九州のイチモツ 立花宗茂

三井 寿

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第7章 関ヶ原

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 慶長3年(1598)8月18日、天下人豊臣秀吉が大往生となった。
 日本国のみならず、朝鮮国、明国にも秀吉の死は知らされた。国内統一を果たした頃は、秀吉は英名闊達な姿で国内の人心を掴んでいた。
 だが、晩年の秀吉は頑迷固陋となり、朝鮮征伐で国中を疲弊させ、最後は自分の跡取りの行く末のみを案じながらこの世を去っていった。天下人の死後の政治は五大老と五奉行に託されることとなった。
 
 五大老 徳川家康 前田利家 宇喜多秀家 上杉景勝 毛利輝元
 五奉行 石田三成 増田長盛 長束正家 前田玄以 浅野長政
 
 秀吉が亡くなって十日後の8月28日、五大老と五奉行は朝鮮征伐軍の撤退を決めた。この報せを何より喜んだのは、朝鮮で辛い滞陣を続けてきた大名達である。撤退命令を受けとるとすぐ日本へ帰る準備を進めた。
 明・朝鮮軍も日本軍撤退を掴むと、すぐに泗川城と順天城を攻めることとした。領国を荒らされた恨みはこの戦で晴らすつもりである。
 
 泗川城を守るのは明・朝鮮軍に“鬼石蔓子(おにしまづ)”と怖れられた島津義久率いる7千の兵である。
 慶長3年(1598)9月27日、明・朝鮮軍はこの泗川城を約20万の兵で包囲した。この窮地に島津義久は泗川城を出撃し、敵の食糧庫を襲った。思わぬ反撃で明・朝鮮軍は兵糧不足となって、長い滞陣が不可能となってしまう。明・朝鮮軍はやむなく短期決戦を仕掛けることとなったが、それこそが圧倒的に兵力が劣る島津家が望んだ戦であった。乾坤一擲の戦で島津軍は雌雄を決する覚悟である。
 島津軍は泗川城前に大砲と鉄砲のほとんどを配した。大砲の砲弾には釘や鉄片を入れ込み、火縄を使った簡単な地雷も設置した。後は死を覚悟した兵たちである。多くの兵が前線に埋伏し、自らの命を捨てる覚悟である。
 
 泗川城からすぐ西の釜山城に陣取る小早川家にも島津軍の窮状は知らされた。釜山城の支城古城を警護する立花宗茂はこの話を聞くと、すぐ十時摂津を島津義久の下へと送り込んだ。
「よくぞ、お越しになった。」
 島津義久は20万の敵兵が囲む中を抜けてきた十時摂津に感心した。
「いえ・・・、どうぞ、こちらが我が主君からの書でございます。」
 立花宗茂からの書状を島津義弘は食い入るように見入った。そして、長嘆息して、十字摂津に語りかけた。
「摂津殿、宗茂殿の援軍は固く辞退申し上げる。宗茂殿の願いは堪らなく嬉しいが、この戦は島津家のみで行うと決めている。」
 島津家棟梁の発した言葉は重い。十時摂津は唇をかみしめた。
「だが、宗茂殿のご厚情、決して忘れぬ。必ずや一緒に日本へ帰りましょうとお伝えください。」
 島津義久はその日の夜、十時摂津を自陣の外まで見送った。明日から、20万対7千、死の戦が始まる。

 10月1日、まだ空が白み、厳しい冷気が肌をさす中、島津軍の大砲が咆哮を上げた。この発射音を合図に明・朝鮮軍対島津軍の合戦が始まった。大砲の発射音は止むことなく続いている。島津軍の大砲が着弾する毎に多くの兵の悲鳴が響き渡った。大砲の砲弾に仕込まれた鉄片や釘が明・朝鮮軍の多くの兵を傷つけていく。
 この大砲がきっかけとなって明・朝鮮軍は前進したが、島津軍鉄砲隊は敵の突破を許さず、鉄砲を撃ち続けた。20万対7千、圧倒的な兵力差であるが、島津軍が信じられないほどの粘りで明・朝鮮軍を食い止めている。
 このつばぜり合いは、明・朝鮮軍の後方にある火薬庫の大爆発で大きな戦機を迎える。島津義弘は爆発を目の当たりにし、すぐ全軍に突撃を命じた。不慮の爆発で浮足立った明・朝鮮軍は、島津軍の決死兵の怖ろしさに慄いた。
“一人の敵をも殺した証拠のない者は死罪となる。
 決死の場所を定め、鉄砲三発のうち一発は必ず敵にあてるべし。
 白兵戦になり、敵一人をも殺しえざるときは自分の息子も含めて切腹すべし。”
 鬼気迫る島津軍の突撃に戦死者が続出した。大将島津義久も騎馬のまま、敵陣深くまで斬り込んで、敵兵4人を討って、味方を鼓舞した。前線に埋伏していた島津軍伏兵も、明・朝鮮軍の前に現れ、刀と槍を振るった。多くの兵が捨て駒となったが、明・朝鮮軍は混乱し、約3万5千の兵が討たれ、撤退せざるを得なかった。
 島津軍7千は約1千余りを失ったが、何とか明・朝鮮軍を退け、釜山城へと退いた。釜山城には城主小早川秀秋らと蔚山城から撤退してきた加藤清正がいる。すぐに日本へ帰る為の合議が始まった。
 
 大広間に並ぶ大名皆が日本への早期撤退を求めている。その合議の最中に、順天城を守る城主小西行長からの急使が到着した。
“明・朝鮮軍に包囲された。援軍を求む。”
 10月2日に順天城を包囲した明・朝鮮軍は6万に対し、籠城する小西軍は1万余りである。泗川城での明・朝鮮軍20万対島津軍7千という悲惨な状況よりは良いが、苦戦は必至である。
 だが、帰国を急ぐ大名たちは、誰も援軍を出すとは言わない。小西行長を毛嫌いする加藤清正などは小西行長の窮状に関心も示さない。他の大名達も小西行長・石田三成ら文治派に大きな不満を抱いてきた。文治派が主導した前の和平交渉や論功行賞に強い不満を持っており、援軍を出す気はまるで無いという感じである。合議が行き詰った時、釜山城支城の固城を守ってきた立花宗茂が立ち上がった。
 そして、皆の前で存念を述べ始めた。
「6年に渡る朝鮮の戦が終わり、皆が帰国するときにどうして日本の友軍を見捨てて帰ることが出来ましょうか。」
 島津義久は立ち上がった立花宗茂の姿に目を見張った。この会議にいる大名の中で小西行長を良く思う者は誰もいないはずである。しかし、立花宗茂はそんな事を意に介さず、己の侠気だけで援軍を出す話をしている。泗川城で自軍が窮地になった時も、援軍を申し出てくれたのは宗茂だけである。
「私も参りましょう。宗茂殿を死なせる訳には参りませぬ。皆様方はどうぞ帰国の準備をおすすめください。」
 他の大名たちは島津義久が小西行長との縁が薄いのに、援軍を出すことに驚いた。同時に二人の潔い姿に負い目を感じたのだ。

 合議の後、島津義久は立花宗茂に挨拶をした。
「宗茂殿、泗川城での援軍のお申し出有難うございました。お断りをしましたが、宗茂殿のお気持ち、心に沁みました。」
「いえ、結局援軍を出してはおりませぬので・・・。」
 はにかんでかぶりを振るう宗茂の姿は、この異国で荒み切った気持ちを洗い流すような感を受けた。32歳となった宗茂の真直ぐで濁りの無い眼差しは、64歳になる島津義久の心を激しく打った。
“世に多くの武将がおろうとも、立花宗茂ほど信義厚き侠はおらぬであろう。父紹運殿を討った旧讐を全て水に流し、これほどまでに旧敵に対し心を尽くすことなどあるのであろうか。・・・この男こそ我が心の友である。”
「宗茂殿、日本へ帰ったら我が家のことで相談がある。相談に乗ってくれぬか。」
 宗茂にとって思いがけない言葉であった。島津家は昔から他国へは徹底的に秘匿する付き合い難い大名である。その島津家棟梁が自分に相談を持ちかけてきたことは、自分が認められた証であり、名誉なことである。
「はい、お力に乗りたいと思います。」
 島津義久はその返答にも宗茂の熱誠を感じた。

 心を通わせた島津義久と立花宗茂の軍は小西行長の救援に向け、釜山城を出発した。敵陣を偵察すると明・朝鮮軍の大軍が陸路を待ち受けているのが分かった。両軍は陸路を避け、順天城東の沖にある巨済島から船で露梁津を目指すこととした。
 この海域を守る朝鮮水軍の名将李舜臣と決戦し、小西行長の兵たちを海より脱出させる考えである。李舜臣の強烈な愛国心で統率された朝鮮水軍は、今まで多くの海戦で日本の軍船を沈めてきた強敵である。巨済島に辿りついた島津義久と立花宗茂は如何にして朝鮮水軍を破るかを思案した。
「宗茂殿であれば、如何攻めますか。」
 島津義久はまずは宗茂の考えを聞くつもりである。
「義久様、我が方の強みは海の上でも鉄砲でございます。鉄砲で敵の操舵手を狙うべきかと思います。」
「なるほど、敵の強みはやはり操船。その操船を行う者を狙えば、その差は埋まる。」
 満足気に島津義久は頷いた。
「はい、後は義久様の御考えと同じでございます。」
「宗茂殿も同じ思いであったか。やはり、李舜臣の首しかないな。」
 二人の勇将の思いは一致した。翌朝、巨済島から出港することが決まった。

 慶長3年(1598)11月18日、朝の太陽が対馬の山々から覗き、玄界灘を赤く染めている。本格的な海戦が初めての島津・立花軍約5百隻の操船は、日本から兵糧を運んできた水夫たちが行っている。露梁津を目指しているが途中多くの島があり、どこに朝鮮水軍が潜んでいるのか皆目見当がつかない。
 南海島の脇を抜けようとしたところで、朝鮮水軍の姿が見えた。
 日本船団の両側に位置する東西の小島から現れた朝鮮水軍の船は南北に展開し、船団の先陣と後陣を挟撃し始め、海戦が始まった。先陣を進む島津軍船は朝鮮水軍の大砲と火矢で激しい攻撃にさらされた。
 それでも島津軍は、朝鮮水軍の操舵手を鉄砲で狙い撃って、朝鮮水軍の動きを封じ、戦はじわじわと乱戦となっていった。本来、船の操舵手を狙うことは水軍同士の海戦では御法度であるが、これを知らずに作戦としたことで島津・立花軍の勝利への活路が見えてきた。操舵手が狙われ、朝鮮軍の船が立ち往生し始める中、島津軍はとうとう敵の大将旗を掲げた船を発見した。
“あの船を追え、行け!”
 島津軍船は李舜臣の大将船を追って、銃弾を浴びせた。そのうちのたった一発の銃弾が甲板上で指揮を執っていた李舜臣の頭を偶然貫いた。
 同じ頃、島津軍の大将旗を掲げる島津義久の船も朝鮮水軍に執拗に狙われ、沈没寸前であった。それでも、大将船を守ろうとする別の島津軍船の体当たりや犠牲で、何とか朝鮮水軍の追手から逃れた。
 名将李舜臣の死はすぐ朝鮮水軍全軍に伝わり、朝鮮水軍は静かに引いていった。島津・立花軍は幸運にも紙一重の勝利を手にしたのだ。
 
 この薄氷の勝利で小西行長らは順天城を脱出し、巨済島まで逃れた。島津軍と立花軍は多くの兵を失い、朝鮮征伐に出撃した大名たちの中で一番遅い帰国となった。両軍は12月終わりに名護屋城へ戻ってきた。
 
 主のいなくなった名護屋城はもう巨大な骸である。朝鮮征伐の前線基地となった6年前は全国から約20万の兵や売り子や遊女も集まり、大変な喧噪であったが、今は想像できぬほど人の気配がない。朝鮮から最後に帰国した島津軍と立花軍がこの名護屋城を去るとこの巨大な城は用済みとなる。
 宗茂は閑散とした名護屋城の姿に天下人豊臣秀吉が亡くなったことを実感した。最期に秀吉と会ったのは最初の朝鮮征伐が終わった後である。大阪城で挨拶をした時、小野和泉が語る碧蹄館の戦いに一喜一憂する姿が思い出される。初めて秀吉に会った時には多くの大名の前で、自らの武勇を手放しで褒めてくれた。全てはもう遠い過去の思い出である。
“秀吉様のお陰で道雪様の宿願であった柳河城を手に入れることが出来ました。秀吉様への御恩は忘れません。”
 宗茂は大阪城のある東の空を見つめ続けた。

 名護屋城から博多へ向かう途中、島津義久は立花宗茂と一緒に馬に乗りながら、多くを語り合った。秀吉亡き後の豊臣家の未来、五大老と五奉行のあり方、大国を采配する棟梁の苦悩を宗茂は聞かされた。
「宗茂殿、伊集院忠棟は知っておろう。」
 島津家の宿老伊集院忠棟は、織田信長存命の時から鎖国を続ける島津家唯一の外交官である。京の島津家屋敷に留まりながら、多くの大名と茶道や和歌を通じて交流を重ねている。天下人となった豊臣秀吉は、この伊集院忠棟をうまく手なずけ、島津家に臣従するよう伝えたのだ。だが、島津義久はこの調略を断り、九州で秀吉軍を迎え討ち、圧倒的な兵力の前に敗戦してしまう。
 このとき、伊集院忠棟が秀吉との和議をまとめる為に奔走したが、その後自らの談判で島津家の存続を決めたと広言するようになった。以降、秀吉や子飼いの石田三成と昵懇になり、主家の島津義久を凌ぐような権勢を誇るようになっていたのだ。
「ええ、今は8万石と聞いております。」
 伊集院忠棟は太閤検地の時、石田三成の裏工作で日向の8万石が与えられ、実質的には島津家から独立した大名となっている。
「秀吉様が生きておられるうちは我慢して参ったが、もはや猶予ならぬ。」
 島津義久はこの後、秀吉亡き後の大事な舵取りをしなければならない。伊集院忠棟の存在はこの後足枷になるのは間違いなく、島津義久は成敗するしか方法は見つからなかった。
「義久様、成敗は是非我らが・・。」
 奇特な申し出であった。普通であれば、血縁の無い他家の騒動に加担するようなことはあり得ない。
「宗茂殿、私は合力を頼んでおりませぬ。話を聞いて貰えれば・・・・・。」
 慌てる島津義久に対し、立花宗茂も熱誠のこもった目を向けた。
「何とか義久様の御役に立ちたいと思っております。」
 自分への真直ぐな思いは嬉しいばかりであるが、島津義久は島津家だけで解決すると決めている。主従の関係があると云え、独立した大名伊集院忠棟を討つことは、大名同士の私闘であり、五大老と五奉行から咎められる可能性がある。島津義久はそんな厄介事に宗茂を巻き込む気持ちは無かった。
 だが、宗茂は伊集院忠棟の治める日向国まで遠征軍を出す準備を密かに進めるなど、どうしても島津家の力になりたいばかりであった。
 
 島津義久の相談を受けた後、宗茂は博多から柳河城へ向かった。
 冬の朝鮮は荒涼とした大地に一面銀世界となるが、この筑紫野に雪が降ることはほとんどない。土の色が拡がる大地を見ながら進んでいくと、やっと戦の無い領国へ戻ってきたという安堵の気持ちに満たされていく。立花軍の姿を見て、多くの農民たちが道の傍らで伏して、口々に帰国を歓んだ。
“殿様、お帰りなさい。”
“お待ちしておりました。”
 2年ぶりの帰国で、農民たちの心のこもった言葉を聞くのは震えるほど嬉しい。柳河城を幾重にも囲む水濠の橋を渡ると柳河城の天守と大手門が見えてきた。留守を任せた由布雪下と多くの兵たちが出迎えの為に並んでいる。
 5千で出撃した兵と人足たちは半数以下の2千まで減ってしまった。長い朝鮮の戦で金箔を施した押桃形兜はところどころ剥げて茶色になってしまい、負傷兵も多い。
 大手門をくぐると、帰りを待ち続けた家族が大勢並んでいる。再会を喜ぶ家族、旦那や子供を失ったのを知って泣き崩れる者、待ち人を探す者、宗茂は胸がつぶれるような思いでその光景を眺めている。
“私の采配で多くの者が死ぬ。その全ての死を私は背負わねばならぬ。”
 立ち尽くす宗茂の後ろで小野和泉、十時摂津も同じ光景を眺め続けた。

 柳河城に戻った宗茂は十日経っても、誾千代姫の館を訪れる気になれなかった。柳河城で泣き崩れる多くの家族の姿がまだ脳裏から消えない。それと名護屋城の事が頭から離れない。
 宗茂は九州へ帰れば、名護屋城での出来事を誾千代姫に聞こうと決めていたが、最悪の事ばかりが頭に浮かんでくる。自分にこのような猜疑心があるのが堪らなく辛い。明日には新年の挨拶の為、大阪城へ発たねばならない。
 宗茂は心乱れたまま、近習に告げずに愛馬と柳河城を飛び出した。日が沈むにはまだ1刻はある。宗茂は城から一番遠い水濠沿いで愛馬を思い切り責めた。12月の冷気を切り裂いて疾走する。頬に当たる厳しい風が徐々に心地よい風となっていき、宗茂と愛馬からは湯気が立ち始めてくる。
 宗茂が半刻ほど水濠沿いを疾走していると対岸に馬に乗る女の姿が現れた。顔はよく見えぬが誾千代姫であるのには間違いがない。宗茂が愛馬を走らせると誾千代姫も対岸で同じように疾走する。
 何度も疾走を繰り返したが、宗茂は対岸に行き話をしようと思って橋を渡り始めると、誾千代姫は逃げるように馬を走らせた。宗茂が愛馬を責め何とか追いつこうとするが、誾千代姫も必死に逃げる。宗茂が馬鹿らしくなって愛馬をとめると、誾千代姫は逃げるのを止め、宗茂に近づいてきた。
「殿、おかえりなさいませ。」
「うむ。」
 宗茂を見つめる誾千代姫であったが、宗茂は視線を外したまま答えた。
「明日、また大阪城へ行かれると聞きました。」
「うむ。」
 2人には埋めきれない微妙な間がある。誾千代姫はそれが何であるか見当もつかない。視線を外したままの宗茂は意を決し、ずっと溜めていた疑問を投げかけた。
「名護屋城で秀吉様とお会いしたと聞いた。本当の事であるか。」
「本当でございます。」
 誾千代姫は顔色も変えず、毅然と答える。
「ではそこで何があったのか?」
 誾千代姫は宗茂の言葉が堪らなく悲しかった。自らが信用されずに疑われていることも、宗茂の心を乱していることも許せない。
「殿、3年も前の事でございます。」
「誾千代、言わぬのか。」
 誾千代姫も自分が疑われる事だけは我慢ならない。
「殿、言いませぬ。殿はどのように思っておいでなのですか。」
「誾千代、何故言わぬ。」
 あまりの宗茂の激昂振りに、誾千代姫は取り返しのつかない言葉を言ってしまう。
「殿の御想像通りにお任せします。それで私は結構でございます。」
 宗茂は誾千代姫の言葉に完全に心が凍ってしまった。誾千代姫と秀吉の間には睦事はあったと誤解し、宗茂の表情は豹変した。
「そうか。」
 宗茂は一言だけつぶやくと愛馬に乗って、柳河城へ戻っていった。その背中を追えない誾千代姫は自らの言葉を悔いた。

 宗茂は激しい焦燥で一睡も出来ぬまま、小野和泉と共に大阪城へ向けて出発した。宗茂は豊臣秀吉の死で、揺れに揺れる時勢を探るつもりである。
 
 慶長4年(1599)1月10日、天下人の家督を継いだ豊臣秀頼は、秀吉の遺命に従い、徳川家康と前田利家の警固の下、伏見城から大坂城に移った。この行列を見ようと京と大阪には太閤秀吉を偲ぶ多くの町人や庶民が訪れた。徳川家三つ葉葵と前田家梅鉢紋の旗指物の軍が、豊臣秀頼の輿を守るのを見て、皆新しい政権の安泰を祝った。
 大阪城で後見人の前田利家が秀頼を支え、伏見城で徳川家康が政務を執って新政権を支えることに多くの大名と世の人々が期待した。
 だが、徳川家康には秀頼を支える気持ちなど毛頭ない。前田利家は既に病に侵され、顔をこけて蒼白な顔となっている。前田利家の短い寿命が尽きるまで世を欺くつもりである。それまでは多くの大名と昵懇になって、自らの勢威を拡大するつもりである。
 
 この行列の3日前、徳川家康は島津義弘と3男忠恒、そして立花宗茂を伏見館の茶席へ招いている。立花宗茂は家康の御点前を見ながら、家康の心を探った。
“相変わらずの実直な御点前。”
 宗茂は家康に茶を極めようとする心が入っていないことに気づいている。ただ、家康は作法通りに茶を点てるのが上手い。
「伊集院の事は聞いております。仲裁に入りましょうか?」
 五大老筆頭から島津家棟梁へ思いがけぬ問いかけであった。
「これは島津家のみの問題でございます故、仲裁は御無用でございます。」
 島津義弘の言葉は家康の申し出を断るきつい言葉であったが、家康は何ら気にすることなく笑って答えた。
「では口出し致しませぬ。ご心配も一切御無用、存分にされるがよいかと。」
 五大老筆頭からの思わぬ免罪符にさすがの島津義弘も恐縮した。
「家康様有難うございます。ご迷惑はおかけいたしませぬ。」
 3月に入ると、島津家は京の屋敷で伊集院忠棟を討ち、伊集院の知行地日向を攻めて嫡男伊集院忠真を討ち、積もり積もった恨みを晴らした。徳川家康は朝鮮征伐でも圧倒的な強さを誇った島津家と立花家に対し、何とか恩を売って、自軍に引き込みたい考えである。
 
 そんな騒ぎの中、閏3月3日病床に臥せっていた前田利家が62歳で大往生した。
 秀吉政権の重鎮前田利家の死により、朝鮮征伐で溜まっていた不満が破裂する。不満の矛先は五奉行の筆頭石田三成と増田長盛ら文治派である。朝鮮征伐で小西行長を擁護する不公平な処遇で蟄居となった加藤清正の他、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政、福島正則ら豊臣恩顧の武断派七将が、深い恨みを抱いてきた石田三成を襲撃し、討ち取る計画を立てた。
 だが、三成は通報により襲撃を知ると、佐竹義宣の屋敷に逃れた。七将は諸大名の屋敷をしらみつぶしに探し始めると、閏3月4日三成一行は女装し、佐竹邸を抜け出て、伏見城で政務を執る徳川家康に仲裁を求めた。家康は三成引き渡しを求める七将を諌め、その代わりに三成を佐和城へ隠居させ、朝鮮征伐の査定を見直しする事を約束した。
 この石田三成の失脚こそが家康の狙いであった。政局の主導権はゆっくりと着実に家康に握られてゆく。以前、前田利家に咎められた政略結婚を堂々行うようになり、武断派との繋がりを強くしていった。
 更に家康への暗殺計画があるという噂が世に広まると、9月7日家康は豊臣秀頼を奉じるという名目で伏見城から大坂城に登城し、そのまま大坂城西の丸に留まるようになった。この後ろ盾をしたのが秀吉の正室北の政所と加藤清正ら武断派である。
 家康の力で何とか豊臣家を存続させる考えである。家康は暗殺計画についての調べを進め、10月2日前田利家を継いだ利長を暗殺計画の首謀者と断定した。前田家は否定したが、10月3日家康は“加賀征伐”を世に号令する。
 すると、前田家は恭順の姿勢を示し、利長の母であり利家の正室であった芳春院を人質として差し出してきた。家康が専横を強めていく中、隠居した石田三成は五大老の上杉景勝と家老の直江兼続、秀頼の実母淀殿、毛利家、小西家らと手を結んだ。豊臣家の将来の為、家康に対抗する勢力をつくろうと画策を始めた。
 
 上杉景勝は徳川家との決戦に備え、領内の城の改修と新城の建設を進めたが、家康は“謀反の準備”と指摘し、誓書と上洛しての弁明を求めた。これに対し、上杉家の家老直江兼続は家康の指摘の矛盾を突き、家康を愚弄する内容の“直江状”を送りつけた。
 家康はこの書状を読んだ後に激昂し、上杉討伐を決定した。

 慶長5年(1600)5月、大阪城で新政権を牛耳る家康は、各大名に“上杉征伐”出陣を命じる。
 家康には後陽成天皇より晒布百反、豊臣秀頼からは黄金2万両と米2万石が下賜され、上杉征伐の正当性が世に謳われた。家康は先鋒に福島正則、細川忠興、加藤嘉明ら秀吉恩顧の武断派を任じ、伏見城の留守には律儀な猛将・鳥居元忠を配し、上杉家の待つ会津国へ出陣した。その家康の軍を山科まで見送ったのが、島津義弘である。島津義弘は、伊集院討伐の大きな借りがあると思っている。
「島津殿、お見送り重畳でございます。」
「いえ、お見送りだけではございませぬ。島津家は家康様に加勢いたします。」
 家康には思いがけない島津家棟梁からのうれしい言葉である。
「これは・・上杉征伐前に何と言う奇瑞、嬉しいばかりでございます。どうか、京で戦が起こりましたら、伏見城へご入城下さい。」
 伏見城入城を快諾した島津義弘の目の前を、三つ葉葵の旗指物を掲げた大軍が東へ向かっていく。この家康軍は、浜松・島田・駿府・三島・小田原・藤沢とゆっくり進み、7月2日に江戸城に入った。
 家康はそれから17日間もの間、江戸城に滞在し、石田三成らが暗躍する反徳川派が上方で挙兵するのを誘った。

 徳川軍が上杉征伐に向かった後、7月17日石田三成・長束正家・増田長盛・前田玄以ら文治派は毛利輝元を西軍総大将として大坂城に招き入れ、三奉行の連署による挙兵宣言“内府ちが(違)ひの条々”を発し、家康を弾劾した。
 一、五大老前田利家が病死後、嫡男利長の母芳春院を人質にした。同じく五大老上杉景勝に落ち度が無いのに征伐を決定した。
  一、伏見城を占拠した。北の政所を大坂城西の丸から追い出し、自分が住むようになった。また、西の丸にも本丸と同じように天守を設けた。
  一、五奉行と五大老の約束をいくつも破った。皆で連判するべき文書を1人で署名押印した。誓紙を勝手に取り交わした。大名の知行には関与しないという約束に背き、自分に都合の良い者にだけ知行を与えた。
 
 前田利家の死後は“天下人”として振る舞い、太閤秀吉との誓いを破った家康の行状を厳しく責めた。この“内府ちが(違)ひの条々”で家康を弾劾すると同時に、豊臣秀頼への忠節を求める檄文を各大名へ送った。

 柳河城の立花宗茂には多くの大名から書状が届いた。石田三成や小西行長ら文治派からは家康討伐への参陣依頼、徳川家康や加藤清正らからは東軍への参陣依頼が殺到した。宗茂はその書状を一切開けることなく、束ねて置いたままにしている。
“石田三成らの仕置きは感心すべきものでなかった。”
 約6年にも及んだ朝鮮征伐で、武断派の大名たちは補給もままならず、酷寒に耐えた辛い戦の恨みを、日本国で差配していた文治派に向けた。また、論功行賞も武断派に厳しかったことも怒りを増幅させた。宗茂も武断派と同じく文治派の差配には憤りさえ感じている。
“今回の戦は文治派と武断派の戦ではない。家康が天下人となるか、ならぬか・・・。”
 宗茂は家康の振る舞いも狙いも十分に理解した上で、思案をまとめた。そして、由布雪下・小野和泉・立花三河・十時摂津らと全ての家臣を柳河城へ呼び寄せることとした。

 厚い雲で空が覆われているが、ときおり雲の合間から日差しが差し込んでいる。立花家家臣らは空を見上げ、上方の戦でどちらに味方するのであろうかと思案しながら、柳河城へ向かった。既に石田三成らは“内府ちがひの条々”の内容を世に流布させている。
 まもなく、家康軍と大坂城西軍の合戦になるのは間違いない。
 
 続々、立花家家臣が柳河城へ向かう中、宗茂は日課の弓の稽古を終え、井戸で水浴びをした身体を拭っている。
 まもなく、由布雪下・小野和泉・立花三河・十時摂津らと今後の評定をした後、家臣たちに立花家の方針を伝えるつもりである。宗茂は部屋に戻って直垂に着替えていると、突然障子が開いて、誾千代姫が入り込んできた。宗茂は1年半ぶりに会った誾千代姫の姿を完全に黙殺した。
「殿、お話があります。」
「見ての通り、着替えておる。」
 冷たく宗茂は言い放った。誾千代姫は部屋の隅に正座をして、宗茂を待った。宗茂はそんな誾千代姫の姿を横目で見ている。宗茂の誾千代姫への思いは屈折して、もう如何ともし難い状況になっている。
 着替え終わった宗茂は近習を下げ、部屋には宗茂と誾千代姫の2人となったが、沈黙が続いた。
「誾千代、もう行かねばならぬ。何であるか。」
 部屋に入ってきたときの誾千代姫の勢いは消え、声は消え入らんばかりであった。
「勇んでまいりましたが、・・・何やら・・・申し上げる訳には・・・・。」
 要領を得ない誾千代姫の言葉に宗茂は声を荒げた。
「何を言うか?もはや言わずに去るのはならぬ。早く申せ。皆が待っておる。」
 声を荒げた宗茂に誾千代姫は意を決した。
「戦の評定に口出ししてならぬとずっと押さえて参りました。今も言わずに戻ろうと思いましたが・・・、言うことに致します。此度の戦は必ずや徳川家康が勝利を収めます。どうか、東軍へお味方下さい。」
 宗茂の顔がみるみる赤くなり、怒気に満ちていく。宗茂は深く息を何度も吸って気持ちを鎮めた。
「昔、それで怒ったことがあったな。・・・・誾千代も色々思案して、東軍であるか?そうか、そうであるか。この立花家を残す上では正しいかもしれぬ。」
 寂しげに宗茂は笑って、部屋を出ていった。誾千代姫は部屋を出ていった宗茂を呆然と見送った。

「待たせたな。」
 宗茂は平伏する由布雪下・小野和泉・立花三河・十時摂津らに声を掛けた。
「家康様からも三成殿からも誘いは貰っておる。」
 宗茂は届けられた手紙を重臣たちの眼の前に置いたが、一切封は切られていない。
「加藤清正様から使者が来て、お目通りをしたことは既に知っておろう。三成殿と縁切りして、ご一緒にとのことであった。もし三成殿に味方しても、柳河城に留まるように言われた。」
 その他多くの使者が宗茂の下を訪ねたが、宗茂は返答を一切していない。
「私の心は決まっている。道雪様も同じであったであろう。この柳河城は秀吉様から頂いた。故に秀吉様に義理を通すのが我らの本分である。如何であるか。」
 宗茂の問いかけに由布雪下・立花三河・十時摂津は平伏した。
「殿、異存はございませぬ。」
 一人小野和泉は平伏せずに宗茂の顔を見つめた。
「何か、存念があるのであろう。」
 小野和泉は臆さず口を開いた。
「戦は水物であるが故、先は分りませぬ。私は立花家の名を残すなら、徳川家に付かれた方が良いかと思います。」
「うむ・・・・。立花家の意地は義理を貫くことである。」
「さすれば、私も義理を貫きます。必ずや、家康を倒しましょう。」
 小野和泉は顔に笑みを浮かべ、平伏した。こうして、立花家の方針が決定した。
 
 すぐ、全家臣が待つ柳河城広場に宗茂は現れた。皆が固唾を飲んで見守る中、宗茂はゆっくり皆に語り掛けるように話を始めた。
“この柳河城は豊臣秀吉様から賜った。立花家は豊臣家に義理を通す。我らの敵は東軍である。”
 秀吉に義理を通すという方針が伝えられると、皆誇らしげに頷いた。この後、すぐに上洛する軍が編成され、約4千の兵が由布雪下・立花三河・十時摂津らと共に柳河城を後にした。

 既に宇喜多秀家・小早川秀秋・大谷吉継・安国寺恵瓊らは大阪城に入城している。西軍大将となった毛利輝元は東軍に参加しようと東へ進む大名たちの関所を設け、長宗我部盛親・鍋島勝茂などを西軍に誘い入れた。その他、西軍は上杉征伐に従軍した大名たちの妻子を人質にしようと暗躍した。
 だが、加藤清正と黒田官兵衛の正室らは京の屋敷から逃亡し、細川忠興の正室ガラシャ夫人は自邸に火を放って死ぬなど散々な結果と評判の悪さで取りやめとなった。
 
 この間、徳川家康が伏見城に残した猛将・鳥居元忠は黙々と籠城の準備を進めている。既に死を覚悟した1800名の兵は暑い日差しの中、鉄砲や弾を運んでいる。家康はいつかこういう日もあろうかと、四方の水濠に突き出た出丸に大量の鉄砲と弾を用意していた。この伏見城を攻めるには、この水濠を渡るより手段はない。西軍がこの城を攻めれば、相当な被害を受けるはずである。
 その伏見城を訪ねてきたのは徳川家康に合力すると約束した島津義弘である。島津義弘は1500の兵を外に待機させ、大手門を訪ねるとすぐに甲冑姿の鳥居元忠が現れた。
「何の用でございましょう。」
「鳥居殿、家康様に伏見城に入るよう言われて参った。」
 鳥居元忠は厳しい眼で睨んで、かぶりを振った。
「殿から何も聞いておりませぬ。お断りいたします。」
 無下な応対に島津義弘も厳しい言葉で返した。
「山科で家康様をお見送りした時に言われた言葉である。確かめるがよい。」
「殿は既に江戸、もはや確かめる猶予はございませぬ。この城は我らだけで守ります。お引き取りを。」
 鳥居元忠は誰の助けも借りずに死んで、家康への忠節を全うするつもりである。家康から何も聞いていないと頑なに断り続ける鳥居元忠の姿に島津義弘も入城を断念し、手持ちの千五百の軍勢を率い、西軍に組みすることとした。

 西軍大将となった毛利輝元は、戦の狼煙を上げた。まずは敵方が籠る伏見城を攻めることとし、総大将を宇喜多秀家、副将を小早川秀秋に命じた。他には毛利家、小西行長、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂など約4万人の大軍で、伏見城を一気に落とすつもりである。
 7月19日、戦が始まると西軍は想像以上の伏見城の鉄砲の分厚い守りに苦戦した。伏見城を守る水濠を渡ることが出来ずに十日間も足止めさせられている。家康に内通する鍋島勢などは兵の損失を避けるため、空鉄砲を放つばかりで水濠を越す気配もない。
 京や大阪の人たちが見守る中での長い攻城戦は評判が悪くなると考えた西軍は一策を講じる。伏見城内の徳川方に仕える甲賀衆の家族を捕まえて脅迫し、伏見城内に放火させ、ようやく15日目の8月1日に伏見城を落とした。

 鳥居元忠が奮戦している間、伏見城から放たれた使者が徳川家康を追った。既に“上杉討伐”総大将となった徳川秀忠は会津に向い、家康も遅れて会津に向かっている。7月24日、鳥居元忠の使者は下野小山でやっと家康の行軍に追いついた。家康はようやく西軍の挙兵を知らされた。
 翌日、家康は上杉征伐に参陣した大名を集め、“小山評定”を開いた。家康は“東軍、西軍いずれに参陣するかは各々の自由である。”と伝えると、大名たちは皆の動きを窺い、沈黙する。
 そこで、豊臣家恩顧の福島正則が“豊臣秀頼様の事は気にせず、石田三成を倒すために東軍に味方する。”と根回し通り、皆の前で宣言した。すると真田昌幸らを除くほとんどの大名が家康に従うことを誓った。
 また、東海道や中山道沿いの領国を持つ豊臣恩顧の大名達は自らの城を家康に渡すと申し出たことで、東軍は大軍が移動するための兵糧と宿を確保した。ここで家康は上杉軍の抑えの為、次男結城秀康を残し、全軍を三成討伐に向かわせた。

 立花宗茂は大阪城で西軍の総大将毛利輝元と対面している。
「よく参った。立花宗茂殿の参陣は心強い。勝利への吉兆でございますな。」
「どうか、我が軍を存分にお使いください。」
 宗茂は西軍を何としてでも勝ち戦に持っていく気魂でいる。西軍の本拠である大阪城では、徳川家康からの内通の誘いが多くの大名に届けられている。
 また、その噂も西軍全体に拡がっている。宗茂にも、家康から”東軍に味方すれば、50万石に加増する。”という密書も届けられており、西軍に従軍する兵たちも皆が疑心暗鬼となっている。この澱んだ空気を一掃するのは何よりも味方の勝利である。
 西軍が結束しなければ、来る決戦での勝利は呼び込めない。宗茂はその為にどんな攻め口でも奮戦するつもりでいる。
「宗茂殿は伊勢口の守りをお願いいたします。」
 既に西軍は後手に回っている。
 15日間も伏見城に足止めとなったことで、西軍は尾張と三河まで本隊を進めることが出来なかった。この尾張・三河で東軍を待ち受け、上杉軍と佐竹軍が背後より挟撃するという策が上策であったが、尾張どころか岐阜城も奪われ、大垣城が西軍の最前線となっている。また、会津の上杉軍と常陸の佐竹軍は家康不在となった関東一円を攻める気配も無い。後顧の憂いが無くなった東軍は家康の次男結城秀康だけを残し、各軍は岐阜城へと急いでいる。
 大垣城の東一帯を西軍主力の石田三成・宇喜多秀家・島津義弘・大谷吉継などが守っていたが、岐阜城が奪われたことで伊勢路を攻めていた毛利家、長宗我部元親、長束正家、安国寺恵瓊らは急いで大垣城へ戻ってきた。立花宗茂はこの伊勢路方面の守りに就いたが、西軍の戦の進め方に疑問を感じている。
“東軍は軍勢が集まりつつある。この東軍を叩いて、決戦の先手を取るべきである。”
 西軍をまとめる石田三成に大きな合戦を指揮した経験はない。それ故、合戦で多くを経験してきた立花宗茂からすると、歯がゆいばかりである。
“期先を制する大軍がいるのに、慎重に敵に備えるばかり。皆、さぞ不満であろう。”
 西軍には戦に秀でた勇将が多くいる。島津義弘、大谷吉継らは少勢であるが、西軍を勝利へと導く大事な客将である。彼らの献策を用いることもせず、ただただ東軍が集まるのを待つのは下策である。
 また、西軍大将である毛利輝元が前線にいてこそ、全軍一丸となって戦うはずであるが、未だ大阪城に留まっているのもおかしい。西軍には家康との内通者が多くいるということで、毛利輝元は大阪城を発たなかったが、大将の不在は更なる離反と混乱を呼んだ。
 
 9月2日、西軍に味方していた京極高次は北陸道の戦線を勝手に抜け出し、近江大津城に帰ると、翌日の9月3日徳川家康との密約を守り、西軍に反旗を掲げた。決戦が近づく中、大垣城の背後に位置する近江大津城の離反を早く封じねば、戦の勝敗を左右しかねない事態となる。
 9月7日、総大将の毛利輝元は、戦巧者の立花宗茂と信頼置ける叔父毛利元康と毛利秀包、筑紫広門の計1万5千の軍勢を近江大津城へ送った。近江大津城は東海道・東山道・北国街道が交差する要衝で、琵琶湖の水運で北国や近江各地からの諸物資が集まる集積地でもある。それで大津には琵琶湖をそのまま利用した近江大津城が築かれた。
 わずか3千の京極勢が籠る近江大津城であるが、北は琵琶湖、西・南・東は広く深い空堀と本丸の外側には空濠が囲っている。この城を落とすには相当な日数が掛かるはずである。
 だが、西軍はすぐに始まる決戦の為に早く近江大津城を落とさねばならない。宗茂は毛利元康と軍議を開き、徹底的な無理攻めでこの堅城を攻めることとした。
 9月11日、早朝より近江大津城攻めが始まった。陸地の京町口・尾花川口・浜町口を全軍で攻め、北側の琵琶湖からは多くの軍船が鉄砲と弓矢で城を狙った。立花宗茂は東の浜町口を鉄砲隊で攻め立てている。狙いは空濠の出丸と城壁の銃口である。ここを叩かねば、空濠を渡ることが出来ない。
 宗茂は今回の合戦の為、立花道雪が鉄砲早打ちのために工夫した火薬早込めを全軍に徹底させている。1発分の火薬を肩にかけたいくつもの竹の筒に詰め、鉄砲を撃つ度に火薬を入れ替えている。この仕掛けで他の軍の約3倍の速さで鉄砲を撃ち続けた。他の攻め口は籠城する京極家の優勢であるが、この浜町口は立花軍が優勢となっている。出丸の鉄砲隊・弓矢隊、城壁の銃口は立花軍の正確な鉄砲と弓矢でけが人が続出し、城壁の銃口も空濠の出丸も段々と反撃も弱まってきた。こうして立花軍先鋒は少しずつ空堀を進み、城壁にたどりつつある。
 だが、立花軍優勢で進んだ戦も夜を迎えると様相は一変する。立花軍自慢の鉄砲隊も夜の闇で京極勢の狙い撃ちが出来なくなり、お互い散発の攻撃を繰り返すのみとなった。

「殿、兵を一旦休めますか?」
 由布雪下、小野和泉が朝からの激戦を凌いだ兵たちを休ませようと宗茂に進言した。だが、宗茂は浜町口を睨み続けている。
「いや、京極勢は恐らく夜深くに攻めてくるのではないかと思う。」
 宗茂は京極軍の夜襲を予見し、矢弾を防ぐ竹束を前線に配って備えさせると、丑の刻に京極軍が京町口・尾花川口・浜町口から出撃してきた。京極軍は毛利元康と毛利秀包、筑紫広門の軍を叩いたが、宗茂の軍はほぼ無傷で夜襲を凌いだ。翌日も朝から近江大津城を攻めたが、京極軍は城門を固く閉じ、西軍の挑発には乗らず城に籠りきりとなってしまった。攻めあぐんだ西軍は軍議を開き、如何にして近江大津城を落とすか思案した。
 攻城軍大将の毛利元康は、戦巧者と名高い立花宗茂に策を尋ねた。
「立花殿の思案を聞きたい。」
「この戦は早く終わらせねばなりませぬ。既に徳川の本隊が岐阜城まで近づいておるとのこと。城を無理攻めしつつ、大筒で城を狙うのと同時に空堀を一か所埋めに掛かりましょう。空堀を埋める土は塹壕を掘れば、自然と出て参ります。」
 皆、立花宗茂の考えに賛成した。塹壕を掘れば、味方の被害も減るし、常に近江大津城の敵を狙い撃つことが出来る。しかも、塹壕を掘った土で空堀を埋めるのは一石二鳥であり、京極軍は空堀を埋めさせないよう、必ず城外へ打って出る筈である。
 軍議の後、すぐに西軍主力がいる大垣城から大筒が運ばれて、翌日9月13日長等山から近江大津城に向けて砲弾が打ち込まれるようになった。
 この大筒と空堀を埋める策で、京極軍は浮足立ってしまった。そこを狙って、宗茂は浜町口を一気に攻めた。
“この城を落とさぬ限り、西軍に勝利は無い。”
 宗茂の思いは悲痛であった。由布雪下・小野和泉・十時摂津家臣たちは宗茂の心の叫びに応えるように奮戦を続け、とうとう空堀を越え、城への一番乗りを果たした。
“立花軍、一番乗り!”
 毛利元康と毛利秀包、筑紫広門の軍も立花軍に続けとばかりに、空堀を越えると京極軍は徐々に劣勢となり、三の丸・二の丸は西軍が占拠することとなった。残りは本丸攻めというところで、近江大津城は夜を迎えた。本丸周りの水濠にはまだ満々と水が満ちている。
 だが、勢いに乗った西軍は9月14日早朝から本丸を攻めたてた。大筒と鉄砲組が本丸に籠る京極軍を圧倒する。頃合いを見て、大将の毛利元康は、高野山の木食上人を城中へ送り込んで降伏を進めたが、京極高次は従わない。
 宗茂は京極高次の胸中を重んじた書状を矢文で京極氏に届け、何とか降伏への糸口を探る考えである。
「世戸口十兵衛を呼べ。」
 立花軍弓組を率いる股肱の忠臣世戸口十兵衛を本陣に呼び寄せた。
「十兵衛、矢文を城中へ届けよ。」
「もし仕損じましたら、立花家の恥でございます。」 
 十兵衛は固辞したが、主君宗茂の命令に抗うことはできない。十兵衛は宗茂から書状を受け取り、矢に堅く結びつけた。城中に京極氏の馬印が風になびいている。
「あれが京極殿の馬印である。あれを射よ。」 
 十兵衛は眼を見開き、静かに狙いを定めて矢を放つと、京極氏の馬印に見事矢文が突き刺さった。
 この様子を見ていた立花軍の将兵たちは、喝采の声を上げた。矢文を受け取った京極高次は、心を尽くした宗茂の言葉に戦を貫く意地が昇華したのを感じた。
“我が軍は京極殿の天晴な戦に感服いたしました。我が軍は京極殿に対しての遺恨は全くございません。全ては太閤殿下への深い御恩に報いる為の戦でございます。もし降参されれば、一命と兵たちの命、必ずやお助け致します。“
 夕刻になると京極京極高次と毛利元康の和議が始まった。和議の談合の間は休戦となる。この間を狙って、宗茂は十時摂津を東軍の偵察へ送り込んだ。
 
 同じ頃、大垣城では大事な軍議が続いている。徳川家康は大垣城と対峙する赤坂を離れ、中山道を西へ向かうような素振りを見せている。実際、家康は“佐和山城を抜いてから、大阪城へ向かい西軍と決戦する。”という風聞をばらまいている。
 西軍をまとめる石田三成からすると、自らの居城佐和山城を標的にされるのも、大阪城を攻められるのは本意ではない。大谷吉継、長束正家らはこのまま大垣城に留まる“大垣城籠城説”を唱えた。宇喜多秀家、島津義弘らは、“東軍への夜襲”を求めたが、三成はそのどちらの説も採らずに東軍よりも早く大垣城を出発し、大雨が降る中で関ヶ原方面へ転進して、布陣することと決した。
 
 9月15日、十時摂津は早朝の濃霧が満ちる中、関ヶ原で西軍と東軍が対峙しているのを松尾山から窺っている。
“関ヶ原で大戦になるとは・・・。それにしても、多い。”
 両軍合わせて、約20万もの決戦である。
 西軍は東軍を覆いこむように鶴翼の陣を敷いているが、東軍側面の松尾山に陣取る小早川秀秋・南宮山の毛利秀元の軍を差配する家老の吉川広家と安国寺恵瓊・長宗我部盛親・長束正家らの軍は東軍と既に内通しているとの噂も流れている。十時摂津は実際の布陣を見て、西軍が本気で攻めれば西軍の勝利に繋がるが、内通していると噂される西軍の大名が離反をすると勝利は遠のくであろうと感じている。日が上がると共に、関ケ原を覆っていた霧が少しずつ晴れていく。思いの外、東軍先鋒の福島正則と西軍の宇喜多秀家の陣が近いことに両軍が気付いた。そして、福島隊の鉄砲隊8百名が薄く残る霧を切り裂く様に宇喜多隊に突撃したところで、関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。
 攻防は一進一退である。
 激しい喊声が絶え間なく続き、銃声も全く途切れない。西軍の石田三成が笹尾山に配した5門の大砲の爆裂音が山野にこだまする。東軍・西軍の各大名たちの意地がぶつかり、また多くの命が削られる中、激しい戦は更に沸騰していく。
 激戦が続く中、十時摂津の懸念は西軍の小早川軍と毛利軍が戦略的に優位な高台から一歩も動かぬことである。それと西軍ほぼ中央に位置する島津義弘の軍も全く動かない。
“早く殿に知らせねば。”
 十時摂津は戦が始まって1刻ほどで関ヶ原を後にして、立花宗茂がいる近江大津城へ急いだ。
 その頃、近江大津城では京極高次が和睦開城を受け入れ、城の引き渡しの準備を進めている。生き残った兵士や老人・女子供およそ3百人らが城から出てくる。この残党全てを引き連れて、京極高次は高野山へ立ち去る。
 この城の引き渡しが終われば、立花宗茂や毛利元康と毛利秀包、筑紫広門らは西軍に戻ることが出来る。そんな時、十時摂津が到着した。
「殿、既に関ヶ原にて戦が始まっております。」
 すぐに由布雪下と小野和泉も駆けこんできた。
「既に始まっておるのか。」
 由布雪下のうめくような声が本陣に響き渡る。十時摂津は関ヶ原の布陣を細やかに説明し、戦に加わらない小早川秀秋や毛利勢・島津勢の話もした。目を閉じ、話を聞いていた宗茂はゆっくりと瞼を拡げる。
「城の引き渡しが終わるまで動けぬが、すぐに出陣する準備をすすめよ。それから、和泉、今の話、毛利元康様と秀包様にも知らせよ。」
「はっ。」
 宗茂は小早川秀秋や毛利軍の話をこの近江大津城で奮戦した毛利元康と秀包に知らせることで、同族の不始末をこの後の合戦で晴らしてもらう考えである。この1万5千の軍勢は無理攻めで約1千余りの戦死者が出ているが、戦意の高い援軍は必ずや西軍を勝利に導くはずと宗茂は見込んでいる。報せを聞いた毛利元康と秀包は城の引き渡しを急がせた。ただ、京極高次も遅々として近江大津城を出て来ない。城を和睦開城する際には城方の果断を慮り、存分に城を惜しむ時間を与えるのが武士の習いである。
 まもなく一刻という頃、京極高次が本丸を出てきた。悠然と時間を過ごしたことが、東軍に大きな勝機をもたらしたことを京極高次は全く気づいていない。後に徳川家康は高野山に落ちた京極高次の戦功を褒めて、近江大津城6万石から若狭一国8万5千石に増封している。
 
 近江大津城から関ヶ原までは20里余り、普通であれば約半日余りの行軍となる。まもなく申の刻であるが、急げば日の暮れる頃に到着し、東軍を痛撃できるはずである。
 宗茂の悲壮な思いは立花軍と毛利軍全てに伝播し、全軍が琵琶湖沿いを関ヶ原に向けて一心不乱に駆けている。すると道半ばで、こちらへ馬で駆けてくる一軍の姿が見えてきた。剣片喰の幟を掲げる宇喜多秀家勢である。
 その後ろをばらばらと秀家の軍勢が駆けてくる。由布雪下が疲労困憊の騎馬兵と話をして、甲冑姿の立花宗茂と小野和泉の前でうなだれて話し始めた。
「殿、西軍は敗れました。」
 いつも冷静な小野和泉も思いも寄らぬ敗戦には天を仰いで咆哮した。宗茂は眼を閉じ、無念の思いを噛みしめている。
“まさか、近江大津城の受け渡しの間に東軍と西軍の大戦が終わるとは・・・・。たった一日で・・・。私が関ヶ原にいたならば、何とか西軍を勝利に結びつける仕様もあったであろうに・・・。”
 西軍の敗残兵が街道をばらばらと駆けていく中、一緒に戦った大将毛利元康はすぐ大阪城へ転進することを告げてきた。宗茂も即決し、浮足立ってきた家臣たちに大声を張り上げた。
「無念であるが、まだあきらめぬ。我らには大阪城がある。あの城がある限り、負けぬわ。大阪城へ向かうぞ。」
 宗茂の強い言葉に、立花軍に再び新たな気持ちが通った。気落ちしていた由布雪下・小野和泉も宗茂の言葉に再び心に火を灯した。
 陽が落ちて夕闇が迫る中、立花軍は反転し、大阪城へ向かっている。
 途中、先に逃げていた西軍勢が手に持つ松明で、琵琶湖の湖畔に位置する瀬田の唐橋を焼こうとしているのに出くわした。
「何をしておる。」
 馬に乗った甲冑姿の立花宗茂を怖れながら、一隊の武将が答えた。
「この橋を落とせば、東軍勢を食い止められます故、焼くように言われました。」
 宗茂は馬を降りると、その武将の前に立った。
「この橋を焼いて勝った軍はない。それにこの橋を焼いて困るのは世の民である。」
 優しく諭された武将は一隊を下げ、京へ向かって去っていった。
 
 立花軍はそのまま深夜遅くに大阪城に入城した。長い1日であったが、大阪城へ入城して改めてこの城の堅城ぶりを感じている。立花宗茂はすぐに西軍大将の毛利輝元・増田長盛を探した。
「輝元様、増田様に会いたい。」
 大広間に控える近習を払いのけ、障子を開けると怯えた表情の2人の姿があった。
「輝元様、まだ我らもおります。戦の下知をお願いします。」
 毛利輝元は物憂げな顔でかぶりを振った。
「淀殿が怒っておる。勝てると聞いていた戦に負けた。」
「まだ、負けておりませぬ。この城がある限り負けませぬ。味方を集め、籠城すれば必ず勝てます。」
 輝元は更にかぶりを振った。
「宗茂殿、悪いが戦は止めにする。何と言われようともう止めじゃ。」
 同席する増田長盛も頷いている。関ヶ原で散っていった友軍の死がつくづく思いやられる。残った西軍の兵たちは死力を尽くして、この大阪城に戻ってくるはずである。
“このような不甲斐無い大将の為に西軍は戦っておったのか。何とも・・・。”
 すっかり生気を失った西軍大将毛利輝元と増田長盛の姿に、立花宗茂はもはや詮無いと思い、自分の領国に戻る決心を固めた。立花宗茂は、以前より大坂で諸御用を任せていた住吉屋に九州への廻船をお願いした。近江大津城の合戦で兵を少し失ったが、柳河城での戦が控えている。

 翌朝、多くの廻船に立花軍は分乗して、大阪港を出港した。曇天の空に風が吹き始め、雨が降り始めると横殴りの激しい雨に変わっていく。普段はあまり荒れぬことのない瀬戸内の海にも白波が立ち、船は激しく揺れ、多くの立花の兵が船酔いとなって、甲板で吐いている。暴風雨の中、廻船は陸に沿ってゆっくりと西へ向かっている。
 9月26日、宗茂も激しい船の揺れに耐えていたが、小野和泉の勧めで安芸国の日向にある港に立ち寄った。すると、白地に丸に十字紋を掲げた島津家の番船が停泊していた。宗茂は何とか島津家の宿を探し出すと、傷ついた多くの兵が入り口から溢れて、倒れ込んでいる。皆疲れ果てて、立花宗茂の姿に気づかず、眠りを貪っている。
「義弘様はおいでか。」
 番兵を探し出して声を掛けると、宗茂の顔を見知った兵らしく、慌てて奥の方に消えていった。すぐさま着流し姿の島津義弘が現れた。
「すまぬ。休んでおった故、さあこちらへ。」
 横たわる兵の間を抜け、宗茂は義弘の部屋へ入った。行燈に照らされる義弘は完全に憔悴しきった顔である。その義弘に向かって、宗茂は平伏した。
「義弘様、この度は関ヶ原の戦に間に合わず、面目ございませんでした。」
「何を言うか。宗茂殿は大津城を落としたではございませんか。今回の戦は三成の戦のまずさ故、わずか1日で全てが終わってしまった。」
「聞いております。義弘様の夜襲の話もお断りになったと聞いております。」
 関ヶ原の合戦前日、島津義弘は物見の報せで東軍の兵たちが長い行軍で疲れているのを掴み、夜襲をするよう西軍の軍議で提案した。だが、石田三成に一蹴されて西軍は大雨の中、関ヶ原に移動して戦を迎えることになったのだ。
「うむ。あやつは数字で物事を考える故、戦の機微が分らぬ。もし、関ヶ原の戦の前に我らが夜襲を仕掛けていたら、東軍は関ヶ原への布陣も控えておったであろう。戦は数ではない。」
「義弘様のおっしゃる通りでございます。この度の無念は義弘様と全く同じでございます。」
 島津義弘は伏見城の鳥居元忠への援軍を断られ、止む無く西軍に味方したが、西軍に組みした以上は勝ちに繋がる戦を仕上げるつもりであった。
 だが、石田三成の戦の進め方に呆れ、西軍に尽くす気持ちが全て霧散してしまった。
 関ヶ原合戦当日、島津義弘は西軍の戦は捨て、全ては島津家の意地を見せる戦に専念したのだ。島津軍は西軍の攻撃には一切加わらず、自軍に攻撃を仕掛ける東軍のみに攻撃を加えた。その異様な戦の仕様に東軍は、丸に十字の幟がはためく島津軍を攻めるのを控え、島津軍はほぼ無傷のまま西軍の一角で佇んでいる。
 
 そして戦は進み、松尾山の小早川秀秋の裏切りで西軍が崩壊し、戦の大勢が決まったところで島津軍は動き始めた。既に勝ちを確信する東軍の前を横切り、戦場から離脱し始めたのだ。その傍若無人な行軍に今まで島津軍を怖れていた東軍は束になって襲い掛かった。島津軍1500の兵では到底振り払えない軍勢である。
 だが、島津軍は”捨て奸(すてがまり)”という決死の戦を仕掛ける。大将の島津義弘を生かす為、小部隊が敵前に残り、敵の前進を食い止め全員討ち死にするという壮絶な戦である。武勇を誇る薩摩隼人は何とか島津義弘のみは薩摩へ帰そうと次々討ち死にしていく。皆、敵の方を向いて座禅を組んだまま鉄砲を放ち、敵が近づくと抜刀し命尽きるまで、刀を振り続ける。
 
 死力を尽くした屍の彼方先には必死に逃れる島津義弘の姿がある。1500名の兵はわずか80名まで減り、何とかこの安芸の日向までたどり着いたのだ。
「これより、お互い辛き戦がございますな。」
 島津義弘はこの後の東軍徳川家康との合戦を覚悟している。立花宗茂も胸中は同じである。西軍は負けたが、自軍は負けてはいない。
 豊臣秀吉への恩顧を全うした自分はこれより恩賞首となるが、己の筋は貫く覚悟である。宗茂は島津義弘に別れを告げ、翌日の船出に備えることにした。
 
 9月27日相変わらずの悪天候であるが、宗茂一行は出港した。何としてでも早く柳河城へ辿り着き、東軍への備えを固めたい。だが、この出港が悲劇を生むことになる。
 弓組三十余人が乗っていた小船が長門国の壇ノ浦を通り抜けようとした時に突然の大波で転覆してしまった。大波に揉まれ、生きて海岸に辿りついたのは組頭の世戸口十兵衛と従者の二人だけであった。十兵衛は生き残った従者に宗茂への伝言を頼んだ。
「殿の頼みとする弓組を死なせてしまった。腹を切ってお詫びするしか無い故、そなたはその事を殿に伝えよ。」 
 十兵衛はたった一人で切腹し、果ててしまった。
 
 10月2日、何とか柳河城へ帰った宗茂に世戸口十兵衛の切腹が伝えられた。頼りとする股肱の臣の思わぬ死に動転し、宗茂は頭を突っ伏したまま、何度も畳の上を転がった。自分を許せぬ気持ちばかりである。
“船が転覆したのは私が出港を強行したからだ。”
 宗茂は立ち上がり、柳河城の天守閣から壇ノ浦の方角を見据え、涙ながらに十兵衛に語りかけた。
“十兵衛よ、父上がお主を私に付けたのは私と共に生きよということではなかったか。何故に一人罪をかぶって自害したのか・・・・。”
 岩屋城で十兵衛から弓を教わったのが始まりである。二人一緒に立花城へ入城し、立花家の家臣たちが心開くまで、宗茂は十兵衛と向き合い、一心不乱に稽古を重ねた。
 一番多感な時期を支えてくれた大事な家臣を失い、絶望的な気分であるが、これより東軍との戦が始まる。塞ぐ気持ちを支えてくれるはずの誾千代姫も仲違いしたままである。
 “東軍へ参陣すべし“と勧めた誾千代姫の言葉を捨て置いたこともあるが、宗茂は会いに行く気持ちにはならなかった。
 宗茂は湿る気持ちを奮い立たせ、領国を守る戦の準備を差配している。
 
 その頃、東軍に味方する豊前国の黒田官兵衛は、同じく東軍の肥後国加藤清正に書状を送っている。
“立花家を成敗いたしましょう。一緒に柳河城を攻めましょう。”
 加藤清正は朝鮮征伐で真っ先に蔚山城の救援に駆け付けてくれた立花宗茂への恩を忘れていない。
“我が軍は我が領国南、小西行長の領国を攻めております。どうかお時間を。”
 加藤清正は体よく黒田官兵衛の提案を退け、柳河城攻めは先延ばしになるはずであった。だが、家康は50万石の提案を断り、九州へ戻った立花宗茂を警戒している。何せ豊臣秀吉が西国一の勇将と称え、朝鮮征伐でも戦功著しかった勇将である。また各大名とも親交が厚く、特に島津家とは血縁を超える篤い交誼がある。九州で島津家と立花家が手を結ぶことだけは避けねばならない。
 
 9月27日、家康は関ヶ原の論功行賞を行う為、大阪城西の丸に入城した。その西の丸に関ヶ原の戦直前に東軍に寝返った鍋島直茂を呼び出した。鍋島直茂は領国の安堵か加増か、どんな話になるかと気を揉みながら登城すると、渋面の徳川家康と本多正信が待ち構えていた。
「鍋島殿、家康様は何故ご立腹か分っておるであろうな。」
 鍋島直茂は困惑した。西軍として伏見城攻めには加わったが、家康からの誘い通りに関ヶ原では東軍に寝返った。
「伏見城では力戦し、関ヶ原では手を抜いたと聞いておる。」
 有無を言わさぬ本多正信の剣幕に、鍋島直茂は反論ができない。
「すぐに肥前に戻り、西軍の立花宗茂を討て。でなければ、領国は没収する。」
 非情な言葉であるが、鍋島直茂は受けざるを得ない。鍋島軍は立花宗茂を討たねば、領国は没収されてしまう。鍋島直茂は領国の肥前に戻ると、柳河城に籠る立花家を攻める兵3万2千を強制的に集めると、10月半ば柳河城へ向かった。相手は強兵と名高い立花軍であるが、兵力はおよそ1万3千余り、3倍の味方を有する自軍であれば、負けることが無いはずである。
 この急な鍋島軍の出陣に黒田官兵衛と加藤清正も兵を出さざるを得なかった。
 
 鍋島勢の出陣を知った宗茂は由布雪下・小野和泉・十時摂津・立花三河と軍議を開いた。西軍に味方した立花家にとっておそらくは最後の戦、皆が一緒に戦うのも最後となるはずである。
「まずは私の存念を申し上げよう。鍋島は太閤秀吉様の御恩を忘れ、戦の最中に東軍に誼を通じた大名、恥ずべき男である。そのような敵に西軍は敗れたが、我らは恭順する気などない。立花の名に懸け、断じて戦う。」
 宗茂は己の信義に従い、打算も考えず、愚直に戦い続けてきた。鍋島家のように己の栄達を考え、信義が無い相手には決して屈するべきでないと思っている。
 だが、立花家の名を残すこと、そして何よりもこれからの家臣の生活も考えねばならない。皆が押し黙る中、小野和泉が口を開いた。
「殿、立花の名を残すべく、私の家臣丹半左衛門尉がただ今大阪にて、徳川家康様に嘆願しております。殿、何卒直々のご出陣だけは御控え下さい。」
「ならぬ。これが立花家の最後の戦・・・。」
 小野和泉はかぶりを振って、膝を前に進めた。
「いえ、殿、御出陣だけは何卒御控えください。実は、加藤清正様からは戦をせぬようにという厳しい念押しがございました。清正様はこの後必ず和議をまとめるとおっしゃっています。もし、殿が御出陣なさりますと清正様にご迷惑をお掛けします。」
 小野和泉の至誠のこもった言葉に宗茂は沈黙する。己の矜持もあるが、立花家を思う皆の心を無下にする訳には参らない。
「分った。・・・・・だが、我が領国に裏切り者の鍋島勢にむざむざ入られるのは許せぬ。押し返した上で和議といたそう。和泉、差配を頼む。」
「はい、それでは私が差配いたします。必ずやこの柳河から追い出してみせましょう。」
 小野和泉は鍋島との戦の責任を全てかぶる覚悟を固めた。

 同じ頃、誾千代姫は、宮川村の館で稽古を続けてきた女衆と戦の準備を進めている。誾千代姫は宗茂に“徳川家康に味方すべし。”と伝えはしたが、宗茂が下した最後の決断に異存はない。今では豊臣秀吉への恩顧を全うする為、西軍に参陣したことを誇りにさえ思っている。西軍が敗れ、最後の意地を見せる宗茂の為に誾千代姫は、今まで腕を磨いてきた鉄砲と薙刀の技を全て出し切るつもりである。館内を差配する誾千代姫は、戦の準備を進める女中頭の静に声をかけた。
「静、加藤清正の軍は必ずやこの宮川村を通ります。我ら女衆のみで足止めしてみせましょう。」
 静は引き締まった顔を誾千代姫へ向けた。
「はい、殿の為、誾千代姫の為ならば命は惜しゅうございませぬ。皆、散る覚悟でございます。」
 静は今まで稽古を続けてきた女衆30人と誾千代姫に殉じる覚悟である。誾千代姫の指揮の下、逆茂木を街道脇に幾つも用意し、また望楼からは鉄砲で敵を狙えるように準備を進めた。懸命に動く女衆の姿を見て、多くの農民たちが今までの立花家の徳政に感謝して、戦の準備を手伝った。柳河城にも庄屋や多くの農民たちが押し寄せ、自らの貯えの中から兵糧用にと多くの米を持参した。
 宗茂はこの話を聞き、一人涙した。
“農民たちを苦しませてはならぬ。戦は絶対に長引かせぬ。”

 その頃、肥前の鍋島直茂・勝茂親子は3万2千の兵を率い、柳河城をめざし南下している。
 柳河城には長く広く堅牢な水濠と運河が幾重にも囲み、籠城戦となれば立花家はかなり有利な戦となるはずである。本来であれば、兵を国境沿いに配し、徐々に下がって、本拠である柳河城で籠城するのが戦の常道であるが、立花宗茂はこの戦を長引かせるつもりはない。1万3千の全兵力を集め、乾坤一擲の戦を仕掛ける考えである。物見を放ちながら、鍋島軍は進んでいるが立花軍の姿が全くない。
 このまま、柳河城に近づくことに不気味さを感じている。
“どういうつもりであろう。”
 10月16日、鍋島直茂は意を決し、立花宗茂に江上八院での決戦を望む使者成富兵庫を送った。この使者の持ってきた書状を一読した宗茂は即決する。
“4日後の10月20日、江上八院にて、鍋島と一戦する。”
 両者の思惑が一致して、4日後に雌雄を決する戦の火ぶたが切られることになった。鍋島軍からすると攻略が難しい柳河城の水濠を相手にするよりも、決戦に挑んだ方が勝機があると見込んでいる。
 そして、決戦前日、鍋島軍は決戦の舞台となる江上八院手前になる城島城に迫り、一気に落城させた。鍋島軍はこれで決戦前日の景気づけとしたが、立花勢もすぐに反撃し、20余名を倒している。
 両軍ともに明日の決戦で雌雄を決する覚悟で夜を迎えた。
 
 10月20日、鍋島直茂は全軍を12段揃え必殺の戦陣で構えさせている。何せ、敵の総勢1万3千に対し、3万2千の大軍である。無理攻めよりも大軍で敵を迎え撃つ考えである。
 
 宗茂は柳河城の備えに半数を残し、残りの半数6千余りを小野和泉に託した。
 空は快晴である。
 小野和泉は宗茂が自分に託してくれた軍扇を前にかざした。
“行け。立花の戦を見せよ。”
 立花軍は鉄砲隊を前面に押し出し、鍋島勢に向かってつるべ打ちで強引に鍋島軍の中に楔のように入り込んでいく。入り込んだ後は弓と槍で徹底的に相手に踏み込み、更に敵をえぐって、敵の備えを1段ずつ次々と抜いていく。鍋島軍に恐怖が伝播していく。
“うぉお・・。”
 圧倒的に少勢の金色の立花軍が覆う鍋島軍を払いのけ、迫ってくる。鍋島軍も必死に抗うが、立花軍の気魂は凄まじい。立花軍はこの一戦が立花の意地を見せる最後の戦と思い、皆が獅子奮迅の働きで12段構えの陣を突き抜けた。
 だが、立花軍意地の奮戦もそこまでであった。数で勝る相手への正攻法の戦で、小野和泉の胸は鉄砲で撃ち抜かれ、足には矢が刺さる大怪我を負った他、多くの勇将が命を喪った。この無理攻めの代償はあまりにも大きく、立花軍は一旦軍をまとめ、体制を整えることとした。
 
 鍋島軍は嵐のような立花軍の攻めから何とか立ち直り、全軍をまとめた。
“立花軍が退いていく。”
 意地を見せ、満身創痍となった立花軍が南へ軍を下げていく。鍋島直茂も立花軍を追うよう、全軍に進軍を命じた。
 
 その様子を遠望していたのが、豊前国の黒田官兵衛率いる黒田軍である。黒田官兵衛は鍋島軍の柳河城出撃を察知し、ここ筑後国まで軍を進めている。この合戦で手柄を立て、徳川家康からの論功行賞を有利に運びたい考えである。黒田官兵衛もこの機に乗じ、5千の兵で柳河城をめざした。
 この戦況を危うんだ加藤清正は黒田官兵衛に使者を送り、戦の仲裁を自分に任せてくれるように頼みこんだ。更に鍋島直茂には、柳河城に戦を仕掛けぬように念押しをした。このまま、両軍ともににらみ合いを続けた。
 
 柳河城では負傷した小野和泉が気丈にも指揮を執っている。10月25日、その小野和泉と立花宗茂に会う為、加藤清正の使者・家老飯田覚兵衛が柳河城の大手門に現れた。
「清正からの書状を持って参りました。」
 飯田覚兵衛は秀吉が日本の7本槍と名付けた槍名人のうちの一人である。徳川家の本多忠勝や島津忠恒・後藤又兵衛・直江兼続・吉川広家、そして宗茂の重臣小野和泉も7本槍に名を挙げられている。飯田覚兵衛は胸を鉄砲で撃たれた小野和泉の身体を気にしている。
「和泉殿の御身体は如何でございますか?」
「かたじけない。鉄砲の弾が胸の下を通り過ぎておりますが、命に別状はございませぬ。
 槍も覚兵衛様にはまだ負けませぬ。」
「はっはっはっ、私も負けませぬ。」
 飯田覚兵衛はなごんだ雰囲気の中、朝鮮の思い出話を始めた。
「食べるものが無くなる辛い戦でございました。足軽などは壁土を剥いで、水炊きにしておりました。そんな折、立花様の軍が援軍でいらっしゃいました。加藤家はその大恩を忘れておりません。」
 宗茂は少しはにかんで答えた。
「我らの後に援軍が沢山来たはずでございます・・・・。」
「いえ、我が殿は蔚山城で援軍を願う使者を送りました。その軍議の席で、宗茂様唯一人が援軍を出さねばと皆に訴えたのを知っております。それ故、その御恩を早く返さねばと常々おっしゃっておりました。」
 飯田覚兵衛は加藤清正からの書状を宗茂に渡した。

“宗茂殿
 この度の戦の仕置きは我が名にかけて任せてほしい。必ずや、徳川家康様と話をつけて進ぜよう。その為に柳河城を我らに開城して欲しい。“
 宗茂は加藤清正の心のこもった手紙を押し抱いて、頭を下げた。
「覚兵衛殿、清正様の和議、お受けいたします。どうぞ、これをご覧ください。」
 大阪に残した小野和泉の家臣丹半左衛門尉から手紙であった。
「飯田殿、本日届いた手紙でございます。立花の名を残すべく、やっと徳川様から身上安堵の御朱印頂きました。」
「そうでしたか、清正様も今のお知らせはご存知ないでしょう。必ずや、宗茂様のご期待に添えるようにいたします。」
 力強い飯田覚兵衛の言葉に宗茂は全てを加藤清正に任すことにした。

 翌日から柳河城開城の準備が進めらた。加藤清正は柳河城まで出向いて、宗茂と今後の話をした。
「宗茂殿、万事お任せを。それから、家康様は私と黒田官兵衛様に島津攻めを申し付けております。どうか、宗茂殿も参陣を。」
「島津攻めでございますか。」
 宗茂は親交が深い島津家攻めには正直加わりたくない。だが、うまく島津家の名分が立つよう、自分の力を貸そうと思い応諾した。
「参陣いたしましょう。」
「宗茂殿、ありがとうございます。宗茂殿が参陣することで、島津家と和議の道が開けます。」
 加藤清正が平伏すると、宗茂も合わせて平伏してきた。2人共、頭を上げたところで眼が合い、清正はにっこりほほ笑んだ。
「宗茂殿、道雪様の女城主の勇ましさに我が軍は降参いたしました。」
「はっ、何のことでございますか?」
「いや、我が軍も柳河城へ向かって行軍しておりましたが、宮川村で誾千代姫様の薙刀と鉄砲の軍と出会い、これは敵わぬと思い、全軍撤退いたしました。さすがは道雪様の忘れ形見でございます。私が一戦も交えずに引いたのは初めてでございます。はっはっはっ。」
 清正は上機嫌で柳河城を去っていった。

 宗茂はすぐ十時摂津に探らせた。すると、今も誾千代姫が女衆のみで街道沿いで敵軍を待ち伏せしていることが分った。宗茂はその報せを聞くと、近習を連れずに宮川村の誾千代姫館へ向かった。あと3日で柳河城は開城しなければならない。
 陽が傾き、空に広がるうろこ雲が赤々と燃えている。稲刈りが終わった筑紫野を宗茂が馬で颯爽とかけていく。誾千代姫館に近づくと逆茂木が幾重にも囲み、たすきがけの女衆が微動だにせず外を睨んでいるのが見えた。その女衆のうちの一人が宗茂の姿を見つけると館の中に走っていき、すぐに女中頭静が出て平伏した。
「静、誾千代は?」
「見回りに行っております。」
「そうか、誾千代に伝えるがよい。11月3日に柳河城は開城し、清正様に我ら立花家中は身を預けることになる。戦はもう終わりである・・・・、よく頑張ってくれたな。静。」
 労いの言葉に静は突っ伏して泣き始めた。宗茂は更に言葉を続けた。
「お主らの姿を見て、強兵で名高い加藤清正の軍がこの宮川村を避けたとは知らぬであろう。清正様が女衆の気迫に感服しておった。」
 見回りから戻ってきた誾千代姫がさめざめと突っ伏して泣く静の肩にそっと手を置いた。約1年10か月ぶりの再会である。
「殿・・・。」
 誾千代姫は久方ぶりの宗茂の姿に震えた。
「誾千代、お主の言うことを聞かなかった故、負けてしまった。すまぬが柳河城はあと3日で開城する。」
 宗茂は誾千代姫を正視することが出来ず、赤く傾く太陽を見ながら誾千代姫に詫びた。誾千代姫は切ない声で応えた。
「殿、家康に組みしなかったことを誇りに思うております。」
 誾千代姫の言葉に、宗虎はやっと誾千代姫の眼を見ることができた。誾千代姫も今までの全ての想いを込めて、宗虎の瞳をじっと見つめた。すべてが昇華し、2人の熱い想いが一瞬で甦った。
 長きにわたる苦悩を知る静はこの2人の姿に歓喜の涙を流した。すると宗虎が涙を流す静に声をかけた。
「静、早く女衆に報せよ。それから、今日はここに留まることとする。由布雪下に明日辰の刻に柳河城へ参ると伝えよ。」
 静はこの言葉に涙だらけの顔で笑みを見せた。
「はい。」

 宗虎と誾千代姫は2回目の朝鮮出兵、慶長2年(1597)7月から3年と4か月ぶりの夜を迎えた。長きにわたる寂しさと心の葛藤全てを埋める大切な時間である。誾千代姫はかいがいしく給仕し、宗虎も全てを任せて、心づくしの料理を堪能した。
 宗虎は改めて、誾千代姫の変わらぬ凛々しい所作と美しい横顔に釘付けとなっている。見惚れている宗虎に誾千代姫が突然振り返った。
「殿、名護屋城では私は薙刀を持って、登城しました。供の女衆には鉄砲を持たせました。」
 突然の言葉に宗虎も笑って応えた。
「誾千代らしいな。出陣姿であったのか。誾千代の薙刀には誰もかなわぬであろう。」
 誾千代姫はこの言葉に涙が溢れ出てきた。
「殿から聞かれた時にきちんとお答えすべきでした。申し訳ございませんでした。」
 宗虎は近寄って、肩を強く抱いた。
「誾千代、謝らなくてよい。私のせいで寂しい思いをさせた。」
 うなだれた誾千代姫のうなじに宗虎は一気に昂った。
「誾千代姫。」
 強く抱きしめた宗虎に誾千代姫はすべてを任せた。激しい愛撫と身体の昂りは、全てを超えていく。この時が永遠に続けば、どんなにか幸せであろうか。
 だが、無限と思われた夜も空が白み、朝がやってくる。宗虎はこの先、立花家がなくなるか否かの正念場に立ち向かわねばならない。終わりが見えぬ辛い道となるはずである。
「誾千代、話を聞いてくれぬか。」
 絹布団の上で宗虎が正座をすると、誾千代姫も倣って正座した。
「誾千代、柳河城の開城はやはり家臣たちにも農民たちにも申し訳なく思っている。」
 誾千代姫も神妙に頭を垂れた。宗虎は更に言葉を続けた。
「これは己が一生背負わねばならぬ業である。我らは柳河城を加藤清正様に預け、肥後国に向かうこととなる。私はその後島津攻め、そして大坂に移り、家康様の裁定を待たねばならぬ。」
 誾千代姫はこれからも宗虎についていく気持ちを言葉に宿した。
「はい。お帰りをお待ちします。」
 宗虎は頷くと立ち上がった。もう柳河城へ向かう準備をしなければならない。宗虎が誾千代館に泊まると、朝は必ず裏の井戸で水浴びをする。宗虎が水浴びする間に、誾千代姫は柳河城へ向かう召し物を用意しなければならない。水浴びが終わった宗虎の身体を拭き、直垂を着せていく。そして、直垂をまとった宗虎は誾千代姫と共に馬小屋へ向かった。
 もう出発の時間である。誾千代姫は馬に跨った宗虎に声をかけた。
「殿、いつかまた大楠へ行きたいです。」
 宗虎は誾千代姫が心の拠り所としていた立花城の大楠を思い出した。鬱蒼とした原始林の中で時空を超えて、悠然と屹立する姿は神々しかった。
「うむ。いつか、一緒に大楠へ参ろう。また、長く留守となるが頼んだぞ。」
 宗虎は誾千代姫の眼をしっかりと見つめると、振り返ることなく、柳河城へ馬で去っていた。

 11月3日、領国の庄屋と農民たちが朝から柳河城大手門前に集まっている。皆、善政を施してくれた立花宗茂を心から見送りたいという気持ちばかりである。
 暫くすると大手門前に蛇の目紋の加藤清正率いる家臣たちが整然と現れた。皆、朝鮮蔚山城で立花軍に救われた兵たちばかりである。加藤清正は立花家への礼節を持つ者ばかりで柳河城を受取るように差配した。
 
 巳の刻、大手門が開いて、金箔で光る押桃形兜の兵が立花軍杏葉紋の幟を掲げながら、現れた。
 続いて、月輪の大鎧と兜姿の立花宗茂が大手門から現れた。すると、清正軍は皆一斉に頭を垂れ、朝鮮での立花宗茂の援軍に感謝した。清正軍の後ろを幾重にも囲む庄屋と農民たちも身振り手振りで感謝を伝えた。
“立花の御殿様、ありがとうございました。”
“殿様、また帰ってきてください。”
 皆が別れと感謝の言葉を投げかける中、宗茂にはひとつの思いがふと芽生えた。
“また、必ずや誾千代を連れて、この城に戻って見せよう。”
 長く遠い道のりになるであろうが、宗茂は自らの心にこの思いを深く秘めた。

 立花家の家臣たちと誾千代姫らは、加藤清正の領国肥後にお預けとなった。宗茂は加藤清正との約束通り、島津家との戦の為に九州を南下していく。途中、宗茂は島津義弘に和睦を薦める書状を送った。
 宗茂は既に徳川家康”身上安堵”の書状を貰い、加藤清正に和議を任せることを報せ、島津家として今後のあるべき姿を示した。
”もはや戦の勝敗は決し、徳川家の仕置きはゆるぎないものでございます。貴家に御一分があることは充分に分ります。ですが、一刻も早く使者を出すべきでございます。私も恥を捨て、そうしております。どうか、ご検討ください。”
 宗茂は家康への謝罪を勧めた。この立花宗茂の真摯な思いを綴った書状が島津家の方針を導いた。島津家は宗茂の言葉に従い、和睦の使者を出すこととした。その報せを聞いた東軍勢は島津家を攻めるのは控え、和睦交渉の行方を見守ることとしたのだ。
 宗茂はこの停戦の間に直接徳川家康と話をしようと考え、大阪へ出発した。
 
 12月、大阪に到着した宗茂は家康に面会の申し出をした。だが、徳川家康の謀臣本多正信は家康に会うことを許さなかった。
「正信、これでもう3度目。この後もわしに会いたいと嘆願してくる。」
「なりませぬ。絶対に会ってはなりませぬ。上様の50万石の誘いを断った男でございます。立花のような勇将は決して許してはなりませぬ。」
「うむ。だが、奴を好む大名は多い。無下に扱う訳にはいかぬ。」
「では黒田に話を聞かせるとしましょう。その上で命を留めるのが宜しいかと。」

 もう、関ヶ原の戦後処理はとっくに始まっている。
 東軍に味方した大名への加増、西軍をまとめた石田三成や小西行長・安国寺恵瓊の3名は既に京都六条河原において斬首され、長束正家ら多くの大名も自刃を命じられている。増田長盛は死一等を減じられて武蔵岩槻に配流となっている。宇喜多秀家は島津家の領国へ逃亡している。主家である豊臣家も222万石から65万石に、毛利家も120万石から29万石に減封された。
 立花宗茂は”身上安堵”のお墨付きがあるとはいえ、今後どうなるか一切知らされていない。徳川家康は会う気がないことを察した宗茂は、徳川の使者に促されるまま黒田官兵衛の息子黒田長政に会うこととなった。
 12月12日、雪が降りしきる中、黒田家の伏見屋敷を目指して宗茂は粛然とした面持ちと従者の十時摂津と急いでいる。宗茂は歩きながら、黒田家との繋がりを思い出している。黒田官兵衛とは秀吉へ臣従する際に深き縁があった。息子の長政とは蔚山城の戦で立花軍に続き、後詰の軍を出してくれた縁がある。ただ、その時の長政軍は戦力の消耗を避けるばかりで全く頼りにならなかった。
 そして、関ヶ原では父が受けた秀吉の恩顧を全て捨てて、真っ先に家康を支持した。
“仁義を尽くすというよりは、己の才に頼む輩であろうな。”
 宗茂は不安なまま、伏見屋敷の門を叩いた。
 
「黒田様、この度は無理なお願いを御承知の上、お会い頂きありがとうございます。」
 黒田長政は切れ長の眼を平伏する宗茂へ向けた。
「立花様、父上からも聞いてございます。何とか、立花様のご領国を安堵して頂けるよう、家康様には申し上げるつもりでございます。」
 黒田長政は豊臣所縁の大名のとりまとめにも、東軍の勝利にも十分に貢献したという自負がある。それだけに家康に対してある程度の物言いは出来ると思い込んでいる。
「黒田様、何卒お願い申し上げます。」
「お任せ下さい。」
 黒田長政は自信に満ちた声で返答した。

 天下の勇将立花宗茂に頼まれた黒田長政は、意気込んで大阪城西の丸に居座る続ける徳川家康の下へ参上した。
「上様、お願いしたい儀がございます。」
「これは黒田殿のお願いとなれば、聞かぬわけには参りませぬな。」
 家康は笑いながら長政の言葉を受けた。
「立花宗茂殿の今後についてのお願いでございます。」
 黒田長政が“立花宗茂”の言葉を発した途端に、家康のにこやかな表情が一瞬で憮然となった。天下人に対して差し出がましいことを言って来たなと言う厳しい態度である。
「黒田殿、西軍の将を如何に扱うかは私が決めることである。」
 家康は有無を言わさぬ態度で言い切った。この家康の言葉に、黒田長政は貫禄負けして、ただただ平伏するしかなかった。
 
 立花宗茂に対し大見得を切った黒田長政は意気消沈した。面会をせがむ宗茂に対し、黒田長政は面会を避け続け、書状を送った。
”家康公に拝謁。立花家所領安堵をお願いし候。”
 そして宗茂の嘆願虚しく、また加藤清正らの必死の嘆願も及ばず、徳川家康は立花宗茂と弟直次の領国を全て没収した。
 
 慶長6年(1601)3月、柳河城など立花宗茂の旧領を含む筑後一国32万石は、三河国岡崎城の田中吉政に封じられることになった。
 田中吉政は岐阜城の奪取、関ヶ原の戦勝利後も石田三成の佐和山城を攻め、伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛するなどの大功で、10万石の大名から大きく飛躍することとなった。黒田長政も12万石から52万石筑前国の新しい領主となった。島井宗室ら博多商人達も天下が豊臣家から徳川家に移ったことを受け、城普請や城下町建築の協力を黒田家に誓った。黒田長政は博多商人を束ねる島井宗室に知行3百石を与え、うまく懐柔しようと考えた。だが、島井宗室は天下人秀吉の誘いも断り、商人を続けた男である。
“3百石で己の矜持を買えると思うのか。立花宗茂様の嘆願も出来ぬ男にどうして仕えることが出来ようか。”島井宗室は能面のような無表情の顔で黒田長政の言葉を拒んだ。
「黒田様、知行は要りませぬ。そのような財があるのであれば、崇福寺に50石を寄進してください。今のまま、私は商人で結構でございます。」
 島井宗室は仁義を尽くし、商人としての自分を尊んでくれた立花道雪・立花宗茂の世を懐かしんだ。
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天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

覇者開闢に抗いし謀聖~宇喜多直家~

海土竜
歴史・時代
毛利元就・尼子経久と並び、三大謀聖に数えられた、その男の名は宇喜多直家。 強大な敵のひしめく中、生き残るために陰謀を巡らせ、守るために人を欺き、目的のためには手段を択ばず、力だけが覇を唱える戦国の世を、知略で生き抜いた彼の夢見た天下はどこにあったのか。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

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