壊れた世界と君の歌

川瀬川獺

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ループ1

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 まずは何が変わったのかを把握するのが先決だと思い至った。今日は休む旨を会社に電話してみるとそれは案外すんなりと許可されると共に仕事には変わりがない事が判明する。ただの会社員のままだ。
 妹の加奈はトークアプリのメッセージを見る限り明らかに変わってしまっている。ニュースやSNSを見た限り恐らくはほぼ全ての人々がそうだろう。
 住んでいる家にも変わりはない。ぐるりと一回りしてみたが昨日のままだ。とにかく頭を覚ますべくシャワーを浴びようと思った。もしかしたらまだ悪い夢の中なのかもしれない。
 重い足取りで洗濯してある替えの下着と部屋着を掴んで歩みを進め脱衣所まで進むと部屋着にしているTシャツとスウェットのパンツ、無地の下着を脱いで洗濯籠に放り込む。着替えは洗濯機の上に置きそのまま浴室に入り扉を閉めると早速シャワーのコックを捻り徐々に温まって行く雨の様なお湯を頭から被った。すこしだけ頭がすっきりとしてくる。
 世の中は今完全に折原拓海に夢中だ、それも今日になってから急に。何らかに意図をもって世界を書き替えられた様に。何か変わった事は無かったか、と自らに問えばあの祖父の腕時計位なものであの拍子にもし何かが変わってしまったというのならまた巻き戻すのは如何だろうと半ばヤケクソにそんな思考に思い至る。
 頭と顔、身体をさっさと洗い上げて浴室を出るとバスタオルで全身を拭く。新しい部屋着に袖を通して洗面台のドライヤーで髪を乾かすとシャンプーの爽やかな香りが脱衣所を包んだ。
「今が朝の六時だから十二時間前、は……」
 寝室に戻って祖父の腕時計を急いで掴み取る。つまみを動かし今から丁度十二時間前にセットしカチリとつまみを押し込むとまた秒針が動き出す。空の色が変わって行き、スマートフォンの時刻表示を見ると昨日の夕方――日曜日の午後六時に戻ったのだと嫌でも理解した。
「嘘だろ……あ、ライブ」
 信じたくは無いが目の前の画面は確かに時間が巻き戻って表示されている。午後六時、という事はヘヴンズのライブが始まっている筈だ。急いで身支度を整えて最低限の荷物を掴み家から飛び出して鍵を掛けた。
 家からライブハウスは徒歩でも行ける距離で割と近い。とにかく必死で走り続け辿り着いた頃には六時十分、ライブハウスの受付で手売りのチケットを買い手の甲に入場者を示すスタンプを押される。ワンドリンクはペットボトルの水を買い、呼吸の整わないままそれを一気に飲み干してまさに今ライブ中の箱の中へと入っていく。
 ライブハウスの箱の中は昨日と全く同じく盛り上がっていた。中央には輝くほどに美しい折原拓海が居て、心から楽しそうに歌っている。不意に目が合ったが気のせいで無ければニッと金髪の美しい男は口角を上げて見せてくれた。胸が高鳴り感情は大きくなっていく。そうか、俺は折原拓海に恋をしているのか、と理解すれば全てに納得が出来た。
 アンコールまでを演じ切り、閉場になると今まで盛り上がっていたライブ客達は感想を言い合いながらまだ熱に浮かされた様子で徐々に会場から去って行く。ああ、やっぱり明日がおかしかったのだと思わせてくれて安堵する。
 手元の空のペットボトルを握り締めて潰し、自分も箱の中から出て行くと受付でペットボトルのゴミを捨てた。何となくそのまま帰りたくなくて初めて出待ちをする事にしライブハウスの裏口付近に背中を預けてじっと待つ。
 珍しい事に他に出待ちは居らず一人きりだった。茹だる様な暑さの中だが、陽が沈んで少しはマシだ。暫く待っていると裏口から話し声が聞こえて来る、ガチャリとその扉が開き咄嗟に駆け付ける。まず出て来たのはドラムの子、続けてベースとギター担当、最後に拓海が出て来た。
 声を掛けるまでも無く此方に気付き「あれ……アンタ」と再び目が合う。
「どうしても、会いたくて」
「アンタ、出待ちなんて初めてだろ」
「今日は何となく……」
「あ、お前ら先帰ってろ!俺少しこの人に用あるから」
「おー!お疲れ、またなー」
 拓海が他のメンバー達にそう声を掛けると各々解散し去って行った。バタン、と裏口の扉が閉められじりじりと蒸し暑い静かな路地裏で二人きりになる。
「何か話あんだろ?」
「俺、君の事が好きだなって思って」
「は?え、ちょっ」
 肩を掴んで壁に押し付け、有無を言わさず唇を塞ぐ。余りの唐突な出来事に固まってしまった拓海は流されるままキスに応じてしまったがすぐに我に返り肩を押し返される。
「ばっ、馬鹿じゃねぇの!?」
「嫌な夢を見たんだ、君が遠くに行ってしまう様な夢」
「何言ってんだアンタ……」
「ほんと、急に何言ってんだこいつって感じだよな」
 あれは本当に夢だったんだろうか、それは分からない。何ならこれだって本当は夢なのかもしれない。でも現に運命を捻じ曲げたくて半ば強引にキスまでして。それ位、あの世界に嫉妬した。
「話はそれだけかよ……」
「気を悪くさせたよね。ごめん、帰るよ」
「待てって!」
 踵を返すと手首を掴まれ引き留められて何故?と振り向く。そこには自分でも引き留めたのが信じられないと言った表情の拓海が居て首を捻る。
「アンタ見てると……腹立つけどドキドキすんだよ」
「強引にキスして来た様な相手なのに?」
「そうだよ!悪いかよ!前からずっとアンタの視線が気になって、今日は来てんのかなってライブ中も探しちまうしで」
「気のせいじゃ無かったんだ」
「アンタさっき俺の事、その……好きって」
「ごめん、変だよな。同性で、バンドのヴォーカルと客の関係で急に好きなんて言われて」
「最後まで聞けよ馬鹿!まだわっかんねぇけど、たぶん」
 恐る恐るといった様子で胸倉を掴まれて噛みつく様にキスをされた。間近で見ると睫毛も長くて本当に美しい。唇の感触は存外柔らかく、とても暖かい。
「……嫌いでは、ねぇよ」
 掴まれた胸倉を振り解かれて唇が離れると視線を逸らしつつそう言葉にされる。咄嗟にして来た祖父の腕時計が指し示す時刻は午後八時。これで運命を書き替えられた、そう思った。そう願いたかった。



『おはよう御座います。朝のニュースです。まずは此方……』
 あの後拓海と連絡先を交換してそれぞれ帰った。嬉しい気持ちで一杯でその夜は加奈からのあの通話も面倒と思わず食事と共にやり過ごし風呂に入ってゆっくりと眠りについたまでは覚えている。
「……なんで、だよ」
『次世代の神とまで称されるボーカリスト、折原拓海さんの独占取材を――』
「なんで……」
 朝のニュースは無情だった。書き替えられたと信じていた未来はどう足掻いてもこうなるのかもしれない。慌ててトークアプリに昨夜追加された折原拓海の画面を開くと『おやすみ』と一言だけやりとりをした形跡が残っている。昨日の出来事は嘘じゃない。では何がダメだったのか。全く分からない。
 縋る様な気持ちでトークアプリから拓海に『何してる?』とメッセージを送る。しかし返事が来る所か既読さえ付く事は無かった。何かが歪んでいる事に気付いているのはもしかしたら自分だけで、誰も違和感ひとつ抱かずに折原拓海を崇めているのかもしれない。
「何がダメだったんだよ!?」
 スマートフォンが軋む程に力強く握り締め、頭を掻き毟り叫ぶ。あの後か、あの後に何かが起きたというのか?あの手を離さなければ、こうはならなかったのだろうか。それとも何をした所で無駄だと運命に嘲笑われているのだろうか。
 すぐに着替えて拓海の居そうな所を徹底的に洗い出す。噂、目撃情報、何でも良い。何でも構わないから彼を見付け出さなければならないと思った。まずは噂から追っていく。SNSで折原拓海が良く朝に現れるらしいという公園を探し出し、家を飛び出す。
 単刀直入に言えばその噂はビンゴだった。ベンチでぼんやりと空を見上げる白いシャツとジーンズを身に纏った明るい金髪の男は確かにそこに居る。
「……折原拓海」
「どうして此処が分かった?」
「噂になってた」
「あっそ……アンタ、俺の歌聞いても変わらねぇのかよ」
「歌って……テレビで流れてた?」
 悲しそうに歌うあの歌の事だろうと何となく彼の言おうとしている事が分かった。彼は未だに空を見上げていて動かない。
「今の俺は――」
「おっと、拓海さんこんな所に居らっしゃいましたか」
「……タイムリミット」
 公園の脇に車が止まり、中からスーツ姿の二人組が現れる。そのまま迷う事無く此方に近付き拓海に声を掛け始めた。黒髪、恐らくは双子か兄弟だろうと思わせる顔と所作の似方。見た目もまだ若い。此方に二人揃って一礼するとようやく空から視線を外した拓海が立ち上がった。
「夕方、此処に来い」
「……分かった」
「では我々は失礼致します」
 極めて丁寧な物腰の柔らかさで二人組の黒髪の男が拓海を連れて行く。拓海を挟む二人組は妙に圧があり、宙に手を伸ばす事は出来ても引き留める事など叶わなかった。
 そのまま拓海を後部座席に乗せた車は走り出し、まるで最初から何も居なかったかの様に静けさが周囲を包んだ。
「あいつら、誰なんだ」
 マネージャーだろうか、しかし二人組というのが気になる。だが今そんな事を考えて居てもどうにもならない。去り際夕方に来いと言われたのを信じて、スマートフォンで会社に今日は休む旨の連絡を入れた。
 ひとまず自宅に戻ろうとその場を後にして来た道を戻る。近くの自販機で缶コーヒーを買い、歩きながらそれをちびちびと啜り時間を潰す。
 時間を巻き戻して昨日をやり直す方が良いのか、それとも拓海の言葉を信じて夕方まで待つか……その二択の狭間で揺れていた。悩んでいた所で今の自分が運命を書き換えられるとは思えない。ならばせめて僅かでもヒントが欲しい。
 公園で見た拓海は確かに折原拓海本人であったが、まるで別の何かの様にも思えた。儚くて、手が届きそうで届かない。ずっと空を見上げていたがその表情はきっと悲しいものだったのだろう。誰もが折原拓海を崇め称える世界、彼はそんなものを望んだのだろうか。
「歌聞いても変わらないのか……ってどういう意味だよ」
 独り言が口から出てしまったが周りに人らしい人はほぼ居ない。良かった、と胸を撫で下ろしつつまた缶コーヒーを一口啜った。何を考え様にも余りにも謎が多すぎる。ならば今この世界の中心になっている拓海から直接何か聞くのが得策かもしれない。
 手首に巻き付いている腕時計を横目で見つつ、今はただ帰路を辿った。
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