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Smallest Q.1 王都・ラスティケーキ
017_*怪人オペラ④(12/30 01:15改稿)
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「大丈夫っ?!」
暗い藍色地に金糸で刺繍がほどこされたローブ、深くかぶった水色のキャップからこぼれるピンクマシュマロのようなサラリとした髪、美しく響く声色、すぐ眼前のほっそりとした白い手。アレンはその全てに目を惹かれて、尻餅をついた自分に手を伸ばされていると気づくのが遅れた。
「あ、ああ……」
アレンは手を借りて立ち上がると、周りを見渡す。
「そうだ、ライズは?!」
「……後ろ。無事だよ」
振り返ると、ややふらついてはいるが、ライズが座席の間から頭を出して片手を振った。とっさに衝撃を避けようと隠れたらしい。
オペラ座は悲惨な有様になっていた。まず目に入るのは、舞台に落ちた大きな大きなシャンデリアと周囲に散る天井だったケーキの大きな残骸。衝撃で会場全体もあちこち壊れたり装飾が剥がれたりしている。シャンデリアの上部にはぽっかりと穴が開いていて、そこからキャップの人物が降りてきたのだろうと分かる。
(俺が穴掘って迷宮地下にショートカットした時みたいな穴だな……)
などとアレンは思う。一方でライズは、まだ事態が飲み込めていないようだった。
そして、もう一つ。シャンデリアがゆっくりと持ち上がり、隙間から、腹にシャンデリアの飴ガラス細工が深く突き刺さったオペラ座の怪人が這い出て立ち上がった。
「酷いじゃあ、ないか……スイーティ、アイズオブブルーベリー、そして……君は誰かな、カルロッタ?」
「貴方ですね、このお二人を襲ったのは」
カルロッタと呼ばれたキャップの人物は、持っていた大きなマドラーの杖を構えた。ピンクや水色が入ったガラス製の長い杖のてっぺんには一角獣の頭がデザインされている。
「私が誰かなんて話は後です! お二人とも、大丈夫ですか?」
「お、おう!」
「……そうだね、大丈夫」
「それは良かったです」
「カルロッタ」は微笑むと、杖を振った。
「ディ……樹神よ 加護をっ!」
詠唱の直後、地面から巨大な触手のようなものが伸び出し、しなるムチのように敵を打ちのめそうとした。怪人は踊るような軽やかなステップでそれを避けるが、避けた先から新たな触手が何本も突き出し、逃げる隙を与えず包囲する。
「何だよこれっ?!」
「大樹の根です!」
更にマドラー杖を一振りすると、根が絡まり合って怪人の体を捕まえる。全く逃げる隙のない動きで、魔法に詳しくないアレンから見ても高度な魔法なのだろうとすぐに分かる技だった。それを短い魔法詠唱だけでやってのけたのだ。ライズは驚いた様子でそれを見ている。
「ど、どうですかこれで!」
「……凄いじゃないか、カルロッタ。思いがけない侵入をしてきたが、君も『チケット』を持っているようだ。喜ばしい」
……しかし、怪人は動きを止められても、余裕そうな調子を崩さない。腕も脚も根にしっかりと絡め取られているというのに、だ。
「わ……僕は、リントです。カルロッタではありません!」
リントはキャップ帽をしっかりとかぶり直すと、再び杖を構える。その手は、かすかに震えていた。
「そうだね、名前よりも、このオペラ座に相応しい人間が一度に三人も集まった事の方が大事だ……」
怪人は、ニヤリと笑った。
そしてーー歌を、歌った。
「?!?!」
深いバリトンの声が、オペラ座全体に響き渡る。肌さえ震わせ肉に食い込むような恐ろしさがありながら、耳から入る音は気高く、愛情深く、時に切ない。歌詞の意味も分からないのに、つい聴き入ってしまうような歌声だった。まるで、ずっと聴いていれば魅入られてしまいそうな……。
(よく分かんねぇけど、この声は危険だ!)
アレンはとっさに耳を塞いだ。ライズがまだ無防備に立っているようだったので、脚を蹴飛ばしてやる。
「おいしっかりしろ!」
それから、リントと名乗ったキャップの少年の方を見ると……既に、どこか様子がおかしい。背の低いアレンでは表情はよく見えないが、フラフラと体が揺れていた。
「カルロッタ、拘束を解きなさい。そして、こっちにおいで」
「っ! い、嫌、です、駄目っ」
リントは首を振り、抗おうとするが、腕が勝手に動いて杖を振った。杖から光が舞うと、怪人に絡みついていた根は、ズルズルとほどけて地面に沈んでいく。
「や、駄目っ、そ、そうだ、樹じ……」
「カルロッタ、勝手に魔法を使ってはいけない」
「っ……!」
怪人が深いバリトンボイスで呼びかけると、リントはなぜか口を開けなくなってしまう。
「さあ、おいで」
「……っ、っ!」
リントはフラフラと怪人の方へ歩き出す。
「止まれ!」
アレンは思いきって耳から手を離し、リントの腹に後ろから抱きついた。
「あ……」
「なんとか耳を塞げ!」
小さいから子供が抱きついているように見えるだろうが、握力にも脚力にも自信がある。背が足りなくて低めの位置になったが、腰より上を掴めれば十分だ。しっかりと地面に足を踏ん張って体を固定すれば、ガクンとリントは動きを止める。幸い、リントは胴が細く、力もあまり強くないので抑えるのに苦労はしない。しかし、耳を塞げなくなるのでどこまでアレンが踏ん張っていられるかは分からない。アレンもすぐに先ほどのリントのように操られてしまうかもしれない。
「ライズ! お前は大丈夫か! っつーかどうにかしてくれ!」
返事はない。見ている余裕はないが、おそらくライズも無力化されているのだろう。
「アイズオブブルーベリー、君も来るといい。君にもきっと、その資格がある……」
怪人が妖しい声で、今度はアレンに呼びかけてくる。
「だっ、れ、がっ! 行くかよ!」
アレンはリントを押さえる手に力を込めた。まだ、体が勝手に動きはしない。というより……アレンには、ただの声に聞こえた。
「……ふむ? アイズオブブルーベリー、君、もしかして私の魔法が効いていないのかな?」
「あ?」
「歌で強化を掛けた後の魔法だ、効かない人間がいるとは思えないが……魔法を無効化するアイテムでも持っているのかな?」
「何だよそれ(……何言ってるか分かんないけど、もし俺にあいつの魔法が効かないってんなら良い……のか……?)」
怪人は動けないでいるアレンに近づいてくる。リントは進もうともがいているので、ここで手を離すわけにはいかない。踏ん張っているので脚も動かせない。
(っ……どうする?!)
アレンはリントを片腕だけで抑えられるか、そっと片手の力を緩めてみる。
(いけ……るか? 短時間なら)
その短時間でナイフでも投げ、急所を狙うしかない。最悪の場合、リントを気絶させて担いで逃げるのが良いのだろうが、背の低いアレンには重さより、人間を安定して担ぐのが難しいのであまりやりたくない。
(なら、ここで迎え撃つしかねえか)
アレンは、ゆっくり息を吐く。
(大丈夫。ミロワール倒した時だって俺は全然奴を強いと思わなかったし、今こいつを見てても、得体は知れないけどそこまで強いとは思わない。この程度のハンデなんて大した邪魔にもならない。昔父さんにやらされた、重りつきの競走と同じだ)
息を吐いて、吸って、十分に近付くまで待って、アレンは左腕をリントから離すと真っ直ぐにナイフを投げた。横並びに三本同時に、狙うのは怪人の頭だ。
(こんな所で死ぬかよ。俺は、勇者になるんだからな!)
「っ!」
首の幅よりも狭く、屈んで避ける動作をする暇もない最高の投刀だったが、怪人は奇術師のように背をぐっと反らすことで、飛んでくるナイフを綺麗に避ける。咄嗟にその動きができるのは見事というほかなかった。……その初撃だけを避けるのなら。
ほんの少し遅く飛んできた、ほんの少し低く飛ぶ四本目のナイフが、怪人の喉元へと、迫った。最初の三本の死角になるように投げられたこの四本目をあらかじめ予測して避ける事は、不可能。
フラグになりかねないと分かっていながらも、アレンは口にしてしまう。
「どうだっ……!」
怪人は、更に背を反らせた。背骨が音を立てて軋み、喉に当たるはずだったナイフの先は、顎へと狙いを逸らされる。しかし、それ以上は、ずれなかった。
顎へと食い込んだナイフは、口内を突き抜けて、鼻の上に切っ先を出しーー怪人の付けていた仮面を、内側から割った。
パキッ
響いた音は、呆気ないほどに軽やかだった。
「あぁぁああぁあああっ!!!」
怪人の悲鳴が響く。と同時に、腕の中のリントが静かになった。魔法が解けたようだ。
「あ、ありがとうございます!」
「おう……」
視界の端にライズが駆け寄ってくるのを確認して、アレンは気の抜けた返事を返した。
(疲れた……)
そう思いながらも新たにナイフを構えて、そして……追撃を投げ込むことが、できなかった。
オペラ座の怪人はよろめきながらも立っていた。ナイフが刺さったとはいえ致命傷ではないはずだが、それまでのような余裕のある様子はない。痛みに耐えているにしては静かに、ただ、仮面をつけていた部分を手で覆い隠しながら、小さく言葉を吐き続けていた。
「見るな……見るな、見るな、見ないでくれ……こんな顔を知れば、誰も舞台上の私を評価してくれない……誰も私を舞台に引き上げてはくれない、誰も……私を、愛してはくれない……」
ナイフが突き通ったままで吐く言葉は、とても聞き取りづらい。ふらついた足が仮面の破片を踏み、パキパキと砕いた。その音に呆然とした怪人は、ふと顔を上げると、顎の穴に指を入れてナイフを抜き取り、捨てた。
「"パティシエ"……パティシエ! 私に新しい仮面を! この顔を隠す仮面をくれ! 私を見捨てないでくれ……パティシエ!!!」
応えるものはいない。怪人の見つめる虚空にも、何も居はしない。
「…………私を、捨てるのか、パティシエ……」
傷口から液体のチョコレートが流れ落ちる。怪人は力無く腕を垂らした。隠れていた顔があらわになる。急激に溶けて再凝固したチョコによく現れる、ファットブルームやシュガーブルームが大きく広がっていた。
それが本当に醜いかどうか、なんて事は、人間には分からない。アレン達からしてみれば、どんな形をしていようと魔菓子は魔菓子だ。ただ……アレンは、芝居掛かった口調よりも歌よりも、仮面を脱ぎ捨て感情をさらけ出すような今の怪人の言葉に、一挙手一投足に、惹きつけられていた。それゆえに、せっかく無防備にしている敵に、追撃を撃てない。観客となって、見届けたいと思ってしまう。
「…………美しくなければ意味がない。舞台に上がれないのなら意味がない。ああ、君を恨もうパティシエ! 君は私の献身も愛も結局信じなかった。私は君のためにチケットを集め続けたのに! ならば私は、君のために何も残すまい!」
オペラ座の怪人は、投げ縄を取り出した。輪になっていない方を上に投げ上げ、輪にスルリと首を通す。美しく、誰も止める間もない動作だった。そして、狂気を孕んだ目でアレン達を見る。
「チケットを持った人間達よ、行くがいい。私を愛さないパティシエが作った世界など、壊してしまえ」
シュルシュルと舞台の仕掛けのように縄は上へと上がっていき、一瞬ピンと張ったかと思えば、怪人の首を吊ったまま、なおも上へとつり上がっていく。首を吊られた怪人は、少しだけ苦しそうに動き、それから、だらりと両腕と頭を垂らした。
怪人の体が解れるように消え、代わりにはらはらと、金箔が舞い落ちる。そして、そこから次々に、小さな炎が舞い上がった。炎はすぐに燃え上がり、舞台を真っ赤に染め始める。
「……行くよ、アレン」
「あいつ、なんでこんな事……?」
「いいから、早く逃げる。フロッシーショコラにまた復活されても面倒でしょ」
ライズに引きずられるようにして、アレンは炎をあげるオペラ座から上階へと逃れた。
暗い藍色地に金糸で刺繍がほどこされたローブ、深くかぶった水色のキャップからこぼれるピンクマシュマロのようなサラリとした髪、美しく響く声色、すぐ眼前のほっそりとした白い手。アレンはその全てに目を惹かれて、尻餅をついた自分に手を伸ばされていると気づくのが遅れた。
「あ、ああ……」
アレンは手を借りて立ち上がると、周りを見渡す。
「そうだ、ライズは?!」
「……後ろ。無事だよ」
振り返ると、ややふらついてはいるが、ライズが座席の間から頭を出して片手を振った。とっさに衝撃を避けようと隠れたらしい。
オペラ座は悲惨な有様になっていた。まず目に入るのは、舞台に落ちた大きな大きなシャンデリアと周囲に散る天井だったケーキの大きな残骸。衝撃で会場全体もあちこち壊れたり装飾が剥がれたりしている。シャンデリアの上部にはぽっかりと穴が開いていて、そこからキャップの人物が降りてきたのだろうと分かる。
(俺が穴掘って迷宮地下にショートカットした時みたいな穴だな……)
などとアレンは思う。一方でライズは、まだ事態が飲み込めていないようだった。
そして、もう一つ。シャンデリアがゆっくりと持ち上がり、隙間から、腹にシャンデリアの飴ガラス細工が深く突き刺さったオペラ座の怪人が這い出て立ち上がった。
「酷いじゃあ、ないか……スイーティ、アイズオブブルーベリー、そして……君は誰かな、カルロッタ?」
「貴方ですね、このお二人を襲ったのは」
カルロッタと呼ばれたキャップの人物は、持っていた大きなマドラーの杖を構えた。ピンクや水色が入ったガラス製の長い杖のてっぺんには一角獣の頭がデザインされている。
「私が誰かなんて話は後です! お二人とも、大丈夫ですか?」
「お、おう!」
「……そうだね、大丈夫」
「それは良かったです」
「カルロッタ」は微笑むと、杖を振った。
「ディ……樹神よ 加護をっ!」
詠唱の直後、地面から巨大な触手のようなものが伸び出し、しなるムチのように敵を打ちのめそうとした。怪人は踊るような軽やかなステップでそれを避けるが、避けた先から新たな触手が何本も突き出し、逃げる隙を与えず包囲する。
「何だよこれっ?!」
「大樹の根です!」
更にマドラー杖を一振りすると、根が絡まり合って怪人の体を捕まえる。全く逃げる隙のない動きで、魔法に詳しくないアレンから見ても高度な魔法なのだろうとすぐに分かる技だった。それを短い魔法詠唱だけでやってのけたのだ。ライズは驚いた様子でそれを見ている。
「ど、どうですかこれで!」
「……凄いじゃないか、カルロッタ。思いがけない侵入をしてきたが、君も『チケット』を持っているようだ。喜ばしい」
……しかし、怪人は動きを止められても、余裕そうな調子を崩さない。腕も脚も根にしっかりと絡め取られているというのに、だ。
「わ……僕は、リントです。カルロッタではありません!」
リントはキャップ帽をしっかりとかぶり直すと、再び杖を構える。その手は、かすかに震えていた。
「そうだね、名前よりも、このオペラ座に相応しい人間が一度に三人も集まった事の方が大事だ……」
怪人は、ニヤリと笑った。
そしてーー歌を、歌った。
「?!?!」
深いバリトンの声が、オペラ座全体に響き渡る。肌さえ震わせ肉に食い込むような恐ろしさがありながら、耳から入る音は気高く、愛情深く、時に切ない。歌詞の意味も分からないのに、つい聴き入ってしまうような歌声だった。まるで、ずっと聴いていれば魅入られてしまいそうな……。
(よく分かんねぇけど、この声は危険だ!)
アレンはとっさに耳を塞いだ。ライズがまだ無防備に立っているようだったので、脚を蹴飛ばしてやる。
「おいしっかりしろ!」
それから、リントと名乗ったキャップの少年の方を見ると……既に、どこか様子がおかしい。背の低いアレンでは表情はよく見えないが、フラフラと体が揺れていた。
「カルロッタ、拘束を解きなさい。そして、こっちにおいで」
「っ! い、嫌、です、駄目っ」
リントは首を振り、抗おうとするが、腕が勝手に動いて杖を振った。杖から光が舞うと、怪人に絡みついていた根は、ズルズルとほどけて地面に沈んでいく。
「や、駄目っ、そ、そうだ、樹じ……」
「カルロッタ、勝手に魔法を使ってはいけない」
「っ……!」
怪人が深いバリトンボイスで呼びかけると、リントはなぜか口を開けなくなってしまう。
「さあ、おいで」
「……っ、っ!」
リントはフラフラと怪人の方へ歩き出す。
「止まれ!」
アレンは思いきって耳から手を離し、リントの腹に後ろから抱きついた。
「あ……」
「なんとか耳を塞げ!」
小さいから子供が抱きついているように見えるだろうが、握力にも脚力にも自信がある。背が足りなくて低めの位置になったが、腰より上を掴めれば十分だ。しっかりと地面に足を踏ん張って体を固定すれば、ガクンとリントは動きを止める。幸い、リントは胴が細く、力もあまり強くないので抑えるのに苦労はしない。しかし、耳を塞げなくなるのでどこまでアレンが踏ん張っていられるかは分からない。アレンもすぐに先ほどのリントのように操られてしまうかもしれない。
「ライズ! お前は大丈夫か! っつーかどうにかしてくれ!」
返事はない。見ている余裕はないが、おそらくライズも無力化されているのだろう。
「アイズオブブルーベリー、君も来るといい。君にもきっと、その資格がある……」
怪人が妖しい声で、今度はアレンに呼びかけてくる。
「だっ、れ、がっ! 行くかよ!」
アレンはリントを押さえる手に力を込めた。まだ、体が勝手に動きはしない。というより……アレンには、ただの声に聞こえた。
「……ふむ? アイズオブブルーベリー、君、もしかして私の魔法が効いていないのかな?」
「あ?」
「歌で強化を掛けた後の魔法だ、効かない人間がいるとは思えないが……魔法を無効化するアイテムでも持っているのかな?」
「何だよそれ(……何言ってるか分かんないけど、もし俺にあいつの魔法が効かないってんなら良い……のか……?)」
怪人は動けないでいるアレンに近づいてくる。リントは進もうともがいているので、ここで手を離すわけにはいかない。踏ん張っているので脚も動かせない。
(っ……どうする?!)
アレンはリントを片腕だけで抑えられるか、そっと片手の力を緩めてみる。
(いけ……るか? 短時間なら)
その短時間でナイフでも投げ、急所を狙うしかない。最悪の場合、リントを気絶させて担いで逃げるのが良いのだろうが、背の低いアレンには重さより、人間を安定して担ぐのが難しいのであまりやりたくない。
(なら、ここで迎え撃つしかねえか)
アレンは、ゆっくり息を吐く。
(大丈夫。ミロワール倒した時だって俺は全然奴を強いと思わなかったし、今こいつを見てても、得体は知れないけどそこまで強いとは思わない。この程度のハンデなんて大した邪魔にもならない。昔父さんにやらされた、重りつきの競走と同じだ)
息を吐いて、吸って、十分に近付くまで待って、アレンは左腕をリントから離すと真っ直ぐにナイフを投げた。横並びに三本同時に、狙うのは怪人の頭だ。
(こんな所で死ぬかよ。俺は、勇者になるんだからな!)
「っ!」
首の幅よりも狭く、屈んで避ける動作をする暇もない最高の投刀だったが、怪人は奇術師のように背をぐっと反らすことで、飛んでくるナイフを綺麗に避ける。咄嗟にその動きができるのは見事というほかなかった。……その初撃だけを避けるのなら。
ほんの少し遅く飛んできた、ほんの少し低く飛ぶ四本目のナイフが、怪人の喉元へと、迫った。最初の三本の死角になるように投げられたこの四本目をあらかじめ予測して避ける事は、不可能。
フラグになりかねないと分かっていながらも、アレンは口にしてしまう。
「どうだっ……!」
怪人は、更に背を反らせた。背骨が音を立てて軋み、喉に当たるはずだったナイフの先は、顎へと狙いを逸らされる。しかし、それ以上は、ずれなかった。
顎へと食い込んだナイフは、口内を突き抜けて、鼻の上に切っ先を出しーー怪人の付けていた仮面を、内側から割った。
パキッ
響いた音は、呆気ないほどに軽やかだった。
「あぁぁああぁあああっ!!!」
怪人の悲鳴が響く。と同時に、腕の中のリントが静かになった。魔法が解けたようだ。
「あ、ありがとうございます!」
「おう……」
視界の端にライズが駆け寄ってくるのを確認して、アレンは気の抜けた返事を返した。
(疲れた……)
そう思いながらも新たにナイフを構えて、そして……追撃を投げ込むことが、できなかった。
オペラ座の怪人はよろめきながらも立っていた。ナイフが刺さったとはいえ致命傷ではないはずだが、それまでのような余裕のある様子はない。痛みに耐えているにしては静かに、ただ、仮面をつけていた部分を手で覆い隠しながら、小さく言葉を吐き続けていた。
「見るな……見るな、見るな、見ないでくれ……こんな顔を知れば、誰も舞台上の私を評価してくれない……誰も私を舞台に引き上げてはくれない、誰も……私を、愛してはくれない……」
ナイフが突き通ったままで吐く言葉は、とても聞き取りづらい。ふらついた足が仮面の破片を踏み、パキパキと砕いた。その音に呆然とした怪人は、ふと顔を上げると、顎の穴に指を入れてナイフを抜き取り、捨てた。
「"パティシエ"……パティシエ! 私に新しい仮面を! この顔を隠す仮面をくれ! 私を見捨てないでくれ……パティシエ!!!」
応えるものはいない。怪人の見つめる虚空にも、何も居はしない。
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それが本当に醜いかどうか、なんて事は、人間には分からない。アレン達からしてみれば、どんな形をしていようと魔菓子は魔菓子だ。ただ……アレンは、芝居掛かった口調よりも歌よりも、仮面を脱ぎ捨て感情をさらけ出すような今の怪人の言葉に、一挙手一投足に、惹きつけられていた。それゆえに、せっかく無防備にしている敵に、追撃を撃てない。観客となって、見届けたいと思ってしまう。
「…………美しくなければ意味がない。舞台に上がれないのなら意味がない。ああ、君を恨もうパティシエ! 君は私の献身も愛も結局信じなかった。私は君のためにチケットを集め続けたのに! ならば私は、君のために何も残すまい!」
オペラ座の怪人は、投げ縄を取り出した。輪になっていない方を上に投げ上げ、輪にスルリと首を通す。美しく、誰も止める間もない動作だった。そして、狂気を孕んだ目でアレン達を見る。
「チケットを持った人間達よ、行くがいい。私を愛さないパティシエが作った世界など、壊してしまえ」
シュルシュルと舞台の仕掛けのように縄は上へと上がっていき、一瞬ピンと張ったかと思えば、怪人の首を吊ったまま、なおも上へとつり上がっていく。首を吊られた怪人は、少しだけ苦しそうに動き、それから、だらりと両腕と頭を垂らした。
怪人の体が解れるように消え、代わりにはらはらと、金箔が舞い落ちる。そして、そこから次々に、小さな炎が舞い上がった。炎はすぐに燃え上がり、舞台を真っ赤に染め始める。
「……行くよ、アレン」
「あいつ、なんでこんな事……?」
「いいから、早く逃げる。フロッシーショコラにまた復活されても面倒でしょ」
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