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第6章 唐入り

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 筑後の柳河城は外堀や内堀、そして城の周りも水路が幾重にも重なっている。13万2千石という大身の大名となった立花家に相応しい堅城である。
 立花家の家臣たちもほとんど知行高が増え、立花城で仕えていた頃よりも大きな屋敷を持ち、仕える足軽や郎党の数も格段に増えた。重臣小野和泉は柳河城すぐ北の蒲池城城主、由布雪下は柳河城すぐ北西の酒見城城主となり、立花統虎に忠誠を尽くしている。
 立花家に婿入りして7年、誾千代姫に代って立花家を継いだ頃は、家臣たちも統虎に馴染まず、誾千代姫に肩入れするばかりであった。統虎は決して焦らず、日々稽古に邁進し、戦で戦功をあげ、日頃の振る舞いを律し、領民の為の治政を施した。皆が全幅の信頼を置くようになったのは圧倒的な軍勢を誇る島津軍との戦を凌ぐ采配を見せた時である。家臣たちはこの若き棟梁を敬慕の念を持って奉じるようになっている。
 そして、この柳河城を手に入れたことで、立花統虎は名実ともに立花家の棟梁となり、筑後から九州へそして畿内へと自らの世界が大きく飛躍していった。
 
 そんな統虎に対し、誾千代姫の心は複雑にねじれてしまった。統虎を愛おしく思う気持ちは深く激しい。
 道雪が亡くなる前後は睦まじくお互いを想い、毎日愛を通じあっていたが、島津軍との戦で2人の関係に変化が生まれてしまった。
 統虎は立花家棟梁として城に詰める毎日となり、誾千代姫の館には来られなくなったことで、誾千代姫の心が閉ざされていった。戦功で得た柳河城への引っ越しを誾千代姫が反対したことがきっかけとなり、更に関係が疎遠になっている。誾千代姫は柳河城へ移ってからも全く訪ねて来ない統虎に対し、寂しい気持を募らせて、心が空回りする毎日である。誾千代姫はすっかり覇気を失い、館の縁側から水濠を眺めることが多くなっていた。
「姫様、昨日もあまり眠れなかったみたいですね。」
「静、毎日眠れないのです。立花城へ戻りたい。」
 女中頭の静は、誾千代姫の気鬱は全て統虎と勘づいている。
 だが、誇り高き誾千代姫がそのようなことを口に出すはずがない。統虎が誾千代姫の閨を訪ねれば、全て解決すると思っているが、こればかりは静では如何ともし難い。静は何とか誾千代姫の気欝を散じねばと思っている。
「この水濠ばかりのお城は、私にも慣れぬお城でございます。私も立花城が恋しゅうございます。」
「静もそうでございましたか。それにここでは女衆の稽古も出来ぬし・・・・、私は稽古がしたいです。何とかなりませぬか?」
「稽古をするとなるとここを出るしかございません。」
「よい。立花城へ戻れぬなら、どこでも同じである。」
 静は誾千代姫の言葉を受け止め、宿老由布雪下の居城酒見城を訊ねた。酒見城は小高い丘に建てられた平屋建ての柳河城支城で、博多に近い重要な拠点である。

 静が広間で待っていると久方ぶりの由布雪下が現れた。
「静殿が私を訪ねるとは珍しいことであるな。何なりと申すがよい。」
「姫様の事でございます。」
「そうであろうな。」
 道雪の頃より誾千代姫を後見してきた由布雪下は誾千代姫を重んじ、婿となった統虎を疎んじてきた。だが、今では統虎の並々ならぬ器量を認め、心より仕えている。同時に誾千代姫が統虎に対し、随分と心にわだかまりを溜めていることだけは察している。
「姫様が柳河城を出て、稽古がしたいと申しております。」
 領主の正室が城を出るのは、領国を治める上であまり良いことではない。だが、他ならぬ誾千代姫が言い出していることは何とかせねばと思い、統虎にすぐ相談した。

 統虎は柳河城の庭が見える部屋で由布雪下を待っていた。
「殿、姫様の事で参りました。」
 由布雪下の思わぬ言葉に統虎は身構えた。
「姫様が何とか今までのように稽古を続けたいとの事でございます。どうぞ、こちらの絵図をご覧ください。」
 雪下の持参した地図には柳川城南から一里の場所にある宮永村が記されている。
「この地は肥後と繋がる要衝でございます。この地に館を設け、何かの折に軍を留められるようにしたいと思っております。ここであれば、姫様も稽古は充分に出来る筈でございます。」
「雪下の良きようにせよ。」
 万事抜かりの無い由布雪下である。立花家にとって磐石な館を造る筈であろう。そこは問題ないが、誾千代姫がこの柳河城を出ていくことが何よりも切ない。いつのまにか2人の間に大きな溝が出来て、埋まらなくなっている。
 今回の話も誾千代姫が自分に相談してこないことが堪らなく心苦しいし、雪下から話を聞かされるのは本当に寂しい。何とかせねばならないが、統虎は全てを由布雪下に委ねた。
 
 誾千代姫は宮永村への引っ越し前に統虎へ挨拶することとした。このまま顔を見せずに去るのはあまりにも寂しく、心苦しい。控えの障子が開いて久しぶりに統虎の顔を見た。
“戦陣焼け・・・。”
 統虎はすっかり精悍な顔つきになっていた。統虎は久しぶりに会う誾千代姫の顔を無言で凝視した。
 じっと統虎を見つめ返す誾千代姫の瞳に、統虎は万感の想いを感じている。何も言葉を交わさずとも、何か全てが溶けていくような優しいひとときであった。
「誾千代、来るがよい。見せたいものがある。」
 久々に聞いた統虎の言葉は柔らかく温かい。統虎に導かれるままに案内され、筑後一帯を睥睨する柳河城望楼に登った。この柳河城を囲む北・東・南の幾重にも繋がる水濠、そして西に広がる有明の海がこの城の守りの要である。
 改めて、父道雪が落せなかったこの柳河城の威容をまざまざと感じた。そして、父道雪宿願のこの柳河城を手に入れた統虎の偉業に敬意を表わした。
「殿、お詫び申し上げます。立花城を何故小早川氏に渡したかなどという言葉の愚かさに今気づきました。殿は父を超えて、この城を手にしたのでございます。」
 思わぬ言葉に統虎は誾千代姫の瞳を見つめた。
「誾千代、私は道雪様を決して超えてはおらぬし、超えられぬと思っている。道雪様は長きに亘り、博多を守り、領民を慈しみ、家臣を信じて育てて参った。私はそれを引き継いだだけの事である。それに、この柳河城も父の考え通りに秀吉様の勝ち戦に乗って手に入れたものである。私は2人の父は超えてはおらぬ。決して超えられぬ。」
 統虎の本心であった。自分の力で柳河城を落としたわけではない。九州征伐を果たした秀吉の差配で下賜された城である。
「それが殿のお心でございますか・・・・」
 誾千代姫はしみじみと統虎の心に感嘆した。決して驕らず、父道雪の偉業を尊ぶ心に改めて自らの狭量を恥じた。
 統虎は今まで誾千代姫に我を張っていたが、しおらしい誾千代姫の姿に愛おしい気持を一気に膨らませた。
「誾千代、色々すまぬ。館にも帰らぬ日々ばかりであった。宮川は柳河城の南の要、誾千代に任せる故、頼む。」
「殿。」
 全てのわだかまりが融けたことに誾千代姫は涙にむせんだ。そんな誾千代姫に統虎は近付き、手を取って、頭をただただ撫ぜた。
「誾千代、まもなく私は京へ行かねばならぬ。その前に宮川へ必ず寄る。待ってておくれ。」
 誾千代は涙にむせびながら、頷いた。

 天正16年(1588年)6月、立花統虎は初めて九州の地を離れた。
 島井宗室が手配した廻船で博多湊を出航し、西を見上げると陽光にまぶしく光る立花城天守閣が見える。立花山がそびえる姿を見て、改めて立花道雪を思い出している。
“道雪様、これより秀吉様に仕えて参ります。”
 身が引き締まる思いである。船は海岸線に沿って進み、九州の玄関ともいえる門司城が少しずつ小さくなっていった。一昨日、誾千代姫の宮川館で過ごした夜も遠い彼方へ過ぎ去っていくようにも思える。この後、廻船は瀬戸内海の安芸灘と播磨灘を一気に渡り、豊臣秀吉の待つ大阪城へ上洛することになる。
 統虎は船室に籠らず、甲板で伊予と阿波の山々を見ているが、お伴の立花三河・世戸口十兵衛らは船酔いで甲板には上がってこない。厳しい日差しの中で香る潮の香りが心地いい。初めて見る瀬戸内の海と小島をすり抜ける船旅はとても軽やかで気持ちの良いものであった。
 4日間の船旅を経て、統虎は大坂湾の遥か彼方に鎮座する巨大な大阪城の姿に改めて、秀吉の権勢をまざまざと知らされた。堺湊に着くと、石田三成の手配で用意された番船が待っていた。
 一行を乗せた番船がゆっくり大坂城へ向かう中、統虎は水濠の広さや城塀の堅牢さに感心させられている。
“まさに天下人であるな。”
 大阪城の水門に到着すると万事抜かりなく、大阪城屋敷へ案内された。

 翌日、大阪城大広間で、統虎は石田三成と千利休に挟まれ、秀吉の登場を待っている。耳を澄ますと衣擦れの音がせかせかと近づき、障子が思い切り開いた。
「統虎、よう参った。どうだ、この大阪城は。」
「初めて九州を離れましたが、言葉もございませぬ。この城を落とす術が見当も尽きませぬ。」
 思わぬ言葉に秀吉は明るい声で笑った。
「はっはっはっ。どのように城を落とすかを考えるとは・・、さすがは立花であるな。だが、この城は落とされぬよう、わしが差配して作った城、そう簡単に城を落とす術が見つかるはずがなかろう。」
 豪快に笑う秀吉に釣られ、石田三成、千利休も笑った。統虎の放った言葉は本来忌み嫌われるはずの言葉である。訪れている城を落とす術など客人が口に出してはならぬ言葉であるが、生真面目な立花統虎ならではの率直な感想が最高の褒め言葉になった。
「やはり、愛いのう、統虎は。・・・そうだ、肥後では素晴らしき軍功と差配であったな。私も随分と面目がたった。何か欲しいものがあれば、言うが良い。」
 統虎は平伏し、秀吉の感謝の言葉に心震わせた。武士として主君の褒め言葉は何よりもうれしき言葉である。秀吉は会う度に己を激しく褒めてくれる仕え甲斐のある主君である。
「一つだけございます。」
「統虎の望み、早く聞かせるがよい。」
「はい、何卒ご昇殿できるようお許しして頂きたいと・・。」
「何だそれは、さては家老どもに言われておるな。」
 統虎は小野和泉、由布雪下から口うるさく、上洛した際には官位をもらうよう申し上げるべきだと聞かされている。やはり地方の武士にとって官位は堪らなくまぶしいものである。
「はい、そうでございます。」
「従四位下でよいか。」
 統虎はかぶりを振った。
「秀吉様、畏れ多くも我が立花家が仕えておりました大友義統様が従五位でございます。義統様を超えるわけには参りませぬ。何卒従五位でお願いいたします。」
「これ、統虎、わしが言った位階をわざわざ下げる者なぞおらぬぞ。まあよい。」
 
 天正16年(1588年)7月5日、立花統虎は従五位、侍従となったが、一か月後には旧主大友義統を超えて、従四位下に叙せられた。
 
 太政大臣豊臣秀吉の信頼が厚い統虎はこの後、筑後国柳河城と畿内、そして博多や堺の豪商たちとの行き来が増えていった。
 秀吉からの寵愛に驕らず、清廉な振る舞いの立花統虎を皆が茶会に招くようになっていった。統虎も茶会を楽しんだが、他の大名たちのようにのめり込むまでには至らなかった。
 今でも統虎が大事に思うのが、幼き時より日々精進する弓と剣術である。どこにいようとも日の出と共に朝駆けをし、その後弓矢を放ち、剣を振るう姿は、柳河城でも大阪城でも変わりはない。体躯を鍛え、心気を練る立花統虎から溢れ出る武骨な男気は、実は茶の“侘び”にも通じている。
 統虎が好む茶道具は、どちらかと言うと質素で粗いものばかりであった。統虎は意識していないが、統虎の心が“侘び”であり、千利休高弟の細川忠興は自らの子にこう遺した。
“数寄の事は、立花を見習うこと。”
 
 天正18年(1590)、また戦が始まる。秀吉は小田原城を本拠とする北条攻めに従軍するよう、日本全国の大名たちへ報せた。この戦に参陣しなければ、天下人となった秀吉の敵となってしまう。
 3月1日、秀吉は小田原攻めの為、大阪城を出発した。多くの大名たちが小田原攻めに参戦する為に、沼津へ向かった。
“秀吉様の天下取りは間もなく終わる。”
 商人・農民たち誰もが小田原攻めの大軍20万を見て、北条軍の敗北を悟った。秀吉軍に参陣した大名から足軽までも同じ気持ちである。

 豊臣秀吉、徳川家康、黒田官兵衛、豊臣秀長、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、
 池田輝政、石田三成、立花統虎、大谷吉継、高山右近、蜂須賀小六、大友義統、
 加藤清正、福島正則、長宗我部元親、前田利家、上杉景勝、真田昌幸など

 目指すは5万の兵が籠る小田原城である。唯一、出羽と陸奥を治める伊達正宗だけが参陣して来ない。小田原城を攻めた後は陸奥まで攻め入るという噂話も出ている。
 そんな中、小田原へ向かう立花統虎は、秀吉への大恩に報いたいという気持ちばかりであった。だが、今回の合戦では、領地石高の高い大名や今まで戦功の少ない大名たちに厳しい攻め口が与えられている。
 
 天正18年(1590)3月より始まった戦は、秀吉軍の一方的な戦となり、小田原城の支城がどんどん潰されていった。
 4月には籠城する小田原城からすぐ西の山に、小田原城を睥睨する石垣山城が完成した。この石垣城の威容に圧倒され、北条側からの内通や脱走者は多くなっている。
 既に勝利を確信する秀吉は出陣してきた大名たちに妻の帯同を認め、兵たちの為の遊女小屋も許可した。また、秀吉は多くの茶会を開き、集まった大名たちを饗応した。
 合戦中とも思えぬ振る舞いであるが、秀吉方に参加している大名たち皆が天下人秀吉の気宇の大きさを喜んだ。
 
 そしてある日、秀吉は自らが誇る若武者と徳川家康を引き合わせようと考えた。翌朝、招かれた立花統虎が石垣山城の山里曲輪に出仕すると、茶会の主人を務める千利休が茶会の準備を進めていた。
 茶会が行われる牛の刻(昼12時)まで、まだ半刻以上はある。立花統虎は千利休に断りを入れ、その用意する姿をずっと後ろより眺めることとした。その千利休の振る舞いは淀みと無駄が無い。舞っている所作のように感じるほど端麗なものである。
 半刻ほどであろうが、準備を終えた千利休は振り向いて、統虎に声をかけた。
「統虎様、お待たせいたしました。」
「いえいえ。お目障りではございませんでしたか。」
 千利休は微笑んで、顔を横に小さく左右した。千利休は多くの茶会で清涼な趣をたたえる立花統虎に、茶の湯への存念を聞いてみた。
「統虎様、茶の湯はいかがでございますか。」
 統虎は少し間をおいて、喋りはじめた。
「私の本分は秀吉様に仕え、領国を治め、そして合戦では戦功を挙げることと思っております。それ故、茶の湯は過分に入れ込まずに過ごしております。茶道具も目利きが出来ぬ故、専ら地味で使いやすいものをと思っております。」
 千利休は自然な心のまま、飾らずに話す言葉をそのまま受けた。
「皆が我を張り、己の為と振る舞う中、統虎様のそのお心があるがまま粋でございます。良き話を聞きました。さあ、まもなく秀吉様と家康様がいらっしゃいます。」
 統虎が山里曲輪の門に控えていると、三つ葉葵紋の徳川家康の輿が近づいてきた。輿の後ろには、騎馬で四方に目を配りながら寄り添う武者の姿があった。統虎はすぐに家康が誇る勇将本多忠勝だと察した。武将であれば、本多忠勝の武勇は誰もが知っている。
 姉川の戦いでは、自軍に迫る朝倉軍に無謀な単騎駆けで自軍の鼓舞と家康の奮起を図って勝利を導いた。また、武田信玄との負け戦では当時最強の軍を相手に見事な殿軍を務めた。
 6年前の天正12年(1584)、小牧長久手の戦いでは豊臣16万の大軍相手に、主君家康を逃がす為、忠勝はわずか5百名の兵で立ちはだかった。鹿角脇立兜をかぶり、黒衣威銅丸具足の鎧で肩からは葬った敵を弔う大数珠がぶら下げ、二丈余り(約6m)の蜻蛉切という大槍を構えている。その鬼武者のような姿に豊臣16万の進軍は止まった。
 天下無双の勇将である。幾多の戦場で焼けた真っ黒な顔で眼光が刺すように鋭い。
 
 統虎は、徳川家康と本多忠勝を出迎えた。
「家康様、お待ち申しておりました。」
 家康に声を掛けた若い大名が誰だか分らぬ本多忠勝は統虎の顔を睨めつけた。その本多忠勝にも統虎は挨拶をした。
「私は筑後南を治めております立花統虎でございます。どうぞ、これよりお見知りおき下さい。」
 険しい本多忠勝の顔が一気に綻んだ。
「お主が立花統虎であるか。私は本多忠勝である。お主の話を聞きたくて参った。」
 その時、門に遅れて到着したのが豊臣秀吉ら一行である。
「皆、揃っておるな。では、茶席へ参ろう。」
 秀吉に勧められるがまま、利休が待つ茶席へと入っていった。統虎は秀吉と、徳川家康は本多忠勝と並び、千利休の点てた茶を喫した。立花統虎は自分の顔が上気しているのに気付いた。
 天下人秀吉と徳川家康と千利休、そして武将ならば誰でも憧れる本多忠勝との茶会は、心が落ち着かない。そんな統虎に本多忠勝が声をかけた。
「立花殿、二人の父の話を聞かせてくれぬか。」
 本多忠勝は立花道雪・高橋紹運の話を望み、統虎はできる限りの話をした。本多忠勝は何度も質問し、統虎も何度も答えを返した。その様子を豊臣秀吉も徳川家康、千利休も見守っている。半刻ほど経った後、徳川家康が話しに割って入った。
「これこれ、二人の話はそこまでである。どうだ、忠勝、この茶会が終わった後、二人で酒を酌み交わせばよかろう。」
「それはよい。統虎、この後は本多殿の采配に従え。二人ともよいな。」
「はっ。」
 天下人秀吉の言葉に本多忠勝も立花統虎も平伏した。秀吉は高笑いした後にしみじみと語った。
「やはり古今無双の勇将本多忠勝殿と、九州一いや西国一の勇将立花統虎は、話が合うものであるな。二人の話を聞いておると、武将はこうあるべきものと思うものであるな。やあ、今日の茶会は本当に良かった。」
 豊臣秀吉に釣られ、徳川家康も笑って応えた。

 小田原攻めが始まって2か月後の5月、陸奥国の伊達政宗が豊臣秀吉の本陣に現れた。多くの大名たちが見守る中、白装束で罷り出た伊達政宗は合戦への遅参を詫び、秀吉に臣従を申し出て、秀吉に赦された。
 7月には小田原城は開城し、北条家当主氏直の父氏政と弟氏照は切腹、当主北条氏直は徳川家康の婿ということで高野山へ追放となった。秀吉はそのまま20万を超える大軍を引き連れ、宇都宮城へ向かい、関東・奥羽の大名たちを呼び出した。そして、小田原攻めに参陣しなかった大名たちを改易するなど、関東と奥羽の仕置きを行った。
 これで秀吉は、織田信長が果たせなかった天下統一を果たした。もはや、天下人豊臣秀吉に逆らう大名もいない。徳川家康も駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野と常陸の一部の関八州に移封となった。
 
 天下を治めるようになった秀吉に朝鮮通信使がやってくる報せが届いた。
 天正18年(1590)11月7日豊臣秀吉は聚楽第で通信使を引見した。秀吉はこの使節が自らの目論見とは違い、自らの日本統一を祝賀する使節であることに気づいた。もともと秀吉は対馬の宗氏や石田三成らに、朝鮮国王の来日と朝鮮の日本への帰属を求めてきた。
 今日会った使者は家臣たちの謀りであることを察したのだ。秀吉は沸騰する怒りを抑え、通信使に対し改めて“日本国への朝鮮の入貢、明国への出陣には日本の味方となるよう”に申し入れた。
 だが、通信使は秀吉の要求に応えなかったため、そのまま朝鮮へ護送された。この後、窮地となった宗氏は朝鮮に対し、日本が明に出兵した場合は何とか朝鮮を通過するのを黙認して欲しいと願ったが、朝鮮はこの問いかけを黙殺した。
 
 天正19年(1591)1月22日、豊臣秀吉を陰で支えてきた異父弟秀長が51歳でこの世を去った。秀吉が唯一心許してきた弟の死は、秀吉の天下に暗い影を落とすこととなる。
 3か月後の4月21日、秀長と共に秀吉の政権を支え、時には諫言も厭わなかった茶道頭千利休に対し、増上慢であると切腹を命じた。もし秀長が存命ならば、千利休を切腹させることなど到底許さなかったはずである。この2人の死で、秀吉に直言できる者は誰もいなくなってしまった。
 更に秀吉に凶事が続く。8月5日、寵愛する淀君との間に出来た長男鶴松が僅か3歳で亡くなったのだ。秀吉は深い哀しみの中で天下に決意を示した。
 11月、甥の豊臣秀次を後継者として関白職を譲り、自らは太閤と名乗り、“唐入り”を宣言した。秀吉は九州の諸大名に突貫工事で肥前名護屋城を造るよう命じ、九州の年貢を名護屋と博多へ運ばせた。そして、翌天正20年(1592)1月5日、諸大名に3月20日肥前名護屋城へ参陣するよう命じたのだ。

 立花統虎は唐入り前、宮川村の誾千代姫の館に何日も通った。誾千代姫が宮川に住み始めて早や5年の月日が経ち、宮川村の農民たちは親しみを込め、誾千代姫を“宮川の姫”と呼ぶんでいる。いつも、宮川の姫の館は女衆が稽古に励む掛け声で勇ましいが、領主の統虎が訪れる時ばかりは稽古はお休みとなっている。
「誾千代、玄界灘を越えて朝鮮、そしてその先の明国に秀吉様は攻め入るつもりであるが、・・・・・この戦は先が全く分らぬ。」
「そうでございますか。」
 誾千代姫も朝鮮征伐には多くの反対があると聞いている。誾千代姫自身も他国には攻め入るべきではないと思っている。だが、誾千代姫はもう戦や政に口を出さぬよう自分を戒めている。
「うむ、どんな相手なのか、兵糧をどう手配するのか、朝鮮に攻め入らねば分らぬことが多い。厄介な戦であるが、立花家は秀吉様への御恩に報いる為に戦わねばならない。」
「はい。」
 統虎の言葉に従順に応える誾千代姫が愛おしい。その誾千代姫との間に世継ぎがまだ出来ぬことが統虎にとって、朝鮮へ行く前の心残りであった。誾千代姫も子宝に恵まれないことで自分を責めている。
「殿、どうか側室を・・・。」
 統虎の顔がこわばった。
「誾千代、そのようなことはこの後も言うでないぞ。私は誾千代との子が世継ぎと思うておる。もし、生まれなければ、弟の直次から子を貰う故、案ずるな。」
 統虎はここ数年京や小田原攻めで柳河城を留守にすることが多かったが、女については淡泊であった。女好きの秀吉からは“側室を持って、子を為せ。”と何度も勧められたが、統虎は頑なに拒み続けてきた。統虎からすると、誾千代以外の女と閨に入ることなど全く考えられないことであった。
 2人は朝鮮出陣までに子を為したいと激しく望んだが、その兆しは全くなかった。
 
 文禄元年(1592)朝鮮征伐前に、立花統虎は“宗虎”へと改名し、その後の元和元年(1615)に“宗茂”と改名し、皆の記憶に残ることになる。この後は立花宗茂と記していく。
 
 3月、立花宗茂は弟高橋直次と、玄界灘に突き出た東松浦半島先端に築かれた名護屋城へ向かった。名護屋城へ向かう街道には全国から召集された様々な大名の幟が連なっている。
 皆、街道の果てに佇む名護屋城の姿に圧倒された。朝鮮征伐の前線基地となる名護屋城は、召集された大名たちの予想をはるかに上回る巨大な城であった。天に聳える五重天守や巨大な曲輪など、召集された軍勢は秀吉の朝鮮への執念を感じている。
 そして、全国から到着した軍勢の総計は約18万人となっている。各軍は名護屋城を取り囲む陣屋に案内されたが、この兵士たちを目当てとした売り子や遊女も集まり、田舎とは思えぬ大変な喧噪となった。
 
 4月12日第一軍の小西行長は約1万9千の兵を率い、釜山に向け出港した。立花宗茂と弟高橋直次は名護屋城三の丸から、この第一軍が出発する姿を眺めている。
「圧巻であるな。」
 2万の兵が約700艘の船に分乗し、陽光煌めく玄界灘を朝鮮半島に向っている。直次は大海原を颯爽と向かう船団を見ながら、不安を口にした。
「兄上、朝鮮国での戦は長くなるでしょうか。」
「分らぬ。島井宗室にも話を聞いたが、朝鮮は攻められれば明国に助けを求む。明国が軍を出せば、相当の軍勢となるはず。それに異国の地での兵糧、兵糧を運ぶ船も人足も何もかも用意せねばならぬ。」
「兄上が敵ならば・・・。」
「当然、守りが薄い兵糧と船を狙う。朝鮮も明国も良き将がおれば、必ずそうする。戦はそのようなものだ。」
「そうなると戦は長引き、苦しくなるということでございますね。」
「直次、覚悟しておくがよい。」
「はい。」
 立花宗茂と高橋直次、堅い絆で結ばれた3千の兵は、小早川隆景を主将とする第六軍に編成され、第二軍の軍勢として玄界灘を渡ることとなった。
 
 第一軍 小西行長・宋氏ら   1万9千人
 第二軍 加藤清正・鍋島直茂ら 2万3千人
 第三軍 黒田長政・大友義統  1万1千人
 第四軍 島津義弘ら      1万4千人
 第五軍 福島正則・蜂須賀・長宗我部 2万5千人
 第六軍 小早川隆景・立花宗茂ら 1万5千人
 第七軍 毛利輝元       3万人
 第八軍 宇喜多秀家      1万人
 第九軍 羽柴秀勝・細川忠興  1万2千人
  
 第一軍から第九軍が次々と朝鮮半島に上陸した。そして、釜山から漢城(ソウル)に向けて進軍を開始した。鉄砲が普及していない朝鮮軍は射程距離が短い弓矢で戦ったが、日本軍の鉄砲隊に押され、連戦連敗となっている。日本軍の猛攻にさらされた朝鮮国王は5月1日漢城を抜け出し、平壌(ピョンヤン)へ向かった。
 翌々日、朝鮮の退却軍に火をかけられ焦土となった漢城に日本軍は入城し、まずは朝鮮国を制した勝利を祝った。秀吉は幸先の良い報せに渡海の意思を示したが、徳川家康らに止められ、あきらめざるをえなかった。
 まだ名護屋城には徳川家康・前田利家・上杉景勝・伊達政宗ら、約十余万の兵が残っている。秀吉は必ずや朝鮮征伐は成功するであろうと見通しをつけた。
 
 この後も日本軍は漢城から朝鮮全土に出陣し、旧都の開城(ケソン)と平壌(ピョンヤン)を占領、加藤清正率いる第二軍は朝鮮国王子二人を捕虜とする戦功を挙げた。小早川隆景に率いられた立花宗茂ら第六軍は李氏朝鮮軍が逃げ込んだ朝鮮半島南西の全羅道を制圧する為に出陣した。
 だが、出陣前に立花宗茂が心配した危惧が現実となってしまう。
 
 もともと朝鮮水軍は倭寇に対抗する為、船に火砲が取り付けられている。そして、名将李舜臣の下で水軍は徹底的に訓練されてきた。その朝鮮水軍が未曽有の国難に奮起し、海上輸送と警固を担う日本水軍を各所で攻撃を始め、7月7日の海戦では日本水軍を73隻も沈め、完全に制海権を握ったのだ。
 水軍と制海権を失った日本軍は、兵糧を日本から運ぶ術を失った。陸上でも朝鮮の義勇兵たちが、日本軍の補給路を襲撃した。慣れない異国の地で日本軍は兵糧不足に陥ってしまった。

 同月、小早川隆景率いる第六軍1万5千も約10万余りまでに膨れ上がってきた義勇兵の反撃に全羅道の制圧を諦め、漢城へ戻ってきた。この時点で日本軍が制圧しているのは釜山から漢城まで、そして漢城から平壌までの直線のみとなってしまう。窮地となった日本軍に更に凶報が入る。7月16日、朝鮮国王からの援軍要請を受けとった明国5千の兵が平壌を守る小西行長らを攻めてきたとの報せである。小西行長の軍は何とかこの明軍を退けたが、逆に明国は敗北の事実を重く受け止め、提督李如松率いる4万3千の軍を朝鮮へ派遣したのだ。李如松が率いる軍は、前年モンゴルの反乱を収めた明軍最強の私兵軍隊である。
 
 翌年の文禄2年(1593)正月、4万3千の兵を率いる提督李如松は平壌を前にして、日本軍に申し入れをしてきた。
“明軍は和議を求める。”
 この申し入れに日本軍は安堵した。平壌を守る小西行長は朝鮮征伐と明国への進軍をもともと反対してきている。提督である李如松の申し入れを心から喜んだのだ。
 だが、それこそが智略溢れる李如松の罠であった。
 
 1月6日、李如松は平壌手前にある鴨緑江が凍結するのを待ち、朝鮮の義勇兵と合流し、一気に渡河し平壌を攻めた。第一軍の小西行長・宋氏ら1万9千人は明の大軍の猛攻に慌て、後方に位置する鳳山城守将の大友義統に救援を求めた。
 だが、大友義統は明の大軍を怖れ、援軍も出さずに同じ第三軍の大将黒田長政などがいる防衛線まで退いたのだ。この敗走で大友義統は後に改易されることとなる。窮地に陥った小西行長ら第一軍は平壌を諦め、後方の開城(ケソン)まで戻った。
 そして、日本軍はここ開城で明軍と朝鮮の義勇兵を迎え撃つこととなった。
 
 ただ、日本軍は兵糧不足と朝鮮半島の苛酷な寒さで士気がかなり下がっている。寒さから身を守る防寒の衣服も無い上に、寒さをしのぐ場所も無い。その為、日本軍の兵は凍傷に掛かりはじめている。
 そんな中、立花宗茂率いる軍だけは統率が行き届き、高い戦意を見せている。そんな立花軍を頼もしげに見ているのは、小早川隆景ら秀吉の九州征伐に参加した大名たちである。明軍を迎える軍議の席で、小早川隆景は立花宗茂を栄誉ある先陣に推した。
「明軍との合戦、先陣は立花宗茂殿が相応しいかと。」
 これに反対したのが平壌を放棄した小西行長である。
「立花殿はわずか3千の兵と聞いております。明軍約5万の兵が我ら1万9千を攻めてきた故、我らの軍はここまで撤退しました。5万の兵に対して、3千の立花殿では・・・。」
「小西殿、立花軍は九州一の強兵でございます。立花殿の兵3千は1万に値する強兵です。今、小西殿が治めている肥後の国も立花殿のお力で乱が鎮まったはずでございますが・・・。」
 黒田長政からの後押しもあり、立花軍が明軍を迎える先陣と決まった。宗茂は元の主君大友義統の愚かな撤退を恥じている。先陣を推してくれた小早川隆景と黒田長政の面目の為、必ず明軍を撃破する覚悟である。

 立花宗茂は朝鮮征伐に勇将由布雪下を連れてきていない。最近めっきりと衰えた由布雪下の代りに小野和泉を自分の名代としたのだ。
 由布雪下は領国に留まることを激しく拒んだが、最後は泣きながら、小野和泉に宗茂の加護を託した。小野和泉はその由布雪下の分まで、奮戦する覚悟である。また、宗茂の弟高橋直次も兄の為に、前線で命を張る覚悟である。
 
 そして文禄2年(1593)1月27日未明、“碧蹄館の戦い”と呼ばれる明軍対日本軍の大戦が始まった。平壌奪還の勢いのままに、李如松の明軍が一気に南下してきた。明軍はこのまま一気に開城(ケソン)と漢城(ソウル)を奪還する目算である。
 薄い朝日が凍った大平原の霜を照らしている。立花軍3千は怯むことなく、無言で北から迫る明軍を睨みつけている。立花軍の兵たちは皆、金箔を施した押桃形兜を頭にかぶっている。その兜に朝日が当たり、金色の輝きを見せている。金色にまばゆく光る立花軍を目指し、明軍は怒涛のように近づいていった。明軍先陣は鉄砲と弓矢を防ぐために鉄鎖の甲冑を着込んでいる。明軍の兵は怖れる必要はないとばかりに体を晒し、翼を広げた陣形で包み込むように弓を放ちながら近づいてくる。李如松率いる最強の明軍は、この必殺の陣形で勝利を収めてきた。立花軍より後ろに控える軍勢の中には堪らず、明軍に発砲する兵もいたが、立花軍は明軍が鉄砲の射程圏に入るのをひたすら待っている。立花宗茂は明軍の兵の表情が見えるところまで引きつけ、軍扇を前にかざした。
「撃て!」
 立花軍鉄砲隊の鉄砲音が空に響く。宗茂も弓を引き、明軍の兵を狙う。鉄砲と弓矢は甲冑で防ぎきれない敵兵の顔面を次々貫いていく。立花軍の攻撃で明軍先陣の一角がえぐれると、宗茂はすぐさま騎馬兵に突撃を命じた。
「行け!」
 鉄砲隊・弓組をのぞいた兵は槍ぶすまをつくって、騎馬兵と共に明軍へ突進する。この錐のような攻撃を明軍は防ぎきれない。立花宗茂・小野和泉・高橋直次は鬼畜のような顔で叫び続けた。
「行けー、立花の力を見せよ。行け。」
 小野和泉の怒声は先陣を務める兵のすぐ後ろから聞こえてくる。この怒声が兵の気持ちを奮い立たせ、鉄鎖の甲冑を着た明軍に挑んでいく。兵の顔面や甲冑の隙間、首や足首を狙って槍を繰り出す。槍も使えぬ接近戦では刀で敵の脇や手首を狙った。
 この突撃で多くの立花勢を喪ったが、明軍の綻びは一気に中軍まで達した。明軍の動揺を拡がり、完全に浮足立ってしまった。
 この戦機を逃さず、他の大名達も続いて突撃すると、戦況がゆっくりと日本軍へ傾いてきた。
 日本軍の猛攻を恐れた明軍の兵は一気に背を向け、敗走を始めた。未だかつて死を恐れぬ兵などと戦ったことが無い。明軍の兵はこのような死兵と戦い、命を喪うのが惜しくなったのだ。
 
 だが、李如松も明軍最強の軍を率いる勇将である。背走する兵をまとめ、すぐに軍を立て直し、日本軍へ反撃をする準備を進めた。攻城戦で使う火砲の準備を進めると同時に、騎馬兵を前面に配した。
 哨戒兵を出していた日本軍は再び明軍が挑んでくるのを知り、陣立てを急いだ。すると、先ほど後方に陣取っていた宇喜多秀家の兵1万人が立花軍の前に突然布陣を始めた。その様子を見ていた小野和泉は、宗茂の前で激怒した。
「殿、われらが先陣でございます。宇喜多家は抜け駆けでございます。」
 眼を見開いて怒る小野和泉に、宗茂は諭すように声をかけた。
「和泉、この戦、皆が意地を張る戦である。宇喜多家は秀吉様に可愛がられ、日本軍大将として、ここ朝鮮での軍功を誰よりも欲しておる。」
「宇喜多家は先ほど我らが明軍の中軍まで攻め入ったのを見て、明軍組みし易いと思ったのでございましょう。」
 立花軍は先ほどの戦で兵300名余りの命を失っている。
「よい。間もなく戦が始まる。我らは宇喜多家後陣で我らの意地を見せればよい。」
 小野和泉はしぶしぶ宇喜多軍の陣立てを眺めている。

 先ほどの戦場となった大平原に明軍が姿を現した。先陣に陣取った宇喜多軍は静かに進軍した。その動きに釣られ、小西行長の軍も前へ進んだ。宇喜多軍も小西軍もここで明軍を叩き、軍功とするつもりであったが、天地を揺るがす咆哮が大平原を進む日本軍を襲った。
 日本軍が攻城用火砲の集中砲火を喰らう中、明軍の騎馬兵たちは縦横無尽に駆け、弓矢を浴びせた。明軍の思わぬ猛攻に戸惑い、宇喜多秀家は火砲が届かぬ後方へ退く命を出した。
 今度は日本軍全軍が背走を始めると、明軍の騎馬兵が追いかけ、矛で背中を貫き、弓矢を放った。小野和泉と高橋直次はこちらへ逃げてくる宇喜多軍と小西軍を見て、宗茂に進言した。
「殿、今こそ我らが攻め時でございます。」
 何故だと言わんばかりに宗茂は首を激しく振った。
「まだ、まだ。宇喜多軍と小西軍はもはや死に体。あの中に攻め入っても、逃げる兵で我が軍は動きがままならぬ。いっそ、全軍後ろに下がってもらった方が戦いやすくなる。そうであろう。」
 小野和泉と高橋直次はお互い眼で頷いた。2人は立花宗茂の沈着冷静な洞察力に改めて感服した。そして、宇喜多軍と小西軍が過ぎ去った後、残された立花軍は動き始めた。
 
 先ほどの戦で鬼神のような強さを見せた金色の軍が前線に留まっている。明軍はすぐに火砲を放ったが、何ら乱れを見せずに前進してくる。明軍の騎馬兵は先ほどの無念を晴らそうと金色の軍に近づき弓矢を放つが、手痛い反撃を喰らった。
 立花軍は鉄砲と弓矢を騎馬兵が跨る馬に集中させ、馬を倒し、騎馬兵は次々と落馬していった。その騎馬兵を立花軍は素早く囲んで、日本刀で一閃し、次々と命を奪っていく。
 乱戦になると火砲を放つことが出来ず、立花軍はあっという間に優位な戦況を作った。この機を逃さず、小早川軍と黒田軍は明軍の側面と後方を攻めた。すると先ほどの死兵を思い出した明軍は、軍の態を為さずに逃げ出した。逃げる明軍を日本軍は猛追し、約5千を超える敵兵の命を奪う功を上げた。

 李如松はこの碧蹄館の敗戦で日本軍を警戒し、積極的な攻勢を控えた。
 一方、日本軍も酷寒の中で兵糧不足が続き、困窮している。両軍共に厭戦気分が拡がった為、講和を結び、日本軍は漢城から撤退することとなった。日本を離れ、異国の地で飢えと戦漬けの1年は苦しく長い年月であった。

 各大名は先を争うように帰国したが、立花宗茂は豊臣秀吉の帰還命令を待って、文禄2年(1593)9月日本へ帰還した。宗茂は弟高橋直次と名護屋城へ戻ったが、名護屋城で出迎えるはずの豊臣秀吉・徳川家康・前田利家の姿は無い。既に大阪城へ帰還している。
「直次、今の気持ちはどうであるか?」
「兄上だから申し上げますが、誰の為に戦った戦でございましょう。」
「うむ、だが私は一切口には出さぬ故、直次も口にするでない。己への戒めとするがよい。」
 宗茂と直次は1年の朝鮮出兵で3千の兵のうち約2千を喪った。九州へ戻ってきた安堵よりも、2千もの兵を死なせてしまった悲しみだけが宗茂の気持ちを覆っている。
 小野和泉も全く同じ気持ちである。宗茂と小野和泉、高橋直次は豊臣秀吉への帰国挨拶の為、すぐ大阪城へ向かった。

 船から見る瀬戸内海の晩秋は、朝鮮で味わった苦しく寒々しい景色と全く違う。
 いわし雲に夕日の色が交わり、遠くに見える四国の山々は淡く暖かい色に染まっている。朝鮮で見た山々は凍った雪と岩肌ばかりであった。紅葉に包まれた山々を見て、日本へ帰ってきたことを実感している。四国の山々を見続ける立花宗茂の後ろから、島井宗室が近づいてきた。
「立花様は山ばかり見ておられますな。」
「朝鮮を転戦し、日本の山の良さが分りもうした。」
「これは風情な言葉でございます。我ら商人もあちらの山や港の侘しさは充分に沁みております。」
「宗室殿、講和は如何であろうか?」
 宗茂はこの博多の豪商島井宗室が日朝貿易の巨魁として朝鮮征伐に反対し、小西行長・石田三成らと講和に力を傾けてきたことを報らされている。今進んでいる講和交渉にも、当然裏で係わっているはずである。
「こればかりは・・・。秀吉様の御話を明国が呑んで頂ければでございます。」
 秀吉が朝鮮と明国に出した講和条件は明国が承服しがたい内容であった。
 
 一、明皇帝の女を天皇の妃として日本に送る
 一、日朝の勘合貿易を復活させる
 一、朝鮮の南半分を日本に割譲し、漢城と北半分は朝鮮とする
 一、朝鮮の王子と朝鮮の家老を人質として差し出す
 一、朝鮮は今後日本に背かない
 
 立花宗茂は講和は成立しないと予想した。宗茂は船に揺られながら、いずれまた朝鮮へ出陣するであろうと覚悟を決めた。

 10月17日、久方ぶりに大阪城大広間で挨拶した豊臣秀吉に昔のような快活さは窺えない。
「宗茂、朝鮮でも戦功を上げたそうであるな。」
 宗茂は頭を振った。
「そのような・・・。皆が朝鮮では必死に戦っておりました。」
 宗茂の本音であった。朝鮮の寒さも飢えも知らず、戦を評定されることはこの上なく空しい。だが、秀吉はいつも通りの宗茂の謙遜と受け止めた。
「碧蹄館であったな、そこの者、物語をせい。」
 大広間後ろに控えていたる家老小野和泉が朗々と“碧蹄館の戦い”を語った。大広間の皆が寂寥とした大平原で明軍の大軍が攻める様と日本軍が命を怖れず戦う姿を想像した。僅か3千の兵で5万の明軍に挑んで勝利を収めた勇将が立花宗茂である。大広間に控える皆が感嘆の声を上げた
 物語が終わると秀吉は近習に命じ、宗茂の前に三方を差しだした。今回の朝鮮征伐で日本軍を何度も救った宗茂への褒美である。また、宗茂は伏見城下に屋敷地が与えられ、聚楽第にあった御殿を拝領されることになった。
 
 ただ、聚楽第の御殿は心から喜ぶような建物ではない。秀吉は跡継ぎ鶴松が夭折した後、養子秀次に家督と関白を譲り、自らの後継者と定めた。だが、その2年後の文禄2年(1593)8月に秀吉と淀君の間に秀頼が生まれた。本来であれば秀次は秀吉の気持ちを察し、後継者の座を秀頼に返上すべきであった。
 だが、秀次は全く気に懸けず、傍若無人の振る舞いを続けた。秀吉はそんな秀次の態度を許さず、謀反を試みたと捕え、高野山に追放し、文禄4年(1595)7月14日に自害させた。更に完全に家を断絶する為、正室や側室や幼子も処刑した。
 その秀次の屋敷が聚楽第であり、宗茂は供養した後に自らの屋敷として移築した。襖障子は当世一の名人狩野永徳・長谷川等伯の作であり、その他秀逸な調度品ばかりで多くの大名たちは立花宗茂を羨んだ。
 
 伏見城下に滞在する立花宗茂に多くの大名から茶会の誘いがあった。大国を持たぬ立花宗茂であったが、秀吉の寵愛があっても、また武功があっても、驕らず謙虚な若き勇将は一緒にいて心が洗われる。徳川家康・前田利家ら重鎮から、細川忠興など茶を好む風流な大名、そして朝鮮で立花軍に救われた小早川家や黒田家など、皆が立花宗茂との茶会を望んだ。
 武断派だけでなく、文治派の大名からも好かれた宗茂は、この年全国的に行われた検地で、九州でただ一人厚遇された。
 
 この年は全国で厳しい検地が行われ、多くの大名たちの米出来高が今までより多く計算された。この検地の影響は大きい。
 今まで10万石の領地を持っていた大名が検地で11万石となると、差額の1万石の領地を返納させられてしまう。宗茂の領地は今まで13万石の石高であったが、正しくは15万石余りと数えられ、2万石を返納せねばならなくなった。
 だが、この検地の元締めである文治派の長束正家は、この報告を全て握り潰し、宗茂の領地石高は今まで通り13万石余りと通達した。
 九州の多くの大名が土地を返納させられるなか、立花宗茂のみが領国そのままで御咎めなしとなった。文治派からも評判と期待の高い立花宗茂は何の策も施さずに、領土を守った。
 
 文禄4年(1595)11月、畿内の滞在を終えた宗茂は久々に筑後柳河城へと向かった。朝鮮出兵以来、3年ぶりの領国で、誾千代との再会が待っている。宗茂一行は九州の門司港で下船するとそのまま陸路で南下した。昔から馴染みある筑前の街道を歩いていると時が戻ってくるようである。
 三つのこぶのような尾根が並ぶ立花城が見えてくると鮮明に誾千代姫と過ごした日々を思い出した。
“私が15で婿入りし、誾千代も13・・・・今では私が30・・随分と月日が流れたものであるな。“
 感慨深げに立花城を見上げる立花宗茂一行の姿に気づいた百姓たちが、わらわらと周りに集まってきた。
“殿様、立花の殿様。”
 もう立花城を離れて8年の月日が経ている。百姓たちは皆涙ぐんで、立花宗茂一行を見ている。宗茂は改めて義父道雪の心のこもった百姓への慈しみを思い出した。
“百姓たちに慕われるのはこの上なき嬉しき事であるな。”
 宗茂は柳河城へ帰った後は領国の田畑全てを見て回ろうと思った。

 百姓たちの歓迎を受けながら、12月宗茂一行は柳河城に到着した。宗茂は一通りの挨拶を済ますとすぐ宮川村の誾千代姫の館へ向った。逸る気持ちに任せ、宗茂は手綱を絞り愛馬を走らせている。
 すると、遠い田畑の向こうに馬乗り袴で馬を走らせる誾千代姫の姿が見えた。誾千代姫も宗茂の姿に気づいて、馬の手綱を緩めた。宗茂も同じように手綱を緩め、馬をゆっくりとゆっくりと進ませた。
 3年間の月日を少しずつ埋めるよう、2人の距離が縮まっていく。1日千秋の思いで待ち続けてきた誾千代姫にとって、正夢のような再会である。2頭の馬の鼻が重なりあうまで近づいた時、誾千代姫は声を振り絞ったのだ。
「殿、長きにわたる御出陣、・・・・・・。」
 涙で言葉が続かない誾千代姫に宗茂は優しく柔らかく声をかけた。
「誾千代、会いたかった。」
 宗茂の素直な一言である。誾千代姫が一生涯宝物とした言葉である。誾千代姫も声を振り絞って、涙声で応えた。
“私もでございます。”
 その後、誾千代姫の館まで一緒に帰った時間も、誾千代姫の一生涯の宝物になった。その日の夜は3年間の2人の時間を埋める大切な時間となった。気持ちと身体を睦合い、心のひだまで慈しみ、自らの気持ちをさらけ出す時間をお互い貪り合った。

 愛を紡ぐ日が5か月続いたが、2人が子を為すことは無かった。その後再び、宗茂は畿内へと呼ばれることとなった。文禄5年(1596)5月、小野和泉を留守居に命じ、宗茂は上洛した。
 
 宗茂が伏見に滞在中に、皆が宗茂の気宇を知る出来事があった。文禄5年(1596)9月5日、慶長伏見大地震で伏見城が崩壊した。その再建工事を行う普請場で、ささいなことから宇喜多家と立花家の足軽が喧嘩になってしまった。宇喜多家は立花家に対し、気後れする苦い記憶がある。
 “碧蹄館の戦い”で宇喜多家は立花軍より前に出て先陣を務めたが、明軍と猛攻に耐えきれずに逃げ出し、評判を落とした。
 逆に立花軍が殺到する朝鮮軍を迎え討ち、軍功を上げた。それ以来、宇喜多家は立花家に遺恨を抱いている。立花家には絶対に負けられないという気分である。
 これに拍車をかけたのが宇喜多秀家本人である。喧嘩の話を聞いた秀家は激しく怒り、その姿に家中も沸騰し、向かいに建つ立花家まで乗り込んで成敗するという大騒ぎになった。
 あいにく立花宗茂は外出中で、いつの間にか加勢しようとする大名の家来たちが2人の屋敷周りを陣取り始めた。特に宇喜多家はほとんどの兵が甲冑姿となって陣取り、伏見の町民たちを不安に陥れた。そんな一触即発の中、喧嘩騒ぎを聞いた立花宗茂が戻ってきた。
 宗茂はいきり立つ両軍の間を抜け、一人で宇喜多邸の門をくぐった。
 そんな主君の姿を見つけた十時摂津は急いで、宇喜多邸に入っていった。宇喜多家の侍たちは、飄々とした顔で入ってきた直垂姿の者が誰だかすぐには分らなかった。
「どなた様でございましょうか?」
 思いがけぬ名前が返ってきた。
「向かいの立花宗茂である。秀家様がいるであろう。ご挨拶に参った。」
 思わぬ敵の大将の訪問に宇喜多家の侍たちは騒ぎ出した。
「立花家棟梁が参ったぞ。」
「それ、合戦の準備を!」
 周りが騒然とする中、宗茂は平然と案内され、大広間に進んだ。すると上座には大鎧と甲冑に身を包んだ宇喜多秀家、円座となって甲冑姿の重臣が座っている。
 ちょうどその時、怒号をかき分けて入ってきた十時摂津が、宗茂の背後に張り付いた。十時摂津は刀に手をかけ、宗茂の後ろから、秀家と重臣たちの顔を見据えている。宗茂は十時摂津を手で制し、宇喜多秀家に語りかけた。
「この度は家来が粗相したそうで、ご挨拶に参った。」
 宗茂は秀家の動きを目で制し、秀家の一言を待った。秀家は宗茂の気迫に負けまいと唇を噛みしめ、意地の一言を絞り出した。
「かまわぬ。この後は無礼なきよう、下知されよ。」
 宗茂は破願して、周りの秀家の重臣たちに告げた。
「お聞きであろう。さあ、お開きじゃ。」
 宗茂は十時摂津を率い、宇喜多邸を後にした。両家の騒ぎは都中の噂話となった。立花宗茂の大人の振る舞いに対し、宇喜多秀家は甲冑まで着込んで、家臣を煽ったことが小人の振る舞いとされた。
 
 畿内で過ごす大名たちを落胆させる報せが入ってきた。明国と進めてきた講和交渉が破談となったという報せである。
 
 停戦後、小西行長らが代表となって、明国と講和交渉を進めてきたが、秀吉は厳しい講和条件を小西行長らに課した。
・明の皇女を天皇の妃とすること。
・朝鮮八道のうち南の四道を日本に譲渡。
・朝鮮王子など1,2名を人質として日本に差し出すこと。
 困った小西行長は、“日明貿易の再開”のみを講和条件として、交渉を進めた。だが、明国はその条件さえも拒絶した。
 
 文禄5年(1596)9月、秀吉は日本に派遣された明国の使節と面会した。
“特に爾を封じて日本国王と為す”秀吉はこの言葉で何ら講和の話など進んでいなかったと察し、使節を追い返した後、怒り狂い、2度目の朝鮮征伐をすぐさま命じた。戦の無い日本国で過ごす毎日は、再度の“唐入り”で終わりを迎えることとなった。
 
 すぐ、西国を中心とした大名に動員がかけられ、新たな朝鮮征伐軍が編成された。慶長2年(1597)2月陣立書も発令され、宗茂は前回と同じく小野和泉・高橋直次・十時摂津らと出陣の準備をすすめた。

 日本軍は前回の反省を踏まえ、兵糧を送る為の制海権を重視した。幸いなことに日本水軍を壊滅させた朝鮮水軍の名将李舜臣は罷免されている。日本軍は巨済島沖で朝鮮水軍を水陸から攻め、軍船のほとんどを沈めて、制海権を確保した。
 そして、日本軍は朝鮮沿岸部に守りと港の拠点となる城を築き、朝鮮での侵攻作戦をすすめた。沿岸部北東から蔚山城に加藤清正、釜山城に小早川家、泗川城に島津義弘、一番南西の順天城に小西行長が陣取ることとなった。
 7月14日に立花宗茂ら軍勢は海を渡り、小早川家が治める釜山城の支城を守ることとなった。
 
 一枚岩となって戦わねばならぬ日本軍であったが、東の蔚山城主加藤清正と西の順天城主小西行長は多くの遺恨を抱えている。特に加藤蔚山城清正は、小西行長と石田三成の諫言で前回の朝鮮征伐後に秀吉から謹慎を言い渡された過去がある。小西行長からすると合戦の勝利ばかりを考える加藤清正は、明国との講和交渉においては疎ましいだけの存在であった。
 朝鮮半島沿岸に4つの城を設けた日本軍に対し、慶長2年(1597)12月22日、明国・朝鮮軍は完成が遅れていた東の蔚山城に戦を仕掛けてきた。
 蔚山城の城主加藤清正は厳しい冬になる前の完成を急いでいたが、明国・朝鮮軍5万の急襲に抗えず、完成前の蔚山城の内城に約7千の兵で籠もることになってしまった。城主加藤清正が辛かったのは、蔚山城が完成前であった為、兵糧や弾薬、寒さの備えなど一切用意していなかったことである。この蔚山城の危機はすぐ十里西の釜山城に陣取る日本軍に知らされ、軍議が開かれた。本来であれば、他の城の危機はすなわち日本軍の危機である。すぐさま蔚山城へ救援軍を出すのが常道であるが、この釜山城大将小早川秀秋は軍議の席で未だ言葉を発していない。
 秀吉の猶子である秀秋は、淀殿が豊臣秀頼を生んだ後に、小早川家へ養子に出され、小早川隆景の死によって大国を受け継いでいる。立花宗茂が敬愛した前の棟梁小早川隆景は毛利家の総代として信義も厚く、老獪で重厚な戦を仕掛ける智将であった。
 一方、新しい棟梁となった17歳小早川秀秋はただの軽躁粗忽な小人で、大国を采配する器ではない。この軍議の席でも皆の言うことを神妙に聞いていたかと思えば、落ち着かない表情で体をゆすったりと、蔚山城の危機よりも早くこの軍議が終わることを願っているようである。軍議に連なる他の大名たちも蔚山城救援で自軍の兵を消耗するのを嫌い、救援の話には乗らず、沈黙を保ったままとなっている。
 全く進まぬ軍議は3日も続き、業を煮やした立花宗茂は膝を進め、自らの存念を話し始めた。
「皆様方、この軍議の間にも蔚山城の兵は敵兵と寒さと飢えと戦っております。異国の地で戦う友将が敵の囲みを破れず、蔚山城で戦っております。援軍が来る、その一念で戦っております。」
 真摯な宗茂の言葉に皆が耳を傾けた。
「蔚山城を囲む明と朝鮮軍の次の狙いは十里しか離れぬここ釜山城、今彼らを叩かねば、後に必ずこの城を攻める筈でございます。今、我らが蔚山城を後詰すれば、加藤清正殿は必ずや城より出陣し、挟撃するはず。さすれば敵は敗れ、漢城まで下がりましょう。」
 宗茂が話した道理は至極尤な話で、援軍を出すことで自らの防ぎとなる。多くの将が頷いて、軍議が援軍へと傾く中、ずっと沈黙を保ってきた小早川秀秋から思いがけぬ言葉を発した。
「立花殿の申し出御尤もなこと、すぐに立花殿は後詰に行くがよい。皆も聞くがよい。立花殿は3千の寡勢、後詰で討たれても構わぬ。我が軍は傷つかぬ。」
 軍議に連なる全員が、小早川秀秋が放った言葉を蔑んだ。同時に立花宗茂の胸中を思いやった。
“これだけ多くの将の前で、寡勢とは。”
“討たれてもなどと・・・。”
 武将ならば到底許せぬ無礼な言葉を宗茂は拳を握りしめて、飲み込んだ。蔚山城の加藤清正様を救う為、援軍として出陣することが何よりも大事である。宗茂は憤る心を抑え、無表情のまま立ち上がった。そして、小早川秀秋に強いまなざしを向け、言い放った。
「では出陣いたし、後詰して参ります。」
 皆が宗茂の大人な振る舞いを称え、宗茂出陣後にすぐ援軍を出すこととなった。ただ、宗茂は援軍が続いて出陣することは聞かされないままであった。
 
 年が明けて、慶長3年(1598)1月2日、寒風が激しく蔚山城、頬を叩いている。この嵐のような風が吹き荒れる中、立花軍は蔚山城を救う為、金色の兜をかぶった兵たちを急がせた。
 蔚山城までの十里を急ぐ中、十時摂津は先回りして道中に明・朝鮮軍の備えがあるかどうか、蔚山城を囲む敵陣を探っている。十時摂津は偵察を終えると急いで本隊に戻り、宗茂、小野和泉、高橋直次らと軍議を開いた。
「敵陣には日本軍への備えがなく、蔚山城手前まではこのまま近づけます。また敵は蔚山城を東・北・西・南からの四陣で攻めております。どうぞ、この絵図をご覧ください。」
 西の陣は前陣と後陣が離れている。宗茂はその後陣を指さした。
「この陣を夜襲いたそう。」
 小野和泉・高橋直次も夜襲に同意した。5万の敵に対し、立花軍は僅か3千、立花家の戦はいつも圧倒的に不利な戦ばかりであるが、宗茂の考える仕掛けで、いつも勝ちに繋げてきている。小野和泉・高橋直次は戦の機微を見抜く宗茂の采配に全てを委ねる考えである。

 日が落ち、闇が満ちていく中、蔚山城を囲む大地には無数の篝火が焚かれ、明・朝鮮軍の兵たちが楽しみとする夜の食事が始まった。この無数の火が酷寒の夜から身を守る唯一の手段である。
 頃合いを見て、宗茂は全軍をゆっくりと敵陣へ近づけた。闇に潜む立花軍の動きに誰も気づかぬまま、夜が更けていった。そして、明・朝鮮軍は突然鳴り響いた鉄砲の発射音に周りを見渡した。だが、どこからか分らぬ敵の銃と弓矢に明・朝鮮全軍は完全に狼狽した。皆が鉄砲の発射音がせぬ方向へと走り始めたのだ。
“行け!”
 宗茂の采配で、小野和泉率いる金色の兜をかぶった槍組が敵の逃げる一角に楔を入れる。高橋直次の軍は休まず鉄砲と弓矢を放ち続けると、敵は勝手に大軍の夜襲だと思い込んで、恐怖が伝播していった。
“あの金色の軍であるぞ。”
 前回の朝鮮征伐で金色の兜をかぶった立花軍の圧倒的な強さは、明・朝鮮軍に知られ、怖れられている。蔚山城を囲んでいた5万の兵のうち約1万の兵が、蔚山城を囲む包囲陣を勝手に離れ、北へ逃げていった。宗茂は2里ほど追いかけた後に小野和泉・高橋直次の槍組と合流し、全軍をまとめた。この戦で立花軍も300名ほどを喪っている。
「和泉、捕虜はいるか。」
 宗茂の問いに十時摂津が応える。
「後陣に20名ほど、押さえております。」
「うむ、全員放すがよい。」
 珍しく、これに反発したのが小野和泉である。
「宗茂様、そればかりは・・・。我らが少勢であることが相手に分ってしまいます。」
 宗茂は小野和泉を見て、大きく頷いた。
「それで良いのだ。敵は我らを大軍と誤って逃げ出した。今度は我らを寡勢と侮ってもらえば、次の仕掛けが生きてくる。」
 宗茂の仕掛けは外れたことがない。小野和泉も高橋直次も宗茂の言葉に従い、捕虜を放して、兵を闇夜の中に埋伏させた。

“襲ってきた金色の日本軍は寡勢であった。“
 逃げた1万の明・朝鮮軍1万はこの報せに安堵し、蔚山城の包囲に再び戻ってきた。寒風吹き荒れる中を2里も逃げ回って、再び蔚山城の包囲へと戻る行軍に覇気は全く感じられない。皆がだらだらと伸びきった縦隊で蔚山城へ向かっている。埋伏する日本軍の前を松明を掲げた敵兵が通り抜けていく。
 だが、宗茂は敵の後軍が来るまで動かず、干飯を全軍に食べるよう命じている。眼の前を敵の縦隊が通り過ぎていく中での食事は、立花軍の兵に余裕を与え、勝利への自信へと導いていった。
“奴らは飯も食えず、追われて逃げて、また戻っておる。”
“我らは戦の前の腹拵え。”
 半刻ほど経過して、敵の後軍が立花軍の眼の前に差し掛かった。鉄砲隊と弓組が狙いを定めたところで、宗茂の軍扇が前に差し出された。
“ばぁーん。”
 鉄砲の発射音が再び闇夜に響き、50数名の明・朝鮮軍が倒れた。敵兵は金色の兜をかぶった日本軍の襲撃に身構えたが、鉄砲と弓矢で狙われるばかりとなっている。明・朝鮮軍の兵たちが次々致命傷を負う中、宗茂は全軍に命じた。
「追え。」
 立花軍は背走して蔚山城へ向かう敵兵を次々と討ち取っていった。まもなく、蔚山城まで半里というところで宗茂は軍を停めた。まだまだ、敵兵を多く討てるであろうという気持ちが小野和泉の顔に浮かんでいる。
 その気持ちを察した宗茂は、小野和泉と高橋直次に作戦を授けた。
「あと1刻で夜が明ける。そこで蔚山城を西から攻める。逃げ癖がついた明・朝鮮軍は再び逃げる。そこを狙って、我らは蔚山城へ入り、兵糧を届ける。」
 小野和泉は改めて立花宗茂の深謀に舌を巻いた。全ては蔚山城を救う為の撒き餌のような夜襲であった。
 そして、後ろに控える十時摂津を呼んで、近くに座らせた。
「摂津殿、蔚山城へ入って、この密書を加藤清正様に届けてくれぬか。お主しか頼めぬ。」
 この密書にはまもなく立花軍が蔚山城へ攻撃すると記されている。加藤清正がこの密書を読めば、必ずや蔚山城から兵を出す。明・朝鮮軍を挟撃することで、立花軍は蔚山城へ入城できるはずである。
「宗茂様、その密書は私が運びます。老い先短い私しかおりませぬ。」
 十時摂津から密書をむしり取った小野和泉は後ずさって平伏した。
「待て、和泉殿、お主がおらねば・・・。」
「その言葉だけで仕えてきた甲斐がございます。どうか、若き十時摂津よりも私めにお命じ下さい。」
 小野和泉の懇願に観念した宗茂は、小野和泉に密書を託すこととした。小野和泉は小早川秀秋の無礼な言葉を憤っている。何とか自分の力で、棟梁宗茂の意地を賭けたこの一戦を勝利に導くつもりである。小野和泉は人質となった明国兵から奪った甲冑に着替え、陣を去っていった。
 宗茂は小野和泉の最後の心意気に感謝している。今回、蔚山城の囲いを破る合戦は、前日からの夜襲の布石があっても成功は五分五分と踏んでいる。今日の急襲で敵軍の兵力5万は少し減った程度である。自軍は既に3千から2千に減っている。
 小野和泉の密書が届けば、間違いなく突破できるはずである。届かなければ、小野和泉の弔い合戦となり、突破の大きな力となるはずである。小野和泉は自分の死をもこの合戦に賭けている。

 その小野和泉の命を懸けた賭けは見事に成功した。
 空が白む中、金色の兜をかぶった立花軍の鉄砲の発射音に呼応して、蔚山城の内城から鬨の声が発せられた。加藤清正の軍勢6千余りが西の大手門から突出してきた。昨日より立花軍に散々にいたぶられた蔚山城西の後陣が逃げ出し始めた。するとその後退に引きずられるように前陣も背走し始めた。
 立花軍はこの機を逃さず、蔚山城大手門まで一気に駆けた。立花宗茂の目の前、大手門入り口には小野和泉が立っている。そして兜を外したひげだらけの加藤清正が直立不動で眼を潤まして立っている。
「立花殿、かたじけない。我らはこれで全滅を免れた。」
 既に蔚山城の食糧は尽き、清正軍の兵たちは軍馬を屠り、草木を食べ、飢えを凌いできた。加藤清正はこのままでは全員が飢え死にすると思い、明後日には決死の脱出を試みる予定であった。
「いえ、清正様、最後は清正様の軍の力で我らは入城できました。」
 宗茂も誇り高き武将加藤清正の面目を立てた。実際、加藤清正軍の挟撃でほとんど無傷で入場できた。加藤清正は面目を立てる言葉と、決して軍功を誇らぬ姿に男惚れした。
「いやいや、仔細は小野殿から聞いております。全ては昨日からの立花殿の軍略と勇猛さで為し得たことでございます。昔より立花殿の武功は聞いておりましたが、さすがは日本一の武辺者であると・・・。」
「まあまあ・・・。」
 宗茂は褒め言葉を遮るように前に出て、清正と共に大手門をくぐっていった。はにかむような表情を見せる立花宗茂を加藤清正は一生の命の恩人と定めた。
 
 その日の午後、鍋島直茂、黒田長政、毛利秀元、蜂須賀家政、そして皆に連れてこられた小早川秀秋ら約1万余りの援軍が蔚山城の南方の高台に到着した。また、長宗我部元親らの水軍も海上に現れた。立花宗茂の出撃を追って編成された援軍であり、すぐ蔚山城を囲む明・朝鮮軍の背後から攻撃を仕掛けた。
 相手は約5万の大軍であるが、日本軍の戦意は高い。鉄砲隊の一斉射撃の後、一気に日本軍は突撃した。蔚山城からの挟撃を怖れた明・朝鮮軍は戦う素振りを一瞬見せつつも、蔚山城の包囲を解き、去っていった。
 
 この蔚山城の合戦では、立花宗茂の侠気と卓越した用兵が多くの人に知られた。その立花宗茂の戦を献身的に支えたのが、弟の高橋直次の兵たちである。昔から、直次は兄宗茂(統虎)を敬慕していたが、合戦では兄の意を酌んだ戦いを見せ、立花軍に欠かせぬ友軍となっている。

 戦功を上げた立花宗茂はこの後、弟の高橋直次・筑紫広門・小早川秀包らと共に釜山城支城である固城の警備を行うこととなった。古墳群が連なる要衝の地ではあるが、明・朝鮮軍が日本軍に対し攻撃を仕掛けてくる気配さえない田舎の城である。今までの寒くて厳しい朝鮮での合戦と違い、茶会を開くほどの余裕もある。
 
 日差しが強くなってきた5月のある日、筑紫広門は自陣での茶会に立花宗茂を誘った。
「これは戦功一等の立花様、良くお越しくださいました。」
 今は天下人豊臣秀吉に服しているが、昔の筑紫広門は向背定まらず、大友家や龍造寺家に通じた過去がある。また、筑紫広門の娘が高橋直次に嫁いだにもかかわらず、岩屋城の戦では進軍してきた島津軍と通じるなど何かと騒がしい武将である。彼が好むのは信義よりもさまざまな噂であり、下世話な話を今日も宗茂は聞かされるはずである。
“この戦は何時まで続くのでございましょうか。”
“大兵力を持つ徳川家・前田家・伊達家は何故この朝鮮に出陣しておりませぬ。”
 延々と愚痴が続いたが、筑紫広門は宗茂の重臣小野和泉についての噂を口にした。
「道雪様と立花城の時代から小野和泉殿の知行は増え、今は確か5千石と聞いております。」
「そうであるが、何か?」
「確か蒲池城の城番もしておいでと聞いております。その小野和泉殿が何故か色々と金を無心しておると風の便りに聞きました。」
「いや、そのようなことは無いであろう。」
 宗茂は常に赤心で立花家に尽くす小野和泉の姿を見続けている。
「やはりそうおっしゃると思っておりました。こういったお話を主君の耳に入れたがらぬ家臣が多いのでございます。皆は小野和泉殿の事を守銭奴と呼んでおります。」
「そうであるか。」
 筑紫広門の話を鵜呑みにする訳には参らぬと思った宗茂は、後日十時摂津に尋ねてみた。すると予想に反し、十時摂津も苦々しい顏で答えた。
“諾。”
 だが、その後も宗茂は小野和泉への厚い信頼を解くことは無かった。
 
 小野和泉の話が終わると、筑紫広門は主筋にあたる豊臣秀吉の名護屋城での乱行話を話し始めた。宗茂にとって初めて聞く話である。
 前回の朝鮮征伐の時、暇を持て余した秀吉は、朝鮮に出陣している大名の正室や側室を聚楽第に呼び、挨拶に来た夫人たちの体を次々と求めた。伊達政宗の正室“愛姫”は秀吉に迫られたが、短刀を常に懐に抱いて、秀吉からの辱めを避けた。明智光秀の娘“ガラシャ”も短刀を懐に入れ、秀吉と対面した際には、体に触れるならば自害すると眼で語って、難を逃れた。だが、伊達政宗の側室“藤女”などは秀吉に手籠めにされ、世間に知れた。
「このご乱行が名護屋城でもあったのをご存知ですか?」
「まさか?」
「波多氏が改易になったのは、そのせいでございます。」
「そうであったのか。」

 秀吉は、名護屋城近くの唐津岸岳城を訪れた時のことである。出迎えた波多氏の正室“秀の前”の美貌を見て、また悪い虫が出たのだ。秀吉は何度も秀の前を名護屋城に誘ったが、その都度秀の前は断わった。秀吉も意固地になって、秀の前に“明日必ず名護屋城へ来い”という使いを送ると、秀の前はやむなく応じた。
 名護屋城を訪れても、ずっと浮かぬ顔の秀の前であったが、秀吉は執拗に言葉を重ね、酒宴となった。
「秀の前、ほれ飲むがよい。天下太閤のすすめる酒である。呑まぬ作法はあるまい。」
 秀吉は上座から秀の前にすり寄っていく。
「太閤殿下様、もう呑めませぬ。何卒、ご容赦を。何卒、城へお返しください。」
 頭を振って拒む秀の前は秀吉を避けるように下がっていく。
「ならぬ、ほれ、目の前の一献を呑むがよい。」
 秀吉は青白い顏で拒む秀の前の言葉を戯言と楽しんでいたが、いつまでも必死に拒む姿に段々と興冷めした。自分の事を蔑すむような態度にもいらいらしていたが、秀吉は何とか成就したいと最後の一押しで近寄って、身体をまさぐった。
 ところが、秀の前の懐から守り刀がぽろりと畳の上に落ちた。秀吉は伊達政宗の妻愛姫、明智光秀の娘ガラシャが短刀で拒んだことを思い出し、一気に不快になった。
「天下太閤の前でそのようなものを持っておったとは。不敬な女。すぐ去れ。」
 秀の前は貞操を守ったが、その代償は大きかった。秀吉からすると波多氏のような弱小大名の正室が、伊達政宗の妻や明智光秀の娘の例に倣って、懐刀を持っていたことが許せなかった。夫である波多氏は朝鮮での合戦が怠惰であったという理由で、朝鮮征伐の後に改易となり、居城の岸岳城は没収された。
 そして、夫の波多氏は正室秀の前に会うこともなく、筑波山麓へ流された。
 
 宗茂は秀吉の天下を治めるに相応しい気宇の大きな姿に魅了された。その姿とは全く合わない顛末である。宗茂はどういう表情をして良いか分らぬほど困惑した。
「立花様、ご存知なかったのでございますか?」
「・・・、うむ、聞いておらぬ。」
「では、誾千代姫様の事も・・・。」
 思いがけない名前を聞いて、宗茂は筑紫広門の顔を凝視した。筑紫広門は宗茂の鬼気迫る顔に眼を背けて、言葉を濁した。
「いやいや、そろそろ今日はお開きに・・・・。」
 そそくさと筑紫広門が立ち上がり、促されるままに宗茂は立ち上った。だが、筑紫広門の言葉が心に刺さったままである。宗茂は心乱れたまま、本陣に戻ると小野和泉を訪ねた。
「和泉殿、話がある。」
 小野和泉は思い詰めた暗い表情の宗茂の姿を初めて見た。すぐに人払いをして、自陣に迎え入れた。
「殿、何でもお話を。」
「うむ、誾千代のことであるが・・・・、秀吉様が名護屋城にいた時に誾千代が呼ばれたことがあったのか?」
 小野和泉はこの話を宗茂の耳に入れるべきではないと考え、由布雪下と一切話が入らぬように根回しをしていた。だが、宗茂から聞かれた以上、答えざるを得ない。
「ございます。それが如何したのでしょうか?」
 宗茂の眼が吊り上がった。
「和泉は秀の前の事を知っておろう。誾千代はどうであったのか?」
 宗茂の激情を露わにした言葉である。
「殿、誾千代姫は立花道雪様の娘でございます。何もある訳がございませんし、何も無かった。それ以外ございませぬ。」
 激しく言い切った小野和泉であったが、誰もこの件で誾千代姫と話をしていない。ましてや秀吉に聞く術もない。真相は全て2人しか知らない。
 宗茂は小野和泉の断言に詮索することを諦めた。
「そうであろうな。」
 宗茂は小野和泉の部屋を出てから後、この件を口にすることは一切無かった。だが、宗茂の頭の中からこのことが消えることは無かった。朝鮮から戻り再会した時に誾千代姫からこの話が無かったことも不安を煽っている。
 宗茂は苦し過ぎる自分の気持ちに全て蓋をした。帰国した時に誾千代姫に話を聞くと決め、戦に専念したのだ。

 誾千代姫は秀吉に名護屋城へ来いと誘われた時、相当に悩んだ。秀の前の騒ぎの後だっただけに、慎重にならざるを得なかった。
”男の風上にも置けぬ大将、だが殿が仕える日の本の大将、お目通りを拒むことは殿のご武勇を汚すことになる。守り刀は上方で通用しても、この名護屋城では不敬、殿にご迷惑がかかる。”
 誾千代姫は必死に思案し、侍女4名を引き連れて名護屋城へ向かった。誾千代姫は今回の面会を思い切って、出陣を模すこととしている。供の侍女2人は鉄砲を携えて、残りの2人は薙刀を抜き身できらきらとさせながら、誾千代姫の輿に付き添っている。
 名護屋城の門に入ろうがお構いなしで侍女を付き添わせたまま、控えの間に入り、すぐに着替えを済ませた。
「誾千代殿、太閤秀吉様がお待ちじゃ。供の者はこの間で待つがよい。」
 秀吉も鉄砲と薙刀を持つ侍女らと一緒に会うつもりは無い。誾千代姫の先手を秀吉なりに封じたのだ。
 
 そして、広間に現れた誾千代姫の姿に秀吉は思わず笑ってしまった。誾千代姫は堂々と薙刀を手に持ち、鉢巻・襷掛けでまさに薙刀の試合に挑まんとする胴着と袴姿で現れた。
「その格好は何であるか?」
「朝鮮は今、戦の最中でございます。秀吉様の勝利を願い、薙刀の舞をお見せしようと。」
 端正な顔立ちに絶対に譲らぬという決意が目に宿っている。秀吉も思わず苦笑いするほどの気魂である。
「殊勝な心がけであるな。今は戦時である。宗茂殿も朝鮮で軍功を重ねておる。」
「秀吉様のお言葉、有難く承ります。」
「うむ、そうだな。誾千代殿、お主の父道雪殿の物語でもせい。」
「はい、父上は・・・・。」
 こうして、薙刀姿で難を逃れた誾千代姫は父立花道雪の話をして、秀吉の毒牙を避けた。だが、2刻半余りの時間を秀吉と過ごしたことは侍女たちを逆に不安にさせてしまった。戻った誾千代姫は控えの間で無事を告げたが、侍女たちは真相が分らぬし、秀吉も広言を全くしていない。無事に帰還した誾千代姫であったが、周囲にあらぬ噂が広まったのも確かである。
 これが、宗茂が知りたい真相であるが、宗茂に知る術は無い。
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