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蜜の甘さを花は知れ
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風が吹いて、月夜に雲が千切れ飛ぶ。細切れの雲は月光を隠して、晒して、隠して、晒して、目まぐるしく光と陰が移ろう中を、ふと、二つの流星のようなものが横切った。星ならば光るだろうが、それはどこまでも黒く、月や星の光を纏った闇夜などよりはるかに暗い。一つは風に舞うように、一つは水が流れるように、空から地上へ落ちて行った。
――――――――――――
「いたっ……」
アガサは全身にだるい痛みを感じながら目覚めると、ゆっくりと身を起こした。
「……あら、ここはどこかね?」
そして首をこくりと傾けた。
アガサは山奥の小さな村の女で、生まれつき少し頭が良かった。計算ができたので、狩人や木こりばかりの村の中で、若くしてお金のやりとりを任されていた。男たちは肉や皮、骨、木を街で売り、必要な物を買う。アガサはそこについて行って見張ったり女の買い物をするのだ。それ以外は村で細かな仕事をして暮らす。この間、頑張って貯めたお金で街で買った小さな光る石のネックレスが一番の宝物、そんな、平凡な女だ。
この間、アガサは無口な狩人アーティと結婚する事になった。アーティは隣の家に住む幼馴染で、夫婦になるなんて考えもしなかった相手だった。アーティもそうだろう。
この村では、年の近い男女が結婚することになるのは普通の事だ。街の華やかな女たちに比べればアガサはぽっちゃりして見栄えのしない顔だし、特に好きな相手もいない。村で決めた相手に不満はない。アーティと二人で家の中にいる所を思い浮かべると不思議な気持ちがしたが、気心知れた仲だから、そのうち落ち着くだろう。子どもが出来ればそれでいいのだ。
結婚祝いの時には、とても大きな肉を丸ごと焼いて皆で食べる。それが、楽しみだった。
そんな平凡なアガサは、なぜか……真っ暗な中一人で、冷たくゴツゴツとした地面の上に倒れていたのだった。
「ここは……あたい、何してたっけ。確か、家でご飯を作ってて……アーティが来るって言ってたっけね。そして、あたい……昼寝でもしたのかねえ。少なくとも、ぶっ倒れるような事はしてないさね?」
考えをまとめるのは、口に出しながらだとやりやすくなるという事をアガサは知っていた。慌てていないわけではないが、どこかのんびりした性格なのだ。声がかすかに辺りに響いたので、そんなに広くない空間だと知る。上から冷気とかすかな光が降ってくる。アガサが立ち上がると、そこに月が見えた。
「……ここ、岩穴じゃないか」
山には時々、岩穴がある。岩といっても、言ってしまえば自然にできた落とし穴だ。岩が詰まって穴になっていないようなものが多いが、今アガサがいるのは深く、崖をよじ登るのに慣れていなければ上まで上がれないような深い穴だった。
「うーん、崖登りなんて、しばらくやってないよ。参ったねえ」
アガサは困って辺りを見渡した。最近の運動といえば山の上り下りと大きな獣肉を運んで捌くくらいで、体重も軽くない彼女には元気な子供のように登る自信がなかった。手元もおぼつかない暗さだし、諦めて朝を待った方が良さそうだ。
「どうしてこんなとこに落ちちまったんだか。あたい家を出ちゃいなかったのに。誰かいたずらでもしたのかねえ、でも、あたいをわざわざ岩穴に落とすなんてひどいじゃないか!」
アガサはまだ正体の分からない犯人に憤りながら、地面を漁った。山の夜は寒い。何より地面からくる寒さが酷いので、何か寒さを防げるものが欲しかった。石ころや落ち葉ばかりが少しだけ転がる地面に、ふと、何か違うものが触れた。
「うん?」
持ち上げると、何かつるつるとした石だった。もしかしたら良いものかもしれない。明るいところに出たら見てみようと、アガサはポケットに石を入れる。
助けになりそうなものはなかったが、落ち葉を集めた中に入って寝ていれば夜を越すくらいは楽になるだろう。アガサは楽観的にガサガサと落ち葉を集め始めた。
アガサは、夜に目立たないところで大人しくしている分には獣に襲われることはあまりないと知っていた。アーティが狩りの話をするときに言っていたのだ。獣は賢いから、そうそう岩穴に落ちる事もない、と。だからアガサは安心しきっていた。岩穴にすとり、と大きなものが飛び降りてきた時も、誰かが助けに来たんじゃないかと少し思ってしまった。
「あ……」
月夜にほんのり浮かび上がるシルエットに、鋭い五本の爪を見て、ようやくアガサは恐怖を感じた。
大きさはアガサより少し大きい。ガサガサと落ち葉を踏みしめて、真っ直ぐアガサへと近づいてくる。アガサは逃げる事もできず、ぎゅっと目を瞑った。
「なにか居るよ!」
獣の吠え声や爪が空を切る音の代わりに、思いがけず明るい少年の声が響く。アガサはそおっと目を開いた。
獣はいない。代わりに、赤髪の大柄な少年が、虚空を見ながら黒手袋でアガサを指差していた。横顔しか見えないけれど、こんな場所に不似合いな明るい姿に、アガサは虚を突かれる。明るい表情は暗闇の中でも際立ち、見開かれた円らな瞳はマーブルアイと言うのだったか、青と茶が混ざり合って美しかった。じっと見つめてしまったアガサは、少年の見ている所に、実は闇を切り取ったような真っ黒の蝶々が羽ばたいているのに気づくのが遅れた。
「おい先走るな、トリ……って、人か」
赤い少年とは別の声がした。どこからか、何匹もの蝶々が少年の指差す方へと飛んできては群れ集まる。霞のように闇がぼやけて、その場に奇跡のように(アガサの知る限り魔術というのは傷の治りを早くするくらいの力しかないけれど、もし魔術のような奇跡があるとすればこんな風だろう)、もう一人、暗い鏡のような銀色の目と、揃いの暗銀髪をした少年が現れた。赤い少年よりも体が細く低い。というより、赤い少年がしっかりした身体つきだからだろうか。
「これ、花じゃない?」
何を言われているのかと、指差されたままのアガサは目をぱちくりさせた。驚きすぎて何も言えない間に、少年達はアガサの前であれこれと話す。
「花じゃない。これは花人じゃないか?」
「はなびと?」
「匂うけど花じゃない。人」
「うーん? 持ってっちゃだめなの?」
「花じゃないから駄目だ」
「分かった!」
銀髪の少年と話して満足したのか、トリと呼ばれた赤髪の少年は眩しいほどの笑顔を浮かべてアガサにグイグイ近寄ってきた。
「ねー、何してるのー?」
「え……ええっと、あたいは」
「トリ近い。もう少し離れて。……あー、僕たちの言語、君に通じてるか?」
アガサは気圧されながら、なんとか頷く。銀髪の少年は「一般人か」と呟くと、赤髪の少年の肩を掴んで引き戻した。
「行くぞ、トリ。ここには無い」
「えー! ノナ、でも」
「駄目だ。分かったって言ったよなさっき」
「待って! 待ってくれよ、あんたたち」
アガサは思わず少年たちに呼びかけていた。何を言おうと決めていたわけではなく、ただ、今呼び止めなければ彼らは去ってしまうと思ったから。
「あ、あたい、ここから出られないんだ。よかったらあんたたち、助けてくれないかい?」
「……」
「ずっと連れて行けとかあたいの家まで送れなんて言わないさ。ただ、この岩穴から外に出るのだけ手伝っちゃくれないかい? 頼むよ、この通りさ」
アガサは不器用に手を合わせて、少年たちに頭を下げた。
「……僕らの事、怖くないのか?」
「あたいは山神さまにあれこれ言ったりしないよ」
そう、アガサは彼らを、もののけ、だと思っていた。人にはできないようなことをするのだから、もののけなのだろう。アガサの村にはきちんと、山を敬い見えないものに祈りを捧げる信仰が根付いていた。
「ぼくたち、そんなすごいのじゃないよー。ただの妖怪!」
だから、少年の言葉にも、さもありなんと頷いた。ざっくりした信仰のアガサには、神だろうが妖怪だろうが、すごいものなら同じだった。あとは自分たちを助けてくれるかどうかだ。
「……分かった。上に引き上げるだけなら」
銀髪の少年がため息をついて言うと、赤髪の少年は嬉しそうに首を上下に振った。
(なんだか、犬と飼い主みたいだねえ)
とアガサは思うのだった。
――――――――――――
「いたっ……」
アガサは全身にだるい痛みを感じながら目覚めると、ゆっくりと身を起こした。
「……あら、ここはどこかね?」
そして首をこくりと傾けた。
アガサは山奥の小さな村の女で、生まれつき少し頭が良かった。計算ができたので、狩人や木こりばかりの村の中で、若くしてお金のやりとりを任されていた。男たちは肉や皮、骨、木を街で売り、必要な物を買う。アガサはそこについて行って見張ったり女の買い物をするのだ。それ以外は村で細かな仕事をして暮らす。この間、頑張って貯めたお金で街で買った小さな光る石のネックレスが一番の宝物、そんな、平凡な女だ。
この間、アガサは無口な狩人アーティと結婚する事になった。アーティは隣の家に住む幼馴染で、夫婦になるなんて考えもしなかった相手だった。アーティもそうだろう。
この村では、年の近い男女が結婚することになるのは普通の事だ。街の華やかな女たちに比べればアガサはぽっちゃりして見栄えのしない顔だし、特に好きな相手もいない。村で決めた相手に不満はない。アーティと二人で家の中にいる所を思い浮かべると不思議な気持ちがしたが、気心知れた仲だから、そのうち落ち着くだろう。子どもが出来ればそれでいいのだ。
結婚祝いの時には、とても大きな肉を丸ごと焼いて皆で食べる。それが、楽しみだった。
そんな平凡なアガサは、なぜか……真っ暗な中一人で、冷たくゴツゴツとした地面の上に倒れていたのだった。
「ここは……あたい、何してたっけ。確か、家でご飯を作ってて……アーティが来るって言ってたっけね。そして、あたい……昼寝でもしたのかねえ。少なくとも、ぶっ倒れるような事はしてないさね?」
考えをまとめるのは、口に出しながらだとやりやすくなるという事をアガサは知っていた。慌てていないわけではないが、どこかのんびりした性格なのだ。声がかすかに辺りに響いたので、そんなに広くない空間だと知る。上から冷気とかすかな光が降ってくる。アガサが立ち上がると、そこに月が見えた。
「……ここ、岩穴じゃないか」
山には時々、岩穴がある。岩といっても、言ってしまえば自然にできた落とし穴だ。岩が詰まって穴になっていないようなものが多いが、今アガサがいるのは深く、崖をよじ登るのに慣れていなければ上まで上がれないような深い穴だった。
「うーん、崖登りなんて、しばらくやってないよ。参ったねえ」
アガサは困って辺りを見渡した。最近の運動といえば山の上り下りと大きな獣肉を運んで捌くくらいで、体重も軽くない彼女には元気な子供のように登る自信がなかった。手元もおぼつかない暗さだし、諦めて朝を待った方が良さそうだ。
「どうしてこんなとこに落ちちまったんだか。あたい家を出ちゃいなかったのに。誰かいたずらでもしたのかねえ、でも、あたいをわざわざ岩穴に落とすなんてひどいじゃないか!」
アガサはまだ正体の分からない犯人に憤りながら、地面を漁った。山の夜は寒い。何より地面からくる寒さが酷いので、何か寒さを防げるものが欲しかった。石ころや落ち葉ばかりが少しだけ転がる地面に、ふと、何か違うものが触れた。
「うん?」
持ち上げると、何かつるつるとした石だった。もしかしたら良いものかもしれない。明るいところに出たら見てみようと、アガサはポケットに石を入れる。
助けになりそうなものはなかったが、落ち葉を集めた中に入って寝ていれば夜を越すくらいは楽になるだろう。アガサは楽観的にガサガサと落ち葉を集め始めた。
アガサは、夜に目立たないところで大人しくしている分には獣に襲われることはあまりないと知っていた。アーティが狩りの話をするときに言っていたのだ。獣は賢いから、そうそう岩穴に落ちる事もない、と。だからアガサは安心しきっていた。岩穴にすとり、と大きなものが飛び降りてきた時も、誰かが助けに来たんじゃないかと少し思ってしまった。
「あ……」
月夜にほんのり浮かび上がるシルエットに、鋭い五本の爪を見て、ようやくアガサは恐怖を感じた。
大きさはアガサより少し大きい。ガサガサと落ち葉を踏みしめて、真っ直ぐアガサへと近づいてくる。アガサは逃げる事もできず、ぎゅっと目を瞑った。
「なにか居るよ!」
獣の吠え声や爪が空を切る音の代わりに、思いがけず明るい少年の声が響く。アガサはそおっと目を開いた。
獣はいない。代わりに、赤髪の大柄な少年が、虚空を見ながら黒手袋でアガサを指差していた。横顔しか見えないけれど、こんな場所に不似合いな明るい姿に、アガサは虚を突かれる。明るい表情は暗闇の中でも際立ち、見開かれた円らな瞳はマーブルアイと言うのだったか、青と茶が混ざり合って美しかった。じっと見つめてしまったアガサは、少年の見ている所に、実は闇を切り取ったような真っ黒の蝶々が羽ばたいているのに気づくのが遅れた。
「おい先走るな、トリ……って、人か」
赤い少年とは別の声がした。どこからか、何匹もの蝶々が少年の指差す方へと飛んできては群れ集まる。霞のように闇がぼやけて、その場に奇跡のように(アガサの知る限り魔術というのは傷の治りを早くするくらいの力しかないけれど、もし魔術のような奇跡があるとすればこんな風だろう)、もう一人、暗い鏡のような銀色の目と、揃いの暗銀髪をした少年が現れた。赤い少年よりも体が細く低い。というより、赤い少年がしっかりした身体つきだからだろうか。
「これ、花じゃない?」
何を言われているのかと、指差されたままのアガサは目をぱちくりさせた。驚きすぎて何も言えない間に、少年達はアガサの前であれこれと話す。
「花じゃない。これは花人じゃないか?」
「はなびと?」
「匂うけど花じゃない。人」
「うーん? 持ってっちゃだめなの?」
「花じゃないから駄目だ」
「分かった!」
銀髪の少年と話して満足したのか、トリと呼ばれた赤髪の少年は眩しいほどの笑顔を浮かべてアガサにグイグイ近寄ってきた。
「ねー、何してるのー?」
「え……ええっと、あたいは」
「トリ近い。もう少し離れて。……あー、僕たちの言語、君に通じてるか?」
アガサは気圧されながら、なんとか頷く。銀髪の少年は「一般人か」と呟くと、赤髪の少年の肩を掴んで引き戻した。
「行くぞ、トリ。ここには無い」
「えー! ノナ、でも」
「駄目だ。分かったって言ったよなさっき」
「待って! 待ってくれよ、あんたたち」
アガサは思わず少年たちに呼びかけていた。何を言おうと決めていたわけではなく、ただ、今呼び止めなければ彼らは去ってしまうと思ったから。
「あ、あたい、ここから出られないんだ。よかったらあんたたち、助けてくれないかい?」
「……」
「ずっと連れて行けとかあたいの家まで送れなんて言わないさ。ただ、この岩穴から外に出るのだけ手伝っちゃくれないかい? 頼むよ、この通りさ」
アガサは不器用に手を合わせて、少年たちに頭を下げた。
「……僕らの事、怖くないのか?」
「あたいは山神さまにあれこれ言ったりしないよ」
そう、アガサは彼らを、もののけ、だと思っていた。人にはできないようなことをするのだから、もののけなのだろう。アガサの村にはきちんと、山を敬い見えないものに祈りを捧げる信仰が根付いていた。
「ぼくたち、そんなすごいのじゃないよー。ただの妖怪!」
だから、少年の言葉にも、さもありなんと頷いた。ざっくりした信仰のアガサには、神だろうが妖怪だろうが、すごいものなら同じだった。あとは自分たちを助けてくれるかどうかだ。
「……分かった。上に引き上げるだけなら」
銀髪の少年がため息をついて言うと、赤髪の少年は嬉しそうに首を上下に振った。
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