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蜜の甘さを花は知れ
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「ようやく出たな、タワゴト」
そう言って影を切り裂いたのは、空を斜めに切り裂くような、妖怪ノナの蹴りだった。一撃で胴を分断された燃える人影は、二つの炎に分かれ、どうっと地面に倒れる。
「行くぞ、掴まれ」
「え、でも」
「噛むから黙ってて」
ノナは戸惑うアガサの胴に手を回した。そのまま持ち上げて、大きく、後ろに跳ぶ。
「っ!」
先ほどまで二人の居た地面から、炎が燃え上がった。
「ち、やっぱり狂ってるか」
舌打ちをした美少年の口から、黒い蝶が吐き出される。吐息のように軽やかに羽ばたいた蝶は、アガサの眼前を真っ暗に覆い尽くすほどに大きく、羽を伸ばした。
「少し頭を冷やせ」
……しかし、その外側から、蝶よりも大きく開いた炎がすぐに迫ってくくる。
「トリ!」
呼び掛けながら、ノナはすぐさま蝶の羽を蹴って空に舞い上がる。脇に抱えられたアガサは、腕を前で交差させて肩を掴み、乳が振り千切れそうになるのを必死で押さえた。上からつい見下ろせば、炎の先が針山のようにずらりと並び、地からアガサたちめがけて噴き上がってくるのが見える。アガサはぶるりと身ぶるいをした。
そのとき、炎が、六つに切り裂かれた。ごうごうと燃え盛る炎の底にはっきりと割れ目ができて、だいぶ離れているだろうに、下からあの赤髪の少年、トリの声がする。
「ノナー、すごいよこれ! ふつーの炎なのにあつい!」
「あまり触れるな! 一度上がれ」
「うん! いま行くー」
そして、黒々しい炎の中にひとつ、鮮やかな赤い点が跳ねた。つる草に掴まって遊ぶ子どものように、やわらかいカーブを描いて、上へと飛び上がる。それを、黒蝶の群れが包むように捕まえて引きずり上げた。顔に当たってくすぐったかったのか、「わふっ」と緊張感のない鳴き声がする。
「……はあっ! ねーノナ、どーするの?」
「暴走してるな。少し余裕はあるし居所も割れた。一度退くか」
「お腹すいたー」
「なら、さっさと済ませないとな。行くぞ」
呆然としたままのアガサを、ノナは器用に前に抱え直す。そして闇へと飛び込んだ。
まだ火元から遠く、闇に包まれたままの森の鬱蒼。一人と二つは、引き寄せられるように生まれたての川の近くへ腰を下ろした。アガサは火を起こそうとするトリを止めた。見たくなかったのだ。
「ど、どうしてあんなことになっちまってるんだい、アーティが……」
「聞く気があるなら、落ち着いて聞いて。君の言う、アーティは今……」
「落ち着いちゃいないよ! 少し、少し待っとくれ」
二人の少年は同時に頷く。アガサは、走った後に息を静めるのと同じように、すうすうと息を吸って吐いた。山では何があっても落ち着くことが大事だ。何が起こっているのか、分かりたいのならなおのこと。
「さむいー?」
トリがアガサにじゃれつく。あまり温かくは感じなかったが「ありがとうね」と答えたアガサは、ゆっくりと顔を上げる。
「……待たせたね。まず、聞かせとくれ。あそこで燃えてたあの人、アーティ、なのかい?」
「! ……そうだよ」
ノナは銀の瞳を瞬かせる。
「アーティは、あれは、生きてるのかい?」
「彼と君は生きてるし、無事」
「……あたしとアーティだけ、助かった……」
正しく言葉の意味を読み取って、アガサは確かめるように言い直す。声が震えた。アーティだけでも無事で良かった、なんて今は思えない。考えられない。
「アーティは、妖怪にでもなっちまったのかい……?」
「ううん! えーとね、まだふつーの人間だよ! でも今ってタワゴトはなんにでもなれる!」
今度はトリが髪をふさふさ揺らしながら言った。あの恐ろしい炎を見た直後にも全く変わらない笑顔には、救われるようでもあり、得体が知れないものを感じもする。無邪気な少年の姿や声をしていても、やはりこの子は妖怪なのだ。
「たわごと……」
「タワゴト。僕らはアーティみたいな存在をそう呼んでいる。ここは、タワゴトの夢のようなものだから」
「夢……?」
「夢の中だから、体から炎を出すことができる。切り裂かれても復活する」
「ゆ、夢、なのかい、全部」
ノナは首を振った。
「この山で火事が起きたことは多分事実だ」
「っ……じゃあ、どうしてアーティは……」
「分からない。ただ、この『夜』に取り込まれると、真実と嘘が混ざり合う。君が山中の穴の中に寝かせられていたのは多分事実。アーティが炎を出せるようになったのは夢」
「あんたたちも?」
「僕らは外から夢に入り込んできたよそ者さ」
「そう、かい……」
ほんとうに、妖怪のようなものなのだ。アガサはトリの赤髪をそろそろと撫でた。そうすると落ち着く気がした。
「たわごとってのになると、やりたいことができるんだね」
「うん!」
「アーティは、体から火を出せるようになりたかったってことだね」
「そうかもー」
「村が、火事になって、ぁ、アーティが、アーティとあたいだけが、無事で。……ねえ、これって、おかしいんじゃないのかい?」
声が震えていた。
「ぼくわかんないや。ノナ、わかるー?」
「……予想はつく」
「聞かせとくれよ。アーティは……どうして、村を、焼いたりしたんだい?」
アガサにはもう、そうとしか思えない。
「……さっき、僕らはわざと君を一人にした。いずれタワゴト……アーティが君を探しにくると分かっていたから、おびき出してもらいたかった」
「え、アーティがあたいを?」
突然に獲物をおびき寄せる罠にされたと聞かされてもアガサには怒る気など起きない。ただ、驚いてしまう。
「村が焼かれたとき君が山の中にいた理由は一つしかない。アーティが君をそこに運んだ。君だけは凶行から助けたんだ。村を『無事に』焼いた今、アーティに行動理由があるとすれば君だろう」
「なんで、あたいだけを……」
「愛しているんだろ、君を」
「えっ……」
思いがけない指摘に、アガサはうろたえる。
「こんな、あたいみたいなぽてっとして冴えない女を?」
「前にも言ったけど、僕の審美眼で良ければ、君は美人だよ。世辞抜きにね」
それは初めて聞く褒め言葉だった。アガサはうろたえて、少し言葉に詰まってしまう。
「……で、でも、アーティは街に買い物に出たりするんだよ? 流石に街のべっぴんの方が、あたいよりは……」
「街の女たちは化粧で作った顔なんだから素顔の君が見劣りするのは当たり前だ。それに胸が大きい」
かなりぶしつけな物言いだったが、元々村の男衆のあけすけな発言を聞き慣れているアガサは、そう失礼とも感じなかった。
「あはは……それでも、あのアーティがなんてねえ……」
「そこだよ」
「えっ?」
「君は、アーティという男を軽んじ過ぎている。恋愛事が今まで無かったにしても、夫となる人に対して、配慮が足りない」
「配慮って言ったって……」
「優しい、大人しい、無神経、何を言っても大丈夫、ってのは、限界を誰も見たことがないってだけの話だ。器に入った飲み物と同じ。大きな器を持っているからって何を入れても溢れないわけじゃない。限界を越えれば必ず誰でも溢れ出す。器が大きかろうと小さかろうと、途中に穴が空いてたって、ひどく溢すか少しテーブルを汚すだけかは分からない。ただの器の問題なんだよ、優しいとか大人しいってのは。飲み物の注ぎ方一つで、限界を越えた後の水面の揺れ具合で、優しい人が、大人しい人が、『まさかあの人』が、奪い殺し他者を貶めるんだ」
アガサはもう、何も言い返せなかった。あまりにも鬼気迫るノナの言い方に何も言えなくなったのだ。何か昔にあったのだろう、と分かってしまった。妖怪には悲しい話がつきものだ。それが彼らの過去そのものなら……。
「……ごめんよぉ、もしかして、嫌な事思い出させちまったかね?」
アガサはノナの肩に手をやった。今の彼は、大人びていても年相応の少年に見えた。
「……触らない方が良い」
「どうしてだい?」
「君は、花人だから」
「はなびと?」
聞いたことのない言葉だった。アガサは目をぱちくりとさせる。
「そういうタイプが人間にも動物にも一定数いるんだよ。身体からは花の香りを放ち、魅力的で、生まれながらに番となりうる適性のある者を惹き寄せる、イレギュラーな個体だ」
「……あたしが?」
アガサは匂いを嗅いでみたが、自分では分からなかった。
「おそらく、こんな小さな村で暮らしていれば、若い男は君の体質の影響を受けてるだろう。君と同じくらいの村の男たちが他の女と結婚したときに揉めた事はなかった?」
「え、ええと……そういや、この間ジョーが、結婚することになった子の他に好きな女がいるって言いに来たことがあったっけね? でもどの子が好きか言いやしないし、女々っしくもじもじしてたから面倒になっちまって追い返してねぇ……。それから何も言われちゃいないし、すぐにあたしとアーティが結婚するって決まったしねえ」
「焦って他の男に取られる前に結婚話を進めたのか」
「え?」
「アーティは君を自分だけのものにしたかった。君と結婚して願いを叶えようとした。でも結婚間近のこの日、何かが起きた。そのせいでアーティは、男たちを含め全てを燃やしたいほどに怒ったんだ」
ノナは静かに立ち上がった。
「何が……」
「おそらく、村の男たちが君を襲った。昼に急に眠ってしまうような薬を盛った上で」
「……!」
「全て、君が眠りの中にいる間に終わったはずだ」
「そんな、こと……」
あり得ないと言えればどれだけ良かったか。いまだ全身を覆うだるい痛みの原因に気づいて、アガサは自分の体を抱きしめた。
もともと体の成長に反して色気づかない性格だった。胸が大きくなるのが早く、からかわれるのには慣れていた。触られた事だってあった。鼻水を垂らしていたような子供の頃からの付き合いの男らにときめいたことはない。みさおをかたくなに守ろうという気もないつもりだった。でも、でも、生娘だったのだ。どれだけ女にとって大事な事かくらいは知っていた。はじめては、自分で納得した相手としたかったのだ。
「あ、あた、あたい……そんな……ひっ、ひどい……」
少年たちは何も言わなかった。
「……これから、どうなるんだい」
泣き疲れてかすれた声でアガサは呟いた。
「あたいはどうすればいい。アーティはどうなる。あんたたちは……」
「君の行動を僕らは決めない。決められないならここにいてもいい。僕らは、この夜を終わらせに行く」
「夜を、終わらせる……」
「アーティの罪を喰う。それでこの夜は終わりだ」
「くう……?」
少年たちは立つと、今は見えない炎の方へと歩き始める。
「殺しはしない」
アガサには、その言葉が逆にアーティを殺すものの言葉のように聞こえた。
「待っ……待ってくれよ!」
どこにそんな大声を出す元気が残っていたのか分からない。穴の中から引き上げるよう頼んだときとは違う真剣さでアガサが叫んだとき、銀髪の少年はあの時のように気だるく、
「……いいよ。連れていくだけなら」
ため息をついて立ち止まった。
そう言って影を切り裂いたのは、空を斜めに切り裂くような、妖怪ノナの蹴りだった。一撃で胴を分断された燃える人影は、二つの炎に分かれ、どうっと地面に倒れる。
「行くぞ、掴まれ」
「え、でも」
「噛むから黙ってて」
ノナは戸惑うアガサの胴に手を回した。そのまま持ち上げて、大きく、後ろに跳ぶ。
「っ!」
先ほどまで二人の居た地面から、炎が燃え上がった。
「ち、やっぱり狂ってるか」
舌打ちをした美少年の口から、黒い蝶が吐き出される。吐息のように軽やかに羽ばたいた蝶は、アガサの眼前を真っ暗に覆い尽くすほどに大きく、羽を伸ばした。
「少し頭を冷やせ」
……しかし、その外側から、蝶よりも大きく開いた炎がすぐに迫ってくくる。
「トリ!」
呼び掛けながら、ノナはすぐさま蝶の羽を蹴って空に舞い上がる。脇に抱えられたアガサは、腕を前で交差させて肩を掴み、乳が振り千切れそうになるのを必死で押さえた。上からつい見下ろせば、炎の先が針山のようにずらりと並び、地からアガサたちめがけて噴き上がってくるのが見える。アガサはぶるりと身ぶるいをした。
そのとき、炎が、六つに切り裂かれた。ごうごうと燃え盛る炎の底にはっきりと割れ目ができて、だいぶ離れているだろうに、下からあの赤髪の少年、トリの声がする。
「ノナー、すごいよこれ! ふつーの炎なのにあつい!」
「あまり触れるな! 一度上がれ」
「うん! いま行くー」
そして、黒々しい炎の中にひとつ、鮮やかな赤い点が跳ねた。つる草に掴まって遊ぶ子どものように、やわらかいカーブを描いて、上へと飛び上がる。それを、黒蝶の群れが包むように捕まえて引きずり上げた。顔に当たってくすぐったかったのか、「わふっ」と緊張感のない鳴き声がする。
「……はあっ! ねーノナ、どーするの?」
「暴走してるな。少し余裕はあるし居所も割れた。一度退くか」
「お腹すいたー」
「なら、さっさと済ませないとな。行くぞ」
呆然としたままのアガサを、ノナは器用に前に抱え直す。そして闇へと飛び込んだ。
まだ火元から遠く、闇に包まれたままの森の鬱蒼。一人と二つは、引き寄せられるように生まれたての川の近くへ腰を下ろした。アガサは火を起こそうとするトリを止めた。見たくなかったのだ。
「ど、どうしてあんなことになっちまってるんだい、アーティが……」
「聞く気があるなら、落ち着いて聞いて。君の言う、アーティは今……」
「落ち着いちゃいないよ! 少し、少し待っとくれ」
二人の少年は同時に頷く。アガサは、走った後に息を静めるのと同じように、すうすうと息を吸って吐いた。山では何があっても落ち着くことが大事だ。何が起こっているのか、分かりたいのならなおのこと。
「さむいー?」
トリがアガサにじゃれつく。あまり温かくは感じなかったが「ありがとうね」と答えたアガサは、ゆっくりと顔を上げる。
「……待たせたね。まず、聞かせとくれ。あそこで燃えてたあの人、アーティ、なのかい?」
「! ……そうだよ」
ノナは銀の瞳を瞬かせる。
「アーティは、あれは、生きてるのかい?」
「彼と君は生きてるし、無事」
「……あたしとアーティだけ、助かった……」
正しく言葉の意味を読み取って、アガサは確かめるように言い直す。声が震えた。アーティだけでも無事で良かった、なんて今は思えない。考えられない。
「アーティは、妖怪にでもなっちまったのかい……?」
「ううん! えーとね、まだふつーの人間だよ! でも今ってタワゴトはなんにでもなれる!」
今度はトリが髪をふさふさ揺らしながら言った。あの恐ろしい炎を見た直後にも全く変わらない笑顔には、救われるようでもあり、得体が知れないものを感じもする。無邪気な少年の姿や声をしていても、やはりこの子は妖怪なのだ。
「たわごと……」
「タワゴト。僕らはアーティみたいな存在をそう呼んでいる。ここは、タワゴトの夢のようなものだから」
「夢……?」
「夢の中だから、体から炎を出すことができる。切り裂かれても復活する」
「ゆ、夢、なのかい、全部」
ノナは首を振った。
「この山で火事が起きたことは多分事実だ」
「っ……じゃあ、どうしてアーティは……」
「分からない。ただ、この『夜』に取り込まれると、真実と嘘が混ざり合う。君が山中の穴の中に寝かせられていたのは多分事実。アーティが炎を出せるようになったのは夢」
「あんたたちも?」
「僕らは外から夢に入り込んできたよそ者さ」
「そう、かい……」
ほんとうに、妖怪のようなものなのだ。アガサはトリの赤髪をそろそろと撫でた。そうすると落ち着く気がした。
「たわごとってのになると、やりたいことができるんだね」
「うん!」
「アーティは、体から火を出せるようになりたかったってことだね」
「そうかもー」
「村が、火事になって、ぁ、アーティが、アーティとあたいだけが、無事で。……ねえ、これって、おかしいんじゃないのかい?」
声が震えていた。
「ぼくわかんないや。ノナ、わかるー?」
「……予想はつく」
「聞かせとくれよ。アーティは……どうして、村を、焼いたりしたんだい?」
アガサにはもう、そうとしか思えない。
「……さっき、僕らはわざと君を一人にした。いずれタワゴト……アーティが君を探しにくると分かっていたから、おびき出してもらいたかった」
「え、アーティがあたいを?」
突然に獲物をおびき寄せる罠にされたと聞かされてもアガサには怒る気など起きない。ただ、驚いてしまう。
「村が焼かれたとき君が山の中にいた理由は一つしかない。アーティが君をそこに運んだ。君だけは凶行から助けたんだ。村を『無事に』焼いた今、アーティに行動理由があるとすれば君だろう」
「なんで、あたいだけを……」
「愛しているんだろ、君を」
「えっ……」
思いがけない指摘に、アガサはうろたえる。
「こんな、あたいみたいなぽてっとして冴えない女を?」
「前にも言ったけど、僕の審美眼で良ければ、君は美人だよ。世辞抜きにね」
それは初めて聞く褒め言葉だった。アガサはうろたえて、少し言葉に詰まってしまう。
「……で、でも、アーティは街に買い物に出たりするんだよ? 流石に街のべっぴんの方が、あたいよりは……」
「街の女たちは化粧で作った顔なんだから素顔の君が見劣りするのは当たり前だ。それに胸が大きい」
かなりぶしつけな物言いだったが、元々村の男衆のあけすけな発言を聞き慣れているアガサは、そう失礼とも感じなかった。
「あはは……それでも、あのアーティがなんてねえ……」
「そこだよ」
「えっ?」
「君は、アーティという男を軽んじ過ぎている。恋愛事が今まで無かったにしても、夫となる人に対して、配慮が足りない」
「配慮って言ったって……」
「優しい、大人しい、無神経、何を言っても大丈夫、ってのは、限界を誰も見たことがないってだけの話だ。器に入った飲み物と同じ。大きな器を持っているからって何を入れても溢れないわけじゃない。限界を越えれば必ず誰でも溢れ出す。器が大きかろうと小さかろうと、途中に穴が空いてたって、ひどく溢すか少しテーブルを汚すだけかは分からない。ただの器の問題なんだよ、優しいとか大人しいってのは。飲み物の注ぎ方一つで、限界を越えた後の水面の揺れ具合で、優しい人が、大人しい人が、『まさかあの人』が、奪い殺し他者を貶めるんだ」
アガサはもう、何も言い返せなかった。あまりにも鬼気迫るノナの言い方に何も言えなくなったのだ。何か昔にあったのだろう、と分かってしまった。妖怪には悲しい話がつきものだ。それが彼らの過去そのものなら……。
「……ごめんよぉ、もしかして、嫌な事思い出させちまったかね?」
アガサはノナの肩に手をやった。今の彼は、大人びていても年相応の少年に見えた。
「……触らない方が良い」
「どうしてだい?」
「君は、花人だから」
「はなびと?」
聞いたことのない言葉だった。アガサは目をぱちくりとさせる。
「そういうタイプが人間にも動物にも一定数いるんだよ。身体からは花の香りを放ち、魅力的で、生まれながらに番となりうる適性のある者を惹き寄せる、イレギュラーな個体だ」
「……あたしが?」
アガサは匂いを嗅いでみたが、自分では分からなかった。
「おそらく、こんな小さな村で暮らしていれば、若い男は君の体質の影響を受けてるだろう。君と同じくらいの村の男たちが他の女と結婚したときに揉めた事はなかった?」
「え、ええと……そういや、この間ジョーが、結婚することになった子の他に好きな女がいるって言いに来たことがあったっけね? でもどの子が好きか言いやしないし、女々っしくもじもじしてたから面倒になっちまって追い返してねぇ……。それから何も言われちゃいないし、すぐにあたしとアーティが結婚するって決まったしねえ」
「焦って他の男に取られる前に結婚話を進めたのか」
「え?」
「アーティは君を自分だけのものにしたかった。君と結婚して願いを叶えようとした。でも結婚間近のこの日、何かが起きた。そのせいでアーティは、男たちを含め全てを燃やしたいほどに怒ったんだ」
ノナは静かに立ち上がった。
「何が……」
「おそらく、村の男たちが君を襲った。昼に急に眠ってしまうような薬を盛った上で」
「……!」
「全て、君が眠りの中にいる間に終わったはずだ」
「そんな、こと……」
あり得ないと言えればどれだけ良かったか。いまだ全身を覆うだるい痛みの原因に気づいて、アガサは自分の体を抱きしめた。
もともと体の成長に反して色気づかない性格だった。胸が大きくなるのが早く、からかわれるのには慣れていた。触られた事だってあった。鼻水を垂らしていたような子供の頃からの付き合いの男らにときめいたことはない。みさおをかたくなに守ろうという気もないつもりだった。でも、でも、生娘だったのだ。どれだけ女にとって大事な事かくらいは知っていた。はじめては、自分で納得した相手としたかったのだ。
「あ、あた、あたい……そんな……ひっ、ひどい……」
少年たちは何も言わなかった。
「……これから、どうなるんだい」
泣き疲れてかすれた声でアガサは呟いた。
「あたいはどうすればいい。アーティはどうなる。あんたたちは……」
「君の行動を僕らは決めない。決められないならここにいてもいい。僕らは、この夜を終わらせに行く」
「夜を、終わらせる……」
「アーティの罪を喰う。それでこの夜は終わりだ」
「くう……?」
少年たちは立つと、今は見えない炎の方へと歩き始める。
「殺しはしない」
アガサには、その言葉が逆にアーティを殺すものの言葉のように聞こえた。
「待っ……待ってくれよ!」
どこにそんな大声を出す元気が残っていたのか分からない。穴の中から引き上げるよう頼んだときとは違う真剣さでアガサが叫んだとき、銀髪の少年はあの時のように気だるく、
「……いいよ。連れていくだけなら」
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