にもう一度、立花城を見せたかった。”
宗茂は無念を胸にしまい、新しい主君秀忠将軍の警固の仕事に没頭した。立花家家臣たちも宗茂に倣って、一切の隙無く、全身全霊をかけて徳川秀忠将軍の身の回りと江戸城の警備に邁進している。そんな立花家主従の忠勤ぶりを評価する徳川秀忠将軍は江戸城天守閣に宗茂を呼び出した。普段、秀忠将軍は将軍屋敷で過ごすことがほとんどで、天守閣に上がることなど余り無いことである。
宗茂にとって初めての天守閣である。近習に促されるまま天守に上がると、武蔵野が遠い彼方まで拡がっているのが見えた。
“これも天下の城であるな。”
宗茂は絢爛豪華な大阪城を思い出している。豊臣秀吉が作った大阪城に比べると見劣りするほどこの江戸城は質素である。だが、普請した家康は築城の飾りに金銭を掛けず、堅牢なこの江戸城を短い年月で作り上げた。家康の居城駿府城も同様である。自然の地形を利用し、徳川の屋台骨を守る城を必要以上に飾ることはしなかった。
“徳川家の強みであるな。”
感慨にふける立花宗茂の前に秀忠将軍が現れた。平伏する宗茂の前に秀忠将軍が座り、柔らかな声色で声をかけた。
「立花殿から見て、この江戸城はいかがであるか。」
「まさに天下の城でございます。」
この言葉に秀忠将軍は少し自嘲気味に笑っている。天下は徳川のものとなったが、未だに大阪城は健在で、秀吉の正室淀君と忘れ形見豊臣秀頼も大阪城に留まっている。世はいずれ天下を牛耳る徳川家と天下一の大阪城と噂されている。
大御所家康は将軍秀忠に、勇将立花宗茂が大阪城へ味方せぬように徳川家から養子を迎える話をするように命じている。
「立花殿、徳川より養子を迎えぬか。」
立花家にとって名誉ある申し出である。これより先、外様の立花家は譜代の大名よりも重用され、栄えていくであろう。宗茂はそんな申し出を丁重に断った。
「天下の徳川家より、お世継ぎを頂くなど滅相もございませぬ。何卒、ご容赦下さい。」
有無を言わさぬ宗茂の言葉であった。ただ、立花家を継ぐ跡取りもいないのも確かである。
「では、立花家は誰が継ぐのか?」
尤もな問いであるが、宗茂は立花家を徳川に譲るつもりは毛頭無い。
“立花家は道雪様、そして父高橋紹運の名を継ぐ誇り高き家名である。我が身内以外、決して渡してなるものか。”
宗茂は前より思案してきた跡取りの名を出した。
「我が弟直次の子に継がせるつもりでございました。」
秀忠将軍にとって思わぬ言葉であったが、今まで尽くしてくれた宗茂の申し出をそのまま受け入れた。
「立花直次は確か肥後におると聞いておったな。そうか、では面目が立つようにせねばならぬな。」
大御所の願いは叶わなかったが、宗茂は徳川家のこの厚恩を全うするつもりでいる。
翌年の慶長18年(1613)1月、弟直次は大御所と秀忠将軍に拝謁した。
更に翌年の慶長19年(1614)、弟直次には常陸国5千石の知行が与えられた。こうして、兄弟共に復活した立花宗茂・直次は徳川秀忠将軍の直臣となった。
いよいよ、世は徳川家と大阪城の決戦へと向かっている。
関ケ原の西軍主力であった立花宗茂に淀君や豊臣方からの誘いが絶え間なく参ったが、宗茂は一切無視した。そして、慶長19年(1614)10月23日、立花宗茂・直次は豊臣秀頼を討伐する徳川秀忠の馬廻りとして、江戸を出発した。宗茂の筆頭家老となった十時摂津の下に、秘かに豊臣方に味方するよう誘いがきたが、十時摂津は宗茂にも報せず、全てを断った。
立花家は既に関ケ原の合戦で豊臣家への義理を十分に果たしている。立花家主従共に、見当違いの誘いであった。
宗茂は秀忠将軍と共に、天下一の大阪城を囲む徳川方の陣を回っている。
“大阪城と云えども、援軍の全く見込めむ戦は辛いであろう。”
大阪城を守る外濠を数十万の徳川勢が覆っている。この合戦の采配は秀忠将軍ではなく、徳川家康が握っている。
“淀君では大御所様に絶対敵わぬ。豊臣家は間違いなく終わる。”
11月徳川軍は、大阪城へ怒涛のような攻撃を始めた。
だが、秀吉の造った天下の大阪城の防ぎも天晴である。悉く、徳川方の猛攻を凌いでみせた上に、大阪城唯一の弱点ともいえる南側に造られた真田丸では、勇将真田幸村が徳川方を完膚なきまでに退けている。
このまま長い戦となるであろうと両軍ともに覚悟していたが、徳川勢の攻城砲が淀君の心を挫いた。攻城砲の一弾が大阪城本丸を直撃し、淀君の侍女8人が即死するという凄惨な姿に和睦を決意する。和睦の話し合いは終始徳川家康の考え通りに進んでいく。
12月18日豊臣方と徳川方の和睦条件の詰めが終わり、正式に和睦が整った。
・豊臣秀頼の本領を安堵する。
・大阪城に参戦した軍勢を不問とする。
・大坂方の大野治長、織田有楽斎より人質を出す。
・大阪城二の丸・三の丸を破却する。外堀を埋める。
徳川家康の狙いは天下の大阪城そのものであった。家康は譜代の家臣を使い、大阪城外堀を埋めた後、本来豊臣方が行う二の丸・三の丸の破却を強行し、更に内堀を埋め、豊臣秀吉が作った大阪城の堅牢さを全て奪い去った。
年は改まり、元和元年(1615年)となった。徳川秀忠将軍と共に江戸城へ戻った宗茂は、大阪城の風聞を聞いている。
“大御所様の執念であるな。”
家康は豊臣家を完全に葬るつもりで、大阪城の堀の埋め立てを強行した。宗茂はこの後にある合戦で何としてでも主君秀忠将軍に手柄を授けるつもりである。既に大阪城には浪人が続々入場し、徳川方に埋められた内堀も掘り返されているという話が聞こえている。
4月10日、両軍ともに戦の機運が高まり、徳川秀忠将軍は立花宗茂と直次を馬廻りとして従え、江戸を出発した。徳川軍軍勢が続々大阪城を包囲するが、豊臣家にはもはや依るべき堅牢な大阪城は無い。陸続きとなって囲む徳川の大軍相手に、己の武勇を見せるばかりである。豊臣家の勝ち負けや恩賞などに執着する気持ちは無い。
徳川秀忠将軍に従い、岡山方面に布陣した宗茂は大坂城に籠る軍の動きを冷徹に探っている。
“もはや乾坤一擲の突撃しかない。最後に意地を見せる戦いを仕掛けてくるはず。”
5月、大坂城の攻めを読み切った宗茂は、秀忠将軍に進言した。
「将軍様、我が陣の旗本勢は前に出過ぎております。どうか本営を後ろに置いて下さい。」
「宗茂、皆手柄を立てたいと思っている。私も同じだ。宗茂、今回は控えよ。」
戦功に逸る秀忠将軍は宗茂の進言を退けた。
こうして5月7日未明、夏の陣最後の戦、天王寺・岡山の戦いが始まった。
豊臣軍は死を覚悟した兵ばかりである。豊臣方の真田一族と毛利勝永が寡勢とは思えぬ奮戦を見せる中、秀忠将軍らの守る岡山口に決死の大野治房が突撃してきた。大野軍の怒涛の攻めに旗本勢は10町ほど退いた。
更に退こうとしたとき、立花宗茂は騎乗したまま、秀忠将軍に進言した。
「将軍様、これより先、敵に攻め込む力はございませぬ。今は本営を下げずに耐えて、前のめりで押すべきでございます。」
宗茂は突っ込んで攻めてくる敵兵の息切れを見て、敵の疲れを察した。宗茂自身も直次と僅かな手勢60騎を従え、鉄砲と弓で交互に攻め、錐のように大野軍へと斬り込んでいった。立花の鋭い攻めに大野軍は堪らず、退いていく。
秀忠将軍は宗茂の見事な攻め様に感嘆し、以降は必ず自分の周りに宗茂を置いた。宗茂は大野軍を追いながらも、大坂城手前で手勢60騎を押し留めた。
「これより先は大坂城の籠城組が待っておる。もはや戦の大勢は変わらぬ。戻るぞ。」
宗茂は大坂城天守閣を見上げながら、豊臣家の最期を看取った。
元和2年(1616)徳川家康は天寿を全うした。宗茂は秀忠将軍の御噺衆8名に選ばれ、2日に一度秀忠へ仕えるようになった。御噺衆となった宗茂であるが権勢に驕ることなく、ただ真摯に職務に励んだ。
そんな宗茂の無私な姿に江戸幕府重臣も譜代衆も篤く信頼を寄せ、立花宗茂を懇ろに扱うべきだという気運が少しずつ醸し出されていった。
元和6年(1620)立花宗茂の領国柳河城を受け継いだ田中吉政の息子忠政が、36歳で亡くなったという報せが江戸城へ知らされた。関ヶ原の戦功で田中吉政は宗茂の旧所領を拝領したが、11年前に亡くなっている。跡継ぎ田中忠政の死により、田中家一族の誰かが末期養子として柳河城を相続することも考えられるところであった。
だが、無情にも徳川幕府は田中家を無嗣断絶で改易とすることとした。
一見無慈悲とも思える決定の裏には、秀忠将軍以下江戸幕府重臣たちの並々ならぬ後押しがあった。
“何とか、宗茂に旧領柳河城を与えてやってほしい。”
秀忠将軍の意を酌んだ酒井忠世・土井利勝ら老中は直々に差配を進めている。
11月27日、立花宗茂は江戸城屋敷へと呼び出された。大広間で宗茂が待っていると、予想に反して秀忠将軍が現れ、上座に座った。宗茂は何の話であろうと下座で平伏して身構えていると、秀忠将軍の甲高い声が大広間に響いた。
「宗茂殿、奥州棚倉より柳河に移るがよい。」
思わぬ言葉に宗茂は顔を上げた。すると眼の前に満面の笑みを浮かべる秀忠の顔があった。
「柳河、知行12万石である。」
宗茂は万感の思いで平伏する。
関ヶ原の合戦で奮戦した西軍の大名の多くは斬首・島流し・改易・領土を削られるなど散々な結末を迎えている。領土を守った西軍の大名たちは徳川家康に内通し、合戦で戦を放棄し、寝返るなど武将とは思えぬ作法で身の安全を図り、後に自らの名を下げた者ばかりである。豊臣秀吉との忠節を貫き、合戦の後は恭順を貫いた。だが、一切媚びずに自らの仁義のままに振る舞ってきた。本来であれば、新しい主君徳川家の為に武功を上げることが一番の早道と思ったが、所領も自らの軍もないという状況では所詮適わぬ考えである。
それ故、自ら出来ることを愚直に通すことしか出来なかったが、結局はそれが一番の早道であったのかもしれない。
「御厚恩、必ずやお返しいたします。」
西軍に属した大名で旧領に復帰した大名は島津家以外では立花宗茂のみである。この恩義には必ずやこの後の奉公で返していきたいという宗茂精一杯の言葉であった。
元和7年(1621)1月立花宗茂は、十時摂津や旧立花家の家臣、そして新たに召し抱えた家臣達と共に奥州棚倉を後にした。
慶長11年(1606)から慈しんできた奥州棚倉の農民たちは泣きながら、宗茂の行列を追った。15年の長きにわたる善政への感謝を農民たちは皆口にした。那須山から下ってくる厳しい冬風を頬に受けながら、宗茂は最後の騎馬姿を農民たちに見せ、別れを告げた。
2月宗茂一行は柳河城へ向かう道中、京や大阪にも立ち寄った。宗茂は浪人している間に世話になった大徳寺や邸宅を貸してくれた富士谷紹務らに会い、篤い恩義に感謝した。
そして、宗茂一行は大坂で諸御用を任せていた住吉屋に頼んで、九州への廻船を手配した。
宗茂一行は瀬戸内海を西へ向かう廻船からの景色に心躍らせている。
厳しい風と凍るような波の粒が宗茂の顔を叩いているが気にせず、廻船の進む先を見ている。右手には播磨国の山々、左手には四国の山々、そして行く手には瀬戸内海の小島が幾つも連なっている。
“変わらないものであるな。”
何度も大坂城と柳河城を往復した日々が甦ってくる。
“小野和泉、由布雪下・・・・誾千代姫。”
宗茂は西の空を見上げて、1人つぶやいた。関ヶ原の合戦から、既に21年が過ぎている。宗茂自身も54歳になっている。
廻船は何度も寄港しながら、西へ向かっていく。そして、長門国の壇ノ浦が見えてきた。
“世戸口十兵衛・・・・、太田久作。”
関ヶ原の合戦後、弓組30余人を乗せた船が転覆し、世戸口十兵衛はその責任を感じて自害してしまった。今でもこの出来事は悔やまれてならない。世戸口十兵衛と一緒に宗茂を支えてくれた太田久作も2年前に江戸屋敷で天寿を全うしている。
2人との稽古のおかげで、今の自分がある。
“まもなくである。”
廻船は門司港に到着した。久方ぶりの九州の地である。
“何もかも懐かしい。”
宗茂は感慨深げに九州の街道を南下していく。2月雪深い奥州棚倉は真っ白な風景ばかりであるが、九州の山野は心地よい色合いであるように思われる。
2月26日、筑後へ入るとすぐ、皆が心待ちした3つのこぶの立花山が見えてきた。
一番西の井楼岳に立花城の遺構が残されている。立花宗茂が筑後国柳河城に移った後は、小早川隆景が筑前国と立花城を治めていたが、関ヶ原の合戦以降は東軍に属した黒田長政が筑前国を治めている。
その黒田長政は、慶長6年(1601年)に福岡城を築き、立花城を廃城としている。立花城の天守閣はもうないが、立花山に近づくと、宗茂は誾千代との思い出に満たされ、西御殿の離れで過ごした日々が濃密に甦ってくる。
“やっと戻って参った。”
誾千代姫の婿となってから、立花家家臣たちから認められぬ日々が続いたが、合戦で己の武勇を見せてこそ、全てが変わると思い、世戸口十兵衛と太田久作と日々弓と剣の修行に明け暮れた。この立花山こそが、我が名“立花”の故郷である。
宗茂一行は西国街道から立花山北にある昔の立花家菩薩寺に立ち寄ることとした。当時、立花家菩薩寺であった梅岳寺は、立花宗茂が筑後国柳河城へ移るときに筑後国に移転させた。今、梅岳寺は廃寺となっているが、手入れも行き届いていたので、宗茂一行は一夜の宿とした。
翌朝、宗茂は馬に乗ってたった1人で朝駆けに出かけた。朝靄がかかる筑紫路を進んでいくと懐かしい風景が眼前に拡がってくる。玄界灘から流れてくる潮の匂いも懐かしい。
宗茂は立花山の北東にある原生林へ向かった。誾千代姫が心の拠り所としていた大楠を目指している。立花山の裾野を進み、林を抜けると修験坊の滝が見えてきた。
すると1人の尼僧が凛と滝に佇んでいるのが見えた。ゆっくりと進むと、尼頭巾から覗く眼と宗茂の眼が合った。
「静。」
誾千代姫の女中頭であった静である。静は柔らかな笑みを湛え、宗茂が近づいてくるのを待っている。宗茂は懐かしい思いで胸一杯となって声をかけた。
「静、元気であったか。」
静は頷いて微笑んだ。
「この日の為に生き永らえて参りました。」
宗茂も微笑んだ。柳河城を加藤清正に明け渡す前、宗茂は宮川村の屋敷を訪ね、誾千代姫と一夜を共にした。その時に誾千代姫と別れ際に交わした口約束がある。
“いつか、一緒に大楠へ参ろう。”
宗茂はこの言葉をずっと心に秘して生きてきた。静は懐から油紙に包まれた手紙を宗茂に差し出した。宗茂は誾千代姫からの手紙と直感した。
「姫様が亡くなる前に書かれた手紙です。ただ、殿のご負担になると思い、お送りしませんでした。姫様もそう望んでおりました。」
宗茂は唇をかんで頷いた。
「殿、どうぞ。」
宗茂は手紙を受け取ると、静に促されて、鬱蒼とした森の小径を歩んでいった。朝陽が木々から洩れて、降り注いでくる。大地から空へと広がる楠が見えてきた。
この楠から左へ下ると、”大楠”立花城の守り神である。幾百年もの時を超えた大楠を前にすると、宗茂の眼から自然と涙が溢れ出てきた。
“誾千代姫、会いたかった。”
立花家棟梁としてこの地に帰ってくることは本当に辛く長い日々であった。だが、 誾千代姫を喪ったことの方がもっと辛く哀しいことであった。宗茂はその気持ちを全て封じて、立花家棟梁として振る舞い、徳川家に忠誠を尽くしてきた。
全てはこの地に戻ってくる為である。一番褒めて欲しい伴侶はもういない。宗茂は大楠の前に胡坐を組んで、手紙を読み始めた。懐かしい筆跡と手紙に焚かれた微かな香が宗茂を昔の日々へと誘った。
“殿、まもなく私は旅立ちます。 お会いしたい気持ちばかりでございますが、立花家は浪人中でございます。加藤清正と家臣たちの手前、会うことは控えたほうが良いと思います。”
宗茂は手紙に向かって頷いている。
“殿は立花家棟梁として、父道雪の意を継ぎ、世に誇る軍功を重ね、西軍で戦いました。父高橋紹運様のように旧恩を忘れず、豊臣家への忠節を貫いたことは皆にとっても私にとっても胸を張る采配でございました。敗れはしましたが、今加藤家の庇護で暮らしていることも、浪人となった事も一切悔いはございません。何よりも、加藤清正様を朝鮮で救ったのは殿でございます。”
宗茂は手紙に向かって何度も頷いた。
“世に誇る殿と過ごした日々が私の宝でございました。もう私には何の悔いもございませぬ。殿は必ずや再起します。愛しき殿と結ばれたことが私の誇りでございます。誾千代”
宗茂が愛した素直な誾千代姫であった。宗茂が欲した誾千代姫の言葉である。心に封印した苦しく辛い気持ちと耐えた日々が全て霧散していく。
宗茂は空を見上げた。大楠の幹と枝が四方へと広がっている。一瞬強い風が吹いて、空から大楠の葉が何枚も落ちてきた。時を超えて会えた誾千代姫の言葉に宗茂は感謝した。
「本当に大楠で会えたな。誾千代姫。」
宗茂はいつまでも誾千代姫との逢瀬を慈しんだ。
立花山を通り過ぎ、筑紫野を抜けると、西に四天寺山が見えてきた。父高橋紹運が命を燃やした岩屋城の城跡が見えてきた。意地を貫いた父に負けぬ仁義でここ筑前に戻ってきた。全てが懐かしい。宗茂に従う十時摂津以下一行も誇らしげな顔で筑紫野を南へ向かっている。
間もなく柳河城である。柳河城には今は亡き加藤清正の下で旧臣をまとめてくれた小野和泉の跡継ぎが待っているはずである。
“和泉の忠義、報わねばならぬ。”
宗茂は小野和泉の跡継ぎを再び家老として召し出すことに決めている。宗茂が小野和泉への思いを頭の中でめぐらせていると、先の街道沿いに多くの農民たちが待っている姿が見えてきた。近づくと、多くの農民たちが涙を流して喜んでいる姿が見えてきた。
“殿、おかえりなさい。”
“ずっとお待ちしておりました。”
宗茂は改めて胸が引き締める思いである。
“また、この者たちを幸せにせねばならぬ。”
改めて、宗茂は柳河での治政への思いを深めている。
2月28日、柳河城が見えてきた。長く続いた旅が終わり、また新たな日々が始まる。これより先も変わることなく、己のまま振る舞うばかりである。
立花宗茂が領地没収となった後、田中吉政は、柳河城の3層天守閣や水濠の整備を行なった。干拓や河川・街道の整備などの土木工事で、農民たちに大きな負担を強いてきた。
その為、人心は離れつつあったが、この後の宗茂の善政で再び農民たちは忠誠を誓うようになり、領国の政治はすぐに安定した。
また、田中吉政によって破却された立花家菩提寺の梅岳寺の代りに、宗茂は道雪の為に以前建立した福厳寺を立花家菩薩寺とした。同時に宗茂は亡くなった誾千代姫の供養の為、柳河城内に良清寺を建て、自らの心の拠り所とした。
そして、九州各所に散った多くの旧臣を呼び出し、家臣として再び召し抱えて、旧恩に応えた。
だが、宗茂は長く柳河城に留まることを許されなかった。徳川秀忠将軍は格別に立花宗茂を重用している。宗茂は出来る限り江戸屋敷で過ごし、出仕するように求められたのだ。
その深く篤い信頼は、第3代将軍徳川家光にも受け継がれていく。宗茂の忌憚なく答え、媚びることなく話を進める様に、家光も宗茂を格別に重用した。そして、家光将軍は自らの相伴衆の役目を宗茂に命じる。
隠居した秀忠も事あるごとに宗茂を召し出して、上洛や茶会などに付き合わせた。
また、他の大名の江戸屋敷を訪問する“御成り”では必ず宗茂を自らの近くに置くことを望むほど、大きな信頼を寄せた。
寛永9年(1632)秀忠の死後、第3代将軍家光の宗茂への信頼はますます膨らんでいった。
家光は上洛や家康を祀る日光への参拝には必ず立花宗茂を伴ったが、宗茂は権勢を誇ることなく、ただ自然なまま振る舞うばかりである。
そんな宗茂が再び甲冑を身にまとったのが、寛永14年(1637)10月で起った天草・島原の乱である。
幕府の采配を振るう老中板倉重昌の下命により、立花家跡継ぎの忠茂が天草の戦陣に一番乗りを果たした。合わせて、九州諸国の軍勢も集められたが、諸将の戦意は薄く、苦戦ばかりで天草・島原の乱は収まる気配がない。
江戸幕府からの強い叱責に、指揮官板倉重昌は決死の突撃を試み、命を散らした。この思わぬ苦戦を何とかせねばと思った72歳宗茂は83歳の十時摂津と共に出陣すると決した。
翌年2月、宗茂は着陣すると、すぐに敵の原城を偵察した。宗茂は並々ならぬ敵の戦意を感じた。
「摂津、今宵、敵は攻めてくると思うが如何であるか。」
「殿、私もそのように思うております。」
宗茂は忠茂に命じ、敵の夜襲に備えさせた。すると宗茂が案じた通り、深い闇の中から、敵の鉄砲隊が突出してきた。思わぬ敵襲に幕府軍が混乱する中、立花軍のみが敵軍を迎え討ち、用意していた鉄砲隊で多くの敵を倒し、幕府軍立て直しの時間を稼いだ。
“合戦はやはり立花、西國一の一物なり。”
立花の武名を再び世に広まった。宗茂は跡継ぎ忠茂に原城総攻撃の為の軍配を渡した。この忠茂率いる金色の押桃形兜の軍が敵を圧倒し、2月28日原城は落城した。
宗茂の合戦はこれで終わった。
もはや戦に出ることもない。
織田の時代より、勇将として戦ってきた立花宗茂、最後の合戦であった。
この島原の乱で再び立花家の武名は高まった。
その立花宗茂に対し、多くの大名たちが如何に強い軍勢を育てるのかと尋ねたが、宗茂はいつも同じ答えを返した。
「特別に何かしているわけではございません。常に領国の農民らと同じように、家臣に慈悲の心を持つことでございます。そればかりでございます。」
宗茂の家臣への深い情けは、主君への忠節となって返ってきた。また、宗茂は敵の鉄砲や弓矢を怖れず、最前線で指揮を執り、得意の弓矢を放ち続けた。この懸命な宗茂の姿に家臣たちは皆心打たれた。
「主君の今までの深い情けに応えたい。」
宗茂の家臣と農民への慈悲は、道雪から教わった大切な財産である。宗茂の心が変わることは一切無かった。
宗茂はもはや何の未練も執着も無い。
立花家の棟梁を忠茂に譲り、隠居を許され法体となって“立斎”と号すようになった。隠居した宗茂であったが、第3代将軍家光からの信頼は更に深まっている。
寛永16年(1639)どのような貴人の前でも、家光から拝領した頭巾をかぶることを許された他、家光から拝領した杖を江戸城内で使うことを許された。
その後、体調を崩した宗茂に家光将軍は再三、病気見舞いの使者を遣わすなど心配をしたが、寛永19年(1642)11月25日76歳の生涯を終えた。
その遺骸は江戸下谷広徳寺に葬られた。
意地を貫き、仁義を尊び、慈悲を施した最後の武将がこの世を去っていった。
そんな中、宗茂の家臣100名余りは主君の近くで仕えていたいという気持ちで一緒に肥後の高瀬で暮らしている。家老の中では立花三河のみ、黒田家への仕官が決まったが、由布雪下・小野和泉・十時摂津らはそのまま宗茂再興の道を探っている。
加藤清正の配慮で立花主従には不自由なく過ごす為の扶持米が給されたが、宗茂は何ら気後れすることなく、清正との付き合いを続けた。加藤清正も朝鮮で一緒に戦った盟友立花宗茂が高瀬にいることを心の底から喜び、機会ある毎に宗茂を呼んで、酒を酌み交わした。そんな宗茂も誾千代姫と共に生活することだけは家臣に対し気後れしている。
誾千代姫は2里ほど離れた玉名郡の腹赤村に住んでいる。離れて暮らすようになった宗茂と誾千代姫であるが、唯一の楽しみは旧領松延村庄屋の息子たちが届けてくれる柳河城下のお米であった。難儀な山道を越えて運ばれる旧領の心のこもった贈り物は立花家の主従を大いに慰めていた。
だが、新しい領主田中吉政の耳に入り、庄屋の息子たちは磔となって殺されたと聞き、皆心を塞いでしまった。
慶長6年(1601)6月、十時摂津が上方を探って戻ってきた。徳川家康は大阪城を出て、伏見城で政務を執り行っている。その家康が関ヶ原の戦後処理で上杉景勝を引見するという報せが入ってきた。
立花宗茂はすぐに伏見へ向かった。上杉景勝の処遇が固まる前に徳川家康に会い、今後の身の振りようを問うつもりである。
7月、立花宗茂は徳川家康の居城となった伏見城を訪れた。突然の訪問であったが、今まで会うことを拒んできた家康はすぐ大広間へと招き入れた。
「家康様、この度はお会い頂きありがとうございます。」
「昨年は申し訳なかった。何せ、忙しくて・・・。だが、久々に立花殿の顔が見たくなった。」
天下人となった徳川家康は鷹揚に応えていく。
「有難いお言葉でございます。私も家康様に申し上げたい議がございました。」
「なんでございますかな。」
「家康様に弓引きましたが、今は家康様に生かされている身でございます。亡き秀吉様への義理は十分に果たしました。これよりは家康様に忠節を尽くします。」
仁義に厚い立花宗茂の言葉は信頼に足る言葉であるが、家康は敢えて言葉の芯を外した。
「立花殿、どうぞ頭を上げてください。戦は全て時の運でございます。それに立花殿の身上については黒田殿も加藤殿もみな心配しておいでです。私も存念がある故、井伊直政がこちらへ上洛する折に今後の仕置きを報せましょう。」
回りくどい話である。
これで家臣たちに良い報せを届けられると思った宗茂は、すぐ肥後の高瀬に手紙を送った。
”伏見屋敷での家康様とのご内謁は無事に済み、安心している。家康様は井伊直政氏が上京の折に、私の身上を仰せ遣わるとのこと。家康様は来月には江戸へ下る。その前には返事があるであろう。
また、上杉景勝氏も近いうちに上洛する。佐竹義宣氏やその他の者たちと同じように国替えになると聞いている。島津氏だけは未だ何も聞いておらぬ。”立花宗茂は自ら聞いた風聞を全て手紙に記した。
高瀬にこもる家臣たちは宗茂の手紙に安堵した。何よりも、徳川家康と直接引見したのは大きい。この話は立花家家臣を預かる加藤清正にもすぐ報らされた。立花家の身上を心配し、ずっと家康に働きかけてきた加藤清正も間もなく吉報が訪れるであろうと期待した。
だが、徳川家康と謀臣本多正信はこのまま何も下知しない考えである。 関ヶ原の決戦は終わったが、豊臣家は未だ健在のままである。
その豊臣家に、家康は戦を仕掛けていく。西軍に属した立花宗茂は、これからの豊臣家に忠誠を尽くすかもしれない。家康は勇将と名高い立花宗茂に所領を渡すつもりは無く、飼い殺しにする方針である。
そんな思惑を知る由も無く、立花宗茂は上方で家康の返事を待ち続けた。
そんな思いを踏みにじり、家康は立花宗茂を黙殺したまま、江戸へ旅立っていった。宗茂も家康出発の報せを聞き、今まで自分が家康に誑かされたのに初めて気づかされた。だが、宗茂はこれを恨みと思わずに、ひたすら恭順すると決めた。家康に許されない限り、自分の身上は安堵されない。
だが、自らの矜持を捨ててまで懇願するつもりはない。また、西軍に参加したことで豊臣秀吉への義理は全て果たしている。これより先は豊臣家に合力する道理もない。
宗茂はただひたすらに家康の返事を待つこととした。
京都では大徳寺の大徳院と富士谷紹務の邸宅、大阪の御用を任せていた住吉屋と鍋屋を定宿とし、滞在を続けた。
宗茂が留まり続ける中、加賀前田家からの使いが宗茂の下を訪れた。
「どのような件で参ったのか?」
使いの重臣本多は、前田利家からの書状を恭しく差し出した。宗茂が書状を開き、目を通していった。宗茂が読み終えると、本多は平伏して話を始めた。
「主君は、何卒立花宗茂様をお迎えしたいと申しております。」
宗茂はその問いを涼やかに流した。
「そうであるか。」
本多は更に言葉を続けた。
「立花様は今、御浪人の御身でございます。主君は10万石でお越し頂きたいと申しております。」
宗茂は大徳院の庭を見ながら、ぶっきらぼうに応えた。
「お断りいたします。」
思わぬ返答に焦った本多は、更に言葉を続けた。
「えっ、家臣の皆様もご一緒にお越し頂いても当家は一向に構いません。」
宗茂は本多の顔を見据えて、ゆっくりと話をした。
「前田様は今まで御同輩でございました。浪人の身とはいえ、前田様にお仕えせねばならない義理は毛頭ございませぬ。申し訳ございませんが、お引き取り下さい。」
立花宗茂は矜持や意地を大切に考えてきた誇り高き大名である。その気持ちを理解しているからこそ、加藤清正は居候の宗茂を今までと同じように一人の大名として扱ってきた。関ヶ原の合戦前まで、立花宗茂と前田利家は同じ豊臣秀吉の直参であった。
宗茂にとって、東軍西軍に分れただけで前田利家の家臣になるなど、到底許せぬことである。宗茂からすると話を誘ってきたこと自体、失礼なことである。だが、後々この話を聞いた宗茂の家臣達は、多くの者が残念に思ったのだ。
宗茂は時が過ぎるのをひたすら待っている。焦っても何も進まないと観念し、耐えている。宗茂はこの余りある時間を使い、もう一度自らを鍛えようと思いたった。
亡き世戸口十兵衛の弓の流派である日置流と剣術の稽古を再び始めた。朝から宗茂は稽古に没頭し、体が許す限りの弓を放ち、剣を振り続け、萎えそうになる自らの気魂を叱咤した。
慶長7年(1602)3月、宗茂は精進した弓が認められ、日置流弓術免許皆伝の腕前と認められた。
宗茂が上方にいる間、玉名郡の腹赤村に残る誾千代姫はずっと耐えている。
“殿、殿・・・・、お会いしたい。”
宗茂が家康を追いかけて、上方へ移ってから既に1年が経っている。居候の身故、気晴らしの一騎駆けも出来ずに毎日家に籠もっている。薙刀や鉄砲の稽古も出来ず、誾千代姫の心は少しずつ病んでいく。静が話しかけても、ぼぉーと部屋の障子を眺めることが多くなり、食も細くなってきた。たまに気が晴れることもあり、静に宗茂との思い出を話す。
だが、決まって最後は“殿にお会いしたい・・・。”と泣きじゃくり、寝床に入っていく。静としては何とか宗茂に一目会いに来てほしいと思って、由布雪下に頼んでみた。由布雪下もさすがに今の立場では難しいと断りを入れてきた。宗茂本人の耳に入ったとしても、多くの家臣が苦しむ中、正室に会うだけの為に帰ることなど、当然断るはずである。
静は誾千代姫の心がすり減っていくことを何とか宗茂に知らせようとも思ったが、逆に心の負担になると思い、手紙を送ることを諦めた。
望みも叶わぬと生きている意味も希薄になるようである。誾千代姫は少しずつ衰弱していった。食事を摂らないので、稽古で鍛えてきた身体はみるみる痩せ細っていく。
慶長7年(1602)10月17日誾千代姫は夢を見ている。朝鮮征伐が休戦となり、4年ぶりに宗茂に再会した日の思い出が脳裏によみがえる。
「誾千代、お主に会いたかった。」
誾千代姫はこの言葉を一生の宝物として生きてきた。最後に誾千代姫は笑みを浮かべ、34歳の生涯を終えた。光照院殿泉誉良清大禅定尼という法名で葬られた。
宗茂は誾千代姫の死を由布雪下からの手紙で知らされた。宗茂は道雪の死、父高橋紹運の死、多くの家臣の死を受け止めてきた。
だが誾千代姫の死に、宗茂の心は破裂した。
“会いたかった。・・・・何も言えなかった。・・・・知らなかった。・・・・。何故知らせなかった。・・・・”
憤りと悲しさと哀れな気持ちが交錯する。宗茂は食事を断ち、稽古を休み、部屋に籠った。上方で宗茂の世話をする十時摂津は、宗茂の気持ちを慮り、全ての雑務を遠ざけた。
“宗茂様の深い哀しみは自らで乗り越えるべきである。”
4日経った朝、宗茂は凄惨な表情で部屋から出てきた。
「摂津、待たせたな。」
「はい、粥をご用意します。」
宗茂はゆっくりと噛みしめるように粥を体に流し込んだ。少しずつ、宗茂の身体に生気がよみがえる。
「摂津、誾千代とずっと話しておった。」
十時摂津がずっと堪えてきた涙が溢れ出てきた。
「あぁ・・。あぁ・・。」
十時摂津の声にならない嗚咽に、宗茂は眼を閉じて瞑目する。
「誾千代と約束した。誾千代はお主らのことを一番心配しておった。いつまでも、先が見えぬ私といても詮無いことである。皆、先の事を考えねばならぬ。さすがは女城主、すっかり教えられたわ。」
宗茂は家臣の行く末を思案し、立花家の再興を図ることとした。
2か月後の12月27日、島津忠恒と家久は伏見で家康に拝謁することになった。家康も今更九州最南端の島津家と合戦を行う気も無く、本領安堵をした。これで関ヶ原の戦後処理は全て終了し、宗茂は何の沙汰もないまま、高瀬に戻った。2年以上の浪人生活を続けたことで多くの家臣たちの生活は困窮している。
それでも皆は立花宗茂の家臣のままでいることを望んだが、何の所領も持たぬ宗茂にとって家臣を養えないことはあまりにも悲しい。この思いを汲んで、清正は宗茂に“是非、宗茂殿の家臣たちを召し抱えたい。”と願い出た。この清正の申し出は宗茂にとっても、宗茂の家臣にとっても有難い申し出であったが、もう宗茂の家臣には戻らない覚悟で仕えねばならない。
宗茂は加藤家に仕える家臣たちのまとめ役を決めた。
宗茂は、小野和泉を自室に呼んだ。
「和泉、頼むが清正様に仕えてくれぬか。」
小野和泉は沈黙し、苦悶の表情を浮かべた。
「殿、どうやら私しかおりませぬ。誰もおらぬ故引き受けますが、私は殿に一生仕えるつもりでございました。」
小野和泉は眼を見開いて宗茂を見た。
「すまぬ。お主しかおらぬ。」
宗茂も見開いた眼差しで小野和泉を見ている。
小野和泉は少し肩を落として、頭を左右に振った。
「主君に頼まれたら、断れませぬ。殿、少しお待ち頂けますか。」
小野和泉は部屋を出ていき、すぐに戻ってきた。暫くして障子が開き、近習が7百貫文(約5千万)の金子を運んできた。
「私が柳河城に参ってから、貯めてきた金子でございます。どうぞ、お使いください。」
宗茂は以前筑紫広門から、小野和泉が金を無心していることを聞いた。その時に守銭奴と呼ばれていることも知った。宗茂はその話を聞かされても、小野和泉への信頼は揺らがなかった。
だが、多くの人は小野和泉を誤解した。
「和泉、よくぞこれまで溜めてきたものであるな。」
「はい、陰口は聞いておりました。そのおかげで商人などはせっせと金子を持って参りました。」
主従揃って、久々の高笑いであった。その後、十時摂津も高瀬に小野和泉と共に留まることとなった。
小野和泉が加藤清正へ仕える家臣のまとめ役になってくれたことで、宗茂は安心して京・大坂へ移り住んだ。だが宗茂には何の所領も無いので、小野和泉からもらった財を切り詰めて生活するしかない。当然家臣に払う俸禄も無い。
家臣たちは自らの才覚で生きていく糧を探した。ただ、その生活を続けても、将来宗茂の身上が安堵される見込みは全くない。
全ては徳川家康が立花宗茂を許し、所領を与えない限り、困窮の生活は続いていく。それでも立花宗茂を主君として支えていきたいと考える家臣たちは多かった。宗茂は家臣たちの家族の生活を憂い、由布雪下に家臣たちへの説得を頼んだ。
由布雪下は宗茂の想いに応え、小野和泉に頼んで、多くの家臣を加藤清正に仕えさせた。激しく拒む者もいたが、由布雪下は普段の激情を堪え、説得を続けた。こうして、立花宗茂に仕える家臣は由布雪下・十時摂津ら20数名となった。
月日は流れていく。
上方へ移り住んだ立花主従は、金子を欠く毎日となっていった。日々の暮らしの金子は家臣たちの賄いによって、もたらされている。由布雪下・十時摂津は虚無僧となり、街を練り歩いて、お布施を頂くようになった。
由布雪下が奏でる尺八の音色は、先の見えない主従の哀しさそのものである。哀切に満ちた調べが多少の稼ぎとなった。
他の家臣たちは立花家中であることを隠し、人夫として働いている。家臣たちが身分を隠して金を稼ぐ中、宗茂は泰然自若の毎日を過ごしている。日々、弓と剣の稽古に励み、免許皆伝を授けられるまでに没頭した。稽古が出来ぬ雨の日は書見に励み、自らを研鑽した。
そんな毎日であるが、立花主従の食事はどんどん質素になっていく。ある日、何度目かの雑炊を食べていた宗茂は十時摂津に声を掛けた。
「摂津、飯と椀は一緒に入れて出さなくてもよい。私にもそれぐらいできる故、気にするでない。」
宗茂は見当違いの心づかいを見せた。十時摂津はこの言葉を聞き、逆に心打たれた。
“殿が雑炊を分かっておらぬことこそ、我が家中の救いである。”
主従の絆が深まる中、更に米粒にまつわる出来事があった。朝晩が涼しくなって、木々も色づき始めの頃、庭で家臣たちは残飯をまとめ、秋の陽に当て、干飯にしようとしていたが、突然の雨が降ってきた。家臣たちは皆ちょうど出払っている。
“何とか殿が気付いて、軒下に置いてくれまいか。”
家臣たちは密かに期待したが、無残にも残飯は雨に打たれ続けた。雨に濡れた残飯は、色づいた木々の葉にまみれている。そんなことを露とも知らぬ宗茂が縁台で書見を続けている。戻ってきた家臣たちはその姿に己の胸中を吐露した。
“殿がもしお気づきになって、片付けておいてくれたらなどという浅ましい気持に成り下がってしまった。”
“うむ、殿が変わらぬことが我らの誇り。”
“殿はこの殿のままでよい。また戦場を駆けねばならぬ。”
家臣達は更に日々の稼ぎにいそしんだ。
宗茂主従が困窮の生活を続ける中、世は移っていく。
慶長8年(1603)2月12日、後陽成天皇は徳川家康を征夷大将軍と右大臣に任命した。名実ともに天下が豊臣家から徳川家へ移り、徳川幕府による支配が進んでいった。
3月、家康は伏見城から二条城へ移った後、御所を参内し、跡継ぎの秀忠を次の征夷大将軍になるよう奏上した。
7月には、跡継ぎの徳川秀忠の娘千姫(七歳)が大坂城の豊臣秀頼(11歳)に嫁入りし、豊臣家への懐柔も企んだ。
また西国の大名に対し、人質を江戸に送るよう命じるなど天下人として振る舞っている。慶長10年(1605)1月、江戸を立った徳川家康が伏見城に入ると、この家康を追いかけて、3月12日徳川秀忠が東国の諸大名約16万人の大軍を従え上洛した。この示威行動は朝廷と豊臣家への大きな圧力となった。家康は朝廷に対し、4月7日将軍職辞任と秀忠の推挙を朝廷に奏上すると、16日秀忠は第2代征夷大将軍に宣下された。
これで徳川家の将軍職世襲は朝廷にも認められ、家康は建前上隠居となり“大御所”と呼ばれるようになった。もう天下は間違いなく徳川のものである。
新しい将軍となった徳川秀忠は江戸城で、大御所の家康は駿府城で二元政治を行うようになった。
関ヶ原の戦いが終わって6年、立花宗茂の存在は世から完全に忘れ去られた。加藤清正の家臣となった旧立花家家臣たちも、次第に古参の加藤家中と軋轢が生まれ、疎まれるようになっていた。旧立花家家臣をまとめる小野和泉は、加藤清正から物語や将棋に誘われるほど厚遇されていたが、加藤清正の重臣からは侮られた。
ある酒の席で、加藤清正の重臣らは酔っぱらって小野和泉を囲んで、武功話をねだった。
「我が加藤家には日本七本槍の飯田覚兵衛様と小野和泉様がいらっしゃいます。我らは昔から加藤家におります飯田様の武功を存じておりますが、小野様の武功を知りませぬ。」
小野和泉は自分の武功を語るほど酔狂ではない。それに酔っ払いに語ったところで酒の肴になるのが関の山と思い、黙して語らず、酒の席を後にした。
“七本槍とは言うが、それは柳河でのこと。ここ加藤家ではただの人であろう。”
このように小野和泉の無能さが吹聴され、旧立花家中は更に馬鹿にされるようになっていった。小野和泉はこの話を旧立花家中から聞き、数日後の酒宴で一芝居を打つこととした。
この日も加藤清正の重臣たちは武功話をせがんだところで、小野和泉は皆の前で着物を脱ぎ、上半身を見せつけた。60歳とは思えぬほどの筋骨凄まじき上半身である。その身体には無数の鉄砲・刀・槍傷が刻まれている。戦場で命を削った証である。
皆が無言になる中、小野和泉は小姓に持参させていた感状を手にした。
「先日も御所望されました武功話、今日は皆様にご披瀝致しましょう。ただ、武功話に嘘があってはならぬということで、私が仕えて参りました大友宗麟様・立花道雪様、そして主君宗茂様からの感状をお見せしながらお話ししましょう。」
小野和泉は感状を見せながら、大きな鉄砲傷や槍傷を受けた後、ひるまずに敵を攻め入った様子を淡々と話をしていく。多くの話が寡勢で大軍に挑む厳しい合戦である。加藤家の重臣たちは改めて立花軍の凄まじさと蔚山城の恩を思い出した。
「小野様、恐れ入りました。参った。参りました。」
加藤家の重臣たちが平伏する中、小野和泉は更に続けた。
「ではお教え頂きたい。私の新しい主君の清正様は仏木坂で天草の木山弾正を一騎討ちで勝ったと聞いております。」
加藤家の重臣たちが訝しむ中、小野和泉は声を張り上げた。
「あなた方はその時何をされておったのか。私は戦場で主君が危険な目に遭わぬよう、ましてや一騎打ちなど無いように戦を進めて参りました。私はこれからもそのつもりです。」
皆が感服し、小野和泉の武勇と忠誠心を敬うようになった。この後、旧立花家の家臣たちが冷遇されることは無くなった。
そんな出来事の後、小野和泉に立花宗茂からの書状が届いた。
“6年余り、上方での生活を続けたが、何ら変わりがない。徳川秀忠将軍がいる江戸に移り住むこととする。”
慶長11年(1606)6月、立花宗茂主従一行はなけなしの金をかき集め、江戸へと向かった。小野和泉はすぐさま金子をかき集め、20貫(150万)ほどを宗茂主従に送った。この20貫は江戸へ向かう道中の宗茂主従に届けられた。路銀が底を尽きかけたこの浪人所帯は大いに元気づけられた。
江戸に到着した立花主従を待っていたのは相変わらずの貧しい生活であったが、ふとしたきっかけで徳川家康が誇る勇将本多忠勝との再会を果たすこととなった。
ある日、いつものように十時摂津は虚無僧に扮し、托鉢をしていると、3人の浪人に絡まれた。十時摂津は面倒を避けようとしたが、執拗に絡む3人の浪人は刀を抜いて、十時摂津に刀で斬りかかった。やむなく、十時摂津は応戦し、浪人の刀を取り上げて、3人を斬り殺してしまう。この刀傷沙汰で奉行所は十時摂津を取り調べた。
そして、江戸幕府は立花宗茂主従20名が高田の寺にいることを知ったのだ。
たまたま、江戸城へ伺候した本多忠勝はこの話を老中の土井利勝から聞かされた。
「本多様、昔の話でございますが大御所様と一緒に、小田原攻めで秀吉と共に会った立花宗茂が江戸におります。」
「まことであるか。嗚呼・・・、あの若き古今無双の勇将が江戸にいるのか。これはすぐ行かねばならぬ。」
本多忠勝は江戸城を後にして、高田の寺に向かった。高田の寺に到着すると、立花宗茂は弓の稽古に没頭している。うだるように蒸し暑い強い夏の日差しの中、本多忠勝の姿に全く気付かずまま、遠くの的を目がけ、何度も早射を行っている。流れるような所作と正確な技は本多忠勝も及ばぬ腕前である。
宗茂は滴る汗を拭った折、初めて本多忠勝の姿に気づいた。
「本多様、お久しぶりでございます。」
昔と違わぬ涼やかな姿に本多忠勝は懐かしさがこみ上げてきた。
「立花殿、今宵は飲み明かそうと参上した。」
本多忠勝は小姓に持たせた酒を掲げ、満面の笑みを見せた。宗茂は弓の稽古を切り上げ、水浴びして、縁側で酒を酌み交わした。酒の肴は、関ヶ原の戦と朝鮮征伐の武功話である。本多忠勝は宗茂の話を聞きながら、改めてこの立花宗茂の類稀なる勇猛と采配を認めている。
“秀吉が西国一の一物と言ったのは間違いない。”
忠勝は縁側で酒を飲みながら、虚無僧と人足姿となった立花家家臣が寺に戻ってくるのを見ている。
“関ヶ原の戦も終わって、もう何年経つであろう。この立花主従を必ずや救って見せよう。”
本多忠勝は立花家の再興を心に期している。この日、本多忠勝と立花宗茂は、戦功話を朝まで続けた。
翌日より、本多忠勝は立花宗茂の復帰を江戸幕府内で触れ歩き、大御所にも秀忠将軍にも願い出た。本多忠勝は家康股肱の勇将として、多くの合戦で手柄を挙げてきたが、内政にはほとんど興味をみせてこなかった。
たった一度だけ、忠勝は娘婿の真田信之とともに関ヶ原の戦いで西軍に属した真田昌幸・真田幸村親子の助命を家康と秀忠に嘆願したことがある。家康も秀忠も死罪を命じるつもりであったが、忠勝は頑強に抵抗した。
“もしお聞き下されなければ、私は一戦交える覚悟です。”
本多忠勝は主君に折れるつもりが全くない。徳川家の武勇を支えた本多忠勝の強請に、さすがの家康も秀忠も困り果ててしまった。家康はやむなく真田親子の死を免じ、高野山の九度山に蟄居させたことがある。本多忠勝の立花宗茂への肩入れに、家康も謀臣本多正信と相談を重ねた。
“立花宗茂の6年の恭順は見事なものであった。当家を忌み嫌う者達との繋がりは全て断ち、徒党も組まず、ただただ我が許しを待つばかりであった。ここで救わねば、立花家は豊臣家に組するやもしれぬ。それに立花宗茂を慕う大名は多い。秀忠が将軍としての寛容を見せるに良き披露となるであろう。“
家康はすぐ江戸幕府に対して、立花宗茂の秀忠将軍拝謁を命じた。同時に十時摂津の3人斬りの無罪放免も決めた。
慶長11年(1606)9月、立花宗茂は杏葉紋の直垂を身に付け、江戸城へ登城した。付き添いには由布雪下が厳しい表情で連なっている。もし、主君の宗茂が辱めを受ければ、すぐに意地を見せる覚悟である。
宗茂は対照的に涼やかな表情で待っている。秀吉への忠節を貫き、ここ6年は西軍に味方した禊を十二分に果たしてきている。今日の評定如何では再び徳川家を敵とすればよい考えである。
覚悟を決める宗茂に対し、大広間の上座に座る秀忠将軍の顔はすっかり青ざめている。先ほどより、本多忠勝が憤怒の顔で秀忠将軍の評定を待っているからである。
「宗茂殿、知行5千石、大番頭を命ず。」
立花宗茂はじっと秀忠将軍の顔を見つめている。不敬ではあるが、宗茂に気後れすることなど何もない。小田原攻めの時、少しばかり見たことがある家康の長男が家康の後見で将軍になっている。
この新しい将軍を何とか支えたいという気持ちが生まれて、初めて自分の主君と云えるであろう。
「宗茂殿、如何であろうか?」
将軍とは思えぬ気弱で甲高い声に宗茂は心を決めた。
“これより、徳川家をお支えいたそう。”
「大番頭、しかと務めさせて頂きます。」
本多忠勝も由布雪下も破顔一笑し、宗茂の復帰を歓んだ。
宗茂の領地は奥州棚倉と決まった。肥後に留まる小野和泉に手紙を送ると、小野和泉はすぐに熊本城の加藤清正に報せた。
「清正様、宗茂様がやっと将軍様より赦されました。」
長年、気を揉んでいた清正も手を叩いて喜んだ。
「小野殿、待ったかいがあった。良かった。」
加藤清正は立ち上がって、感慨深げに熊本城から見える山々を見つめた。
「はい、秀忠将軍様より奥州棚倉の5千石を拝領しました。」
「それはよきことであるな。早く立花家中に知らせ、奥州に行きたい者を募るとよい。」
加藤清正は振り返って、笑みを見せている。
「え、そのようなこと・・・・。」
加藤家に仕えるようになった旧立花家中はそのまま加藤家へ忠節を尽くすのが武士の流儀である。だが、江戸へ連れていった20名の家臣だけでは、新しい領地を治めきれない。清正は立花宗茂に格別の恩義を感じている。それ故、家臣として預かった旧立花家の家臣たちが立花家へ戻ることをすぐに了承したのだ。
「構わぬ。宗茂殿に再仕したいものは申し出させよ。一向に構わぬ。」
清正の格別の計らいに旧家臣約20名が出立した。ただ、立花家の旧臣全てが奥州に行くわけではない。加藤清正への義理を全うする者も多くいるし、九州を離れたくない者もいる。
宗茂は、新たに棚倉で新規召し抱えを行った。
立花宗茂の復帰はすぐ日本国中の大名へと知らされた。信義に厚く、勇猛な立花宗茂の復帰は多くの大名に歓迎された。
縁故の深い大名たちはすぐに祝いの品を届けると同時に、大番頭として江戸城に詰める立花宗茂の下へ挨拶に伺っている。皆一様に感心したのは、浪人する前から全く変わらぬ立花宗茂の堂々とした振る舞いであった。また、裃姿から溢れる体躯は今も変わらぬ精進の賜物であることを察した。
江戸幕府も復帰した立花宗茂の真摯な奉公を認め、徳川秀忠将軍と江戸城の警固役を任されるようになった。復帰間もない外様大名の名誉ある登用には本多忠勝からの信頼と後押しも大いに加味されている。立花宗茂は共に耐え忍んできた家臣たちと共にこの重任に全てを注いだ。
その忠義な心と姿勢は、幕府のみならず徳川秀忠将軍も頼りとするようになっていった。幕府は宗茂の知行をすぐ1万石に加増した。
この宗茂の再起を一番喜んだのは肥後に留まる小野和泉であったが、慶長14年(1609)6月に死を迎えた。64歳の生涯の大半を立花道雪と宗茂に尽くした忠臣の死の報せは、江戸城警護に詰める宗茂に報らされた。伝えたのは老臣となっても宗茂を支えてきた由布雪下である。
「殿、・・・・。」
涙ぐむ由布雪下に宗茂は全てを察した。
「嗚呼、そうであるか。」
「和泉殿が・・・。」
由布雪下はうなだれたまま、涙をこぼしている。朝鮮征伐では体躯の弱った自分を領国に留め、老体に鞭打って宗茂の合戦を支えてきた。
不遇となった浪人時代には宗茂に仕えたい気持ちを全て捨て、旧立花家家臣のまとめ役として、今まで加藤清正に尽くしてくれた。守銭奴と呼ばれ、家臣らから非難を受けたこともあったが、主君への想いが全てであった。
宗茂は威儀を正してから、九州の方向へ体を向けて、合掌した。
“和泉殿、今まで尽くしてくれた忠勤は忘れない。必ずや九州へ戻って見せよう。”
宗茂はいつまでも合掌を続けた。
慶長15年(1610)2月、徳川秀忠将軍は大行列を従え、大御所の家康へ会う為に東海道を西へ向かっている。宗茂は秀忠将軍の警護役として、街道沿いに目を光らせている。駿府城に到着した秀忠将軍は大御所家康への挨拶に宗茂を同行させた。
徳川家康とは9年ぶりの再会である。秀忠将軍の警護役として付きそう宗茂の姿に、家康は一瞥すると優しく声をかけた。
「宗茂殿、この会が終わった後に茶室に参るがよい。久方ぶりの物語でもいたそう。」
宗茂はこの言葉に平伏して応えた。
駿府城の茶室からは駿河湾を望むことが出来る。暦では厳しい季節であるが、ここ駿府は暖かい日差しに包まれることが多い。今日も障子を開け放ってもよいほどの小春日和である。
立花宗茂が茶室に入ると家康と本多正信が待っていた。
「大御所様、お変わりなく。本多様、お久しぶりでございます。」
丁重に挨拶する宗茂に対し、家康はにこやかに、本多正信は鷹揚とした態度を見せた。
「宗茂殿、待たせたことは悪かったな。今の忠勤振りを聞くともう少し早く赦しても良かったかなと思っておる。」
天下を牛耳る大御所の言葉に少しだけ頭を下げ、再び顔を上げた。
「いえ、そちらにおられます本多様のお考えかと。」
本多正信は茶室から見える駿河湾から視線を外さない。家康は構わず、話を続けた。
「ところで、宗茂殿、聞いておきたかったことがある。もし、関ヶ原の戦で間に合っておったら、如何様に戦ったか。」
「そればかりは詮無いことでございます。」
宗茂はぶっきらぼうな顔で答えたが、合戦話に気を使うつもりは毛頭ない。
「こたえてみよ。」
駿河湾を遠く見つめる本多正信の言葉に宗茂は反応した。
「それがしの軍はその当時、父道雪より授かった技で他より3倍の鉄砲の弾を撃つことができました。我が軍が間に合えば、・・・・。」
宗茂は少しだけ間を空け、一気に畳み込んだ。
「当然、大御所様の命のみを狙って斬り込んでおります。さすれば、我らに続いて島津殿も動いたでございましょう。他の軍も恐らく・・・・。我が立花軍と島津軍が攻めれば、ここにお二人はいなかったはずでございます。」
西国一の一物と呼ばれた立花宗茂の見事な言い様であった。茶室に不穏な沈黙が一瞬満ちたが、家康が発した言葉で宗茂はこの後の一生を全て徳川家に授ける意思を固めた。
「戦に間に合えば、そうであったろう。だが、戦は紙一重。今わしがここにいるのも合戦と思うておる。これよりは徳川家の為、その武勇を生かして欲しい。」
宗茂の意地をそのまま受けてくれた家康の度量に宗茂は感服した。この対面後の4か月後、7月25日に宗茂は3万石に加増された。
この年、宗茂を幕臣に強く推してくれた本多忠勝は世を去った。翌年には加藤清正、翌々年の慶長17年(1612)には奥州棚倉の仕置きを任せていた老臣由布雪下も世を去っていった。宗茂は世の無常をしみじみ感じている。
“柳河へ戻る為に浪人して参ったのに・・・・。由布雪下にもう一度、立花城を見せたかった。”
宗茂は無念を胸にしまい、新しい主君秀忠将軍の警固の仕事に没頭した。立花家家臣たちも宗茂に倣って、一切の隙無く、全身全霊をかけて徳川秀忠将軍の身の回りと江戸城の警備に邁進している。そんな立花家主従の忠勤ぶりを評価する徳川秀忠将軍は江戸城天守閣に宗茂を呼び出した。普段、秀忠将軍は将軍屋敷で過ごすことがほとんどで、天守閣に上がることなど余り無いことである。
宗茂にとって初めての天守閣である。近習に促されるまま天守に上がると、武蔵野が遠い彼方まで拡がっているのが見えた。
“これも天下の城であるな。”
宗茂は絢爛豪華な大阪城を思い出している。豊臣秀吉が作った大阪城に比べると見劣りするほどこの江戸城は質素である。だが、普請した家康は築城の飾りに金銭を掛けず、堅牢なこの江戸城を短い年月で作り上げた。家康の居城駿府城も同様である。自然の地形を利用し、徳川の屋台骨を守る城を必要以上に飾ることはしなかった。
“徳川家の強みであるな。”
感慨にふける立花宗茂の前に秀忠将軍が現れた。平伏する宗茂の前に秀忠将軍が座り、柔らかな声色で声をかけた。
「立花殿から見て、この江戸城はいかがであるか。」
「まさに天下の城でございます。」
この言葉に秀忠将軍は少し自嘲気味に笑っている。天下は徳川のものとなったが、未だに大阪城は健在で、秀吉の正室淀君と忘れ形見豊臣秀頼も大阪城に留まっている。世はいずれ天下を牛耳る徳川家と天下一の大阪城と噂されている。
大御所家康は将軍秀忠に、勇将立花宗茂が大阪城へ味方せぬように徳川家から養子を迎える話をするように命じている。
「立花殿、徳川より養子を迎えぬか。」
立花家にとって名誉ある申し出である。これより先、外様の立花家は譜代の大名よりも重用され、栄えていくであろう。宗茂はそんな申し出を丁重に断った。
「天下の徳川家より、お世継ぎを頂くなど滅相もございませぬ。何卒、ご容赦下さい。」
有無を言わさぬ宗茂の言葉であった。ただ、立花家を継ぐ跡取りもいないのも確かである。
「では、立花家は誰が継ぐのか?」
尤もな問いであるが、宗茂は立花家を徳川に譲るつもりは毛頭無い。
“立花家は道雪様、そして父高橋紹運の名を継ぐ誇り高き家名である。我が身内以外、決して渡してなるものか。”
宗茂は前より思案してきた跡取りの名を出した。
「我が弟直次の子に継がせるつもりでございました。」
秀忠将軍にとって思わぬ言葉であったが、今まで尽くしてくれた宗茂の申し出をそのまま受け入れた。
「立花直次は確か肥後におると聞いておったな。そうか、では面目が立つようにせねばならぬな。」
大御所の願いは叶わなかったが、宗茂は徳川家のこの厚恩を全うするつもりでいる。
翌年の慶長18年(1613)1月、弟直次は大御所と秀忠将軍に拝謁した。
更に翌年の慶長19年(1614)、弟直次には常陸国5千石の知行が与えられた。こうして、兄弟共に復活した立花宗茂・直次は徳川秀忠将軍の直臣となった。
いよいよ、世は徳川家と大阪城の決戦へと向かっている。
関ケ原の西軍主力であった立花宗茂に淀君や豊臣方からの誘いが絶え間なく参ったが、宗茂は一切無視した。そして、慶長19年(1614)10月23日、立花宗茂・直次は豊臣秀頼を討伐する徳川秀忠の馬廻りとして、江戸を出発した。宗茂の筆頭家老となった十時摂津の下に、秘かに豊臣方に味方するよう誘いがきたが、十時摂津は宗茂にも報せず、全てを断った。
立花家は既に関ケ原の合戦で豊臣家への義理を十分に果たしている。立花家主従共に、見当違いの誘いであった。
宗茂は秀忠将軍と共に、天下一の大阪城を囲む徳川方の陣を回っている。
“大阪城と云えども、援軍の全く見込めむ戦は辛いであろう。”
大阪城を守る外濠を数十万の徳川勢が覆っている。この合戦の采配は秀忠将軍ではなく、徳川家康が握っている。
“淀君では大御所様に絶対敵わぬ。豊臣家は間違いなく終わる。”
11月徳川軍は、大阪城へ怒涛のような攻撃を始めた。
だが、秀吉の造った天下の大阪城の防ぎも天晴である。悉く、徳川方の猛攻を凌いでみせた上に、大阪城唯一の弱点ともいえる南側に造られた真田丸では、勇将真田幸村が徳川方を完膚なきまでに退けている。
このまま長い戦となるであろうと両軍ともに覚悟していたが、徳川勢の攻城砲が淀君の心を挫いた。攻城砲の一弾が大阪城本丸を直撃し、淀君の侍女8人が即死するという凄惨な姿に和睦を決意する。和睦の話し合いは終始徳川家康の考え通りに進んでいく。
12月18日豊臣方と徳川方の和睦条件の詰めが終わり、正式に和睦が整った。
・豊臣秀頼の本領を安堵する。
・大阪城に参戦した軍勢を不問とする。
・大坂方の大野治長、織田有楽斎より人質を出す。
・大阪城二の丸・三の丸を破却する。外堀を埋める。
徳川家康の狙いは天下の大阪城そのものであった。家康は譜代の家臣を使い、大阪城外堀を埋めた後、本来豊臣方が行う二の丸・三の丸の破却を強行し、更に内堀を埋め、豊臣秀吉が作った大阪城の堅牢さを全て奪い去った。
年は改まり、元和元年(1615年)となった。徳川秀忠将軍と共に江戸城へ戻った宗茂は、大阪城の風聞を聞いている。
“大御所様の執念であるな。”
家康は豊臣家を完全に葬るつもりで、大阪城の堀の埋め立てを強行した。宗茂はこの後にある合戦で何としてでも主君秀忠将軍に手柄を授けるつもりである。既に大阪城には浪人が続々入場し、徳川方に埋められた内堀も掘り返されているという話が聞こえている。
4月10日、両軍ともに戦の機運が高まり、徳川秀忠将軍は立花宗茂と直次を馬廻りとして従え、江戸を出発した。徳川軍軍勢が続々大阪城を包囲するが、豊臣家にはもはや依るべき堅牢な大阪城は無い。陸続きとなって囲む徳川の大軍相手に、己の武勇を見せるばかりである。豊臣家の勝ち負けや恩賞などに執着する気持ちは無い。
徳川秀忠将軍に従い、岡山方面に布陣した宗茂は大坂城に籠る軍の動きを冷徹に探っている。
“もはや乾坤一擲の突撃しかない。最後に意地を見せる戦いを仕掛けてくるはず。”
5月、大坂城の攻めを読み切った宗茂は、秀忠将軍に進言した。
「将軍様、我が陣の旗本勢は前に出過ぎております。どうか本営を後ろに置いて下さい。」
「宗茂、皆手柄を立てたいと思っている。私も同じだ。宗茂、今回は控えよ。」
戦功に逸る秀忠将軍は宗茂の進言を退けた。
こうして5月7日未明、夏の陣最後の戦、天王寺・岡山の戦いが始まった。
豊臣軍は死を覚悟した兵ばかりである。豊臣方の真田一族と毛利勝永が寡勢とは思えぬ奮戦を見せる中、秀忠将軍らの守る岡山口に決死の大野治房が突撃してきた。大野軍の怒涛の攻めに旗本勢は10町ほど退いた。
更に退こうとしたとき、立花宗茂は騎乗したまま、秀忠将軍に進言した。
「将軍様、これより先、敵に攻め込む力はございませぬ。今は本営を下げずに耐えて、前のめりで押すべきでございます。」
宗茂は突っ込んで攻めてくる敵兵の息切れを見て、敵の疲れを察した。宗茂自身も直次と僅かな手勢60騎を従え、鉄砲と弓で交互に攻め、錐のように大野軍へと斬り込んでいった。立花の鋭い攻めに大野軍は堪らず、退いていく。
秀忠将軍は宗茂の見事な攻め様に感嘆し、以降は必ず自分の周りに宗茂を置いた。宗茂は大野軍を追いながらも、大坂城手前で手勢60騎を押し留めた。
「これより先は大坂城の籠城組が待っておる。もはや戦の大勢は変わらぬ。戻るぞ。」
宗茂は大坂城天守閣を見上げながら、豊臣家の最期を看取った。
元和2年(1616)徳川家康は天寿を全うした。宗茂は秀忠将軍の御噺衆8名に選ばれ、2日に一度秀忠へ仕えるようになった。御噺衆となった宗茂であるが権勢に驕ることなく、ただ真摯に職務に励んだ。
そんな宗茂の無私な姿に江戸幕府重臣も譜代衆も篤く信頼を寄せ、立花宗茂を懇ろに扱うべきだという気運が少しずつ醸し出されていった。
元和6年(1620)立花宗茂の領国柳河城を受け継いだ田中吉政の息子忠政が、36歳で亡くなったという報せが江戸城へ知らされた。関ヶ原の戦功で田中吉政は宗茂の旧所領を拝領したが、11年前に亡くなっている。跡継ぎ田中忠政の死により、田中家一族の誰かが末期養子として柳河城を相続することも考えられるところであった。
だが、無情にも徳川幕府は田中家を無嗣断絶で改易とすることとした。
一見無慈悲とも思える決定の裏には、秀忠将軍以下江戸幕府重臣たちの並々ならぬ後押しがあった。
“何とか、宗茂に旧領柳河城を与えてやってほしい。”
秀忠将軍の意を酌んだ酒井忠世・土井利勝ら老中は直々に差配を進めている。
11月27日、立花宗茂は江戸城屋敷へと呼び出された。大広間で宗茂が待っていると、予想に反して秀忠将軍が現れ、上座に座った。宗茂は何の話であろうと下座で平伏して身構えていると、秀忠将軍の甲高い声が大広間に響いた。
「宗茂殿、奥州棚倉より柳河に移るがよい。」
思わぬ言葉に宗茂は顔を上げた。すると眼の前に満面の笑みを浮かべる秀忠の顔があった。
「柳河、知行12万石である。」
宗茂は万感の思いで平伏する。
関ヶ原の合戦で奮戦した西軍の大名の多くは斬首・島流し・改易・領土を削られるなど散々な結末を迎えている。領土を守った西軍の大名たちは徳川家康に内通し、合戦で戦を放棄し、寝返るなど武将とは思えぬ作法で身の安全を図り、後に自らの名を下げた者ばかりである。豊臣秀吉との忠節を貫き、合戦の後は恭順を貫いた。だが、一切媚びずに自らの仁義のままに振る舞ってきた。本来であれば、新しい主君徳川家の為に武功を上げることが一番の早道と思ったが、所領も自らの軍もないという状況では所詮適わぬ考えである。
それ故、自ら出来ることを愚直に通すことしか出来なかったが、結局はそれが一番の早道であったのかもしれない。
「御厚恩、必ずやお返しいたします。」
西軍に属した大名で旧領に復帰した大名は島津家以外では立花宗茂のみである。この恩義には必ずやこの後の奉公で返していきたいという宗茂精一杯の言葉であった。
元和7年(1621)1月立花宗茂は、十時摂津や旧立花家の家臣、そして新たに召し抱えた家臣達と共に奥州棚倉を後にした。
慶長11年(1606)から慈しんできた奥州棚倉の農民たちは泣きながら、宗茂の行列を追った。15年の長きにわたる善政への感謝を農民たちは皆口にした。那須山から下ってくる厳しい冬風を頬に受けながら、宗茂は最後の騎馬姿を農民たちに見せ、別れを告げた。
2月宗茂一行は柳河城へ向かう道中、京や大阪にも立ち寄った。宗茂は浪人している間に世話になった大徳寺や邸宅を貸してくれた富士谷紹務らに会い、篤い恩義に感謝した。
そして、宗茂一行は大坂で諸御用を任せていた住吉屋に頼んで、九州への廻船を手配した。
宗茂一行は瀬戸内海を西へ向かう廻船からの景色に心躍らせている。
厳しい風と凍るような波の粒が宗茂の顔を叩いているが気にせず、廻船の進む先を見ている。右手には播磨国の山々、左手には四国の山々、そして行く手には瀬戸内海の小島が幾つも連なっている。
“変わらないものであるな。”
何度も大坂城と柳河城を往復した日々が甦ってくる。
“小野和泉、由布雪下・・・・誾千代姫。”
宗茂は西の空を見上げて、1人つぶやいた。関ヶ原の合戦から、既に21年が過ぎている。宗茂自身も54歳になっている。
廻船は何度も寄港しながら、西へ向かっていく。そして、長門国の壇ノ浦が見えてきた。
“世戸口十兵衛・・・・、太田久作。”
関ヶ原の合戦後、弓組30余人を乗せた船が転覆し、世戸口十兵衛はその責任を感じて自害してしまった。今でもこの出来事は悔やまれてならない。世戸口十兵衛と一緒に宗茂を支えてくれた太田久作も2年前に江戸屋敷で天寿を全うしている。
2人との稽古のおかげで、今の自分がある。
“まもなくである。”
廻船は門司港に到着した。久方ぶりの九州の地である。
“何もかも懐かしい。”
宗茂は感慨深げに九州の街道を南下していく。2月雪深い奥州棚倉は真っ白な風景ばかりであるが、九州の山野は心地よい色合いであるように思われる。
2月26日、筑後へ入るとすぐ、皆が心待ちした3つのこぶの立花山が見えてきた。
一番西の井楼岳に立花城の遺構が残されている。立花宗茂が筑後国柳河城に移った後は、小早川隆景が筑前国と立花城を治めていたが、関ヶ原の合戦以降は東軍に属した黒田長政が筑前国を治めている。
その黒田長政は、慶長6年(1601年)に福岡城を築き、立花城を廃城としている。立花城の天守閣はもうないが、立花山に近づくと、宗茂は誾千代との思い出に満たされ、西御殿の離れで過ごした日々が濃密に甦ってくる。
“やっと戻って参った。”
誾千代姫の婿となってから、立花家家臣たちから認められぬ日々が続いたが、合戦で己の武勇を見せてこそ、全てが変わると思い、世戸口十兵衛と太田久作と日々弓と剣の修行に明け暮れた。この立花山こそが、我が名“立花”の故郷である。
宗茂一行は西国街道から立花山北にある昔の立花家菩薩寺に立ち寄ることとした。当時、立花家菩薩寺であった梅岳寺は、立花宗茂が筑後国柳河城へ移るときに筑後国に移転させた。今、梅岳寺は廃寺となっているが、手入れも行き届いていたので、宗茂一行は一夜の宿とした。
翌朝、宗茂は馬に乗ってたった1人で朝駆けに出かけた。朝靄がかかる筑紫路を進んでいくと懐かしい風景が眼前に拡がってくる。玄界灘から流れてくる潮の匂いも懐かしい。
宗茂は立花山の北東にある原生林へ向かった。誾千代姫が心の拠り所としていた大楠を目指している。立花山の裾野を進み、林を抜けると修験坊の滝が見えてきた。
すると1人の尼僧が凛と滝に佇んでいるのが見えた。ゆっくりと進むと、尼頭巾から覗く眼と宗茂の眼が合った。
「静。」
誾千代姫の女中頭であった静である。静は柔らかな笑みを湛え、宗茂が近づいてくるのを待っている。宗茂は懐かしい思いで胸一杯となって声をかけた。
「静、元気であったか。」
静は頷いて微笑んだ。
「この日の為に生き永らえて参りました。」
宗茂も微笑んだ。柳河城を加藤清正に明け渡す前、宗茂は宮川村の屋敷を訪ね、誾千代姫と一夜を共にした。その時に誾千代姫と別れ際に交わした口約束がある。
“いつか、一緒に大楠へ参ろう。”
宗茂はこの言葉をずっと心に秘して生きてきた。静は懐から油紙に包まれた手紙を宗茂に差し出した。宗茂は誾千代姫からの手紙と直感した。
「姫様が亡くなる前に書かれた手紙です。ただ、殿のご負担になると思い、お送りしませんでした。姫様もそう望んでおりました。」
宗茂は唇をかんで頷いた。
「殿、どうぞ。」
宗茂は手紙を受け取ると、静に促されて、鬱蒼とした森の小径を歩んでいった。朝陽が木々から洩れて、降り注いでくる。大地から空へと広がる楠が見えてきた。
この楠から左へ下ると、”大楠”立花城の守り神である。幾百年もの時を超えた大楠を前にすると、宗茂の眼から自然と涙が溢れ出てきた。
“誾千代姫、会いたかった。”
立花家棟梁としてこの地に帰ってくることは本当に辛く長い日々であった。だが、 誾千代姫を喪ったことの方がもっと辛く哀しいことであった。宗茂はその気持ちを全て封じて、立花家棟梁として振る舞い、徳川家に忠誠を尽くしてきた。
全てはこの地に戻ってくる為である。一番褒めて欲しい伴侶はもういない。宗茂は大楠の前に胡坐を組んで、手紙を読み始めた。懐かしい筆跡と手紙に焚かれた微かな香が宗茂を昔の日々へと誘った。
“殿、まもなく私は旅立ちます。 お会いしたい気持ちばかりでございますが、立花家は浪人中でございます。加藤清正と家臣たちの手前、会うことは控えたほうが良いと思います。”
宗茂は手紙に向かって頷いている。
“殿は立花家棟梁として、父道雪の意を継ぎ、世に誇る軍功を重ね、西軍で戦いました。父高橋紹運様のように旧恩を忘れず、豊臣家への忠節を貫いたことは皆にとっても私にとっても胸を張る采配でございました。敗れはしましたが、今加藤家の庇護で暮らしていることも、浪人となった事も一切悔いはございません。何よりも、加藤清正様を朝鮮で救ったのは殿でございます。”
宗茂は手紙に向かって何度も頷いた。
“世に誇る殿と過ごした日々が私の宝でございました。もう私には何の悔いもございませぬ。殿は必ずや再起します。愛しき殿と結ばれたことが私の誇りでございます。誾千代”
宗茂が愛した素直な誾千代姫であった。宗茂が欲した誾千代姫の言葉である。心に封印した苦しく辛い気持ちと耐えた日々が全て霧散していく。
宗茂は空を見上げた。大楠の幹と枝が四方へと広がっている。一瞬強い風が吹いて、空から大楠の葉が何枚も落ちてきた。時を超えて会えた誾千代姫の言葉に宗茂は感謝した。
「本当に大楠で会えたな。誾千代姫。」
宗茂はいつまでも誾千代姫との逢瀬を慈しんだ。
立花山を通り過ぎ、筑紫野を抜けると、西に四天寺山が見えてきた。父高橋紹運が命を燃やした岩屋城の城跡が見えてきた。意地を貫いた父に負けぬ仁義でここ筑前に戻ってきた。全てが懐かしい。宗茂に従う十時摂津以下一行も誇らしげな顔で筑紫野を南へ向かっている。
間もなく柳河城である。柳河城には今は亡き加藤清正の下で旧臣をまとめてくれた小野和泉の跡継ぎが待っているはずである。
“和泉の忠義、報わねばならぬ。”
宗茂は小野和泉の跡継ぎを再び家老として召し出すことに決めている。宗茂が小野和泉への思いを頭の中でめぐらせていると、先の街道沿いに多くの農民たちが待っている姿が見えてきた。近づくと、多くの農民たちが涙を流して喜んでいる姿が見えてきた。
“殿、おかえりなさい。”
“ずっとお待ちしておりました。”
宗茂は改めて胸が引き締める思いである。
“また、この者たちを幸せにせねばならぬ。”
改めて、宗茂は柳河での治政への思いを深めている。
2月28日、柳河城が見えてきた。長く続いた旅が終わり、また新たな日々が始まる。これより先も変わることなく、己のまま振る舞うばかりである。
立花宗茂が領地没収となった後、田中吉政は、柳河城の3層天守閣や水濠の整備を行なった。干拓や河川・街道の整備などの土木工事で、農民たちに大きな負担を強いてきた。
その為、人心は離れつつあったが、この後の宗茂の善政で再び農民たちは忠誠を誓うようになり、領国の政治はすぐに安定した。
また、田中吉政によって破却された立花家菩提寺の梅岳寺の代りに、宗茂は道雪の為に以前建立した福厳寺を立花家菩薩寺とした。同時に宗茂は亡くなった誾千代姫の供養の為、柳河城内に良清寺を建て、自らの心の拠り所とした。
そして、九州各所に散った多くの旧臣を呼び出し、家臣として再び召し抱えて、旧恩に応えた。
だが、宗茂は長く柳河城に留まることを許されなかった。徳川秀忠将軍は格別に立花宗茂を重用している。宗茂は出来る限り江戸屋敷で過ごし、出仕するように求められたのだ。
その深く篤い信頼は、第3代将軍徳川家光にも受け継がれていく。宗茂の忌憚なく答え、媚びることなく話を進める様に、家光も宗茂を格別に重用した。そして、家光将軍は自らの相伴衆の役目を宗茂に命じる。
隠居した秀忠も事あるごとに宗茂を召し出して、上洛や茶会などに付き合わせた。
また、他の大名の江戸屋敷を訪問する“御成り”では必ず宗茂を自らの近くに置くことを望むほど、大きな信頼を寄せた。
寛永9年(1632)秀忠の死後、第3代将軍家光の宗茂への信頼はますます膨らんでいった。
家光は上洛や家康を祀る日光への参拝には必ず立花宗茂を伴ったが、宗茂は権勢を誇ることなく、ただ自然なまま振る舞うばかりである。
そんな宗茂が再び甲冑を身にまとったのが、寛永14年(1637)10月で起った天草・島原の乱である。
幕府の采配を振るう老中板倉重昌の下命により、立花家跡継ぎの忠茂が天草の戦陣に一番乗りを果たした。合わせて、九州諸国の軍勢も集められたが、諸将の戦意は薄く、苦戦ばかりで天草・島原の乱は収まる気配がない。
江戸幕府からの強い叱責に、指揮官板倉重昌は決死の突撃を試み、命を散らした。この思わぬ苦戦を何とかせねばと思った72歳宗茂は83歳の十時摂津と共に出陣すると決した。
翌年2月、宗茂は着陣すると、すぐに敵の原城を偵察した。宗茂は並々ならぬ敵の戦意を感じた。
「摂津、今宵、敵は攻めてくると思うが如何であるか。」
「殿、私もそのように思うております。」
宗茂は忠茂に命じ、敵の夜襲に備えさせた。すると宗茂が案じた通り、深い闇の中から、敵の鉄砲隊が突出してきた。思わぬ敵襲に幕府軍が混乱する中、立花軍のみが敵軍を迎え討ち、用意していた鉄砲隊で多くの敵を倒し、幕府軍立て直しの時間を稼いだ。
“合戦はやはり立花、西國一の一物なり。”
立花の武名を再び世に広まった。宗茂は跡継ぎ忠茂に原城総攻撃の為の軍配を渡した。この忠茂率いる金色の押桃形兜の軍が敵を圧倒し、2月28日原城は落城した。
宗茂の合戦はこれで終わった。
もはや戦に出ることもない。
織田の時代より、勇将として戦ってきた立花宗茂、最後の合戦であった。
この島原の乱で再び立花家の武名は高まった。
その立花宗茂に対し、多くの大名たちが如何に強い軍勢を育てるのかと尋ねたが、宗茂はいつも同じ答えを返した。
「特別に何かしているわけではございません。常に領国の農民らと同じように、家臣に慈悲の心を持つことでございます。そればかりでございます。」
宗茂の家臣への深い情けは、主君への忠節となって返ってきた。また、宗茂は敵の鉄砲や弓矢を怖れず、最前線で指揮を執り、得意の弓矢を放ち続けた。この懸命な宗茂の姿に家臣たちは皆心打たれた。
「主君の今までの深い情けに応えたい。」
宗茂の家臣と農民への慈悲は、道雪から教わった大切な財産である。宗茂の心が変わることは一切無かった。
宗茂はもはや何の未練も執着も無い。
立花家の棟梁を忠茂に譲り、隠居を許され法体となって“立斎”と号すようになった。隠居した宗茂であったが、第3代将軍家光からの信頼は更に深まっている。
寛永16年(1639)どのような貴人の前でも、家光から拝領した頭巾をかぶることを許された他、家光から拝領した杖を江戸城内で使うことを許された。
その後、体調を崩した宗茂に家光将軍は再三、病気見舞いの使者を遣わすなど心配をしたが、寛永19年(1642)11月25日76歳の生涯を終えた。
その遺骸は江戸下谷広徳寺に葬られた。
意地を貫き、仁義を尊び、慈悲を施した最後の武将がこの世を去っていった。
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織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
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立花宗茂は 大河ドラマにして欲しい!と思っている武将で この小説を見つけた日から (ノロノロですが…)楽しく読ませていただきました。
ぎん千代様との 別れが切なかったですが それを含めて 大好きな作品です。