脱出ホラゲと虚宮くん

山の端さっど

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ナナフシギ喫茶@廃高等学校B

ななきつ⑺

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 晩秋の気配にこんにちはリスナー、この時間も担当は屋城やしろ蓮子れんこですわ。……あ、違う季節に聞いてるから秋じゃないとかいうツッコミはなしで。〈作者は秋に終わらせる予定だった、しかも7話で終わらせる予定だった〉って幽霊の戯言が聞こえてきた気がしてあたしは寒くて死にそうです。もう打ち切りでいいから7話で終わらせようぜ? でもホラーの打ち切りって登場人物みんな殺すよなぁ……。ん、寒いというか、なんか冷たい?!

「……あのさ、貰ったカイロ全部、さっきトイレに寄った時に冷たくなっちゃったんだけど」
「マジ?」
「凍ってない? これ」
「……マジだな」

 そう言って古いカイロを回収し新しいカイロを手品みたいに渡してくれる隣の彼は、季節の変わり目に風邪とか絶対引かなさそうな虚宮うつみやそれがし君。手あったかいな?

「一体どこにこんなにカイロ持ってたの……?」

 いや、ポケットから出してる所しか見ないんだけどさ。もう名前よりポッケの中のが気になる。

 それはさておき、晩秋のプールとか、まーた寒い場所ですよ。暖かい場所に行きたいなー、願わくば早くこの廃校脱出したいなーあ! え、学校で暖かい場所がどこかって? もちろん校長室と職員室。

「冷たい所って苦手なんだよね。それ以前に水泳が苦手なんだけど」
「泳げないのか?」
「背泳ぎだけできる」

 珍しいって言われるけど背泳ぎだけは得意だよ、めちゃくちゃ真っ直ぐ泳げる。ただ、息継ぎがね……あれ大キライ。どうして肺呼吸する人間が水に顔つけなきゃいけないの? ちなみに、あたしの悪友マヤは飛び込み後の潜水が滅茶苦茶上手いから人間の敵。エラ呼吸してるっしょ?

「いや、水中で呼吸できないからいざって時の為に練習するんだろ」
「その正論は分かるけどさ」

 閑話休題バイザウェイ。テケ子ちゃんが持ってきたFAQきゅーあんどえー添付のマップによると、プールは校舎から離れた所にあるらしい。でも外に繋がる場所は、入り口も窓も全部開かない。あたし達の目下の問題は、どうやって校舎を出るかって事なんですよ、皆さんモナミ。これぞ探偵蓮子ちゃんの出番じゃないの?

「まあ予想はついてるんだけどな」
「解決編、早っ」
「用務員室か何処かに裏口あるだろ。そこからプールとか体育館に行けるルートがあるんじゃないか?」
「外に出たらそのまま校舎の外に脱出したいんだけど」
「外が安全ならな」

 虚宮はFAQを軽く叩く。あー、なんだっけ、「この辺りは物騒ですので、しばしお安らぎいただければと思います」とか書かれてたんだっけ。物騒って言われてもなあ。

「あいつとかに襲われても嫌だろ」

 う、あいつって、あたしを殺しやがったクソ××××の事かあ。おっとコンプラ言っちゃった。まあいっか、目的の部屋着いたしこの話おーわり!

「ん、ここか、事務員室」

 事務員室には鍵が掛かってた。うん、あたしが最初に校内フラついた時に鍵掛かってるからスルーした場所だ。まあ、この虚宮マスターキーが居れば施錠なんて無意味なんだけど。
 刮目あれ、

「よっ」

 ドッゴン!

 ……うん、開いたね、探偵が密室のドア蹴破る感じでね。そうだよマスターキー(物理)だよ! てかドア割れてんじゃん怖っ。さすが鉄パイプぐにゃりの男。

「普通に鍵開けするより早いからな。壊しても問題起きないならだけど」

 筋肉信仰かな? まあ、ありがたい。鍵探し校内ツアーなんてごめんだもんね。もっかい言おう、リスナーは面白いかもしれないけどあたしは絶対ごめんだから。



 用務員室の中は、埃っぽい物置って感じだった。掃き溜めに鶴だわー、あたし。で、掃除用具に草刈り機に手押し車に木材にカラーコーン……なぜか釣り道具とかクーラーボックスも置いてある。ノコギリとか刃物も置かれてるからここだけで怪談いろいろ作れそうな感じするってのは安直かな? 1部屋7不思議。……いや嫌だわ。机を見てみたけど素敵なものは何もなかったよー、脱出チケットとか無敵薬とか。

「お、これいいな。防寒着」

 虚宮は小さめの作業着みたいなものを取り出してあたしに渡した。古っぽいし男物だし作業着風だからデザインが致命的にやばいけど、あたしはひきつる顔をなんとかほぐして、着ることにした。うなれ舞踏会で鍛えたあたしの営業スマイル筋。

「……あったかい!」

 元々お洒落のために若干防寒性を捨ててた服から一気にウィンドブレーカー系の機能性重視のコート、これは勝った。まあプールに突き落とされたら駄目なのは変わんないけど。フラグ? 嫌だなぁ、そんな事あるわけないじゃん。
 さてさて、用務員室の奥ですよ。寒風に備えたあたしは、ワクワクしてドアをどーんおーぷん!



「……何これ……」

 うん、あのさ、用務員室のドアからは裏庭と、校門もチラッと見えるのよ。鉄柵が閉まってるけどまあ校門の外も見えるわけ。
 で、校門から先の地面、すっぽり無くなってる。
 比喩じゃなく、無。いや何これ、地面だけじゃない。室内から見てたときは気付かなかったけど、なんか景色もおかしい。色がどよよーんって流れてて、いやもう語彙力なくてごめんあそばせ、こっちも、無なの。やばたにえんの担担麺定食3300円税込! どよどよ曇天によくお似合いだこと!

「あー、ま、こういうこともあるよな」

 虚宮はひょいと校門の柵の隙間から、「何もない空間」に手を伸ばした。え、危なくない、と思ったとたんに……ジュッと音がして煙が出た。虚宮の手から。

「ひっ」
「おー、やっぱ駄目だよな」
「い、いま手、焦げ……」
「何も起きてない起きてない。さ、プール行こうぜ」

 虚宮はうまくあたしの目に入らないように手をひっこめて、反対の手であたしの背を押す。ねえちょっと、今思いっきり誤魔化したよね? なんで手焼かれて平気なの? それとエスコートの仕草が洗練されすぎてやしませんかね?

「プールってことは落水の危険がある。気をつけろよ」

 うん、君もね。色々気をつけて。お願いだから。



 そういうわけで、プールです。……まあ、みんな思い浮かべるような光景だよね。コンクリの床、プール、脇に更衣室とシャワー。視覚的にはそんな感じ。で……まあ凍える凍える。触覚? 的にはただのプールじゃないよこれ。なんで凍りついてないか不思議に思うレベル。え、何、ずっと寒がってるなこいつだって? 寒いんだよ! 他のこと考える余裕がないの! あ、でも、さすがにプールサイドにいる幽霊は気になるわ。背の高い女。地味なスクールっぽい水着姿。美人だけど、なんかネチネチ嫌味言ってきそうな雰囲気……。それが、あたし達を見てにっこり笑った。

〈待っていたわ、生徒たち。さあ、授業を始めるわよ〉

 うん、やっぱ何喋ってるかは分かんないね。でも笑顔が怖い。

「……で、ここは何喫茶なわけ? トイレ並みにカフェっぽいもの無いよ?」

「多分ここは……」

 ちょっと、思考時間長いよ。あ、20秒経った、ラジオ放送事故だわー、適当なクラシックでも流して場もたせといて。

「……うん、喫茶店じゃないな」

 あ、はい。

〈今日の授業はどうしようかしら、もちろん決まっているわ。補習なの。これまでの授業でできなかったことを、できるようになるまで続けるのよ。素敵な事でしょう?〉

 ……う、なんか、嫌な事言ってる感じするな?

〈まずは貴女。顔を水に付けて……〉

 や、あたしの方見ないでよちょっと。あのなんか、すごく嫌なんだけど……。

「目を見るな。引き込まれるぞ」

 虚宮があたしの前に立ち塞がった。

「な、なんなのこいつ」
「『せんせい』らしい」
「『先生』……え、体育の?」
「自称だけどな」

 小声で話してたら、キリキリキリッ、って「先生」の方から音がした。なんか柔らかいものがゆっくりねじれてるみたいな……ああもう嫌。

〈授業の邪魔はいけないわ。いけないの。ほら、早くして、聞き分けのない子〉
「俺達はあんたの生徒じゃないけど」
〈時間、時間、時間が過ぎてしまうわ。ほら、こんなところで居残りをしたくはないでしょう?〉

 見えないし喋ってることも分かんないから状況はさっぱりだよ。実況放棄していい? いや気になるから聞くけどさ。

「そいつ、何て言ってんの?」
「君に、背泳ぎ以外で25メートル泳げって」

 は、そんな話してたの? バッカじゃないの?!

「無理」
「だよな。……強行突破するか」

 うお、なんかあの、右腕バキバキ鳴ってるんだけど。待って関節の音じゃないよねもはや。これ腕力で解決する気だな?
 ……っていうか、今までそれほど強行突破せずにやってきたのってなんでなんだろ。事務員室から校舎外出られるって気づいてたんならカフェ巡りなんてしてないでさっさとこじ開けても良さそうなもんなのに。案外イベントに乗っかるのが好きだったりする、君?



〈……ああ、そうだわ!〉

 キンキン声と手を打つ音がした。あたしはびっくりして顔を上げる。

〈ここに、ドリンクを用意してあるの。喉が渇いたでしょう? 生徒のために、特別に作ってもらったのよ?〉

 ……虚宮が、右腕から力を抜いた。

「虚宮?」
「……ちっ」

 舌打ちしてプールの方を見てる。あたしもそろっと覗いてみたら、なんかプールの水面に、ユラユラお盆が浮いてた。秋のご先祖様現世訪問イベントじゃないよ、トレイの方のお盆。その上に、なんか青いドリンクが載ってる。何この違和感?!

「え、何あれ」
喫茶店カフェ要素だろ」
「えー?」

 いやいや飲む気にならないって。そもそも、プールの中央くらいに浮いてるのをどうやって取りに行けと……あ。

「……これ、やっぱりプールに入れってこと?」
「露骨な誘導だな」

 えー何これ、えー何それ、嫌なんだけど。というかあたくし、一身上の都合で青い飲み物飲めないんだけど? みんなも男女問わず信頼できない人と青系のもの飲むのはやめとこうな! 理由? 調べてみ? そして常識にして?

「じゃ、俺が行くか」
「え、なんで」

 素で聞いちゃったよ、なんでそういう話になった。わざわざこんな罠っぽいのに乗ってやる必要なくない? さっきは物理突破しようとしてたじゃん?

「……向こうが喫茶店の体をギリギリ保ってくるなら、俺も一応それに乗る。……方が良い、と思う。お互い」
「なんで?!」
「説明が面倒だな……バグが起きると面倒だからとかSAN値維持のためとか言っても伝わんないよな?」

 ごめん、さっぱり分かんない。前にも聞いたけど何さエスエーエヌって。あたしの無知?

sanity正気の度合いの事。ま、気にするな。俺が、何があっても君を死なせはしないってだけだから」

 あらあらあらあら随分きっぱり言うじゃん? 口説いてんの?

「なら、ちゃんと助けてよね」

 あたしは言って、靴を脱いだ。



 ……ん、いやいやいやいやいやぁ~蓮子さんなんで脱いだ今? あれ? プールとか入りたくないし、マジで泳げないってば?

「あたし、は、入るから」

 ……あの、待って。あたし喋ってない。いや口が勝手に動いてるけどあたしの意思じゃない。あの、あの、あの! 何なのこれぇっ!

「泳いでやるわよ! 見てて、虚宮」

 ちょっとちょっとちょおっとぉ? 待って、服のままプールに入ろうとしないで? コートの下のこの服、いくらでも同じの買えるけどお気に入りの……ねぇ! 電波受信してても良いから助けて虚宮!

「本当に行くのか?」

 目を見て問いかけられると、一瞬自由に動けるようになった。あたしは泣きそうになって、口を開けて……

 ……ぐんっ、と体が、すぐに勝手に動いて、あたしを引っ張っていく。うわああたしの馬鹿! 折角のチャンスだったのに助けての「た」も言えなかったじゃん! ひっ、水冷たい待って待って待って凍え死ぬ! シャワーで慣らしてないからショック死する! っううう、ああ、体に力入んない……。こんなの背泳ぎでも泳げる気がしないんだけど……って、あの、結局ドリンク消えてんだけど……とりあえず、やっと自由に体が動くようになったよ畜生。もう出て良い? あ、なんかプールサイドがどこにも見えない触れない。大海原かな? それとも、溺れる直前って何も掴めるものが無いとか錯覚しちゃう感じ?

〈さぁ、頑張って。頑張ればできない事なんてないの。せんせいのようにね。だからできなかった事に挑戦するのよ〉

 ……なんか煽られたよね、あたし。煽られようがあおがれようが泳げるようにはならない、けど……。

『俺が、何があっても君を死なせはしない』

 ……信じるよ?
 あたしは大きく息を吸って、怖くなる前に、顔を水中に押し込んで床を蹴った。



 あ、やっぱ、ダメだあああああああああ!

 あああもうううううう! 顔に冷たい流水触んのがいっちばん嫌いなのあたしはぁ! なんか、このまま息できなくなるんじゃないかって思っちゃうじゃん! じゃあ首傾けて息しろって? それができてりゃ泳げてるよ×××! 待って息、いきが、できない、足つけたい……
 ふいに、水中に何かが沈んでるのが見えた。ちっちゃい塊。最初はビート板か何かだと思ったけど、もっと分厚いみたい。こんな時なのにやけに気になって、ぶれる視界の中で、それを必死に見極めようとする……



 その時、あたしの体がぐいっと引っ張られた。



(えっ?!)

 あれ、コートの首元の金具にいつの間にか、透明なアクリル糸みたいなのがついてる? 何これ、めっちゃ引っ張られる斜め上に引き上げられるっ!

「ぶはっ」

 顔が水面に出た。あたしはなんとか息をして、水面を腕で叩く。その間にも透明な糸はあたしを引っ張り続けて、推進力もなんもないあたしをなんとかプールの端まで引き寄せる。
 あ、た、タッチ! 今あたしプールの壁にタッチしたよ! って事は嘘、これ、ゴールできた? 下に一度も足ついてないよ?!

「あ……」

 プールの底に足をついて息を整えて、上を見上げたら、何か棒を片手に持った虚宮があたしに手を伸ばしていた。あたしは何も考えず手を取って、プールの上に引き上げられる。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
「お疲れさん」

 虚宮は過呼吸で全然動けないあたしに近づいて、首元に手を伸ばした。え、何、ロマンスは突然に? 惚れるじゃないかやめろ。

 ……そのまま、コートの襟元に手をやって、結ばれてた糸を外す。そして棒にクルクル巻き取る……あ、これ用務員室に置かれてた釣り竿だ! って事はあの糸は釣り糸で、あたしが引っ張られてたのって……。

「え、いつ仕掛けたの?!」
「まあ、念の為」
「いやいや……って、え? 数十キロもある魚とかそんな釣り竿一本で釣れなくない?」
かつおの一本釣り漁とかあるだろ」
「あのー、鰹ってせいぜい十数キロですけど」

 自分のこと魚って言っちゃったよもう何これ。プールから釣り糸で釣り上げられるJKってそれどんな状況よ? こんな状況よ。もう、疲れた……。

「さて、これでこいつはクリアだよな? 文句あるか?」

 え、いや、あれで25メートル真面目に泳ぎましたーとか言ったら文句しかないけど。だってJKフィッシングだよ?

〈……泳げた子は、帰っていいわ……〉

 え、何そのジェスチャー。お手手ひらひらって、は、マジ? マジで許された? おいおい先生節穴じゃんか、たまげたなあ!

「あ、これに着替えてろ。次は俺だな?」

 用意周到に持ってきてたらしい別の作業着をあたしに渡して、虚宮は上を脱いでプールに飛び込んでいった。一瞬見えた腹筋とかがバキバキのガチガチになってた気がするけどあたしは気にしないで着替えるよー、細マッチョって何それファンタジー。現実は太マすらなくお腹ぷにぷにーズばっかりだからね。って、なんかあったかいと思ったらポケットにホッカイロ入ってるじゃん! 神か豊臣秀吉か!
 え、虚宮の様子? 心配してるわけないじゃん、ただ水泳するだけのミッションでしょ? どうせあの高スペック氏はスイスイ泳いでるよ、ほら……。

 わーーっ!!! えっちょっと沈んでる沈んでる! 怖いんだけど何? えっ、潜水してるだけだよね? 実はカナヅチとかないよね?! いや待って、まだ溺れるような時間は経っちゃいないはず、のはず、のはず……? 待って待って、マヤだって潜水の時こんな風にならないよ? 動いてなくない?

「虚宮っ!!!」

 あたしは虚宮に近いプール際に駆け寄って、叫んだ。虚宮は動かない。あぶくの一つすら水面には浮かんでこない。そんな、いや、溺れるにしても時間短くない? おかしくない? まさか……この幽霊のせい?
 あたしがきっと睨みつけると、「先生」は引きつったように笑った。

〈出来ることをしても仕方がないの。生徒たちはできないことにチャレンジしなくちゃ。この体になって、せんせいはそんな風にも泳げるようになったのよ。生徒にもそうなって欲しいと思うものでしょう? それがせんせいというものよ、これはやさしい親の心なの、せんせいは、せんせいが、せんせいとして、しなければいけないことなのよ〉

 何を言ってるかは分からない、けど……ものすごく吐き気がする。幽霊に近づいてるからじゃなくて、吐き気のするようなことを言われてる気分。

「ふざけないでよ! 生徒が溺れてて助けようともしないなんて先生じゃないじゃん!」
〈この体になったら、もっと泳げるようになるのよ? だったら、そうなってもらわなくちゃ〉
「ごたく並べてる暇あったらさっさと助けなさいよ!」

 いや、あたしが助けに行きゃいいのか?「先生」を無視してあたしはプールの中に降りようとして……ゾッとして動きを止めた。
 ぷかりっ、て、虚宮の背中が浮いてきた。

〈早かったわね〉

 楽しそうなキンキン声を鳴らして、楽しそうに、畜生、「先生」は笑った。

 そんな、7話で終わりとか、言ったけど、さあ?!



 あたしはぺたんと床にくずれて、サイテー「先生」は楽しそうに、ああもう、虚宮に近づいて行って……









「そうか、やっぱりあの子はお前がんだな」



 いつも通りの落ち着いた声に、おそるおそる、顔を上げたら、普通に起き上がった虚宮が、近づいてきたクソ女の喉を掴んでた。

「虚宮!」

 なっなな何が、起きてんの、で、殺したって、なに……?

「放送室にあった新聞記事の裏面に、この高校で前に起きた事件のことがチラッと書かれてたんだよな。事故の方針で捜査されてたらしいけど、不自然だよな。うっかり転落して溺死したところまでは分かる。でも、ろくに歩けもしない幼児がプールまでどうやって来た?」

 え、そんな記事あったの……っていうか、それ、ヤバくないか? 誰かが赤ちゃん連れて来て、プール脇に放置したってこと? なんでそんなことすんの?

「そこまで泳ぎを教えたかったか? 本当に泳げると思ったのか?」

 あの、なに、言ってるのかな、虚宮……? 小さい子供に、こんな深いプールで泳がせようとか、思う人いるわけないじゃん……? しかも多分、それって、自分の子供だよね……。でも虚宮は迷いのない目をして、ただ、キリキリと体をくねらす「先生」を見てる。冷たい目。あたしが見られてるわけじゃないのに、怖い。

〈せん、せ、い、は、まち、が、た、こ、とは、し、て、な、〉
「もう分かった。お前は危険すぎる。おとなしく喫茶店開いてする気も無さそうだし、客として潰させてもらう」

 いや、あの、客として……? 論点そこ……? と、あたしが思う間に、虚宮の腕が、少し離れてるあたしにも分かるくらい、「バキッ」って鳴った。トイレで聞こえた静電気の音にも似てて、同時にプールから目が眩むような光が目に飛び込んできて……すぐに目を閉じるけど、まぶたをつらぬいて同じくらい強い光が飛び込んでくる。あたしは腕を重ねた。まだ眩しい。怖い。あたしは頭を下げて体を丸めた。耳は塞げないから、ずっと何かが激しく砕ける音が聞こえる。前に動画で見た、雷が木に直撃した時みたいな音。腕をそっとずらして耳を押さえようとして、あたしは、もう眩しくない事に気付いた。音もすぐに消えて、あたしはそっと顔を上げる。

「終わった」

 なんでか、すぐ目の前に虚宮がいた。

「終わったの……?」

 プールの方を見ようとしたら、止められた。

「あまり愉快なものじゃない」
「何があるの……?」
「……『せんせい』はいない」

 何、その言い方。腰が抜けてたから、あたしは腕を使って這うみたいに横に体をずらして、プールを見た。

「ひっ」

 ぷかーり、ぷかり。そんな効果音が出そうな感じで、何かが浮いてた。これ、水中で見たものだ……うん、小さな子供、だった。人間の体だったものだと思えないくらいに、青ざめていて、水を吸って膨らんでいて、そして笑っちゃうくらい小さくて細くて可哀想な、もの。あたしは思わず後ずさった。近づいたら、顔をはっきりと見てしまいそうで、怖くて恐ろしくて。

「……」

 虚宮は、前に出た。全くためらいもしないで、プールの縁から手を伸ばして、その子に触れた。

「溺死か凍死か……可哀想だったな」

 そう言って、前に出られないあたしの代わりに目を閉じさせて、静かに頭を撫でた。

 何も起こらなかった。よくあるホラー物みたいに動いたり沈んだり音を立てたりしない。ゾンビになって噛み付いてきたりもしない、プールに引きずり込もうともしない。ただ一つ、見ていられないような可哀想な、本当に小さな子が一人、いただけ。目を閉じさせてもらっても頭を撫でてもらっても、もう嫌がりも喜びもしない、動かない子が……。
 あたしはコンクリの地面にうずくまって、勝手にプールサイドに塩水を落とした。そんな事しても、もう何も起きない。幽霊すらいないから、体が変に冷えることなんてなくて、それが悲しかった。



〈プール せんせいの呼び声 巡〉
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