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零参 欄干擬宝珠に駆引きの舞
三刀 (22/3/14研直し)
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任務を始めて三日目の夜。刀士の姿で僕は歩いていた。今日は隣に、楽しそうな酔っ払い……の姿を作った紫煙が歩いている。
「……二人組の刀士を装う必要はあったのか」
「その方が逆に油断するって事もあるだろう?」
わざとらしく紫煙は肩を組む。これだけひどく酔った風でいて人目は引かずに夜に紛れ込むのだ、舌を巻かざるを得ない。いつか真似てやろうと観察しながら、酔っ払いを介抱する刀士になりきる。と、紫煙の腰元に差された紫の装飾刀が当たって、僕はかすかに眉をしかめた。
「……」
「どうした? 相棒。刀が気になるか?」
「……気にならないと言えば嘘になる」
紫煙の、というよりも、僕の刀の事だ。しっかりと重みで存在を主張する腰の刀に目をやって、低く息をつく。こちらは柄に桜色の細い糸が縫い込まれているのが、目立たないが気になる。
「四日ほどの期日で張りぼてを頼んで、二日で真剣が届いたんだったか?」
「……」
「本当持ってるよな、お前さんは」
明るい笑い声に、僕は苦笑すら返せない。
おまけに、今日届いた刀にはご丁寧に名が添えられていた。
「その刀、『造花』っていうらしいな。どういう意味なんだ?」
「……知らない」
……説明できる訳がない。
刀を差して歩いたのは初めてではないが、どうも本物の、自分が切られかけた刀というのは慣れないものだ。柄を通して、蘭茶の鋭い悪意の響が伝わってくるような気持ちになる。
「交換するか?」
紫煙の刀は、ちゃんと偽物だったはずだ。僕のものよりも長く、少し重く、こちらは紫がかった鞘と柄をしている。僕の背で持つ長さではないし、紫煙は紫煙で、僕の小さい刀では見劣りするだろう。
「……任務に問題が無ければ、このままで構わない」
「お堅いねえ。ま、そこが良い」
からかわれている。いや、酔っ払いらしく突拍子も無い事を言ってみたのだろうか?
「……随分酔ったようだな。今日はこのまま酔い覚ましに廻るぞ」
冷たく言って、僕は話を変えた。
「ええ? もう一軒くらい行っても良いだろ? なあ、別嬪がいるって噂の町人酒場にでも行こうぜ」
「川に落とされたいか?」
「お前さんになら落とされても良いぜ」
「やめろ」
どこまでが冗談で、どこが本音か分かったものではない。とりあえず、今日は酒場には行かない手筈だからあしらっておけば良いだろう。というより、酒場はもう行ったのだ。件の酒場以外を広く、刀士になりきって回った。収穫は、特に無い。そもそも、他の町人酒場には刀士はほとんど訪れていなかった。
「……あの真朱という女、どう見る?」
声を細めて聞いてみる。
「お? 俺があの別嬪に惹かれたか気になるのか? 俺の好みは……」
「茶化すな。花街から来ているんだろう?」
「……あれは花街の『青梔子』って高級店の中でも特に人気の女なんだ。それが、金の少ない町人の酒場で客を作る必要はない。そもそも、町人にはおいそれと払いにくい値が一晩で飛ぶ店だしな。聞いた話では、この酒場の女主人に借りがあるとかで、酒場の人手不足に、わざわざ花街を休んで来てるらしいが」
すぐに真面目な口調になってすらすらと言う。
「……人気の女が、花街を簡単に休めるものか?」
「遊女屋じゃなくて芸者屋の方だからな。それも高級といっただろう? 花街の中でもあそこまで芸妓を大事にする店は他に無いだろうな」
「詳しいな」
感心して言えば、気まずそうにこいつは眼をそらす。
「いや……お前さんに花街の話を振られると困るな」
「これまでは普通に話していただろう」
冗談ながらに色の方に誘われた事もある。
「いや、あの時は……悪い、忘れてくれ」
「妙な気を遣うな。態度を変えられた方が困る」
どれだけの間、男衆の中で生きてきたと思っているのか。今更、下の話で動じたりなどしない。居心地悪そうにそわそわとしだした紫煙に、「小便なら迷惑にならない場所まで待て」と言えば、またも微妙な顔が返ってきた。
その時、ふと嫌な風が吹いた。
「……居る」
「あ?」
「橋に、誰かが居る」
「『俺はここで涼んでるから、ちょっと家から飲み代持って来いよ。やっぱりもう一軒くらい回りたいだろ?』」
紫煙はすぐさま、大きめの声で僕が単独で動く口実を演じた。いざという時、紫煙を担いだまま走るのは不自然で無理がある。置いていけという事だろう。僕は念のため紫煙に呆れてみせる素振りを見せてから、橋へと歩き出す。
橋の途中で立ち止まっている人がいたくらいなら、僕も警戒するだけで近づきはしなかっただろう。その者は、欄干に手を掛け、擬宝珠の上に乗ろうとしていたのだ。
(「幽霊」……)
青白く、小さい男だった。僕もなかなか小柄だが、その僕でさえ心配になる、病の気を感じさせる体だ。病人の着るような白い装いのせいもあるだろうか。長めの髪を結いもせず乱してはいるが、決して噂にあるような、落ち武者の姿ではない。しかし、面白がって欄干に乗る町人とも思えない。何より、その腰には長く反りのある刀が差されているのだ。僕が橋に近寄る間にも、擬宝珠に這い上ると、まさに幽霊のように片足を尖った先に当て、もう片足は浮かせてすらりと立った。腕を広げて均衡を取ったりもせずに、ふらつかない。芸者の曲芸のような技だ。といって、こんな所で夜に技を磨く曲芸師が居るわけがない。大道芸にしても客もいないし、顔には満足げな様子の一つもない。
……いや、そんな事は関係なかった。この橋の欄干には注意書きが括り付けてある。夜で見えなかったやもしれないが、曲芸師だろうと誰だろうと、乗った時点で止めて構わないだろう。
「おい、そこの。危ないだろう?」
僕は刀士らしく刀をちらつかせながら、少し偉そうに呼び掛ける。
男は黙ったまま、僕を見下ろした。垂れ下がっていた腕が少し持ち上がる。
嫌な、風が、吹いた。
男は欄干から飛び降りざまに、僕に向かって刀を抜いた!
(っ!)
僕は飛びすさる。真後ろでは距離が足りないと、横向きに跳び受身を取って、橋の傾きに任せて端まで身体を転がした。回避は遅かったが、結果的にはこれで良かった。背を屈めたことで、欄干の上から下ろされる高い斬撃を躱していた。
軽い、しかし、素早く剃刀のように滑る一撃だった。
薄い銀月のような刃が、返され、ゆっくりと僕に切っ先を向ける。細身の幽霊は今にも倒れそうな青い顔のままだったが、その体幹にはぶれがない。手練れなのはすぐに分かった。表情は読み取れない。無表情ではなく、本当に、今にも倒れそうな病人の顔なのだ。
ただ、僕の首元に、りぃぃぃぃんーーと、悪意が響いた。
「っ……」
悪意を感じる場所というのは、ある程度悪意の種によって変わる。女を下卑た目で見る輩なら、胸や腰や脚である事が多い。掏摸の類が悪意を持てば、どこに金を隠し持ったと狙いをつけたか大体分かる。正確にどこと狙う部分が無い場合は大抵頭に響くし、どの指とまで正確に分かるわけでは無いが、なかなか「響」は正直なものだ。
(喉をかっ切るつもりか……?)
思わず喉に手をやりそうになって、堪える。代わりに腰刀の柄に、慎重に手を置いた。
刀士ほど大っぴらにではないが、忍びにも帯刀は許されている。それは、いざという時に使う事も許されている、という事だ。だが僕は、刀を交えたくはなかった。
刀の扱いに暗器ほどは慣れていないのが一つ。
大怪我を負いかねない得物を振り回したくないのが一つ。
そして目立ちたくないのが一つだ。
(とはいえ、何もしなければこの場で、僕は斬られる)
先ほどの斬撃といい、首に感じる悪意といい、町人の噂話にあったような怪我程度で済むとは思えない。
りぃぃぃぃんーー
響くのは、喉と、刀に触れる手。鋭い刃の一撃を音にするなら、この響のように高く冴え冴えと鳴るのだろう。本当は音など鳴っていないのに、耳の奥が痛いほどだ。これだけの悪意を放っておきながら、幽霊は、目をぎらつかせる事も感情を表す事もない。ただ、青白い顔を虚ろに向けている。
(化粧……いや、面をつけているのか)
幽霊のような印象に騙されるところだったが、顔を変えるのに全体を覆う柔らかい仮面をつけるのはよくやる事。乱れ髪なら仮面のふちも見えない。目まで覆っているとは思えないから、そこだけ気になるが考える余裕は無い。男は、抜刀の構えを見せた。すぐに抜く事も出来るだろうに、僕の動きを見ている。
僕は少し汗ばんだ手で、ゆっくりと刀の柄に手を掛けた。対して経験も無いながらに、構える。
そして、刀を引き抜く代わりに数本、針を放った。
なにも得物を相手に合わせる必要はない。剣術の指南を受けているわけでもなし、そもそも堂々でもなく斬りかかってきた相手に正々堂々などと言われても片腹痛い。そして、捕まえる事になるなら無理に刀士の演技を続ける義理もない。
十分に奇襲といえる動きに、男はやはり戸惑ったようだった。針を咄嗟に避けるような仕草をしたのは流石だが、全ては避けきれなかったらしい。三本ほどの光る痕が宙から男に吸い込まれていった。
「がああああっ!」
痛みにうめく声が漏れても口は動かない。やはり仮面でもつけているようだ。身をよじり出したところに、僕は駆け寄る。針には一応麻痺毒を塗っているが、効きにくい者もいる。今のうちに一気に押さえるべきだと判断した。それに、男の死角に紫煙も来ている。二人掛かりでならそう手間取る事もないだろう。僕は真っ先に飛びかかる。
「触れるなあっ!」
男は無理に刀を振り回した。毒はまだ効いていないようだ。僕はでたらめでも美しさの残る刀筋を避け、刀に手を伸ばす。と、視界の端を光るものが横切った。
「っ!」
慌てて右に避けると、すぐ隣を、男が口で吹いた針が飛んでいく。体に刺さった針を、口だけで引き抜いて吹いたのだろう。思いがけない仕返しに、ひやりとする。
(もしや、針を身に受けたのもわざとか?)
考える間も無く、男はもう一本、針を咥えて吹いてきた。今度は刀の鞘で受ける……と、紫煙が、男のすぐ背後に、気配も見せず、そっと陣を取った。
(いける!)
思った瞬間、男は、足元に向かって何かを投げた。
白い煙が、吹き上がる。
「!」
僕はとっさに、前に飛んだ。逃げる時に使うような煙幕だ、煙自体に恐れることはない、とーーそして、つい、息を吸い込んでしまう。
冷たい煙だった。かすかな香り。吸い込んだ途端に、くらりとするような感覚が体を襲う。この感覚は……。
(窒息……)
僕は後ろに飛び退る。煙の届かないところまで。
やってしまった。あの煙は、酸素ではない気体の煙だったのだ。肺に空気を溜めたまま息をせずに耐えることは訓練すればできるが、空気でないものをいっぱいに肺に溜めたまま耐えるのは、やめた方が良い。……前に試して、酷い目に遭った。
(瓦斯の類でなかったのを、まだ幸いと思うべきか)
白い瓦斯というのも聞かないが、もし取り込んでから火でもつけられていれば危ないところだった。
暫しの時が経ち、煙が静かに晴れる。
「……ああ、逃しちまった」
服の切れ端を手にした紫煙が、ふうと息をついた。
「お前さんは怪我無いか?」
(……)
僕は思い返す。
息が詰まる直前ーーふわり、と鼻を掠めたのは、檸檬の香りだった。
(とすれば、やはり)
僕は念のため、紫煙に飛びかかった。
「おっ?! ど、どうした霜月?」
慌てた素振りは感じるが特に抵抗されないので、腕、脇、腹、胸、首と顔を寄せてーー今まで見たこともないような顔をされているのに気づいて、さすがに離れた。
「そ、霜月、酔っ払いの役割は俺だからな?」
「……香らない」
「何だって?」
やはり、今の紫煙は、香りを身につけてきていない。
すぐに真面目な顔になった紫煙に、僕は檸檬の香りがした事を話す。それから問いかけた。
「二日前、酒場に行った時。わざと檸檬の香りをつけて行ったんだろう?」
「ああ、あの日か」
何でもないように頷くのを見て、やはり、と思う。あの日変装した紫煙から檸檬が香ってきた事が、ずっと気にかかっていた。
普段は香草をよく吸っている紫煙だが、もちろんいつでも香りをつけているわけではない。そもそも、あんな小洒落た香りをつけた刀士がそう居るわけがないのに。嗅覚というのは大事な情報源なのだ。女は香水で浮気を知るという。こいつほどの忍びが、香りに気を遣っていないはずがない。
だから、あの香りは、店に来た客に染み込ませるためのものだったのだろう。
「……あの日の客なら、おおよそ顔は覚えている。刀士となれば、かなり絞られるな」
紫煙は腕を組んだ。
「しかし、気の入った変装だ。顔を被り物で隠して、髪をあそこまで散らし、白装束を着て気が触れた芝居か。人斬りの趣味がありそうな輩は見なかったんだがな」
「……刀、はどうだ」
「ん?」
「刀を集めるのに興味のありそうな者は?」
刀に触れる手に感じた悪意を思い出して、言ってみる。あれだけの業前の者なら、斬り狂いでなくとも刀狂いかもしれない。
「それは……いや、流石にそこまでは、調べてみないと分からないな」
「そうか」
「ま、調べてみようぜ。ここ最近任務中に草吸っちまったのはあの日だけだし、香りが付くとなると、ざっと二十人ほどだろ」
犯人に香りが付いていたのはただの幸運にすぎないかのような物言いをして、こいつは犯人を逃した僕の背を叩くのだ。全く、……敵わない。
「……二人組の刀士を装う必要はあったのか」
「その方が逆に油断するって事もあるだろう?」
わざとらしく紫煙は肩を組む。これだけひどく酔った風でいて人目は引かずに夜に紛れ込むのだ、舌を巻かざるを得ない。いつか真似てやろうと観察しながら、酔っ払いを介抱する刀士になりきる。と、紫煙の腰元に差された紫の装飾刀が当たって、僕はかすかに眉をしかめた。
「……」
「どうした? 相棒。刀が気になるか?」
「……気にならないと言えば嘘になる」
紫煙の、というよりも、僕の刀の事だ。しっかりと重みで存在を主張する腰の刀に目をやって、低く息をつく。こちらは柄に桜色の細い糸が縫い込まれているのが、目立たないが気になる。
「四日ほどの期日で張りぼてを頼んで、二日で真剣が届いたんだったか?」
「……」
「本当持ってるよな、お前さんは」
明るい笑い声に、僕は苦笑すら返せない。
おまけに、今日届いた刀にはご丁寧に名が添えられていた。
「その刀、『造花』っていうらしいな。どういう意味なんだ?」
「……知らない」
……説明できる訳がない。
刀を差して歩いたのは初めてではないが、どうも本物の、自分が切られかけた刀というのは慣れないものだ。柄を通して、蘭茶の鋭い悪意の響が伝わってくるような気持ちになる。
「交換するか?」
紫煙の刀は、ちゃんと偽物だったはずだ。僕のものよりも長く、少し重く、こちらは紫がかった鞘と柄をしている。僕の背で持つ長さではないし、紫煙は紫煙で、僕の小さい刀では見劣りするだろう。
「……任務に問題が無ければ、このままで構わない」
「お堅いねえ。ま、そこが良い」
からかわれている。いや、酔っ払いらしく突拍子も無い事を言ってみたのだろうか?
「……随分酔ったようだな。今日はこのまま酔い覚ましに廻るぞ」
冷たく言って、僕は話を変えた。
「ええ? もう一軒くらい行っても良いだろ? なあ、別嬪がいるって噂の町人酒場にでも行こうぜ」
「川に落とされたいか?」
「お前さんになら落とされても良いぜ」
「やめろ」
どこまでが冗談で、どこが本音か分かったものではない。とりあえず、今日は酒場には行かない手筈だからあしらっておけば良いだろう。というより、酒場はもう行ったのだ。件の酒場以外を広く、刀士になりきって回った。収穫は、特に無い。そもそも、他の町人酒場には刀士はほとんど訪れていなかった。
「……あの真朱という女、どう見る?」
声を細めて聞いてみる。
「お? 俺があの別嬪に惹かれたか気になるのか? 俺の好みは……」
「茶化すな。花街から来ているんだろう?」
「……あれは花街の『青梔子』って高級店の中でも特に人気の女なんだ。それが、金の少ない町人の酒場で客を作る必要はない。そもそも、町人にはおいそれと払いにくい値が一晩で飛ぶ店だしな。聞いた話では、この酒場の女主人に借りがあるとかで、酒場の人手不足に、わざわざ花街を休んで来てるらしいが」
すぐに真面目な口調になってすらすらと言う。
「……人気の女が、花街を簡単に休めるものか?」
「遊女屋じゃなくて芸者屋の方だからな。それも高級といっただろう? 花街の中でもあそこまで芸妓を大事にする店は他に無いだろうな」
「詳しいな」
感心して言えば、気まずそうにこいつは眼をそらす。
「いや……お前さんに花街の話を振られると困るな」
「これまでは普通に話していただろう」
冗談ながらに色の方に誘われた事もある。
「いや、あの時は……悪い、忘れてくれ」
「妙な気を遣うな。態度を変えられた方が困る」
どれだけの間、男衆の中で生きてきたと思っているのか。今更、下の話で動じたりなどしない。居心地悪そうにそわそわとしだした紫煙に、「小便なら迷惑にならない場所まで待て」と言えば、またも微妙な顔が返ってきた。
その時、ふと嫌な風が吹いた。
「……居る」
「あ?」
「橋に、誰かが居る」
「『俺はここで涼んでるから、ちょっと家から飲み代持って来いよ。やっぱりもう一軒くらい回りたいだろ?』」
紫煙はすぐさま、大きめの声で僕が単独で動く口実を演じた。いざという時、紫煙を担いだまま走るのは不自然で無理がある。置いていけという事だろう。僕は念のため紫煙に呆れてみせる素振りを見せてから、橋へと歩き出す。
橋の途中で立ち止まっている人がいたくらいなら、僕も警戒するだけで近づきはしなかっただろう。その者は、欄干に手を掛け、擬宝珠の上に乗ろうとしていたのだ。
(「幽霊」……)
青白く、小さい男だった。僕もなかなか小柄だが、その僕でさえ心配になる、病の気を感じさせる体だ。病人の着るような白い装いのせいもあるだろうか。長めの髪を結いもせず乱してはいるが、決して噂にあるような、落ち武者の姿ではない。しかし、面白がって欄干に乗る町人とも思えない。何より、その腰には長く反りのある刀が差されているのだ。僕が橋に近寄る間にも、擬宝珠に這い上ると、まさに幽霊のように片足を尖った先に当て、もう片足は浮かせてすらりと立った。腕を広げて均衡を取ったりもせずに、ふらつかない。芸者の曲芸のような技だ。といって、こんな所で夜に技を磨く曲芸師が居るわけがない。大道芸にしても客もいないし、顔には満足げな様子の一つもない。
……いや、そんな事は関係なかった。この橋の欄干には注意書きが括り付けてある。夜で見えなかったやもしれないが、曲芸師だろうと誰だろうと、乗った時点で止めて構わないだろう。
「おい、そこの。危ないだろう?」
僕は刀士らしく刀をちらつかせながら、少し偉そうに呼び掛ける。
男は黙ったまま、僕を見下ろした。垂れ下がっていた腕が少し持ち上がる。
嫌な、風が、吹いた。
男は欄干から飛び降りざまに、僕に向かって刀を抜いた!
(っ!)
僕は飛びすさる。真後ろでは距離が足りないと、横向きに跳び受身を取って、橋の傾きに任せて端まで身体を転がした。回避は遅かったが、結果的にはこれで良かった。背を屈めたことで、欄干の上から下ろされる高い斬撃を躱していた。
軽い、しかし、素早く剃刀のように滑る一撃だった。
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ただ、僕の首元に、りぃぃぃぃんーーと、悪意が響いた。
「っ……」
悪意を感じる場所というのは、ある程度悪意の種によって変わる。女を下卑た目で見る輩なら、胸や腰や脚である事が多い。掏摸の類が悪意を持てば、どこに金を隠し持ったと狙いをつけたか大体分かる。正確にどこと狙う部分が無い場合は大抵頭に響くし、どの指とまで正確に分かるわけでは無いが、なかなか「響」は正直なものだ。
(喉をかっ切るつもりか……?)
思わず喉に手をやりそうになって、堪える。代わりに腰刀の柄に、慎重に手を置いた。
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刀の扱いに暗器ほどは慣れていないのが一つ。
大怪我を負いかねない得物を振り回したくないのが一つ。
そして目立ちたくないのが一つだ。
(とはいえ、何もしなければこの場で、僕は斬られる)
先ほどの斬撃といい、首に感じる悪意といい、町人の噂話にあったような怪我程度で済むとは思えない。
りぃぃぃぃんーー
響くのは、喉と、刀に触れる手。鋭い刃の一撃を音にするなら、この響のように高く冴え冴えと鳴るのだろう。本当は音など鳴っていないのに、耳の奥が痛いほどだ。これだけの悪意を放っておきながら、幽霊は、目をぎらつかせる事も感情を表す事もない。ただ、青白い顔を虚ろに向けている。
(化粧……いや、面をつけているのか)
幽霊のような印象に騙されるところだったが、顔を変えるのに全体を覆う柔らかい仮面をつけるのはよくやる事。乱れ髪なら仮面のふちも見えない。目まで覆っているとは思えないから、そこだけ気になるが考える余裕は無い。男は、抜刀の構えを見せた。すぐに抜く事も出来るだろうに、僕の動きを見ている。
僕は少し汗ばんだ手で、ゆっくりと刀の柄に手を掛けた。対して経験も無いながらに、構える。
そして、刀を引き抜く代わりに数本、針を放った。
なにも得物を相手に合わせる必要はない。剣術の指南を受けているわけでもなし、そもそも堂々でもなく斬りかかってきた相手に正々堂々などと言われても片腹痛い。そして、捕まえる事になるなら無理に刀士の演技を続ける義理もない。
十分に奇襲といえる動きに、男はやはり戸惑ったようだった。針を咄嗟に避けるような仕草をしたのは流石だが、全ては避けきれなかったらしい。三本ほどの光る痕が宙から男に吸い込まれていった。
「がああああっ!」
痛みにうめく声が漏れても口は動かない。やはり仮面でもつけているようだ。身をよじり出したところに、僕は駆け寄る。針には一応麻痺毒を塗っているが、効きにくい者もいる。今のうちに一気に押さえるべきだと判断した。それに、男の死角に紫煙も来ている。二人掛かりでならそう手間取る事もないだろう。僕は真っ先に飛びかかる。
「触れるなあっ!」
男は無理に刀を振り回した。毒はまだ効いていないようだ。僕はでたらめでも美しさの残る刀筋を避け、刀に手を伸ばす。と、視界の端を光るものが横切った。
「っ!」
慌てて右に避けると、すぐ隣を、男が口で吹いた針が飛んでいく。体に刺さった針を、口だけで引き抜いて吹いたのだろう。思いがけない仕返しに、ひやりとする。
(もしや、針を身に受けたのもわざとか?)
考える間も無く、男はもう一本、針を咥えて吹いてきた。今度は刀の鞘で受ける……と、紫煙が、男のすぐ背後に、気配も見せず、そっと陣を取った。
(いける!)
思った瞬間、男は、足元に向かって何かを投げた。
白い煙が、吹き上がる。
「!」
僕はとっさに、前に飛んだ。逃げる時に使うような煙幕だ、煙自体に恐れることはない、とーーそして、つい、息を吸い込んでしまう。
冷たい煙だった。かすかな香り。吸い込んだ途端に、くらりとするような感覚が体を襲う。この感覚は……。
(窒息……)
僕は後ろに飛び退る。煙の届かないところまで。
やってしまった。あの煙は、酸素ではない気体の煙だったのだ。肺に空気を溜めたまま息をせずに耐えることは訓練すればできるが、空気でないものをいっぱいに肺に溜めたまま耐えるのは、やめた方が良い。……前に試して、酷い目に遭った。
(瓦斯の類でなかったのを、まだ幸いと思うべきか)
白い瓦斯というのも聞かないが、もし取り込んでから火でもつけられていれば危ないところだった。
暫しの時が経ち、煙が静かに晴れる。
「……ああ、逃しちまった」
服の切れ端を手にした紫煙が、ふうと息をついた。
「お前さんは怪我無いか?」
(……)
僕は思い返す。
息が詰まる直前ーーふわり、と鼻を掠めたのは、檸檬の香りだった。
(とすれば、やはり)
僕は念のため、紫煙に飛びかかった。
「おっ?! ど、どうした霜月?」
慌てた素振りは感じるが特に抵抗されないので、腕、脇、腹、胸、首と顔を寄せてーー今まで見たこともないような顔をされているのに気づいて、さすがに離れた。
「そ、霜月、酔っ払いの役割は俺だからな?」
「……香らない」
「何だって?」
やはり、今の紫煙は、香りを身につけてきていない。
すぐに真面目な顔になった紫煙に、僕は檸檬の香りがした事を話す。それから問いかけた。
「二日前、酒場に行った時。わざと檸檬の香りをつけて行ったんだろう?」
「ああ、あの日か」
何でもないように頷くのを見て、やはり、と思う。あの日変装した紫煙から檸檬が香ってきた事が、ずっと気にかかっていた。
普段は香草をよく吸っている紫煙だが、もちろんいつでも香りをつけているわけではない。そもそも、あんな小洒落た香りをつけた刀士がそう居るわけがないのに。嗅覚というのは大事な情報源なのだ。女は香水で浮気を知るという。こいつほどの忍びが、香りに気を遣っていないはずがない。
だから、あの香りは、店に来た客に染み込ませるためのものだったのだろう。
「……あの日の客なら、おおよそ顔は覚えている。刀士となれば、かなり絞られるな」
紫煙は腕を組んだ。
「しかし、気の入った変装だ。顔を被り物で隠して、髪をあそこまで散らし、白装束を着て気が触れた芝居か。人斬りの趣味がありそうな輩は見なかったんだがな」
「……刀、はどうだ」
「ん?」
「刀を集めるのに興味のありそうな者は?」
刀に触れる手に感じた悪意を思い出して、言ってみる。あれだけの業前の者なら、斬り狂いでなくとも刀狂いかもしれない。
「それは……いや、流石にそこまでは、調べてみないと分からないな」
「そうか」
「ま、調べてみようぜ。ここ最近任務中に草吸っちまったのはあの日だけだし、香りが付くとなると、ざっと二十人ほどだろ」
犯人に香りが付いていたのはただの幸運にすぎないかのような物言いをして、こいつは犯人を逃した僕の背を叩くのだ。全く、……敵わない。
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ミステリー
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四十五歳でうつ病により会社を退職した藤子は、五十歳で純文学の新人賞を獲得し白井真琴の筆名で芥山賞まで受賞し、人生が一気に変わる。容姿や珍しい経歴もあり、世間から注目を浴びテレビ出演した際、渡部亮と名乗る男の死についてコメント。それが後に別名義を使っていた弟の雄太と知らされ、騒動に巻き込まれる。さらに本人名義の土地建物を含めた多額の遺産は全て藤子にとの遺書も発見され、いくつもの謎を残して死んだ彼の過去を探り始めた。相続を巡り兄夫婦との確執が産まれる中、かつて雄太の同僚だったと名乗る同性愛者の女性が現れ、警察は事故と処理したが殺されたのではと言い出す。さらに刑事を紹介され裏で捜査すると告げられる。そうして真相を解明しようと動き出した藤子を待っていたのは、予想をはるかに超える事態だった。登場人物のそれぞれにおける人生や、藤子自身の過去を振り返りながら謎を解き明かす、どんでん返しありのミステリー&サスペンス&ヒューマンドラマ。
ザイニンタチノマツロ
板倉恭司
ミステリー
前科者、覚醒剤中毒者、路上格闘家、謎の窓際サラリーマン……社会の底辺にて蠢く四人の人生が、ある連続殺人事件をきっかけに交錯し、変化していくノワール群像劇です。犯罪に関する描写が多々ありますが、犯罪行為を推奨しているわけではありません。また、時代設定は西暦二〇〇〇年代です。
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