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白洲にて一反木綿
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【白虹よ空落ちぬよう貫き止めよ雲の白では力不足だ】
まず白状せねばなるまい。私はこの、異国の澄んだ川沿いの白洲にて自害を試みていた。
私は英国人だ。「白洲」なるものがかつてこの国で、罪人を座らせる場であったことを知っていたわけではない。しかし、一面の白砂が陽の光を撥ね返して眩しく私の眼を焼くのには、文化圏を越えて奇妙な感慨を抱いた。率直に言えば、私らしくもなく素直になりたいと思った。
「やれやれ」
私はしばらくの間、円い砂利を情緒もなく踏み歩いた。探していたのだ、衝動的な自害に何か使えるものはないかと。入水するには川は浅い。喉に詰まらせるには砂石は心許ない。不可能ではないが、この感傷には相応しくない――
その時に、白洲よりも雲よりも真っ白な木綿地の布が一切れ、私の目を惹いたのも無理はないだろう。それが風もないのに生きているように空をはためいていたのだから、尚更だ。
私は手を伸ばして、布を捕まえた。
まるで小さな龍のように逃れようと布が激しくはためく。自暴自棄とは不思議なもので、私はさして驚かなかった。異常現象にも迷わず、それを首に巻き付けた。もがく布は、暴れて勝手に首を締め付けてくる。
(騒々しいが、処刑台よりは遥かに、良い……)
その騒がしさも、意識が薄れるにつれて消えていく。それで本当に、終わるはずだった。
「見ーつけたっ! 荒っぽいのは我慢して、ジャック・ザ・リッパー! 君のためだよ」
……なぜ息を吹き返したのか、状況を把握するのに時間がかかった。
初めは夕陽が見えているのかと思った。揺らめく炎の塊だ。それから、ぼやけた視界が明瞭になってゆくと、茜い瞳が遠のいて、そこに少女の顔があった。
見た限り、歳は十をそう越えないだろう。私でも知る東国の衣装、着物を着て、紅茜に艶めく美しいショートの黒髪をなびかせた、人形のように美しい少女だった。彼女は目を薄く開いた私を見て、嬉しそうにつり目をくりりと光らせた。そして、息を吹き返させるために私の首から奪い取ったばかりのはずの木綿布を、私の口に詰め込んだのだった。
息が詰まる。それでも、いや、そんな事よりも、私は少女を驚きの目で見ていた。
彼女は今、私をなんと呼んだ?
【そのメスを鏡にまつ毛除きをり数人を亡き者にした刃の】
次に、あえてジャック・ザ・リッパーに触れるべきだろうか。
語らずとも知る者は多いだろう。1888年に突如現れた名無し亡霊。正体不明の狂気。短期間で何人もの娼婦を喉掻っ切って殺し、臓器を持ち去った恐怖の連続殺人鬼。
……そう呼ばれているのが、いたのが、この私だ。
「あたしはね、こんな形して英国に実は居たのよ? それで見てたの」
「私の処刑を?」
「そうね、見た。それと死ぬ前しばらくの貴方が何をしたかってこと」
幼さを残しながらもどこか妖艶に微笑む少女は、今、かの白洲の近くの草むらに私と腰掛けていた。そして、窒息寸前の私の喉からやっと引っ張り出した木綿の布を、麺のように細く引き裂いているところだった。
さて、先程の会話から分かるだろう。私は死人だ。英国の片田舎、炙り出され追い詰められ捕らえられた殺人鬼ジャックは、1889年の大晦日に民衆の眼前で首を刎ねられた。そのはずだった。
それがどうして遠く離れた和の東国に居るのか、生きているかのように振る舞えるのか。全ては、眼前の人ならざる少女が握っている。
「……君は何者だ?」
「あなたを知る者よ、リッパー。……正しくは、あなたの名前も知らないけれど」
その言葉に、改めて確信する。彼女は私をよく知る者だ。
「この国じゃ、あたしは『妖怪』って呼ばれて……あ、はいこれ。あなたの私物」
私は目を瞬かせてしまった。目の前に差し出されたのは確かに私のもので、ジャック・ザ・リッパーの得物としてよく知られる種の刃物……大振りなメスだった。
何故警察に奪われたはずの私の物を持っている? そして、何故わざわざ私へ渡す?
……受け取れば、すぐさま持ち手は私の手に馴染む。まるで貼り付くように。元は体の一部だったかのように。かつて名医とも言われた私にとってこれは、間違いなく私を構成する一部だった……。
私は確かめるようにまた握り込み、少し指を緩め、鋭い刃先を一瞥して――そして、少女の喉へと横一文字に薙いでいた。
「無理だって。だってあたしは妖怪よ? なみの刃物は突き抜けちゃうわ」
……妖怪。一体彼女は何者なのだろう。その言通り、彼女の喉には傷一つないなめらかな皮膚が張っているままだった。
感触はあった。霞を斬ったような、わずかな感触は。
「……先ほど手渡してくれた際には、確かにその手で持っていたようだが」
笑みで返される。気分を害した素振りすらない。私は追求を諦めて、メスを革の鞘袋に仕舞った。
何故己がこの少女に刃を向けたのか、自分でも分からない。思いもかけない衝動が働いたのだ。衝動。未だかつて、私をろくに突き動かすことのなかった激しい感情の突沸だ。生前の私、と言うべきだろうか?
「……私は、生きているのか?」
「半分は正解、半分不正解。生死の間で少しお化け――それがあなたの現状よ。どんな気分?」
そこで少し、少女は私を見つめた。
「そしてあたしがそれを決めるの」
「君が?」
「あなたをね、素敵な怪異にしてあげる。もう決めたから拒否権はなし!」
「それは」
「そしてあたしと一緒にね、この世界すべての美食を食べ尽くすのよ」
まだ出逢って間もない少女は、私が名さえ知り得ない彼女は、私が断ることなど有り得ぬと手を伸ばす。
「それは――思いもかけない話だ」
伸ばされた手を真っ直ぐ取ることができればどれだけ良かっただろう。その表情に迷わず応えられればどれだけ良かっただろう。つい先程まで死を考えていた私が、つい先程死の記憶から目醒めたばかりの私が、……つい先程、目に映る限りの者全てから死を望まれて処刑を受けた記憶を抱えた私が、何かを信じる事は余りにも困難だったのだ。
私に手を拒まれた若く美しき令嬢は、意外にも顔色を変えなかった。代わりに、有無を言わさず、私の口へ、裂いていた木綿の布切れを突っ込んだのだ!
「はい、まずは一反木綿の素のさらだ。食べにくいからよおく噛んでね」
「っ……!」
一反木綿? それは、東国の妖怪の名ではないか。何故妖怪を名乗る者が、同じ妖怪を食わせようとする。そもそも妖怪を食って何とする? 私は、流石に拒否しようとした。そのはずが、動くことが出来なくなった。
ただの木綿布の癖をして、何だ、この味は。
舌だけではない、肌も唇も歯も喉も、触れた場所全てから衝撃が脳を衝く。痺れて焼きついてゆく。快感を司る脳領域を信号が流れてゆくのが直接感じられる。
それでいて、味は素朴なものだった。味を直接説明することは不可能だが、何故か、ろくに覚えてもいないはずの幼き頃に食べた、母の割り茹で芋を思い出す――
「か……感謝、する」
私の目からは、雫が垂れ落ちていた。不可思議な事に、それを恥とも思わなかった。
【一目惚れほど虚なるものはなし一生消えぬ傷弓なれば】
「……驚いたよ」
メスの鞘袋のように、処刑台には持ち込めなかったはずの私物を、何故か私は数点所持していた。紳士服と帽子までもだ。残念ながら気に入っていたタイタックピンと革財布は無いが、数少ない所持品の中にナプキンがあったのは相当の幸いといえよう。今こうして、微かな羞恥心を持て余しながらも、ナプキンで口を拭うことが出来るのだから。
まともに人生を生きること叶わず、終いには誰からも死を望まれた。それでいて処刑されて尚、消えることすら叶わなかった。……生者とも死者ともつかぬ半端などに成り果てた詰みの先で、人生で最大の感動と出会うことがあるなどと誰が想起し得るだろう?
「神に……」
「神なんていないの」
「っ!」
神に感謝を。
そう言いかけていたことに気づいて私はぞっとする。この場の誰が神を気に掛けるべきだというのだろう。少女は微笑む。
「……かもしれないし、あたしも一反木綿もただの妖怪」
神に感謝を。ある宗教を信仰する者らの中において当然のように口癖にせざるを得なかった言だ。きっと、殺人鬼にも半死者にも妖怪にもそぐわない。
【生贄の羊にだって神がおり神に身代って生贄がおり】
「……私は、まだ」
「囚われているのよ、ジャック。人ならばそれも一つの生き方だけど……今の貴方は自由。あんな人間のことはいったん忘れてみない?」
「あんな人間……?」
「神父とか教師警察ほか全て? 貴方を全否定してた奴ら」
彼女の眼は、急かすでもなくただ、私を円く見つめる。
「人生はつまんない事だけだった? 楽しいことだけ思い出してよ」
「私の人生など……」
「初めての楽しみをあげるとは言わない。だって全てが貴方、でしょう?」
「全てが私?」
「生きてきた全てが貴方を作ってる。貴方は肯定されるべきだわ。ねえリッパー、気づいてないの? 貴方って実はとっても魅力的だわ!」
「?!」
私は困惑と動揺を隠せなかった。私からすれば出会ったばかりのこの少女が、何故私の事をここまで買うのだ。
「私の何が気に入ったのだ? 君と私はほぼ初対面、いや、君がほんの僅か私を知っている程度だろう」
それに対する彼女の答えは、ひどく単純だった。
「聖餐? を断ったでしょ、貴方ったら。最期の餐は終えたと言って」
あの忌々しい逮捕の折、私は行きつけの酒場でフル・ブレックファーストを食していた。食事を終えるまでも待たれずに捕縛された私は、腹を立てたのだ。
『どうせ直ぐ処刑するだろう? 味気ないパンと葡萄酒など御免だよ』
死刑囚への配慮だったのだろう。聖餐ーーキリストの最期の晩餐とされる献立が出されたが、獄中の私はそれを断った。予想を超えて二日ほど留め置かれたが、幸い、飢えて誇りを失う前に処刑される事が出来たわけだ。腹中に物が入っていなかったのだ、さぞや死体の始末も楽だったろう。
「……それが理由なのか?」
「うん、そうよ。貴方の最期の朝餐と同じものを食べてみただけ」
少女はそこで、表情を崩した。ぐにゃりと音がしそうな程に頬を緩ませて、恍惚の笑みを浮かべたのだ。
「……あんなにも病みつきになる人間の料理があると思わなかったの」
「……それは、つまり」
「貴方はね、とても素敵な人間の料理を一つ教えてくれた。あたしにはそれだけでもう分かるのよ。貴方と居ればきっと楽しい」
そんな理由で、彼女は私を此処へ連れてきて食を与え、言葉を砕き、勧誘していたのか。
「君は……根っからの美食家なのか」
「根付くほど足は無いけど知ってるわ。美味はあたしを裏切らないの」
言い切る彼女は、ただの少女にはもう見えない。無邪気で大胆で、……確かに私の事を知っているらしい。得体の知れないものを見つめる私の前で、いきなり残りの木綿布をむしゃむしゃと食べ始める。……美味しそうに。
(自由だ)
その姿が、とても鮮烈だった。
【もし黄泉へ迷い込もうが食うことを生きる行為を止められようか?】
「……その『一反木綿』、そのような美味が、この世界にはまだ溢れているのか」
「勿論よ! こんなものじゃあ足りないわ。世界はもっと広いんだもの」
「……ならば、君に感謝と忠誠を」
私は膝をついて低く身を屈め、まだ木綿を頬張っている彼女から片手を取って口付けた。
「美食家の麗しき妖怪嬢、君の事を何とお呼びしようか?」
それを聞いた彼女は、一瞬きょとんと首を傾けて、間も無く「あはははは!」と笑い出した。
【シャル*ウィ*ダンス? 鏡合わせの劇場で一〇〇〇の私が一〇〇〇の貴女へ】
「ほんと? あたしがお嬢さん? 女の子じゃなくて淑女ですって?」
「勿論だ、レディ」
「貴方って紳士なのね、ジャックさんーーだけど貴方に呼べるでしょうか?」
少女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。本当に彼女はくるくると表情を変える。まるで光を受けて遊色する黒蛋白石のようだ。
その彼女が、艶めく唇を開く。確かに声を発する。
「***** ******* ***** ******* *******」
「……何?」
「長いからみんな短くして呼ぶの。*******とか*****」
幾つかの丸鈴の鳴るような音が、彼女の美声をかき消す。不快な音ではない。ただ、邪魔だ。口の動きを読もうとすれば花を開いたような形の幻覚がまとわりつき、読唇を遮った。
「何……何と言っている?」
「人間はあたしの名前を知れないの。あたしはそういう怪異だから」
少女はまた微笑む。その目には憐れみも悲しみもなく、ただ、火が灯っていた。揺らめく炎は期待の形をしているのだ。
「じゃあジャック、エスコートしてくださいな? 名前を知れるようになるまで」
「……なるほど」
「紳士ならレディーの名前は呼べなくちゃ。誓いの言葉はちゃんと聞かせて」
「承知した」
今度こそ、考えるまでもなくその手を取った。
人間の半端から本物の妖怪へと変わった時、きっと私は彼女の名を知る事が許される。それはひどく甘美な事であるように思えたのだ。それに、自称美食家として、新たな珍味へと足踏み出さずにはいられないだろう。
「私は生前より美食を愛していた。愚かなる者らは英国人に味は分からないと揶揄したが、君もそう思うか?」
「全っ然! むしろ貴方が適任よ、ジャック・ザ・リッパー。さあ行きましょう?」
少女は思いがけず強い力で私の手を引いて立たせると、早くも地平の彼方を目掛けて走り出そうとするのだ。その強引なる無邪気さが、ひたすらに眩しかった。
まず白状せねばなるまい。私はこの、異国の澄んだ川沿いの白洲にて自害を試みていた。
私は英国人だ。「白洲」なるものがかつてこの国で、罪人を座らせる場であったことを知っていたわけではない。しかし、一面の白砂が陽の光を撥ね返して眩しく私の眼を焼くのには、文化圏を越えて奇妙な感慨を抱いた。率直に言えば、私らしくもなく素直になりたいと思った。
「やれやれ」
私はしばらくの間、円い砂利を情緒もなく踏み歩いた。探していたのだ、衝動的な自害に何か使えるものはないかと。入水するには川は浅い。喉に詰まらせるには砂石は心許ない。不可能ではないが、この感傷には相応しくない――
その時に、白洲よりも雲よりも真っ白な木綿地の布が一切れ、私の目を惹いたのも無理はないだろう。それが風もないのに生きているように空をはためいていたのだから、尚更だ。
私は手を伸ばして、布を捕まえた。
まるで小さな龍のように逃れようと布が激しくはためく。自暴自棄とは不思議なもので、私はさして驚かなかった。異常現象にも迷わず、それを首に巻き付けた。もがく布は、暴れて勝手に首を締め付けてくる。
(騒々しいが、処刑台よりは遥かに、良い……)
その騒がしさも、意識が薄れるにつれて消えていく。それで本当に、終わるはずだった。
「見ーつけたっ! 荒っぽいのは我慢して、ジャック・ザ・リッパー! 君のためだよ」
……なぜ息を吹き返したのか、状況を把握するのに時間がかかった。
初めは夕陽が見えているのかと思った。揺らめく炎の塊だ。それから、ぼやけた視界が明瞭になってゆくと、茜い瞳が遠のいて、そこに少女の顔があった。
見た限り、歳は十をそう越えないだろう。私でも知る東国の衣装、着物を着て、紅茜に艶めく美しいショートの黒髪をなびかせた、人形のように美しい少女だった。彼女は目を薄く開いた私を見て、嬉しそうにつり目をくりりと光らせた。そして、息を吹き返させるために私の首から奪い取ったばかりのはずの木綿布を、私の口に詰め込んだのだった。
息が詰まる。それでも、いや、そんな事よりも、私は少女を驚きの目で見ていた。
彼女は今、私をなんと呼んだ?
【そのメスを鏡にまつ毛除きをり数人を亡き者にした刃の】
次に、あえてジャック・ザ・リッパーに触れるべきだろうか。
語らずとも知る者は多いだろう。1888年に突如現れた名無し亡霊。正体不明の狂気。短期間で何人もの娼婦を喉掻っ切って殺し、臓器を持ち去った恐怖の連続殺人鬼。
……そう呼ばれているのが、いたのが、この私だ。
「あたしはね、こんな形して英国に実は居たのよ? それで見てたの」
「私の処刑を?」
「そうね、見た。それと死ぬ前しばらくの貴方が何をしたかってこと」
幼さを残しながらもどこか妖艶に微笑む少女は、今、かの白洲の近くの草むらに私と腰掛けていた。そして、窒息寸前の私の喉からやっと引っ張り出した木綿の布を、麺のように細く引き裂いているところだった。
さて、先程の会話から分かるだろう。私は死人だ。英国の片田舎、炙り出され追い詰められ捕らえられた殺人鬼ジャックは、1889年の大晦日に民衆の眼前で首を刎ねられた。そのはずだった。
それがどうして遠く離れた和の東国に居るのか、生きているかのように振る舞えるのか。全ては、眼前の人ならざる少女が握っている。
「……君は何者だ?」
「あなたを知る者よ、リッパー。……正しくは、あなたの名前も知らないけれど」
その言葉に、改めて確信する。彼女は私をよく知る者だ。
「この国じゃ、あたしは『妖怪』って呼ばれて……あ、はいこれ。あなたの私物」
私は目を瞬かせてしまった。目の前に差し出されたのは確かに私のもので、ジャック・ザ・リッパーの得物としてよく知られる種の刃物……大振りなメスだった。
何故警察に奪われたはずの私の物を持っている? そして、何故わざわざ私へ渡す?
……受け取れば、すぐさま持ち手は私の手に馴染む。まるで貼り付くように。元は体の一部だったかのように。かつて名医とも言われた私にとってこれは、間違いなく私を構成する一部だった……。
私は確かめるようにまた握り込み、少し指を緩め、鋭い刃先を一瞥して――そして、少女の喉へと横一文字に薙いでいた。
「無理だって。だってあたしは妖怪よ? なみの刃物は突き抜けちゃうわ」
……妖怪。一体彼女は何者なのだろう。その言通り、彼女の喉には傷一つないなめらかな皮膚が張っているままだった。
感触はあった。霞を斬ったような、わずかな感触は。
「……先ほど手渡してくれた際には、確かにその手で持っていたようだが」
笑みで返される。気分を害した素振りすらない。私は追求を諦めて、メスを革の鞘袋に仕舞った。
何故己がこの少女に刃を向けたのか、自分でも分からない。思いもかけない衝動が働いたのだ。衝動。未だかつて、私をろくに突き動かすことのなかった激しい感情の突沸だ。生前の私、と言うべきだろうか?
「……私は、生きているのか?」
「半分は正解、半分不正解。生死の間で少しお化け――それがあなたの現状よ。どんな気分?」
そこで少し、少女は私を見つめた。
「そしてあたしがそれを決めるの」
「君が?」
「あなたをね、素敵な怪異にしてあげる。もう決めたから拒否権はなし!」
「それは」
「そしてあたしと一緒にね、この世界すべての美食を食べ尽くすのよ」
まだ出逢って間もない少女は、私が名さえ知り得ない彼女は、私が断ることなど有り得ぬと手を伸ばす。
「それは――思いもかけない話だ」
伸ばされた手を真っ直ぐ取ることができればどれだけ良かっただろう。その表情に迷わず応えられればどれだけ良かっただろう。つい先程まで死を考えていた私が、つい先程死の記憶から目醒めたばかりの私が、……つい先程、目に映る限りの者全てから死を望まれて処刑を受けた記憶を抱えた私が、何かを信じる事は余りにも困難だったのだ。
私に手を拒まれた若く美しき令嬢は、意外にも顔色を変えなかった。代わりに、有無を言わさず、私の口へ、裂いていた木綿の布切れを突っ込んだのだ!
「はい、まずは一反木綿の素のさらだ。食べにくいからよおく噛んでね」
「っ……!」
一反木綿? それは、東国の妖怪の名ではないか。何故妖怪を名乗る者が、同じ妖怪を食わせようとする。そもそも妖怪を食って何とする? 私は、流石に拒否しようとした。そのはずが、動くことが出来なくなった。
ただの木綿布の癖をして、何だ、この味は。
舌だけではない、肌も唇も歯も喉も、触れた場所全てから衝撃が脳を衝く。痺れて焼きついてゆく。快感を司る脳領域を信号が流れてゆくのが直接感じられる。
それでいて、味は素朴なものだった。味を直接説明することは不可能だが、何故か、ろくに覚えてもいないはずの幼き頃に食べた、母の割り茹で芋を思い出す――
「か……感謝、する」
私の目からは、雫が垂れ落ちていた。不可思議な事に、それを恥とも思わなかった。
【一目惚れほど虚なるものはなし一生消えぬ傷弓なれば】
「……驚いたよ」
メスの鞘袋のように、処刑台には持ち込めなかったはずの私物を、何故か私は数点所持していた。紳士服と帽子までもだ。残念ながら気に入っていたタイタックピンと革財布は無いが、数少ない所持品の中にナプキンがあったのは相当の幸いといえよう。今こうして、微かな羞恥心を持て余しながらも、ナプキンで口を拭うことが出来るのだから。
まともに人生を生きること叶わず、終いには誰からも死を望まれた。それでいて処刑されて尚、消えることすら叶わなかった。……生者とも死者ともつかぬ半端などに成り果てた詰みの先で、人生で最大の感動と出会うことがあるなどと誰が想起し得るだろう?
「神に……」
「神なんていないの」
「っ!」
神に感謝を。
そう言いかけていたことに気づいて私はぞっとする。この場の誰が神を気に掛けるべきだというのだろう。少女は微笑む。
「……かもしれないし、あたしも一反木綿もただの妖怪」
神に感謝を。ある宗教を信仰する者らの中において当然のように口癖にせざるを得なかった言だ。きっと、殺人鬼にも半死者にも妖怪にもそぐわない。
【生贄の羊にだって神がおり神に身代って生贄がおり】
「……私は、まだ」
「囚われているのよ、ジャック。人ならばそれも一つの生き方だけど……今の貴方は自由。あんな人間のことはいったん忘れてみない?」
「あんな人間……?」
「神父とか教師警察ほか全て? 貴方を全否定してた奴ら」
彼女の眼は、急かすでもなくただ、私を円く見つめる。
「人生はつまんない事だけだった? 楽しいことだけ思い出してよ」
「私の人生など……」
「初めての楽しみをあげるとは言わない。だって全てが貴方、でしょう?」
「全てが私?」
「生きてきた全てが貴方を作ってる。貴方は肯定されるべきだわ。ねえリッパー、気づいてないの? 貴方って実はとっても魅力的だわ!」
「?!」
私は困惑と動揺を隠せなかった。私からすれば出会ったばかりのこの少女が、何故私の事をここまで買うのだ。
「私の何が気に入ったのだ? 君と私はほぼ初対面、いや、君がほんの僅か私を知っている程度だろう」
それに対する彼女の答えは、ひどく単純だった。
「聖餐? を断ったでしょ、貴方ったら。最期の餐は終えたと言って」
あの忌々しい逮捕の折、私は行きつけの酒場でフル・ブレックファーストを食していた。食事を終えるまでも待たれずに捕縛された私は、腹を立てたのだ。
『どうせ直ぐ処刑するだろう? 味気ないパンと葡萄酒など御免だよ』
死刑囚への配慮だったのだろう。聖餐ーーキリストの最期の晩餐とされる献立が出されたが、獄中の私はそれを断った。予想を超えて二日ほど留め置かれたが、幸い、飢えて誇りを失う前に処刑される事が出来たわけだ。腹中に物が入っていなかったのだ、さぞや死体の始末も楽だったろう。
「……それが理由なのか?」
「うん、そうよ。貴方の最期の朝餐と同じものを食べてみただけ」
少女はそこで、表情を崩した。ぐにゃりと音がしそうな程に頬を緩ませて、恍惚の笑みを浮かべたのだ。
「……あんなにも病みつきになる人間の料理があると思わなかったの」
「……それは、つまり」
「貴方はね、とても素敵な人間の料理を一つ教えてくれた。あたしにはそれだけでもう分かるのよ。貴方と居ればきっと楽しい」
そんな理由で、彼女は私を此処へ連れてきて食を与え、言葉を砕き、勧誘していたのか。
「君は……根っからの美食家なのか」
「根付くほど足は無いけど知ってるわ。美味はあたしを裏切らないの」
言い切る彼女は、ただの少女にはもう見えない。無邪気で大胆で、……確かに私の事を知っているらしい。得体の知れないものを見つめる私の前で、いきなり残りの木綿布をむしゃむしゃと食べ始める。……美味しそうに。
(自由だ)
その姿が、とても鮮烈だった。
【もし黄泉へ迷い込もうが食うことを生きる行為を止められようか?】
「……その『一反木綿』、そのような美味が、この世界にはまだ溢れているのか」
「勿論よ! こんなものじゃあ足りないわ。世界はもっと広いんだもの」
「……ならば、君に感謝と忠誠を」
私は膝をついて低く身を屈め、まだ木綿を頬張っている彼女から片手を取って口付けた。
「美食家の麗しき妖怪嬢、君の事を何とお呼びしようか?」
それを聞いた彼女は、一瞬きょとんと首を傾けて、間も無く「あはははは!」と笑い出した。
【シャル*ウィ*ダンス? 鏡合わせの劇場で一〇〇〇の私が一〇〇〇の貴女へ】
「ほんと? あたしがお嬢さん? 女の子じゃなくて淑女ですって?」
「勿論だ、レディ」
「貴方って紳士なのね、ジャックさんーーだけど貴方に呼べるでしょうか?」
少女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。本当に彼女はくるくると表情を変える。まるで光を受けて遊色する黒蛋白石のようだ。
その彼女が、艶めく唇を開く。確かに声を発する。
「***** ******* ***** ******* *******」
「……何?」
「長いからみんな短くして呼ぶの。*******とか*****」
幾つかの丸鈴の鳴るような音が、彼女の美声をかき消す。不快な音ではない。ただ、邪魔だ。口の動きを読もうとすれば花を開いたような形の幻覚がまとわりつき、読唇を遮った。
「何……何と言っている?」
「人間はあたしの名前を知れないの。あたしはそういう怪異だから」
少女はまた微笑む。その目には憐れみも悲しみもなく、ただ、火が灯っていた。揺らめく炎は期待の形をしているのだ。
「じゃあジャック、エスコートしてくださいな? 名前を知れるようになるまで」
「……なるほど」
「紳士ならレディーの名前は呼べなくちゃ。誓いの言葉はちゃんと聞かせて」
「承知した」
今度こそ、考えるまでもなくその手を取った。
人間の半端から本物の妖怪へと変わった時、きっと私は彼女の名を知る事が許される。それはひどく甘美な事であるように思えたのだ。それに、自称美食家として、新たな珍味へと足踏み出さずにはいられないだろう。
「私は生前より美食を愛していた。愚かなる者らは英国人に味は分からないと揶揄したが、君もそう思うか?」
「全っ然! むしろ貴方が適任よ、ジャック・ザ・リッパー。さあ行きましょう?」
少女は思いがけず強い力で私の手を引いて立たせると、早くも地平の彼方を目掛けて走り出そうとするのだ。その強引なる無邪気さが、ひたすらに眩しかった。
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カリフォルニアデスロールの野良兎
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鶴木援(ツルギタスケ)は、疲労状態で仕事から帰宅する。何も無い日常にトラウマを抱えた過去、何も起きなかったであろう未来を抱えたまま、何故か誤って監獄街に迷い込む。
生きることを問いかける薄暗いロー・ファンタジー。
表紙 @kafui_k_h
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