九州のイチモツ 立花宗茂

三井 寿

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第5章 九州

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 天正15年(1587)秀吉は、めでたく朝廷より豊臣の名と太政大臣の位を授かった。そして1月3日、豊臣秀吉が誇る大阪城大広間には正月の挨拶で多くの大名たち、千利休・今井宗及ら堺衆が詰めかけた。
 そんな中、博多の豪商神屋宗湛のみが特別扱いを受けている。秀吉の腹心石田三成が先導し、茶の湯の名物一式が並んだ別室を案内された。神屋宗湛が大広間に戻るとすぐに声が響いた。
“太政大臣様、御成り。”
 全員が平伏する中、秀吉が登場した。すると、満座の席で秀吉が宗湛に声を掛けた。
「筑紫の坊主はどれぞ。」
 宗湛はすぐ頭を下げ、声を上げた。
「これにて候。」
 秀吉は皆に聞こえる声で応えた。
「筑紫の坊主には他の道具も見せよ。」
 皆の前で面目を施す言葉であった。更に大名物を一人で見る機会が与えられた。
 
 その後も神屋宗湛への厚遇は続いた。大名衆とごちそうを頂いた後、秀吉の一言で利休から一服の茶が出された。その席で更なる名誉が与えられた。
“新田肩衝を手に取って見せよ。”
 大友宗麟から秀吉に献上された大名物である。神屋宗湛は、茶人として名誉ある1日を過ごした。
 
 この厚遇の裏には、博多の商人達に対し、九州での島津討伐を全面的に支えよという豊臣秀吉からの要請も含まれている。大阪城から堺に構える屋敷に戻ると、すぐに九州征伐の実務を行う奉行の石田光成・大谷吉隆・長束正家からの知らせが届いた。
“まもなく、豊臣秀吉太政大臣が九州へ出陣。武器・食料など全て博多商人で差配せよ。”九州一の商人と面目を施したが、課された役目は膨大であった。

 そして、太政大臣となった秀吉は畿内をはじめ、東海・北陸・山陰・南海など24か国の大名達に征伐軍への参加を命じた。この下命に従わなければ、豊臣政権の敵となってしまう。1月25日には先発隊として宇喜多秀家が出発、2月5日には羽柴秀長を総大将として次々と軍勢が増える軍勢をまとめ、九州目指して出発した。
 秀吉は豊後国での無様な敗戦の記憶を一掃する為、20万という未曽有の大軍で、九州を一気に蹂躙するつもりである。3月1日、秀吉は天皇に九州討伐の挨拶をした後、九州へ出発した。途中、備後国で信長に追放されていた足利義昭の出迎えを受けるなど、政治的な示威行動も見せつつ、3月28日九州の豊前小倉城に到着した。
 
 小倉城城門では、先発軍の指揮を執っていた黒田官兵衛と立花統虎の名代として、立花の名を与えられた立花三河(薦野三河)が出迎えた。2人の前を金張りの輿が通り過ぎようとしたとき、輿の中から大声が響いた。
「官兵衛、横に控えるのは誰だ。」
 間髪入れずに黒田官兵衛は答える。
「立花統虎の名代、立花三河でございます。」
 すると輿の御簾が開いて、真っ黒で皺だらけの小男の顔が突き出てきた。
「おおーそうか、九州の一物の名代か。そうだ、統虎に伝えよ。秋月の城攻めに参るがよい。」
 一足先に九州に到着していた黒田官兵衛は秀吉にまずは秋月の城を大軍で一気に攻め落とし、島津軍と戦うべきと進言している。秀吉も官兵衛の策通りに九州で立ち回る考えである。
「はっ、かしこまりました。」
 立花三河は素早く頭を下げた。
「お主は官兵衛と共に九州攻めの本陣におるがよい。」
「かしこまりました。」
 短い対面であったが、立花三河は太政大臣の高位にある秀吉の気さくな振る舞いと過分な厚意にすっかり参ってしまった。立花三河は立花城で待つ統虎に、すぐ秋月攻めに出陣するよう報せた。この小倉城から近い秋月氏の岩石城へ、秀吉率いる大軍が向かうこととなった
 
 岩石城は文字通り岩に覆われた難攻不落の山城である。この山城を守るのは、秋月軍が誇る怪力無双の猛将六兵衛と智将熊見である。秋月種実は秀吉軍の攻撃を見越して、約3千の兵をこの城に籠もらせていたのだ。

 報せを受けた立花統虎は2千の兵を率い、東へ急いでいる。統虎は、秀吉が岩石城をどう攻めるか興味津々であったが、残念ながら岩石城攻めには間に合わなかった。代りに秀吉の本陣に残った立花三河が戦を見届けた。
 
 約20万の秀吉軍は岩石城のある岩石山を囲むと、秀吉の下知に従った。全ての攻め口で夜を徹して、大量の篝火が焚かれた。岩石城に籠る兵たちは、眼下に広がる無数の篝火に明日からの激戦を覚悟した。

 4月1日早朝、秀吉が誇る蒲生氏郷・前田利長・細川忠興・加藤清正ら勇将たちが先を争って進んだ。全軍ともに前面に鉄砲隊を押し出し、どんどん岩石山を登っていく。凄まじい人の波が城の外曲輪や砦に押し寄せ、次々と抜いていく。その激しい攻めを立花三河が眺めていると、本陣奥に陣取る秀吉の声が聞こえてきた。
“立花三河!三河!こちらへ来るがよい。”
 顔をこわばらせながら近づく立花三河に、秀吉は岩石城を指さした。
「三河、お主は道雪殿の時より武勇の者と聞いておる。だが、上方の城攻めを見たことが無かろう。ここに控えて、城攻めを見るがよい。」
「はい。」
 立花三河は食い入るように豊臣軍の城攻めを眺めている。秀吉軍は雲霞のごとく群がって、一つ一つ砦を潰していく。立花三河は今まで見たこともない上方の戦に圧倒されている。圧倒的な兵力で全方位から城攻めをされたら、持ち堪えられない。現に岩石城城壁を多くの豊臣軍がよじ登っている。城壁の上から、秋月兵は弓矢や大石で敵兵を叩き落としていくが、城壁下にいる秀吉軍足軽はのぞき込む秋月兵を鉄砲と弓矢で次々狙い落としていく。
 すると、対い鶴の幟を掲げる蒲生氏郷の陣から一人の兵が城壁を乗り越え、一番乗りを果たすのが見えた。思わず腰を上げた秀吉は立花三河に吠えた。
「それ三河、あれが上方の勇将よ。見たか。」
 立花三河が平伏した。
「流石でございます。」
 秀吉は顔をくしゃくしゃにして、立花三河の言葉を喜んだ。圧倒的な戦ぶりで昼過ぎには敵の大将を討ち取り、夕方前には岩石城を完全に制圧したのだ。驚いたのは秋月種実である。1カ月は持つであろうと考えていた岩石城がわずか1日も持たなかった。
 覚悟した秋月種実は支城の大隈城を棄て、本拠の古処山城に籠ることとした。古処山城には約2万の兵が籠ることとなったが、たった1日で岩石城を落とした秀吉軍の噂が広まっている。
“あの怪力無双の六兵衛と知恵者の熊見率いる3千がたった一日で落ちてしまったそうだ。敵は20万の軍勢、勝てるはずがない。“
 夕方には大隈城に秀吉軍の大軍が入城するのが古処山城から見えた。夕日を浴びる無数の幟がたなびいているのが見えた。そして、夜には大隈城一帯に広がる篝火の多さに、古処山城全体に厭戦気分が拡がっていった。更に翌日の4月2日、秋月勢を驚かせたのが、前日に棄てた大隈城がたった一夜で真新しい壮麗な城に生まれ変わったことである。
“おおー、大隈城が2層になっている。”
 平屋であった本丸が2層の白壁になっていることが信じられない。これは秀吉が民家の戸板と畳を集めて、壁に白紙を貼って造った見せかけの一夜城であったが、秋月軍の戦意を決定的に挫くことになった。古処山城天守閣から、秋月家棟梁の種実は呆然と一夜城を眺めている。
“恵利よ、お主の忠言を聞いておればよかった。”
 秋月種美は、忠臣恵利暢堯の顔を思い出している。
 
 秋月種美は、迫る秀吉軍の実態を探る為、忠義者の勇将恵利暢堯に偽の使者として、大阪城を出発した秀吉軍へ挨拶するよう命じた。秋月の命を受けた恵利は偽の降服の使者として、九州へ向かって進む豊臣秀吉と、安芸の地でお目通りを果たした。秋月の使者が挨拶に来たと知った秀吉は、あろうことか恵利を快く引見し、更に自分の脇差まで与えた。更に秀吉は大軍20万の軍勢を見ることを許している。太政大臣とは思えぬ豪気な秀吉の応接に恵利はすっかり心服してしまった。
 
 秀吉軍の偵察を果たした恵利はすぐさま古処山城へ戻っていった。そして、秋月種実ら多くの重臣が並ぶ大広間で見聞を披露した。
「上様、豊臣秀吉様の軍勢は確かに20万の軍勢でございました。まもなく、九州へ上陸いたします。」
 恵利は自らの存念を披歴する為、膝を後ろへずらすと伏して進言した。
「上様、この世は間違いなく豊臣秀吉太政大臣の天下となります。島津家と手を組み、九州を手に入れるなど夢のまた夢でございます。どうか、島津家と手をお切りください。太政大臣はまだ間に合う故、臣従すれば領地は安堵すると言うてくれました。」
 畳に伏して、必死に懇請する恵利を皆は冷ややかに見つめている。秋月種実は冷めた顔で恵利をなぶり始めた。
「恵利よ、太刀ひとつで心変わりし、しかも戦を臆するとはな。武士の風上にも置けぬ男であるな。恥を知るがよい。」
 恵利も顔を畳につけながら、あらん限りの声で訴えた。
「上様、上様、秋月家の御為、申し上げます。上方の兵は我が軍を遥かに越える軍勢で鉄砲も多数、何卒秀吉様にご挨拶を。」
 涙を流し訴える恵利に対し、秋月は冷たく言い放った。
「2度と見とうない。臆病者め。」
 主君に臆病と言われた恵利は家へ戻ると妻と2人の娘を連れ出し、城の近くにある大石の脇で刺殺した。そして、家族の死を見届けると、自らも切腹で命を絶ったのだ。わずか7日前の出来事である。
 
 秋月種美は、忠臣恵利の死を激しく悔いている。
“恵里、すまなかった。お主の命を懸けた忠言を聞かなかった故、我が家は滅びる。”
 秋月種実に残された手段は降伏しかない。すぐ、降伏の使者を送ったが、秀吉は自分を嵌めた秋月家を許す気が無い。本陣に到着した秋月家の使者に冷たく言い放ったのだ。
「恵里が豊臣家に臣従するといった話は嘘であったな。我のみならず皇室までも欺き、恵利のような忠臣を自害させる不義理な家など、この世にいらぬ。わしが九州まで来たのは秋月種実と島津忠長の首を獲る為である。はよう、かかってこい。幾らでも相手になってやろう。」
 復命した使者の話を聞き、秋月種美は絶句した。
”もはや手はない。このまま朽ちるのか・・・。”
 秋月家が負けると察した国人衆は次々と古処山城を降りていく。もし、合戦となれば、このまま秋月家は晒し者になるのは間違いがない。秋月種実は捨て身の思いで豊臣秀吉に謝ろうと考え、息子の種長と相談をした。
「秀吉は茶道具に目がないと聞いております。父上、楢柴を秀吉に献上いたしましょう。」
「種長、あれは私の命である。・・・出さねばならぬか。」
「父上、楢柴はもともと父上が島井宗室から強引に取り上げた茶道具。そのようなもの秀吉にくれてやればよいのです。」
 この楢柴肩衝は織田信長も大友宗麟も欲しがった大名物である。筑前にて勢威を奮うようになった秋月種美は、博多商人島井宗室からこの楢柴肩衝を脅して手に入れている。秋月種美は代りにわずか小豆百俵を送って、島井宗室の文句を強引に封じた代物である。
「わかった。小豆百俵の茶道具と考えればよいかな。よかろう。」
「それから、竜子を人質として出さねばなりませぬ。」
 秋月竜子は16歳となる愛娘で、近隣諸国に見目麗しい娘として知られている。
「竜子を・・・、我が娘であるぞ。お主は酷い。」
「いや、出さねばなりませぬ。秀吉は名家の娘を好いております。都でも公家娘を沢山手に入れております。」
 秋月種実はうなだれて、眼は虚空で泳いでいる。
「それでも許してもらえねば、秋月家はおしまいであるな。」
 翌日、秀吉が陣取る大隈城へ秋月種実・種長・竜子の3人が挨拶に伺うことが決まった。
 
 4月3日早朝、秋月家一行は古処山城を出発した。大隈城手前で、秋月家一行は秀吉軍見回りの兵に何度も止められた。
“その方たちは何者であるか。”
“秋月家でございます。”
 誰何した兵は皆に聞こえるよう大声で広めた。
“秋月家が参っておる。戦はせずに、挨拶らしいぞ。”
 どっと沸く秀吉の陣を割って、大隈城大手門へ向かった。すると、秀吉は古処山城周りの見廻りに出ているとのことであった。

 秋月家一行は引き返して、途中の見晴らしの良い田畑周りで待っていると遠くから人馬の声が響いてきた。彼方に秀吉の大行列が見える。秋月家一行は立って待っていたが、行列が近づくと地に膝を付け、頭を垂れた。秋月家一行がここで待っていることは既に知っているはずだが、秀吉の大行列はそのまま大隈城へ進み、止まる気配がない。
 焦った秋月種実は行列にすがり、息子と愛娘は頭を地面にこすり続けた。すると行列が止まり、十間ほど先の輿から秀吉が顔を出した。
「坊主頭に墨流しの衣とは形ばかりであるな。」
 秀吉の一喝であったが、種月種実もここが切所と思い、一気にまくしたてた。
「御憐憫を賜わりたいと思い、参った次第でございます。今までの所業を悔い改め、何卒ご奉公させて頂きたいと存じます。」
 秀吉も大声で応じる。
「お主のように向背ならぬ者など・・・。岩石城でも我らに刃向ってきたではないか。」
「あの戦で全て分りました。我らを何卒、御陣に加えて頂きとうございます。」
「信用できぬ。」
 秀吉は明らかに不機嫌であった。種月種実の袖を平伏する種長が引っ張った。楢柴を出すのは今しかない。
「是非とも献上したい茶道具がございます。」
 ずっと芝居を続けてきた秀吉は、こらえきれずにその茶道具の名前を出した。
「楢柴であろうな。」
「はい。」
 種月種美は十間先にある秀吉の輿へと近づいて行った。そして、両手で恭しく楢柴を献上した。秀吉は今まで隠してきた感情を露わにした。
 満面の笑顔で楢柴を取り上げ、天にかざした。たおやかな丸みと艶やかな釉薬が映える肩衝の茶入れである。
 
 楢柴の姿を堪能した秀吉は楢柴を近習に渡した。表情がすっかり柔らかくなった秀吉に秋月種実は更に媚態を重ねた。
「秀吉様、まだ献上したいものがございます。我が娘竜子でございます。」
 秀吉は秋月種実の後ろに控える黒染めの絹をまとった娘を凝視した。
「面を上げい。」
 竜子は焦れるような遅さで顔を上げた。竜子の世界は全てこれから変わっていく。竜子の視線は地面からゆっくり野端の雑草、輿を担ぐ近習、そして輿、最後に公家姿の男が見えた。思い描いた武者姿ではなかった。
 黒光りする顔で、眼光の鋭い小男であった。
「ほー。」
 秀吉が長嘆息するほど見目麗しい娘であった。無言の時間が流れていく。
「秀吉様、他に金百両、米2千石を献上します。」
 最後のしわい内容に近習たちは目を合わせた。
”さすが、楢柴を小豆百表でとりあげた男である。”
 最後の申し出に秀吉は我慢ならなくなった。
”この男はまだ分らぬな、わしならば城ごと差し出してみせように。だが、楢柴を手に入れれば、今回の九州出陣の半分は成功であるな。”
 秀吉は一息整えると、皆に聞こえるよう大声を発した。
「よろしい、許そう。」
 安堵した秋月種実は泣いて、額を地面にこすり付けた。
「島津攻めの先鋒を申し付ける。」
「はっ。」
 秀吉はふと、平伏する秋月種美の嫡子種長の姿を捉えた。
「種長よ、お主は謡がうまいと聞いておる。」
 突然の問いかけに種長は体が硬直した。
「いえ、そのような事は。」
「おい、皆、謡を聞こまい。さあ、唄え!」
 豊臣秀吉のみならず、足軽や下賤の者たちがいる道中で謡を唄うなど、旅芸人でも行わぬ辱めである。今度は父親の秋月種実が種長の袖を引っ張った。もう歌うしか術はない。涙ながらに唄った哀しい調べは半刻ほど続いた。秀吉は歌を遮ると大声で言い放った。
「謡の褒美は金百両、米二千石。それから、本陣は古処山城とする。よいな。」
 もはや、秀吉の下命には一切逆らえない。秀吉はこの日の夕刻には古処山城に入り、島津攻めの思案を始めた。

 翌朝、立花統虎は3千人の兵と古処山城へ入城した。
 統虎が豊臣秀吉に謁見するのは、今日が初めてである。立花三河からは岩石城や一夜城の話などを既に聞かされている。上方の圧倒的な攻めと見事な駆け引きにはすっかり感服させられてしまった。
 立花統虎が謁見の控えの間で神妙に待っているとどやどやと音がして、急に障子が開いた。赤い小袖を羽織った小男である。統虎はとっさに秀吉だと思い、平伏した。
「立花統虎でございます。」
 統虎の挨拶する姿を秀吉は凝視している。
”うむ、この男、わしが想像していた通りの男である。よい面構え。気に入ったわ。”
「統虎殿、父の戦い様も見事であったが、お主のその後の働きも見事であった。よい、こちらへ来い。皆に会わせる。」
 有無を言わせず、統虎を引っ張り出して、廊下を進んだ。先の大広間には秀吉に服する大名たちが控えている。突然の秀吉の登場であったが、皆平伏し、上座に秀吉が上がるのを待った。秀吉は統虎の裾を持ったまま、上座まで引っ張っていった。
「皆の者、これよりこの者の顔を覚えるがよい!立花統虎じゃ!」
 控える大名から一斉に喊声が上がった。既に立花統虎の侠ぶりは上方からやってきた百戦錬磨の大名達にも知れ渡っている。
「統虎は島津6万の軍勢を相手に、7百の兵と岩屋城で散った高橋紹運の倅である。高橋紹運の戦ぶりも天晴であったが、島津勢が引く機を逃さず、統虎はわずかの兵で追撃し、岩屋城・宝満城を奪い返した忠義の武将である。この武勇の働きは九州の一物、鎮西一であろう。」
 豊臣秀吉は初めて会った立花統虎を激賞した。また、居並ぶ大名たちも若く頼もしい立花統虎の姿を羨望のまなざしで見ている。
 秀吉がここまで若武者を褒めちぎったことは今までにないことである。立花統虎の精悍な面構えと眼差し、稽古の賜物であろう逞しい体躯、そして岩屋城・宝満城を奪い返した器量、全てに大名達は満足している。ただ、秀吉の激賞にすっかり統虎は恐縮してしまった。その姿もいじらしく、男の侠気を誘うものである。
 更に秀吉は近侍に命じ、甲冑・陣羽織・太刀一振りと愛用の鞍と葦毛の駿馬を用意し、統虎に与えた。
「このような・・・。」
 恐縮する統虎に秀吉は更に続けた。
「統虎よ、島津攻めの先陣に立て。更に手柄を立てるがよい。」
「有難きお言葉、必ずやご期待に添える戦いをお見せします。」
 満面の笑みを見せ、秀吉は去っていった。すると立花統虎の周りには高名な大名達が集まり、それぞれに挨拶を始めた。福島正則、細川忠興、池田輝政、堀秀政、蒲生氏郷、前田利家、加藤清正など秀吉軍の中核を担う大名たちとこれで面識を得て、統虎の世界は一気に拡がっていった。

 4月11日、筑後高良山から島津家と戦う20万の大軍が薩摩へ南下していく。その露払いをするのが、ここ九州の地で豊臣秀吉に臣従した大名たちである。
 立花統虎を筆頭に龍造寺政家、秋月種実、筑紫広門らの幟を見た九州の国人衆たちは次々と臣従を申し出てきた。豊臣軍への押さえになるはずと島津家が頼りにしていた隈本城の城氏も何の抵抗も見せずに豊臣軍に隈本城を渡している。
 
 時を同じく、九州の東方では秀吉の異父弟秀長が毛利家・小早川家・黒田家・宇喜多家などの先発軍10万を率い、薩摩を目指している。豊後国府内を占領していた島津軍は10万の大軍との戦いを避け、日向国に3万5千の軍勢を移動させた。耳川の戦いで大友勢を殲滅した天嶮の要害、高城で豊臣軍を待ち受けることとした。
 
 豊臣秀長は耳川の戦いで島津軍が如何に大友勢を破ったか、既に調べている。慎重な秀長には大軍ゆえの驕りも慢心も無い。耳川を越えた豊臣軍はすぐさま高城を包囲し、攻城用の砦などを設けて攻め始めた。この豊臣軍の分厚い攻めに閉口した島津義久は、兄弟の義弘と家久に高城南にある根白坂砦から豊臣軍への夜襲を命じた。下知通り島津兵は夜襲を仕掛けたが、手堅い戦で知られる豊臣秀長の守将・宮部継潤は浮足立つこともなく、空堀に篝火を焚き、鉄砲隊を並べ、攻めかかる島津軍を狙い撃ちにしていった。
 島津の兵は撃たれても怯むことなく、突撃を繰り返すが、空堀にどんどん島津兵の遺骸が積み重なっていった。
 また、激しい攻防に豊臣方の黒田・小早川隊も援軍に駆け付けた。その為、島津兵は8百余の兵を失ってしまったのだ。夜襲を退けた秀長はそのまま高城に総攻撃を仕掛け、4月28日高城は島津軍千人の死と共に落城した。
 
 高城のあっけない落城で島津義久は、豊臣軍への降服を決断した。重臣の中には徹底抗戦と決戦を唱え続ける者も多かったが、義久は島津家と家臣の為に秀長の陣を訪れ、降伏を申し出ている。豊臣軍への人質には上方で茶人・教養人として知れている伊集院忠棟を差出した。また、立花統虎が求めていた直次夫妻の引き渡しにも応じた。

 4月29日、薩摩国川内に到着した豊臣軍先鋒の立花統虎の下に、祁答院に軟禁されてきた人質の立花直次夫妻が連れてこられた。憔悴しきった表情を浮かべる高橋直次に、兄の統虎は優しく話しかけた。
「敵陣で過ごした日々は辛かったであろう。母上が立花城で帰りを待っておられる。」
「兄上、自分のしくじりで兄上にも秀吉様にもご迷惑を・・・。」
「直次、そのような事を言うでない。直次のお陰で、岩屋城で命を燃やした兵たちの家族が守られたのだ。直次は悔いておるかもしれぬが、父上が望んだことは全て叶えられた。これからは直次が父上の名高橋を継がねばならぬ。皆が岩屋城で待っておるぞ。」
 直次は囚われている間ずっと後悔ばかりであったが、兄統虎の言葉で全て救われた。
「兄上。これより、父に代り高橋家を率いて参ります。」
 改めて、兄弟の絆を紡いだ2人であった。
 
 5月8日、南国特有の暑い日差しが照りつけている。豊臣秀吉が本陣を構える薩摩太平寺に島津義久が僅か15人の従者を引き連れ参上した。義久は僧形姿に墨染の衣を羽織り、名も龍伯と改めている。神妙な面持ちで太平寺の門をくぐると玄関を上がるのを許されず、そのまま白砂が広がる庭に通され、莚に座らされた。義久は大広間の上座に現れた豊臣秀吉に対し、ずっと平伏を続けている。今日の応接で島津家の将来が決まる覚悟である。
「義久、顔を上げるがよい。」
 大広間の奥には公家衣装で歯に鉄漿を塗った小柄な秀吉の姿があった。秀吉は温和な表情を浮かべている。近くに控える近習に命じ、義久は白砂から縁側まで引き上げられた。
 秀吉は島津義久を稀な器量を持つ大名と見ている。何としてでも義久の心を掴みたいと考えている。ふつう降将が敵の大将に挨拶する時には刀を身に付けない。だが、秀吉は自らの佩刀を義久にすっと差しだした。
「義久殿、お腰が寂しいのう。これを身に付けるがよい。それから、薩摩を安堵する。よいかな。」
 予期せぬ厚情である。義久は秀吉の並外れた度量に感服し、平伏した。
“このような男であるのを知っておれば、最初から臣従しておった。”
 侠気を認めた義久は、これより秀吉に心から仕える決意を固めた。

 天正15年(1587)5月、島津征伐を終えた豊臣秀吉は悠々と九州を北上していく。畿内・中国・四国を制し、徳川家康を臣従させた後、こうして九州を完全に制した。残るは関東のみである。
 豊臣家に刃向っているのは北条氏とまだ勢威が届かない奥羽となっている。織田信長も果たせなった天下統一まで残り僅かである。秀吉は国内制覇を果たした後に、朝鮮と明への出兵を考えている。その為、西国一の貿易港博多を豊臣家直轄領とするつもりである。
 
 博多に滞在する秀吉の下に九州への出兵を懇願した大友宗麟が5月23日に豊後国津久見で亡くなったという報せが届いた。腹を下し、体力が尽きての衰弱死であった。秀吉は大友宗麟の申し出で九州征伐の大義名分を得て、九州を手に入れた。
 大友宗麟が生きていれば、日向国を任せるつもりであったが、大友家棟梁を継いだ息子の義統は愚物と専らの評判である。今回の九州征伐の論功行賞を思案していた秀吉は、宗麟の死で大友家の領国を減らすことと決した。
 
 一時期は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の6カ国を領国とし、九州の覇者となった大友宗麟はキリスト教の布教に傾倒し、熱心に南蛮貿易を行い、天正遣欧少年使節も派遣した。敬虔な切支丹として命を終えた大友宗麟の遺骸は、キリスト教の教義の下で葬られた。
 1か月後の6月19日、秀吉が発した伴天連追放令とキリスト教への弾圧を思えば、幸せな最期であった。ただ、息子の義統は伴天連追放令に怯えてしまい、父宗麟が葬られたキリスト墓を破壊し、改めて仏式の葬儀を行った。父宗麟の墓を壊した愚かな行為は家臣のみならず多くの大名から不興を買った。
 
 5月28日、博多に戻った秀吉は大宰府を見下ろす岩屋城に黒田官兵衛、立花統虎、高橋直次と共に登った。焼けて散った高櫓など激戦の跡が残る大手門をくぐり、急坂を登っていく。ところどころに大石や折れた弓、三の丸の残骸など転がっている。
 本丸がある四天寺山の高台に辿りつくと筑紫野と山々が連なる心地良い景色が広がっている。眼下には古から栄える大宰府が鎮座している。秀吉は本丸の中には入らず、ぐるりと一周した後、統虎に話しかけた。
 「統虎殿、紹運殿はこの城でよく5万の島津軍を20日も食い止めたものだ。・・・見事な采配であったな。」
 父の奮戦を称えてくれた秀吉に立花統虎、高橋直次は頭を下げ続けた。
 「頭を上げよ。これよりはこの秀吉の為に力を貸してもらう。よいな。」
 「はい。」
 統虎、直次が答えると、秀吉は更に言葉を続けた。
 「この秀吉の下に大友家・小早川家・島津家も臣従する。お主らはこの九州の地で、私の代りを務める小早川家を支えてもらう。」
 「はい。」
 「それから、島津家との遺恨が残らぬよう、お主らは今日一緒に島津龍伯との茶会に出るがよい。よいな。」
 有無を言わさぬ秀吉の言葉であった。
 
 その夜、立花統虎と高橋直次は、豊臣秀吉立ち会いの下、龍伯と名を改めた島津家棟梁島津義久、岩屋城の戦いで大将を務めた伊集院忠棟らと会うこととなった。この茶会には茶のみならず、酒やいくつもの華やかな膳が並んでいる。舌の肥えた秀吉も玄界灘の魚づくしの料理には喜んだ。
 立花統虎と高橋直次の眼の前には父の命を奪った仇ともいえる伊集院忠棟が座っている。そして、横に座るのは僧形姿の島津義久である。食事があらかた終わったところで秀吉は伊集院へ言葉を掛けた。
「伊集院よ、岩屋城の物語をしてくれぬか。」
 伊集院忠棟は威儀を正して、秀吉の方へ身体を向け、話を始めた。お互いが信じる意地の為に命を懸けた合戦である。伊集院忠棟は高橋紹運の見事な采配、島津軍の苦悩と膨大な被害を語った。
 そして、最期は城に火をかけずに首を拾わせた男の作法を語った。伊集院忠棟が敵である高橋紹運に敬意を表し、死を惜しんで語る姿に、統虎と直次にある恩讐は全て霧散した。統虎はこの茶会を機に島津家と永く厚い好誼を交わすこととなる。
 
 翌日、秀吉は博多の箱崎八幡宮で九州の国割りを知らせた。

佐々成政  肥後国50万石
黒田官兵衛 豊前6郡12万5千石
小早川隆景 筑前・筑後2郡・肥前2郡の約37万石
立花宗茂  筑後柳河城13万2千石
高橋直次  筑後三池郡 1万石
大友義統  豊後一国と豊前宇佐半郡
龍造寺政家 肥前国所領を安堵
島津義久  安堵した薩摩国に加え大隅国、日向国の一部
 
 秀吉は事前に耳打ちした通り、立花宗茂と高橋直次は、貿易港博多を差配する小早川隆景の与力として筑前国にそのまま配した。ただ、立花城は筑前を治める小早川隆景に引き渡すことになり、代わりに柳河城が立花家に渡されることとなった。立花城を渡さねばならぬことは残念であるが、秀吉が決めた天下の政に逆らう訳には参らない。立花宗茂は全てを受け入れた。
 
 この国割りで皆が驚いたのが、島津家の国割りである。秀吉は九州征伐の敵島津家に、寛大な心を見せている。薩摩国を安堵したのに加え、大隅国と日向国の一部を与えた。
 島津家はこの厚恩を深く感謝し、豊臣秀吉への臣従を誓うようになった。一方で秀吉は容赦ない仕置きも行っている。
 筑前36万石の秋月種実をわずか3万石の日向櫛間に移封した他、島津家との戦で大敗した仙石秀久を改易し、高野山へ追放した。多くの大名は秀吉のこの差配に満足した。
 
 秀吉は立花統虎に、筑前を治めることになった小早川隆景に立花城を引き渡し、筑後国柳川へ移封するよう命じた。この報せに統虎は、引き渡しも移封も致し方ないと理解している。
“筑前を守るのは豊臣家に前より臣従する小早川家、それ故立花城城主になるのは必定。”
 ただ、秀吉も立花統虎の戦功は高く評価している。立花道雪は筑後国柳川を任せ、道雪も落とせなかった柳河城を立花統虎の居城とするように命じた。また、黒田官兵衛様の石高12万石よりも多い石高13万2千国を与えている。
“秀吉様へのご恩に報いねばなるまい。”
 全ては秀吉の期待の表れである。統虎はこの篤い義理を忘れることは無かった。

 統虎は久々に立花城へ戻っている。既に立花三河が由布雪下、小野和泉に新しい国割りを伝えている。久々の筑紫野を北上していると田畑で汗を流す農民たちが統虎一行に気づき、次々と近寄り、平伏してきた。
“おめでとうございます。お館様、おめでとうございます。”
 統虎に信頼を寄せる農民たちは九州征伐の勝利を一緒に喜んだ。立花道雪の頃より続く仁政で、農民たちと深い絆で結ばれているのが統虎の誇りであった。道雪は近寄ってきた農民たちに笑みを浮かべ、挨拶に応えた。
 
 まもなくで目指す立花城である。統虎は馬に揺られながら、立花山を見ている。3つのこぶが並び、西側の一番高い井楼岳に本城の立花城、北西の白岳・松尾岳にも出城があり、全てが石垣でつながれた難攻不落の山城である。
 立花道雪と共に過ごし、世戸口十兵衛と稽古に明け暮れた日々が思い出される。この立花城から離れる日が来るのは信じ難いことであるが、立花家はこれより豊臣秀吉を支える大名として、柳河城へ移らねばならない。立花城の大手門では、由布雪下、小野和泉や遠征軍の家族が待ち受けていた。皆が統虎の凱旋を喜んで迎えた。
「殿、長き出陣お疲れ様でございました。また、御加増おめでとうございます。」
 頭を下げる由布雪下と小野和泉の姿に統虎も馬を降りた。
「雪下、和泉、留守の間は良く仕切ってくれたな。礼を言う。」
 道雪の死から岩屋城の戦い、島津軍との駆け引きと島津軍の追撃、高鳥居城の攻防、そして岩屋城・宝満城の奪還へと采配を振るった立花統虎に、由布雪下と小野和泉は類稀な器量を認めている。親子ほど年は離れているが、この戦を通じ、改めて深い主従の絆を紡いだのだ。統虎も由布雪下と小野和泉の変化を感じている。
 この厳しく辛い戦を通じて、本当の主従になることが出来たという感慨で胸が一杯になっている。言葉を交わさなくても、信頼できる関係になれたことが統虎は嬉しかった。その統虎に由布雪下が話しかけてきた。
「殿、柳河城の件でお話が・・・。」
「うむ、皆に話をせねばならないと思っていた。秀吉様からはすぐに移れとの思し召しがあった。」
 実際、翌日に柳河城受取りの命が出され、小野和泉が明後日柳河城へ向かうことになる。
「我らはそのつもりでございます。・・・大変申し上げにくいですが・・・・。」
「雪下が言いにくいとは・・・・何であるか?」
「誾千代姫が柳河城に移らぬとおっしゃっております。」
 統虎は顔が真っ赤になるのが分った。夫婦の事で父の代から仕える宿老に面倒を掛けることは堪らなく恥ずかしい。統虎はすぐさま誾千代姫の館を訪ねていった。

 誾千代姫の館へと急いだ統虎であったが、館の手前で生い茂る竹林の前で統虎は歩みを止めた。岩屋城落城から久方ぶりの誾千代姫との対面である。誾千代姫が女衆と稽古を重ね、統虎の父高橋紹運の敵討ちに出陣したいと統虎に訴えたのが10か月前、統虎はその訴えを黙殺したまま、島津軍と戦ってきた。
“主君の命を聞けぬとは如何なものか。”
 昔より慣れ親しんだ立花城から去るのは寂しいことであろうが、秀吉の下命には逆らえない。統虎は誾千代姫の心を正直測りかねているが、話をせねばなるまい。
 意を決し、竹林を抜けると館の入り口には艶やかな小袖を羽織った誾千代姫が平伏している。隣には女中頭の静が控え、統虎を迎え入れた。
「殿、おめでとうございます。さあ、どうぞ。」
 言葉と裏腹な静の冷たさが統虎に突き刺さった。
「うむ。」
 そのまま、誾千代姫の部屋で豪奢な夜の膳を給仕されたが、誾千代姫は一切言葉を発しない。久々の誾千代姫の横顔は美しく気高いが、尖った気持ちばかりで、統虎も声を掛けられずにいる。黙々と食事を食べ終わると、誾千代姫は無言で膳を片付けた。
 そして、統虎の正面に誾千代姫は座ると、意を決して話を始めた。
「殿、柳河城へ立花家は移ると聞きました。本当でございましょうか?」
「間違いない。豊臣秀吉様が私に柳河城13万2千石を任せると決められた。戦功が認められ、思いも寄らぬ石高を頂いた。秀吉様のご厚情に報わねばなるまい。」
「そうでございますか?この立花城は如何なるのでしょうか?」
「小早川隆景様が筑前・筑後・肥前約37万石を治める。この立花城も小早川様が治めるようになる。」
「小早川家はそもそも立花家の敵でございました。それに小早川家が博多を仕切るとも聞いております。今まで立花家が博多を守ってきたはずでございます。それと立花家は小早川家の与力になるとも聞いております。如何でございますか。」
「言う通りである。不服か?」
 統虎は憮然とした表情で言い放つと、誾千代姫の言葉は激しくなった。
「立花の名前は立花城そのもの、そのように私は考えております。その立花城を人に委ねる日が来るとは思ってもいませんでした。戦に勝って、何故そのような事になるのですか?戦に勝って、博多がどうして立花家ではなく、小早川家が仕切るようになるのですか?殿、教えてください。」
「誾千代、分らない訳は無いであろう。道雪様が忠節を尽くしたのは大友家である。その大友家から拝領したのが、この立花城。そして今、天下は豊臣秀吉様のもの、秀吉様の一存で柳河城を拝領するのだ。柳河城はそなたの父道雪様も落とすことが出来なかった城であるぞ。それでもまだ言うのか。」
 誾千代姫は唇を閉ざして、言葉を出すのを避けた。これ以上、何か話をすると更に話は酷くなってしまう。誾千代姫は世の道理も戦国の主従も十分に理解している。
 だが、10か月も統虎に会えなかった感情が噴き出してしまう。
「私は何が何でも行きとうございませぬ。最後までここに居続けます。殿が何と言おうと最後までここにおります。もう何も聞きとうございません。」
 統虎も誾千代姫の心が塞がっていることに気付かねばならなかったが、世の道理も分からず、自らの軍功に水を差す誾千代姫の言葉に目を吊り上げた。
「勝手にするがよい。誾千代、私は自らの意地と仁義の為に己を捨てて戦い、そして、今日私は帰ってきた。その全てを否定するような話は聞きとうない。」
 統虎は立ち上がり去っていった。統虎が去ったのに気付いた女中頭の静が部屋に入ってきて、涙を流す誾千代姫の肩を支えた。
「誾千代姫様、大丈夫でございますか。」
「静、せっかく殿がいらっしゃったのに我慢ならず・・・・・。」
「聞いておりました。このお城を引き渡すことを責めておられましたね。」
「静、聞いていたのですか。静、どうすれば・・・・。」
 泣き崩れる誾千代姫の頭を撫でながら、静はささやいた。
「明日、御殿様の下へ伺い、謝りましょう。それしかございません。私も附いて参ります。一緒に参りましょう。」
 だが統虎は、翌日朝より秀吉のいる箱崎八幡宮へ伺候し、夫婦の溝が埋まる機会は失われてしまった。小野和泉は柳河城を龍造寺家晴から受け取り、立花城では宿老由布雪下の号令の下、柳河城への引っ越しの準備が進んでいる。
 由布雪下は幼い時より臣従してきた誾千代姫が、柳河城へ行かぬと駄々を捏ねたことに気を揉んでいる。統虎の不在を確認した後、久方ぶりに誾千代姫の館を訪ねた。
「爺、久しぶりであるな。」
 久しぶりの誾千代姫の軒高な姿である。変わっておらぬ姿に由布雪下も昔のように接した。
「姫もお元気そうで。」
「元気ではない。爺、爺が立花城を出る準備を指揮しているのか。」
「はい、これよりは豊臣家の天下、その天下を支える為に柳河城へ移らねば参りませぬ。姫もどうぞ荷物をまとめてください。どうか、お願いいたします。」
 由布雪下は頭を下げ、意地を張る誾千代姫をなだめた。
「爺がそこまで言うのであれば移ろう。ただ、条件がある。よいか。」
「はっ、何でございましょう。」
「父の眠る梅岳寺を柳河城まで移して頂きたい。よいですか。」
 立花城の西南に位置する梅岳寺は立花道雪が眠る菩提寺である。由布雪下は梅岳寺の引っ越しまで気が回っていなかっただけに、誾千代姫の言葉通りに引っ越しの差配をした。
「姫、教えて頂きありがとうございます。」
「私は最後に父の位牌と柳河城へ参ります。よいですね。」
 有無を言わせぬ誾千代姫の態度に由布雪下も了解せざるを得なかった。

 天正15年(1587)6月15日、雨がさめざめと降る中、立花統虎と家臣たちは慣れ親しんだ立花城を後にした。
 目指すは筑後国柳河城である。岩屋城から立花家へ婿入りした時より供として仕えてきた世戸口十兵衛と太田久作はこころなしか顔が上気しているようである。柳河で6年ぶりに再び家族と一緒に暮らせるようになるからであろう。統虎はそのことをずっと気に揉んできただけに救われる思いである。
 気がかりは誾千代姫の態度である。柳河城へは一番最後に引っ越すという報せを由布雪下から聞いている。このことが統虎の心を曇らせている。
 そんな統虎であったが、街道に連なって涙で見送る農民たちの姿には心救われた。筑紫野の畦道にはこの先もずっと農民たちの姿が並んでいる。皆、道雪と同じく、仁政を施してくれた若き領主に感謝している。立花一行に向かい、ずっと拝み続ける者から泣き崩れる者までさまざまである。統虎はそんな姿を見ながら、これより先の筑後国柳河でも仁政を施し、農民らを慈しんでいかねばならぬと決したのだ。
 
 立花一行は半日ほどで柳河城へ到着した。幾重にも囲む水濠を迂回して進み、ようやく柳河城の大手門へとたどり着いた。皆が、改めて柳河城の堅城ぶりを肌に感じている。
“これは良き城であるな。”
 気持ちを新たに皆、新しい屋敷へと急ぎ、引っ越しを終えた。道雪は柳河城に到着すると、そのまま豊臣秀吉の本陣箱崎八幡宮へと向かった。
 統虎は、秀吉が博多に留まる間は、時間の許す限り伺候する考えでいる。
 
 秀吉は九州の仕置きを終わらせるべく、精力的に動き、島津軍が焼き討ちした博多の町を見廻っている。
“この博多を早く再興せねばならぬな。”
 秀吉は、天下統一の先にある朝鮮と明への出兵に大きな支障になると考えた。
 
 それで秀吉は、秀吉軍を支えた博多の豪商神屋宗湛と島井宗室を何度も千利休が開く茶会に呼んだ。島井宗室は大友宗麟が九州一の大名であった頃から、南蛮・朝鮮・明などの海外貿易で巨万の富を稼ぎ、大名とも対等に渡り合ってきている。秀吉は、島井宗室の胆力と行動力を買っており、願わくば、商人から大名に取り立てた小西行長と同じように仕えさせたいと考えている。
 ある日、島井宗室が豊臣秀吉の本陣箱崎八幡宮の中での灯籠堂に参上した時のことである。同席すると聞いていた千利休も神屋宗湛もおらず、豊臣秀吉が主人となって、2人きりの茶会が始まった。千利休の茶会の凛とした空気、切れのある端麗な手さばきとは違い、秀吉が主人となった茶はどこか泰然として懐の深さが感じられようである。
 秀吉は井戸茶碗で茶を点てると、島井宗室に差し出した。
“ぬるい・・・・が、これはたおやかであるな。”
 千利休の熱い茶と違い、秀吉の茶は優しく飲み易い。
“これも天下の茶であるな。”
 数寄者の島井宗室も秀吉の茶の湯の腕前を愛でた。
「秀吉様のお茶は天下一品でございます。」
 秀吉はその言葉を受け流し、そのまま少し顔を島井宗室に近づけた。
「宗室、これより先、大名になる気はないか。」
 秀吉は宗室が諾と答えるであろうと思っていたが、思いもかけぬ宗室の返事に驚いた。
「秀吉様、私は町人で結構でございます。」
「ほー。」
 自分の見込み違いと知った秀吉は質問を変えた。この博多商人の骨折りがなければ、九州征伐の移動と兵站は相当困っていたはずである。
「宗室、九州の御礼に何か褒美はいらぬか?」
「秀吉様の有難いお言葉、それでは申し上げます。あちらに見える海を何卒ご拝領いただけないでしょうか?」
 茶室の開け放たれた障子からは、帆を掲げた船が行きかう博多湾が見えている。
「宗室よ、よくもそのような坊主姿で望んだものであるな。では武士になるか?」
 あまりにもふてぶてしい答えに一瞬秀吉の顔に陰が走った。
「秀吉様、それはご容赦を。武士になるのは嫌でございます。」
 思い切り頭を下げた滑稽な宗室の姿に秀吉は噴き出した。
「ならば、お主の望みは叶える訳には参らん。話にならぬ。」
 秀吉は大声で笑ったのだ。宗室は、秀吉が命じるがままに動く武士になる気は毛頭なかった。むしろ自分の思いがままに生きる商人であることを望んだのだ。秀吉は国外に精通する島井宗室を完全に取り込むことは出来なかったが、この島井宗室と神屋宗湛を使って、朝鮮と明への出兵の為に博多を再興させるつもりでいる。
 島井宗室も何とか秀吉に取り入り、この博多を日本最大の商都にしたいと考えている。秀吉は博多再生の為に町を楽市楽座とし、博多商人の牽引役となる島井宗室と神屋宗湛に表13間半、奥30間の屋敷地を与え、丁役を永久に免除した。
 そして、秀吉は信頼する黒田官兵衛と石田三成と共に、博多の新たな町割りを急がせた。

  秀吉は九州平定を機に、亡くなった主君織田信長が許してきたキリスト教の布教を見直すこととした。発端は博多港に停泊するポルトガル船の見学であった。見学の案内はイエズス会を代表して宣教師ガスパール・コエリョが行ったが、彼にはこの国でもっと信徒を増やしたいという思いがある。
 ガスパールは、天下を握った豊臣秀吉に対し、九州のキリシタン大名大友家、平戸の大村家、島原の有馬家との関係と信徒の多さを誇った。また、大砲を搭載したポルトガル船を誇ったことも秀吉の機嫌を損ねてしまう。
 その後、イエズス会が日本人を奴隷として、奴隷貿易に関わっていることも掴んだ秀吉は徹底的にイエズス会を調べ上げた。長崎を支配する大村純忠の領国ではキリスト教信者による寺社の破壊が進み、借金で長崎の良港がポルトガル領になっている。
 将来を憂う秀吉はキリスト教との決別を決めた。織田信長に仕えていた秀吉は、一向宗や比叡山などの信徒が激しく抵抗したのが脳裏に残っている。死を覚悟した農民と戦うほど、虚しい戦はない。秀吉は、異国の宗教がこの日本 の地で広がるのを禁ずることとした。

 天正15年(1587)6月19日、秀吉はバテレン追放令を世に布告した。
 “神国日本でのキリスト教布教の禁止、領民などが集団で信徒になること、神社仏閣の打ちこわしの禁止、宣教師の20日以内の国外退去”など。
 この追放令で、切支丹が多い九州はすぐ大変な騒ぎとなった。多くの切支丹を抱える大友家やキリシタン大名は秀吉に反発を覚えたが、表立って秀吉に抵抗する者は誰一人いなかった。秀吉はこのバテレン追放令を出した後、大阪城へ戻っている。
 
 秀吉が博多箱崎八幡宮に滞在した約1か月間、立花統虎は出来る限り秀吉の傍に伺候した。統虎はその間に秀吉が見せた豪気な振る舞いや話の巧みさ、一瞬垣間見せる凄みや間合いにすっかり魅了されてしまった。自分の周りには一本気な武将ばかりであったので、秀吉のように懐が深く、底が知れない人物には会ったことが無かった。
“まさに天下人であるな。”
 統虎は、尊崇する秀吉を一生支える考えである。一方の立花統虎も、百戦錬磨の大名たちから好意を持って迎えられている。
 高橋紹運の仇を晴らした勇猛さと堂々とした若武者ぶりが、九州に出陣した大名たちの心を掴んだのだ。秀吉と多くの大名が立花統虎という若き大名に大きな期待をかけている。

 その統虎は筑後柳河城の治政に力を注いでいる。他国との合戦に備え、今まで立花家を支えてくれた重臣を柳河城支城に配し、人心の掌握に努めた。
 小野和泉 知行5千石   柳河城すぐ北の蒲池城
 立花三河 知行4千石   城島城
 由布雪下 知行3千5百石 博多への街道脇の要衝酒見城
 その他同族の立花三左衛門を知行3千5百石にするなど、13万2千石の大名に相応しい体制としたのだ。そして、隣国に配された知行1万石の高橋直次とともに、筑前国博多を治める小早川隆景を支えたのだ。
 また、統虎は立花道雪・高橋紹運と同じく、農民たちに仁政を施している。積極的に新しい領国を廻り、気軽に農民たちに声を掛けたのだ。前領主の龍造寺家はほとんど田畑の見回りなどしなかっただけに、若き領主の懸命な姿に皆が惹かれていく。
“今日も御殿様は見回りでございますな。”
 近習を連れて、筑紫野を歩く統虎の姿に、自然と農民たちが集まって、頭を下げる。
“ご苦労であるな。米はどうであるか?”
 統虎が尋ねると、最初は畏れ多いと返答を渋っていた農民たちも、少しずつ若き領主に心を開いていった。
 
 慈悲溢れる心で領国を治める大名もいれば、武力で従えようとする大名もいる。隣国の肥後新領主となったのは佐々成政である。佐々成政は織田信長に3万石で仕え、信長亡き後は柴田勝家と共に秀吉の敵となった勇将である。
 その後降伏した佐々成政は秀吉の御伽衆となったが、今回の九州征伐で戦功を重ね、肥後50万石を任されることとなった。肥後は昔から多くの国人衆が離合集散し、争いを繰り返してきた統治の難しい国である。秀吉は佐々成政に、3年は肥後の検地をしなくても良いと命じた。
 だが、佐々成政は領主として自分の力を誇示したいと考え、検地を強行すると、国人衆は一斉に反旗を翻したのだ。
 佐々成政は隈府城に籠った隈部親永を攻めて反乱を鎮めたが、親永の子親泰は山鹿城の有働氏らと肥後国北に位置する要衝の平山城を囲んで、兵糧攻めで完全に孤立させた。天正15年(1587)7月、佐々成政は何とか平山城に援軍を送りたいと準備をしたが、自らの居城隈本城(熊本城)が国人衆と一揆勢に急襲され、やむなく肥前の龍造寺家重臣鍋島直茂に援軍を頼んだ。
 
 戦巧者・智将と名高い鍋島直茂はすぐ7千の兵と兵糧を持って出陣した。早く反乱を治め、大阪城へと戻った豊臣秀吉へ自らを売り込む考えである。だが、鍋島軍は散々な目に遭ってしまう。たかが、国人衆と一揆衆と侮った鍋島軍は偵察も出さず、平山城を目指した。その長く伸びきった隊列が敵の鉄砲隊に襲撃され、多くの死傷者を出すと同時に、兵糧は全て奪われてしまった。
 この鍋島勢の敗戦で、肥後一揆の話が九州と畿内に広まった。九州征伐が終わったと思った矢先の反乱に、豊臣秀吉はすぐ手を打った。小早川秀包を大将に命じ、安国寺恵瓊、そして立花統虎、高橋直次などの諸将に肥後征伐に向かうよう命じた。
 9月、隣国の統虎は小野和泉・由布雪下の勇将、そして十時摂津に世戸口十兵衛ら8百名の精兵を引き連れ出陣した。この行軍に弟直次軍3百名、兵糧の荷駄を運ぶ人足50人が加わった。統虎は、平山城1里手前で全軍を休ませ、十時摂津に偵察を命じた。
 
 鍋島軍は7千の軍勢で敗れたが、国人と一揆衆を烏合の衆と侮ったのが敗因と見ている。本来であれば、大将の小早川秀包や安国寺恵瓊などの征伐軍がこの肥後国に到着するのを待たねばならない。だが、統虎は何とか飢えに苦しむ平山城に食料を運び込むつもりである。統虎は十時摂津が偵察から戻ってくると、すぐに由布雪下・小野和泉を本陣に呼び、軍議を始めた。
「摂津、説明せよ。」
「はっ、平山城への道はこの道のみでございます。平山城手前に竹林があり、鍋島勢はこの竹林で伏兵の銃撃を受けて、潰走しました。」
 十時摂津は絵図を使って、一本道を囲む竹林裏手にある敵の砦の位置を示した。この砦に国人衆と一揆勢約2千人余りが籠っている。平山城に繋がるこの道は敵の砦から丸見えで、見つからずに平山城に辿り着く術はない。
「2隊に分けることとする。雪下と摂津は荷駄と共に平山城へ迎え!早く兵糧を届けることがこの戦の要である。雪下頼んだぞ。」
「お任せ下さい。」
「和泉、十兵衛は私と竹林へ参る。砦から出る兵たちを全て我らで迎え撃つ。荷駄隊を絶対に守った後に平山城へ入城する。」
「はい、殿。」
 世戸口十兵衛は今回の柳河城の移転を機に、弓組組頭となっている。立花家一番の腕前を持つ十兵衛に師事する兵たちは、十兵衛のように早く強く正確な弓矢を射ることを日々精進してきた。
 今回の戦で初陣を迎える弓組は皆が手柄を立てようと勇んでいる。。
 
 まだ空も明けぬうちに統虎は軍を進めた。念のため、竹林の中を探らせると敵の伏兵はいない。空が白み始める中、統虎は竹林手前で軍を止めた。
「では、雪下、摂津、平山城が兵糧を待っておる。行くがよい。」
「和泉、十兵衛、私と共に竹林に入るぞ。」
 由布雪下は頷き、馬と人足ばかりの荷駄隊を平山城へ急がせた。統虎と小野和泉は多くの軍勢を率い、砦前の竹林へ向かって駆けてゆく。砦の哨戒兵に見つかるのは仕方がない。肝心なのは早く竹林に入り、砦から出てくる兵に備えることである。砦からは案の定、法螺貝が鳴らされた。砦の敵の出撃は間もなくである。平山城へ向かう人足達は必死に馬を操り兵糧を運ぶが、遅々としか進まない。砦の敵兵たちは次々と砦の門から出撃してくる。
 すると竹林からの銃声が響き渡った。統虎の鉄砲隊が一斉射撃を行うと、弓組も弓を射始めた。世戸口十兵衛が率いる弓組は鉄砲を逃れた敵兵を狙って、次々と弓を放った。弓矢が敵兵の顔面や首を襲い、次々と敵が倒れる中、弓組の兵たちは遮二無二弓を放ち続ける。
 その中でもひと際目立ったのはやはり十兵衛である。何せ、弓を射るのが速い。慌てず黙々と弓を放ち、迫ってくる敵兵や馬の急所を外すことなく射抜いていく。弓組の活躍もあり、砦から出てくる敵兵は、次々斃れていく。
 戦は生き物である。このまま竹林で待って敵兵を叩くより、砦を攻めれば、敵兵は防戦一方で、荷駄隊は楽に平山城へ入城できるはずである。その代りに殿戦が厳しくなるのは仕方がない。
 統虎は竹林を出て遠巻きに布陣、砦を出てくる騎馬兵や足軽に鉄砲と弓矢を一斉に浴びせると砦は沈黙した。国人衆や一揆勢は籠城して守る戦は不得手である。砦の櫓から、鉄砲と弓矢が放たれたが、逆に統虎軍に鉄砲で狙われることに閉口し、櫓からも人が消えた。睨み合いが続く中、和泉が統虎に近寄った。
「荷駄隊は間もなく平山城です。引き際は今でございます。」
「うむ、ならば半分を平山城へ向かわせよ。そして、平山城に入った雪下に荷駄隊は十時摂津に任せ、すぐに来いと伝えよ。ここからが、この戦の切所。和泉、私と残ってくれ。」
 小野和泉は眼を光らせた。
「殿はやはり立花家の棟梁、道雪様と同じでございますな。・・ではすぐに差配します。」
 半分の兵が平山城へ去っていく中、統虎は弓組を、小野和泉は鉄砲隊を手元に置き、殿戦に備えた。砦勢は立花軍の動きに気付いた。櫓から望見すると竹林に立花軍半数程度が平山城へ向かうのが見えた。敵将はすぐに追撃を命じると先ほどと同じように弓矢の応酬があり、多くの兵が討たれ、一旦追撃を止めた。
 統虎と小野和泉の眼が合った。
“今である。”
 統虎は軍配を後ろに向け、全軍を撤退させた。ここからは時間との闘いである。この一瞬の間でどれだけ砦から離れることが出来るか、後は必死に追いかけてくる敵兵にもうひと仕掛けするだけである。
 必死に平山城へ向かう立花軍の小野和泉は小高い丘を見つけ、統虎に進言する。
「あの坂、如何ですか。」
「うむ、私と弓組が残る。和泉はもう少し先で仕掛けよ。」
 小野和泉は統虎の話を呑んだ。ここで統虎を先に逃そうとしても、絶対にこの主君は話を聞かない。
「では先でお待ちしています。」
 統虎と世戸口十兵衛率いる弓組が丘に伏せた。どれぐらい敵を引き離せたか分らぬが、間もなくこの丘の向かいに敵兵が現れるはずである。憤怒に任せて追撃してきた敵兵の眉間を次々と弓矢が貫いていく。伏兵を全く想像していなかった敵兵は混乱し、容赦なく弓矢を浴びせられ、後退せざるを得なくなってしまった。
“よし、下がれ。”
 統虎は弓組と一緒に丘を下ると、今度は敵の足軽が鉄砲で撃ちかけてきた。十兵衛は振り向きざまに矢を射て、敵兵を次々倒し、平山城へ向かった。だが迫ってくる敵勢は思いの他多く、まもなく追いつかれるというところで、鉄砲の発射音が響いた。小野和泉の鉄砲隊である。十兵衛の弓組も一斉に振り返って、弓矢を放って敵を牽制した。
 何とか、小野和泉と合流したところで平山城から出撃した由布雪下の軍も近づいてくるのが見えた。統虎は小野和泉と眼を合わせた。
「やはり、来たぞ。さすがは雪下。」
 雪下は主君をたかが国人や一揆勢に討たせてなるかという鬼気迫る般若のような顔で迫り、敵勢を一気に圧倒した。
「殿、もう大丈夫でございます。さあ、平山城へ参りますぞ。」
 やはり最後に頼りになるのは由布雪下である。平山城へ入城すると、多くの兵が泣いて、立花統虎を迎え入れた。
“ありがとうございます。”
 統虎と由布雪下、小野和泉はこの城を救えたことを喜んだ。今日運び込んだ兵糧で平山城は約一カ月余り生き抜くことが出来る。その間に、小早川秀包を大将とする討伐軍がこの騒動を治める筈である。
 平山城はこれで救われることとなるが、立花軍はこれからこの平山城から戻らねばならない。十時摂津が平山城周りを探ると、食料を運んだ立花軍に怒った国人と一揆勢が続々と周りから集まり、4・5千の兵が竹林周りを囲んでいるとの事であった。
「殿、如何しましょうか?」
 統虎に小野和泉が尋ねると、統虎は由布雪下に声を掛けた。
「雪下、どうするがよい。」
「殿、私は今日戻るしかないと思っております。明日になれば、逆茂木などが道に置かれ、厄介になるかと。」
「雪下、和泉、私も今日しか戻る日はないと思っておる。」
「敵は4・5千。辛い戦になります。」
「うむ、その数を減らそうと思っておる。任せよ。」
 統虎は荷駄隊を務めた人足50名を城門前に集めた。既に十時摂津が過分の駄賃を皆に支払った後だけに表情が明るかった。
「皆、ご苦労であったな。明日、我ら立花軍はこの平山城を出るつもりである。お主らも我らと一緒に来るがよい。」
 人足頭が集まり、話をした。明日、立花軍と一緒にこの城を出れば、必ずや国人衆と一揆勢から狙われ、何人かは命を落とすはずである。それよりも前から誼がある一揆勢に話をつけ、先に通してもらった方が安全である。人足頭の一人が恐る恐る統虎に申し立てた。
「別で帰りとうございます。何とかお願いを。」
 統虎は悩む姿を人足たちに晒した後、話をした。
「分った。お主らが良ければ、それで良い。それより、明日この城を出ることは敵に言うでないぞ。明後日この城を出ると伝えよ。良いな。」
「はっ。」
 人足たちはそそくさと準備をして、平山城を離れた。無腰の人足たちは国人衆と一揆衆に留められ、人足頭が砦をまとめる有働氏の下へ連れて行かれた。
「教えてくれ。立花の殿さんはどうするつもりか。」
 有働は人足頭の後ろに抜刀した兵を立たせ、脅した。
「儂らには明後日城を出ると言えと言っておりましたが、本当は明日平山城から出るそうです。儂らから聞いたことはご内密にお願いします。」
「はっはっはっ、そうか。明後日出ると言えか・・・、いやそれが我らに筒抜けになるとは思ってもおらぬであろう。」
 有働は人足たちを解放すると共に、国人衆と一揆勢に明日の夜明け前に集まるように話をした。竹林に群れていた国人衆や一揆衆は竹林から離れ、思い思いの場所へ散っていった。食事の為に火をおこす者達や川へ入って水浴びをする者も現れた。
 そんな時、平山城から立花軍が現れた。砦からは法螺貝が吹かれ、一本道を進む立花軍に向かって、四方八方からの国人衆と一揆勢の追撃が始まった。立花軍は隊列を崩さず、駆け続けている。左右は小野和泉と由布雪下が軍を動かしながら、追撃の兵の攻撃を跳ね返していく。
 前陣を進む統虎と十兵衛の弓組は、立ちはだかろうとする敵陣を弓で錐のように裂いて、領国へ向かう。途中、立花軍を阻もうとする敵から何度も激しい攻撃を受けたが、何とか領国へ帰り着くことができた。
 この日、平山城を除く7か所で13回も激しく戦い、敵の首を6百以上挙げたが、味方も約150人は命を喪い、多くの兵が傷を負ってしまった。痛い犠牲となったが、この軍功を秀吉は喜び、すぐに立花統虎に感状を送った。小早川秀包らが筑前に到着し、安国寺恵瓊、鍋島直茂と龍造寺政家、そして立花統虎と高橋直次が加わり、肥後国へ向かった。
 秀吉が立花統虎に授けた感状の話が広まり、大名たちは皆功名を競う気分となっている。戦意高い討伐軍は、12月5日一揆勢の籠もる田中城を落城させ、12月16日には国人衆と一揆勢の首領格隈部親永が降伏させ、肥後の騒乱は完全に鎮圧した。

 秀吉は戦功著しい立花統虎に、隈部親永・親泰父子とその一族を預けた。本来、討伐軍大将の小早川秀包に預けるのが筋であるが、秀吉は立花統虎を買っている。何とか、立花統虎に花を持たせるつもりである。統虎はこの謀反人たちを柳河城下に蟄居させた。
 半年後、秀吉は統虎に隈部一族12人を刑に処すよう命じた。統虎は立花家家臣新田掃部介の弟が、刑に処される隈部一族のうちの一人隈部善良であることを知った。それで新田掃部介を呼び、何とか救う手立てを考えることとした。
「掃部介、明日隈部一族は秀吉様の下命で自害せねばならない。お主さえ良ければ、秀吉様に言上し、この立花家で仕えてもらおうと思っておる。如何であろうか?」
 主君の心づかいに喜んだ新田掃部介はすぐ弟と面会するが、思いもよらぬ言葉が返ってきた。
「兄上、私が何時命乞いをしましたか。主君からのお話とは云え、私が話を聞く前にお断りすべき話でございました。私がこの話を聞いて、どう思うか分らぬことが無念でございます。お帰り下さい。」
 統虎はこの話を聞くと、再度十時摂津を使者として説得した。だが、隈部善良は会うことすら拒んだ。統虎は改めて隈部一族12人の心を思いやった。
 肥後国の新しい領主となった佐々成政は誇り高き国人衆に相談せず、一方的に検地を進めた為に一揆となった。隈部一族は敗軍となったが、元を正せば佐々成政の悪政へ反旗を翻しただけである。隈部善良の毅然とした言葉はその気持ちと悟った統虎は小野和泉と由布雪下と話をして、隈部一族12人を名誉ある武士として遇することとした。
 
 切腹が名誉ある武士の作法とされているが、統虎はこの12人を“放し討ち”に処すこととした。“放し討ち”とは真剣による一対一、または同数による真剣の果し合いである。
 隈部一族12人に対し、統虎は十時摂津、原尻宮内など剣士12名を選んで、翌日の“放し討ち”に備えさせた。この話を聞いた一族棟梁隈部親永は、立花統虎の情けに涙した。
“負け戦となったのは致し方なき事、ただ立花家は我らがどういう思いで謀反を起こしたか、お分り頂いた。もう無念はない。明日は潔く散るのみである。”
 一族誰もが、立花統虎の名誉ある仕置に深く感謝し、眠りについた。
 
 天正16年(1588年)5月27日、隈部一族は柳河城黒門の前で、立花家の剣士12名と立ち会った。三の丸縁側には太政大臣豊臣秀吉の代理検視役浅野長政と立花統虎が座っている。選ばれた立花家剣士は必ず仕留めねばならぬと上気する中、十時摂津の口上を聞いた。
「ただ今より、放し討ちを始める。」
 隈部一族と立花家剣士による“黒門の戦い”が始まった。最初に討たれたのは隈部親永である。刀を握っていたが、刀を振り回すことも無く、見事に斬られ命を絶った。
 隈部一族は皆血しぶきを上げて斬られていくが、激しく戦って命を散らした武士もいる。そして、最後に残ったのが新田掃部介の弟隈部善良である。隈部善良は縁側で凝視する立花統虎に深々頭を下げ、そして首を突きだしながら、立花家剣士へ歩いて行った。
 だが、隈部善良の覚悟を悟った立花家剣士は踏み込むことが出来ない。すると隈部善良は周りを見渡し、大声を発した。
「主君の最後を見届けることが出来た故、悔いはない。さあ、我の最後を見よ!」
 そのまま、太刀を胸に突き立て自害した。この“放し討ち”で立花家剣士森又右衛門が死に、他多くが傷を負う果し合いとなった。
 
 検視役の浅野長政は後日秀吉にこの“放し討ち”の全てを報告する。
「秀吉様、放し討ちは凄まじき勝負でございました。隈部一族は見事に命を全うしました。」
「さすがは立花統虎である。」
 秀吉は統虎の肥後国人衆への心づかいを理解した。名誉ある隈部一族への計らいは、肥後国人衆の怒りを和らげるはずである。秀吉も肥後国中に拡がった一揆の元凶は佐々成政と看破している。
 秀吉は佐々成政を改易させた後に切腹を命じている。その後、秀吉は子飼いの2人の大名を抜擢し、肥後国を任せることとした。加藤清正には肥後の北19万5千石と隈本城、小西行長には南24万石を任せた。
 この決定には秀吉の野望も絡んでいる。この2人に肥後の治政を競わせると共に、この先に控える朝鮮出兵でも競わせる考えである。

 秀吉は昨年の九州征伐の時より、朝鮮出兵の為の仕掛けを施している。天正15年(1587)5月、博多に留まる秀吉に対馬を治める宗親子が陣中見舞いにやってきた。
「宗殿、その方らは朝鮮に行き、我が国への帰属を周旋せよ。朝鮮国王が日本に来て朝廷に帰属の意志を示せば、朝鮮国王の地位を認めることとする。もし日本に来なければ、必ずや出兵して懲らしめるつもりであるとな。」
 対馬を治める宗氏は日本の大名である一方、朝鮮には対馬は朝鮮の属州と臣下を誓い、朝鮮の代官も務めている。これで宗氏は朝鮮通商証を得て、日朝貿易の窓口として大きな利を稼いできた。
 今回の秀吉の要請をそのまま朝鮮に伝えると、間違いなく断交になるはずである。秀吉はこの宗氏への要請とは別に、商人上がりの大名小西行長・石田三成・加藤清正の側近らにも“朝鮮国王を来日させ、帰属を申し出させよ。“と命じている。同年の9月、焦る宗氏は家臣を朝鮮に送り、工作するが、話は全く進まない。
 やむを得ず、国王の来日などの無理な要請は避け、秀吉の国内統一を祝う通信使を送るよう要請した。朝鮮はこの2度にわたる宗氏の要請に返答することさえ拒んできた。
 
 天正17年(1589)3月、宗氏は朝鮮沿岸を荒らす日本人を捕まえ、朝鮮人捕虜の送還を約束すると伝えた。すると、この報せにやっと朝鮮から通信使派遣の連絡がもたらされたのだ。
 苦しい調整を続けてきた宗氏であったが、秀吉の政務を司る石田三成、商人から大名となった小西行長、朝鮮との貿易に精通する博多の豪商島井宗室らとは秘かに通じ合うようになっていた。皆が秀吉の朝鮮への強請は実らぬ絵空事と思っている。それで、何とか朝鮮征伐だけは回避したいと考えていたのだ。
 だが、秀吉は本気で朝鮮征伐を夢見ている。
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