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蜜の甘さを花は知れ
03
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「……一体、どういうことなのかねぇ……?」
アガサは独り、ぽつりと呟いた。
山の民は星空を夜の道しるべにする。星がどう動くかというのはいちばんよく知っているし、子どもにも真っ先に教える。だから、不気味で仕方ないのだ……星や月が、何時間経とうと全く動かないというのは。風は吹く。たき火が燃えれば木の枝は灰になる。それなのに、空は動かない。
「とはいえ、お天道さんとお星さんのことはあたいにはどうしようもないしねえ……」
アガサは子供の頃、母から聞いた言葉を思い出した。アガサがぐずって寝付かない夜、「寝ない子は外に置いてきちまうよ。悪い子にはお星さんが道を教えてくれなくなるんだからね」とよく言われたものだ。山村の子にとっては夜に獣に襲われるのは一番怖いことで、もし夜、外で迷子になったときに星を読めない、つまり方角も分からないというのはとてもとても恐ろしいことだった。
「あたい、何も悪いことはしてないよ」
アガサは平凡な女だ。それだけに、アガサには全く、何か悪いことをしたなんて記憶はなかった。日々、細やかな過ちや失敗はあっても、頭には残らない。こぼしたミルクは拭けばいいのだ。逆に言えば、記憶から決して離れないほどの大きな悪事をした事はない。していないはずだ。
「はー、父ちゃん母ちゃん、あたいが消えて心配してるだろうねえ。あ、昼過ぎにはアーティも来るんだったっけ?」
小さくあくびを上げて、落ち葉を集めた地面に背をつけて寝っ転がる。
(そういえば、あたいはあの時、どうして眠くなっちまったんだろうね。普段ならあんな時間に寝坊助になるなんてあり得ないのに。しかも、ちょっとくらいは腹が減ってたんだよ?)
非日常感に気付いてしまえば、考えるほどに不気味は増してくる。しかし平凡な村の女には、
(まあきっと、あたい風邪でも引いちまったんだろうね。それでぶっ倒れて……)
その程度しか考えが及ばなかった。もしアガサが風邪で倒れたとして、その病人を寒空の中岩穴に置き去りにするなど、もう異常事態としか思えないのだが、そこまでは考えが至らない。
その時、かすかに遠方より音が聞こえた。遠くに月光に照らされた人影も見えたような気がして、アガサは起き上がった。
「あれ、大きい方の妖怪さんかい?」
返事はない。代わりに、人影はゆらりと動いて遠ざかった。
「ん?」
よく見ようと立ち上がった時、風がどうっと大きく吹いてきて、アガサはひくりと鼻を動かした。
「焦げ臭い……たき火の臭いじゃないね……」
下を見れば、今の突風で火は消えてしまっている。細い煙がたなびいているが、アガサの鼻ほど高くには届いていなかった。
落ち葉と生木のくすぶる臭いだ。木だけではない、さまざまなものが広く焼け焦げた臭いだ。おそらく、野生の動物も。野宿で素人が生木を燃やし、飼った獣でも焼いたのか。しかし、それだけの火力にしては濃い臭いだ。先ほどまでは風向きが違ったか、たき火の煙のせいで鼻が鈍っていて気づかなかったのだろう。
「山火事だったらことだ!」
アガサは急いで、臭いの強い方へ歩みを進めた。山中に住む人間はなかなか臭いを追うのも慣れたものだ。幸いな事に夜なので、目立つ火の光が無いのは分かっている。火はおそらく消えた後だ。
(ま、呑気に寝てられないのは確かさね。ちっちゃい火でも残ってたらすぐまた火事になるからねえ)
落ち葉も火種。アガサは濃い臭いでおかしくなりそうな鼻と煙る空気が染みて痛い目をなんとか使って、見覚えのある道へとやってきた。
「これ、あたいの村に続く道……待っておくれよ、家に帰れるのは嬉しいけどさ、この臭い、村もただ事じゃあないね?!」
村のかがり火が燃え尽きているのは、よっぽどの事があったのだろう。村で火事が起きて総出で消したのだろうか? アガサは心配事ではやる胸を押さえて、足馴染んだ道を転ばないよう確実に進んだ。
「!!!!!」
どこかでアガサは信じていた。みんな、誰ひとり欠けることなく村人は無事だろうと。村のみんななら、火事とはいえ、なんとか対処できるだろうと。しかし、近づくにつれ、信じられないものが目に入ってきた。
「そ、そんな……嘘さね、嘘に決まってるさね……」
村が、燃え尽きてていた。害獣が入らないようにと作られた村周りの木柵が焦げ落ち、畑と家畜小屋が焼き払われ、住人たちの家が真っ黒な炭と灰の廃墟と化していた。明らかに、人が残っている様子はなかった。避難した跡もなかった。
信じられず、ふらふらとアガサは自分の家まで歩く。
「父ちゃん、母ちゃん……? み、みんな、どこかに避難したんだよね?」
焦げた廃屋に触って真っ黒になった手をぼんやりと見て、アガサは、家のドアを開けた。
「ひっ……。……あ、あああ……あ、あ、あ」
まだ残る強い臭気に、奥に見える、黒い、すすけている骨がのぞいている、塊が二つ。
アガサはこれが現実だと認めざるをえなかった。
「父ちゃん……母ちゃん……アーティ……ロキシー……ラデビー……」
ぺたりと焦げた切り株に腰掛け、ぶつぶつと村人の名を唱える。暗い眼で、思い出すままに名前を呼び続ける。
「レイ……ジョー……ラナ……みんな、死んじまったってのかい……? 誰か、誰か……生き残っていては、くれないのかい…………」
アガサには、全ての家を回ってまた白骨を見つけ出す勇気はなかった。見れば、死んだと確定してしまうのだ。死んだと確定してはいない者たち全員が生きていて、自分を迎えに来てくれる……そんな夢だけを見て、ただアガサは背を丸めて、顔を深く伏せた。そんな都合の良い事があるはずないと、分かってはいるのだ。村人たちが逃げ出せていたら、アガサの両親だけが死ぬなんて事もありえないのだから。ただ、それを受け止められるほどには、アガサの心は強くなかった。
「助けておくれよ……みんな、死んだなんて言わないでおくれ」
アガサの心の中には、暗い思いが広がっていた。助けを求めながら、助けた誰かに村人たちの死を告げられるのが怖かった。誰も来なければ自分も希望を持ったままでいられると、浅はかでも思っていた。白日の下に全てが晒されるのが怖かったのだ。アガサは思った、
(ああ、朝が来なくて良かった)
と。
そんなアガサの前に、暗い影がゆらりと、一つ現れる。アガサに気づかれぬまま、影はゆらりゆらりと、なぜかはっきりとしない揺らめく輪郭で、アガサの首に手を伸ばす。
「っ!」
アガサが存在に気づいたのは、本当にただの偶然だった。かすかに異質な空気を感じ取ったのだ。影の手は空を切り、咄嗟に立ち上がって横に逃げたアガサは、ようやくそれを目の当たりにする。
「……ひっ……!」
トリという妖怪を見たときでさえ、アガサはここまで怯えなかった。あの時はまだ、狼のような獣だと思っていた。ありえる存在が居る事に驚きはしなかった。しかし、これは違う。
『アガ……サ……』
それは、炎に包まれた人影だった。
人の焼ける臭いはしなかった。それが逆に怖かった。炎は揺らめいて明るいが、その明かりを逆光にした人影の前面は真っ暗に見える。肌が焦げて黒くなっているのかも分からない。それでも、ここまで近く、そして声を掛けられていれば、間違えようも無かった。
「あ……アーティっ?!」
目の前で全身燃えながら歩いてくる幼馴染は、不思議と苦しそうではない。アガサの方に向き直れば、落ち着いた足取りで焦げた足跡を残しながら歩いてくる。熱い。炎が手を伸ばしてくる。
『アガサ……』
呼びかけるのは、アガサがこれまで一度も聞いたことがないような、ねっとりとした声だった。
「ひっ……ど、どうして……嫌だよ……」
アガサがパニックと恐怖の中で、拒絶の言葉を吐いてしまったとして、誰が責められるだろう?
……しかし、この人影は、許さなかったらしい。煤で目から涙をこぼし、震えて縮こまってしまったアガサに向かって、その肩を荒々しく掴もうかという仕草で、影は手を伸ばす――
その時。
「ようやく出たな、タワゴト」
銀光がアガサの視界を切り裂いた。
アガサは独り、ぽつりと呟いた。
山の民は星空を夜の道しるべにする。星がどう動くかというのはいちばんよく知っているし、子どもにも真っ先に教える。だから、不気味で仕方ないのだ……星や月が、何時間経とうと全く動かないというのは。風は吹く。たき火が燃えれば木の枝は灰になる。それなのに、空は動かない。
「とはいえ、お天道さんとお星さんのことはあたいにはどうしようもないしねえ……」
アガサは子供の頃、母から聞いた言葉を思い出した。アガサがぐずって寝付かない夜、「寝ない子は外に置いてきちまうよ。悪い子にはお星さんが道を教えてくれなくなるんだからね」とよく言われたものだ。山村の子にとっては夜に獣に襲われるのは一番怖いことで、もし夜、外で迷子になったときに星を読めない、つまり方角も分からないというのはとてもとても恐ろしいことだった。
「あたい、何も悪いことはしてないよ」
アガサは平凡な女だ。それだけに、アガサには全く、何か悪いことをしたなんて記憶はなかった。日々、細やかな過ちや失敗はあっても、頭には残らない。こぼしたミルクは拭けばいいのだ。逆に言えば、記憶から決して離れないほどの大きな悪事をした事はない。していないはずだ。
「はー、父ちゃん母ちゃん、あたいが消えて心配してるだろうねえ。あ、昼過ぎにはアーティも来るんだったっけ?」
小さくあくびを上げて、落ち葉を集めた地面に背をつけて寝っ転がる。
(そういえば、あたいはあの時、どうして眠くなっちまったんだろうね。普段ならあんな時間に寝坊助になるなんてあり得ないのに。しかも、ちょっとくらいは腹が減ってたんだよ?)
非日常感に気付いてしまえば、考えるほどに不気味は増してくる。しかし平凡な村の女には、
(まあきっと、あたい風邪でも引いちまったんだろうね。それでぶっ倒れて……)
その程度しか考えが及ばなかった。もしアガサが風邪で倒れたとして、その病人を寒空の中岩穴に置き去りにするなど、もう異常事態としか思えないのだが、そこまでは考えが至らない。
その時、かすかに遠方より音が聞こえた。遠くに月光に照らされた人影も見えたような気がして、アガサは起き上がった。
「あれ、大きい方の妖怪さんかい?」
返事はない。代わりに、人影はゆらりと動いて遠ざかった。
「ん?」
よく見ようと立ち上がった時、風がどうっと大きく吹いてきて、アガサはひくりと鼻を動かした。
「焦げ臭い……たき火の臭いじゃないね……」
下を見れば、今の突風で火は消えてしまっている。細い煙がたなびいているが、アガサの鼻ほど高くには届いていなかった。
落ち葉と生木のくすぶる臭いだ。木だけではない、さまざまなものが広く焼け焦げた臭いだ。おそらく、野生の動物も。野宿で素人が生木を燃やし、飼った獣でも焼いたのか。しかし、それだけの火力にしては濃い臭いだ。先ほどまでは風向きが違ったか、たき火の煙のせいで鼻が鈍っていて気づかなかったのだろう。
「山火事だったらことだ!」
アガサは急いで、臭いの強い方へ歩みを進めた。山中に住む人間はなかなか臭いを追うのも慣れたものだ。幸いな事に夜なので、目立つ火の光が無いのは分かっている。火はおそらく消えた後だ。
(ま、呑気に寝てられないのは確かさね。ちっちゃい火でも残ってたらすぐまた火事になるからねえ)
落ち葉も火種。アガサは濃い臭いでおかしくなりそうな鼻と煙る空気が染みて痛い目をなんとか使って、見覚えのある道へとやってきた。
「これ、あたいの村に続く道……待っておくれよ、家に帰れるのは嬉しいけどさ、この臭い、村もただ事じゃあないね?!」
村のかがり火が燃え尽きているのは、よっぽどの事があったのだろう。村で火事が起きて総出で消したのだろうか? アガサは心配事ではやる胸を押さえて、足馴染んだ道を転ばないよう確実に進んだ。
「!!!!!」
どこかでアガサは信じていた。みんな、誰ひとり欠けることなく村人は無事だろうと。村のみんななら、火事とはいえ、なんとか対処できるだろうと。しかし、近づくにつれ、信じられないものが目に入ってきた。
「そ、そんな……嘘さね、嘘に決まってるさね……」
村が、燃え尽きてていた。害獣が入らないようにと作られた村周りの木柵が焦げ落ち、畑と家畜小屋が焼き払われ、住人たちの家が真っ黒な炭と灰の廃墟と化していた。明らかに、人が残っている様子はなかった。避難した跡もなかった。
信じられず、ふらふらとアガサは自分の家まで歩く。
「父ちゃん、母ちゃん……? み、みんな、どこかに避難したんだよね?」
焦げた廃屋に触って真っ黒になった手をぼんやりと見て、アガサは、家のドアを開けた。
「ひっ……。……あ、あああ……あ、あ、あ」
まだ残る強い臭気に、奥に見える、黒い、すすけている骨がのぞいている、塊が二つ。
アガサはこれが現実だと認めざるをえなかった。
「父ちゃん……母ちゃん……アーティ……ロキシー……ラデビー……」
ぺたりと焦げた切り株に腰掛け、ぶつぶつと村人の名を唱える。暗い眼で、思い出すままに名前を呼び続ける。
「レイ……ジョー……ラナ……みんな、死んじまったってのかい……? 誰か、誰か……生き残っていては、くれないのかい…………」
アガサには、全ての家を回ってまた白骨を見つけ出す勇気はなかった。見れば、死んだと確定してしまうのだ。死んだと確定してはいない者たち全員が生きていて、自分を迎えに来てくれる……そんな夢だけを見て、ただアガサは背を丸めて、顔を深く伏せた。そんな都合の良い事があるはずないと、分かってはいるのだ。村人たちが逃げ出せていたら、アガサの両親だけが死ぬなんて事もありえないのだから。ただ、それを受け止められるほどには、アガサの心は強くなかった。
「助けておくれよ……みんな、死んだなんて言わないでおくれ」
アガサの心の中には、暗い思いが広がっていた。助けを求めながら、助けた誰かに村人たちの死を告げられるのが怖かった。誰も来なければ自分も希望を持ったままでいられると、浅はかでも思っていた。白日の下に全てが晒されるのが怖かったのだ。アガサは思った、
(ああ、朝が来なくて良かった)
と。
そんなアガサの前に、暗い影がゆらりと、一つ現れる。アガサに気づかれぬまま、影はゆらりゆらりと、なぜかはっきりとしない揺らめく輪郭で、アガサの首に手を伸ばす。
「っ!」
アガサが存在に気づいたのは、本当にただの偶然だった。かすかに異質な空気を感じ取ったのだ。影の手は空を切り、咄嗟に立ち上がって横に逃げたアガサは、ようやくそれを目の当たりにする。
「……ひっ……!」
トリという妖怪を見たときでさえ、アガサはここまで怯えなかった。あの時はまだ、狼のような獣だと思っていた。ありえる存在が居る事に驚きはしなかった。しかし、これは違う。
『アガ……サ……』
それは、炎に包まれた人影だった。
人の焼ける臭いはしなかった。それが逆に怖かった。炎は揺らめいて明るいが、その明かりを逆光にした人影の前面は真っ暗に見える。肌が焦げて黒くなっているのかも分からない。それでも、ここまで近く、そして声を掛けられていれば、間違えようも無かった。
「あ……アーティっ?!」
目の前で全身燃えながら歩いてくる幼馴染は、不思議と苦しそうではない。アガサの方に向き直れば、落ち着いた足取りで焦げた足跡を残しながら歩いてくる。熱い。炎が手を伸ばしてくる。
『アガサ……』
呼びかけるのは、アガサがこれまで一度も聞いたことがないような、ねっとりとした声だった。
「ひっ……ど、どうして……嫌だよ……」
アガサがパニックと恐怖の中で、拒絶の言葉を吐いてしまったとして、誰が責められるだろう?
……しかし、この人影は、許さなかったらしい。煤で目から涙をこぼし、震えて縮こまってしまったアガサに向かって、その肩を荒々しく掴もうかという仕草で、影は手を伸ばす――
その時。
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