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ラヴリィ・ラヴリィ・リリー@アパートA一室
らゔりり⑶
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「とりあえず、あんなに苦労して直した時計に何かしら意味があってよかった」
「……なあ、気になってたんだけど」
何となく達成感を味わう雪佳に、虚宮は少し考え込むと話し出した。
「この謎封筒、二通とも郵便受けじゃなくてテーブルの上にあったよな。もしかして、今郵便受けってヤバい状態なのか?」
「えっ、見てないよ」
「いや……よく考えてみれば外と繋がる大穴の空いた唯一のポイントだし、外の現状を見るに簡単に手を出すのは危ういか? でもエアコンから外の液体零れ落ちて来たりはしないんだよな……」
「ちょ、ちょっとストップ。私にも話して」
また思考の渦に沈みそうになっていた虚宮を雪佳は引き戻した。
「……ちょっと危険なミッションかもしれない。ドアについてる郵便受け、あそこってほとんど外と通じてるだろ。もしかしたらフタ開けた瞬間に……」
「瞬間に……?」
「郵便受けの隙間から外の液体入ってくるかも。この部屋が一瞬で水没する可能性もある」
「怖っ」
「物理テキトーに習ってるから本当はどうなるか知らないけど」
「で、でも、いつかは調べることになると思う。正直私、けっこう調べたけど重要なものは結局見つかってないし……」
キュッと手を握って恐る恐る雪佳が問いかけると、虚宮は首を振った。
「いや、絶対調べはする。こういう時に探索不足があると簡単に死ぬからな」
「死っ……? ……じゃあ、なんで難しい顔してるの」
「考えてるのは、今調べるべきかって話。もしミスって溺れそうになった場合、俺達は水面がすぐ近くにある事を祈って、窓ガラスでも破って泳いで出るしかない。君は見たところ運動してないし、俺がなんとかするしかないだろ。その場合、ベッドごと脱出するのは無理だ。手錠と鎖の鍵が別の場所にあるなら、危険な場所の探索はそれを見つけてからの方がいい」
「う……」
運動してない訳じゃない、と言い返そうとしていたのだが、雪佳は口ごもる。サークルで週一バドミントンしていても、そんな状況になったら何とかなる気がしない。というより、
「どうしよう、私カナヅチだよ……?!」
今さら泳いで脱出しなければならないかもしれないと気付いて、雪佳は青ざめる。
「そもそも水中でどれくらい息、止めればいいの……」
「おーい、まだ決まった話じゃ」
「非常用持ち出し袋って酸素ボンベとか入ってる……?」
「いや入ってないだろ。……落ち着けって」
「おっ、落ち着く……(すーはっはっー)」
雪佳は深呼吸……ではなくマラソン時の呼吸をして、それでも虚宮の声に、少しは気を落ち着けようとベッドの縁に座った。
「私、小学校低学年の時にプールで溺れた事があって。それからちょっと、ううんかなり無理」
「低学年用のプールで?」
「水に慣れようと思ってプールの真ん中歩いてたら脚が攣って……」
「そうか。最悪ゴミ袋かなんか繋げて少しは息続くようにして俺が引っ張るか……には、やっぱり邪魔だな」
ジャラッと鎖を鳴らした虚宮は、薄くため息をついて手を一回叩いた。
「よし、本気出すか。悪いけど、この敷布団ボロボロにしてくれ」
「えっ? えっ?」
「あと、何か針金持ってたら適当にくれ。鍵開け試してみる」
「えっ、あの」
「敷布団ハサミで切り裂いて、中の綿少しずつ出せばこの鎖にも隙間ができるだろ。そうすれば鎖からは抜け出せる。今のままじゃ無理でも、自由度が高くなれば手錠ねじ切れそうだし。そしたら何も心配いらなくなる」
「そ、そう……なのかな」
「
「なんでそれ、最初からは言わなかったの……?」
虚宮は、けろりとした顔で言った。
「警戒されてるうちに自分の脱出優先させたがる男がいたら怪しすぎるだろ。君だっておちおち着替えも出来なかっただろうし。それに、カーテンの布に落書きされて嫌がってたから、できるだけ敷布団切ったりなんてしたくないだろうと思って」
◇◇◇
鎖の近くの敷布団を切って、クッション部分を少しずつハサミの先やフォークで引きずり出す。緩くなった鎖の間からシーツを抜き、敷布団の残骸も押しのけて隙間から這い出る。ベッドの片側を持ち上げて鎖を通し、ベッドから外す。言うは易し、実際には重労働を経て、虚宮はベッドから解放された。両手に手錠、腕に太く長い鎖の輪が通った状態だったが、
「鍵開けは諦めるとして、そのハサミ頑丈そうだし借りていいか?」
ベッドの角に手錠の鎖を引っ掛けた虚宮がハサミを引っ掛け、力を入れてグルグルと回すと、鎖が一つ歪んで壊れた。
「?!?!」
「いや、そんな力かけてないぜ。テコの原理テコの原理」
重い鎖を捨てて両手も自由に動かせるようになった虚宮は、どことなく嬉しそうに背伸びをしたり腕を左右に振ったり、両手の骨をパキパキと鳴らしたりする。まだ手首には重そうな手錠がぶら下がっているが、無理して明るく振舞っている様子ではなかった。
「さてと、まあこの借りはきっちりと返してやるとして、その前に、ずーっと気になってたんだよな」
真っ直ぐに棚に向かう虚宮に、何か気づいていたのかと期待して雪佳がドキドキしていると、虚宮は一冊の本を引き抜いた。
「何、この本」
「? 『察して布団から追い出された奴らの夜遊び』」
ビビッドな表紙がクールな、特に異変もない雪佳の持ち物だ。
「……日本語は読める」
「そのまま、『察して布団から追い出された奴らの夜遊び』。私の好きな深夜の飯テロ本シリーズだけど?」
「何だよそのジャンル?! しかもシリーズなのかよ」
「もうすぐ三巻発売だよ。あれ、そういえば二巻どこ置いたかな」
どうやら、本が気になっていただけらしい。
「……って、脱出の手掛かりとかじゃないの?!」
「落ち着けって。手掛かりならいくつか見つけてるから。それよりまずはスマホ」
「あっ、そうだった。待ってて」
「……」
雪佳が冷蔵庫に向かった隙に、虚宮は棚に飾られていた犬らしきぬいぐるみの口に指を突っ込んだ。そのまま指で中を探る。ぬいぐるみとはいえ少し可哀想な絵面だったが、素早く紙片を見つけてぬいぐるみを戻し、何食わぬ顔で持ち主を出迎える。
「何その紙?」
「見つけた。それより見せてみろ」
「むう、横暴だなあ」
「て」と書かれた小さい紙を見せもせず畳んで、虚宮はさっきも活躍したフォークを手に氷漬けスマホを観察する。
「あー、はい、うん。いけそうだな」
キッチンのシンクに氷を置き、虚宮はフォークを振り下ろす。ガッ、ガッ、と氷を砕く音がしばらく続いて、「はい俺天才」と満足そうな声がした。
「ん、何離れて目閉じてんの」
「こ、怖いじゃない、フォークが手に当たって怪我するかもしれないし氷の欠片飛んでくるかもしれないし、す、スマホ壊れるかもしれないし」
「見てみろってホラ、平気だから。一応、米と一緒にしばらく袋に入れておいたほうがいいけど」
「分かった……ありがとう」
傷一つなくスマホは戻ってきた。ティッシュで丁寧に細部まで水気を取って生米と一緒に袋に入れておく。水気を取るのに良いらしい。逆に、すぐに電源を入れたりドライヤーをかけたり振ってはいけないとか雪佳は聞いたことがあった。
「はぁあー……良かった」
「まだ現状の打開には使えないけどな」
「それでも安心感が違うよ。本当、ありがとう」
「どういたしまして?」
微妙に曲がったフォークの先を指で押し戻しながら、虚宮は冗談っぽく雪佳の感謝に応えた。
そして、ギリギリまで膨らませて口を縛ったゴミ袋をいくつも繋げたものを雪佳に手渡してくる。
「じゃ、これ、浮き袋」
「?」
「最悪、これ体に巻いて頭に袋被れば水没しても生存率上がるだろ」
「……いつ作ったの、これ」
「さっき」
「さっきって……というか、さっきまでどこに持ってたの?!」
「さっき。じゃ退がってろ」
虚宮は圧を感じさせる笑みを浮かべて雪佳をベランダの近くまで退がらせる。
「郵便受けチェックするから。何か異変があったら、すぐ逃げられるようにすること。俺は泳げるし、最悪でも窓くらいは開けてやるから。……ま、ここまで気をつけても何も起こらなくて無駄足かもしれないけどな」
そういう声はおどけていても緊張がほの聞こえる。どうしても水中では足がすくんでしまう雪佳は、こくこくと頷いて不恰好な浮き袋を抱えるしかない。
「行くぞ……」
虚宮の背で何も見えないが、彼が郵便受けに手を掛けたらしかった。身動きもせずに待っていると、留め金を外す動きと音がして……
「うぉっ」
ちょっと間の抜けた声と同時に、虚宮の姿勢が崩れる。体がそのまま斜めに傾くような不自然な動きだ。
「大じょ……っ?!」
声をかけようとしたまさにその時、雪佳にも、何が起こったのか分かる。隠れて見えなかった郵便受けが、虚宮の体が傾いたことで見えるようになった、から。
それはショッキングピンク色をしていた。外の不気味な液体と同じ色だ。ただし、隙間から噴き出してくるとか、思っていたような形ではない。
「う、うそ」
蓋が開いた郵便受けの中から飛び出してきたのは、ショッキングピンク色の、スライムのようにうねる大きな幾本もの腕だった。
「なにあれっ!」
正直に言えば、その瞬間雪佳の頭には虚宮を心配する気持ちは一欠片もなかった。助けようとして逃げなかった訳ではない。虚宮を信じた訳でもない。ただ、自分が逃げ場のない場所で信じられない現象に出会い、化け物としか言えないモノに追い詰められる、その絶望だけが頭にあった。
身がすくんで動けない。
身がすくんで動けない。
身がすくんで動けないーー
「っ危ねーなおらっ!」
ピンクが弾けて玄関に広がった。
あの腕が弾けたのだ、と気付いた時には、虚宮が手刀と回し蹴りで残る腕にまとめて追撃を加えている。それは男子の喧嘩すら見た事のなかった雪佳にはあまりにも非現実的で、まるでCG映画かパフォーマンスのような光景だった。穿たれたバケモノの腕は、弾けるとただの液体のように床や壁に落ちる。それさえも、斬撃が残っているかのようだった。勢い余って壁を蹴りつけた虚宮は、舌打ちをしながらも低く息を吸って構える。
「一昨日来やがれ!」
虚宮は、強く郵便受けを蹴り飛ばして蓋を閉めた。
しんーー
1分ほども経っただろうか。玄関に散らばった液体は動かない。郵便受けから何かが飛び出してくることもない。……危険が去った事をようやく実感して、虚宮は顔に付いた液体を拭い、雪佳はカーペットの上にどさりとお尻から落っこちた。
◇◇◇
「うえー、広範囲ベトベトしてるじゃん。嫌んなるな」
「その液体、触っても大丈夫なの……?」
「ん? ああ、俺の予想が正しければ、害はないはず」
「予想?」
虚宮はハンドタオルで顔や手足を拭って「ふう」と息をついた。
「ごめんね、お風呂使えれば良かったんだけど」
バスルームのドアには錠が掛かっているので使えない。
「いや、綺麗なタオル使えるだけで充分」
虚宮はヒラヒラと手を振ってから、床に落ちていた数枚の紙を拾った。
「? 何、この紙」
「郵便受けに入ってた奴。中を確認するのが本来の目的だっただろ」
「あ、そうだったっけ……」
思いがけない事態ですっかり頭からは飛んでいた。腕のバケモノだけではなく、ボロボロになった敷布団やゴミ袋の浮き袋とかのせいで。
落ちていた紙は5枚だった。3枚は部屋で見つけたのと同じような小さい紙片で、それぞれ「ぎ」「を」「み」と書かれている。後で並べ替えてみよう、と雪佳は思う。
1枚は固く丸められていて、開くと中に、黒い鍵が入っていた。
「! これ」
「手錠の鍵か。ここにあったなら自力で破って正解だな。にしてもこのタイプって普通に鍵開け出来ないのか? うーん」
手錠をようやく外した虚宮は、またも鍵を眺めてぶつぶつ言っていたが、諦めたように顔を上げる。
「で、そこのもう一枚は?」
「この紙?」
雪佳はぺらりと裏返しになった紙を持ち上げて……動きを、止めた。
「……おい」
虚宮は雪佳の横に回り込むと、紙を覗き込む。雪佳は反射的に手を下ろそうとしたが、間に合わなかった。
『Dear・ Dear・Lily. 其でも私は君に無限の愛を捧げよう。
君の左脚は何物にも比べる可くも勿く美しい。天使の一部を持って産れてきたのが君だった。百合は君を表し君は信仰を表す。
君を産出した血の全てを愛そう。両親の持たない踝と膝と腿は、脛と甲と脹脛は、二つの血が混ざり合って出来たものだろうから。
だから、君の妹を愛そう。君と最も近しい脚を愛そう。左脚は愛せないが、右脚を愛そう。
嗚呼、Lovely・Lovely・Lily. 願わくば君の右脚が、また美しく戻らん事を』
赤黒い字が、紙全体に綴られていた。
「リコ……リコ!」
雪佳は、真っ青になってがたがたと震え出した。
「……なあ、気になってたんだけど」
何となく達成感を味わう雪佳に、虚宮は少し考え込むと話し出した。
「この謎封筒、二通とも郵便受けじゃなくてテーブルの上にあったよな。もしかして、今郵便受けってヤバい状態なのか?」
「えっ、見てないよ」
「いや……よく考えてみれば外と繋がる大穴の空いた唯一のポイントだし、外の現状を見るに簡単に手を出すのは危ういか? でもエアコンから外の液体零れ落ちて来たりはしないんだよな……」
「ちょ、ちょっとストップ。私にも話して」
また思考の渦に沈みそうになっていた虚宮を雪佳は引き戻した。
「……ちょっと危険なミッションかもしれない。ドアについてる郵便受け、あそこってほとんど外と通じてるだろ。もしかしたらフタ開けた瞬間に……」
「瞬間に……?」
「郵便受けの隙間から外の液体入ってくるかも。この部屋が一瞬で水没する可能性もある」
「怖っ」
「物理テキトーに習ってるから本当はどうなるか知らないけど」
「で、でも、いつかは調べることになると思う。正直私、けっこう調べたけど重要なものは結局見つかってないし……」
キュッと手を握って恐る恐る雪佳が問いかけると、虚宮は首を振った。
「いや、絶対調べはする。こういう時に探索不足があると簡単に死ぬからな」
「死っ……? ……じゃあ、なんで難しい顔してるの」
「考えてるのは、今調べるべきかって話。もしミスって溺れそうになった場合、俺達は水面がすぐ近くにある事を祈って、窓ガラスでも破って泳いで出るしかない。君は見たところ運動してないし、俺がなんとかするしかないだろ。その場合、ベッドごと脱出するのは無理だ。手錠と鎖の鍵が別の場所にあるなら、危険な場所の探索はそれを見つけてからの方がいい」
「う……」
運動してない訳じゃない、と言い返そうとしていたのだが、雪佳は口ごもる。サークルで週一バドミントンしていても、そんな状況になったら何とかなる気がしない。というより、
「どうしよう、私カナヅチだよ……?!」
今さら泳いで脱出しなければならないかもしれないと気付いて、雪佳は青ざめる。
「そもそも水中でどれくらい息、止めればいいの……」
「おーい、まだ決まった話じゃ」
「非常用持ち出し袋って酸素ボンベとか入ってる……?」
「いや入ってないだろ。……落ち着けって」
「おっ、落ち着く……(すーはっはっー)」
雪佳は深呼吸……ではなくマラソン時の呼吸をして、それでも虚宮の声に、少しは気を落ち着けようとベッドの縁に座った。
「私、小学校低学年の時にプールで溺れた事があって。それからちょっと、ううんかなり無理」
「低学年用のプールで?」
「水に慣れようと思ってプールの真ん中歩いてたら脚が攣って……」
「そうか。最悪ゴミ袋かなんか繋げて少しは息続くようにして俺が引っ張るか……には、やっぱり邪魔だな」
ジャラッと鎖を鳴らした虚宮は、薄くため息をついて手を一回叩いた。
「よし、本気出すか。悪いけど、この敷布団ボロボロにしてくれ」
「えっ? えっ?」
「あと、何か針金持ってたら適当にくれ。鍵開け試してみる」
「えっ、あの」
「敷布団ハサミで切り裂いて、中の綿少しずつ出せばこの鎖にも隙間ができるだろ。そうすれば鎖からは抜け出せる。今のままじゃ無理でも、自由度が高くなれば手錠ねじ切れそうだし。そしたら何も心配いらなくなる」
「そ、そう……なのかな」
「
「なんでそれ、最初からは言わなかったの……?」
虚宮は、けろりとした顔で言った。
「警戒されてるうちに自分の脱出優先させたがる男がいたら怪しすぎるだろ。君だっておちおち着替えも出来なかっただろうし。それに、カーテンの布に落書きされて嫌がってたから、できるだけ敷布団切ったりなんてしたくないだろうと思って」
◇◇◇
鎖の近くの敷布団を切って、クッション部分を少しずつハサミの先やフォークで引きずり出す。緩くなった鎖の間からシーツを抜き、敷布団の残骸も押しのけて隙間から這い出る。ベッドの片側を持ち上げて鎖を通し、ベッドから外す。言うは易し、実際には重労働を経て、虚宮はベッドから解放された。両手に手錠、腕に太く長い鎖の輪が通った状態だったが、
「鍵開けは諦めるとして、そのハサミ頑丈そうだし借りていいか?」
ベッドの角に手錠の鎖を引っ掛けた虚宮がハサミを引っ掛け、力を入れてグルグルと回すと、鎖が一つ歪んで壊れた。
「?!?!」
「いや、そんな力かけてないぜ。テコの原理テコの原理」
重い鎖を捨てて両手も自由に動かせるようになった虚宮は、どことなく嬉しそうに背伸びをしたり腕を左右に振ったり、両手の骨をパキパキと鳴らしたりする。まだ手首には重そうな手錠がぶら下がっているが、無理して明るく振舞っている様子ではなかった。
「さてと、まあこの借りはきっちりと返してやるとして、その前に、ずーっと気になってたんだよな」
真っ直ぐに棚に向かう虚宮に、何か気づいていたのかと期待して雪佳がドキドキしていると、虚宮は一冊の本を引き抜いた。
「何、この本」
「? 『察して布団から追い出された奴らの夜遊び』」
ビビッドな表紙がクールな、特に異変もない雪佳の持ち物だ。
「……日本語は読める」
「そのまま、『察して布団から追い出された奴らの夜遊び』。私の好きな深夜の飯テロ本シリーズだけど?」
「何だよそのジャンル?! しかもシリーズなのかよ」
「もうすぐ三巻発売だよ。あれ、そういえば二巻どこ置いたかな」
どうやら、本が気になっていただけらしい。
「……って、脱出の手掛かりとかじゃないの?!」
「落ち着けって。手掛かりならいくつか見つけてるから。それよりまずはスマホ」
「あっ、そうだった。待ってて」
「……」
雪佳が冷蔵庫に向かった隙に、虚宮は棚に飾られていた犬らしきぬいぐるみの口に指を突っ込んだ。そのまま指で中を探る。ぬいぐるみとはいえ少し可哀想な絵面だったが、素早く紙片を見つけてぬいぐるみを戻し、何食わぬ顔で持ち主を出迎える。
「何その紙?」
「見つけた。それより見せてみろ」
「むう、横暴だなあ」
「て」と書かれた小さい紙を見せもせず畳んで、虚宮はさっきも活躍したフォークを手に氷漬けスマホを観察する。
「あー、はい、うん。いけそうだな」
キッチンのシンクに氷を置き、虚宮はフォークを振り下ろす。ガッ、ガッ、と氷を砕く音がしばらく続いて、「はい俺天才」と満足そうな声がした。
「ん、何離れて目閉じてんの」
「こ、怖いじゃない、フォークが手に当たって怪我するかもしれないし氷の欠片飛んでくるかもしれないし、す、スマホ壊れるかもしれないし」
「見てみろってホラ、平気だから。一応、米と一緒にしばらく袋に入れておいたほうがいいけど」
「分かった……ありがとう」
傷一つなくスマホは戻ってきた。ティッシュで丁寧に細部まで水気を取って生米と一緒に袋に入れておく。水気を取るのに良いらしい。逆に、すぐに電源を入れたりドライヤーをかけたり振ってはいけないとか雪佳は聞いたことがあった。
「はぁあー……良かった」
「まだ現状の打開には使えないけどな」
「それでも安心感が違うよ。本当、ありがとう」
「どういたしまして?」
微妙に曲がったフォークの先を指で押し戻しながら、虚宮は冗談っぽく雪佳の感謝に応えた。
そして、ギリギリまで膨らませて口を縛ったゴミ袋をいくつも繋げたものを雪佳に手渡してくる。
「じゃ、これ、浮き袋」
「?」
「最悪、これ体に巻いて頭に袋被れば水没しても生存率上がるだろ」
「……いつ作ったの、これ」
「さっき」
「さっきって……というか、さっきまでどこに持ってたの?!」
「さっき。じゃ退がってろ」
虚宮は圧を感じさせる笑みを浮かべて雪佳をベランダの近くまで退がらせる。
「郵便受けチェックするから。何か異変があったら、すぐ逃げられるようにすること。俺は泳げるし、最悪でも窓くらいは開けてやるから。……ま、ここまで気をつけても何も起こらなくて無駄足かもしれないけどな」
そういう声はおどけていても緊張がほの聞こえる。どうしても水中では足がすくんでしまう雪佳は、こくこくと頷いて不恰好な浮き袋を抱えるしかない。
「行くぞ……」
虚宮の背で何も見えないが、彼が郵便受けに手を掛けたらしかった。身動きもせずに待っていると、留め金を外す動きと音がして……
「うぉっ」
ちょっと間の抜けた声と同時に、虚宮の姿勢が崩れる。体がそのまま斜めに傾くような不自然な動きだ。
「大じょ……っ?!」
声をかけようとしたまさにその時、雪佳にも、何が起こったのか分かる。隠れて見えなかった郵便受けが、虚宮の体が傾いたことで見えるようになった、から。
それはショッキングピンク色をしていた。外の不気味な液体と同じ色だ。ただし、隙間から噴き出してくるとか、思っていたような形ではない。
「う、うそ」
蓋が開いた郵便受けの中から飛び出してきたのは、ショッキングピンク色の、スライムのようにうねる大きな幾本もの腕だった。
「なにあれっ!」
正直に言えば、その瞬間雪佳の頭には虚宮を心配する気持ちは一欠片もなかった。助けようとして逃げなかった訳ではない。虚宮を信じた訳でもない。ただ、自分が逃げ場のない場所で信じられない現象に出会い、化け物としか言えないモノに追い詰められる、その絶望だけが頭にあった。
身がすくんで動けない。
身がすくんで動けない。
身がすくんで動けないーー
「っ危ねーなおらっ!」
ピンクが弾けて玄関に広がった。
あの腕が弾けたのだ、と気付いた時には、虚宮が手刀と回し蹴りで残る腕にまとめて追撃を加えている。それは男子の喧嘩すら見た事のなかった雪佳にはあまりにも非現実的で、まるでCG映画かパフォーマンスのような光景だった。穿たれたバケモノの腕は、弾けるとただの液体のように床や壁に落ちる。それさえも、斬撃が残っているかのようだった。勢い余って壁を蹴りつけた虚宮は、舌打ちをしながらも低く息を吸って構える。
「一昨日来やがれ!」
虚宮は、強く郵便受けを蹴り飛ばして蓋を閉めた。
しんーー
1分ほども経っただろうか。玄関に散らばった液体は動かない。郵便受けから何かが飛び出してくることもない。……危険が去った事をようやく実感して、虚宮は顔に付いた液体を拭い、雪佳はカーペットの上にどさりとお尻から落っこちた。
◇◇◇
「うえー、広範囲ベトベトしてるじゃん。嫌んなるな」
「その液体、触っても大丈夫なの……?」
「ん? ああ、俺の予想が正しければ、害はないはず」
「予想?」
虚宮はハンドタオルで顔や手足を拭って「ふう」と息をついた。
「ごめんね、お風呂使えれば良かったんだけど」
バスルームのドアには錠が掛かっているので使えない。
「いや、綺麗なタオル使えるだけで充分」
虚宮はヒラヒラと手を振ってから、床に落ちていた数枚の紙を拾った。
「? 何、この紙」
「郵便受けに入ってた奴。中を確認するのが本来の目的だっただろ」
「あ、そうだったっけ……」
思いがけない事態ですっかり頭からは飛んでいた。腕のバケモノだけではなく、ボロボロになった敷布団やゴミ袋の浮き袋とかのせいで。
落ちていた紙は5枚だった。3枚は部屋で見つけたのと同じような小さい紙片で、それぞれ「ぎ」「を」「み」と書かれている。後で並べ替えてみよう、と雪佳は思う。
1枚は固く丸められていて、開くと中に、黒い鍵が入っていた。
「! これ」
「手錠の鍵か。ここにあったなら自力で破って正解だな。にしてもこのタイプって普通に鍵開け出来ないのか? うーん」
手錠をようやく外した虚宮は、またも鍵を眺めてぶつぶつ言っていたが、諦めたように顔を上げる。
「で、そこのもう一枚は?」
「この紙?」
雪佳はぺらりと裏返しになった紙を持ち上げて……動きを、止めた。
「……おい」
虚宮は雪佳の横に回り込むと、紙を覗き込む。雪佳は反射的に手を下ろそうとしたが、間に合わなかった。
『Dear・ Dear・Lily. 其でも私は君に無限の愛を捧げよう。
君の左脚は何物にも比べる可くも勿く美しい。天使の一部を持って産れてきたのが君だった。百合は君を表し君は信仰を表す。
君を産出した血の全てを愛そう。両親の持たない踝と膝と腿は、脛と甲と脹脛は、二つの血が混ざり合って出来たものだろうから。
だから、君の妹を愛そう。君と最も近しい脚を愛そう。左脚は愛せないが、右脚を愛そう。
嗚呼、Lovely・Lovely・Lily. 願わくば君の右脚が、また美しく戻らん事を』
赤黒い字が、紙全体に綴られていた。
「リコ……リコ!」
雪佳は、真っ青になってがたがたと震え出した。
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