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零参 欄干擬宝珠に駆引きの舞
二刀 (22/3/14研直し)
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夜。薄くなりかけた月が、白い光を零す。近くには酒場があるが、橋の近くは存外暗い。
「よっ。昼話した通りで良いな?」
「ああ」
僕と紫煙は川沿いの道を向かいから歩いて来ると、すれ違いざまに囁きを交わして、橋と酒場へとそのまま歩いていく。離れて見れば、知り合いにも、言葉を交わしたようにも見えなかっただろう。
僕は暗い着流しを着て、橋の下に借りてきたぼろの小舟を浮かべると乗る。ぼろ、と言っても例の技術屋衆、椋実の技でそれらしく見た目だけを紛ったものだ。実際には新品といって問題ない。頰に紅を差して水入りの盃を傾ければ、見た目だけは、月見酒と洒落込んだ酔っ払いの出来あがり。
『橋の上を見張っていた時には、刃傷どころか酔っ払いの喧嘩一つも起きやしなかった。どうやら「亡霊」ってのは見張られてるとやる気を失くすらしいな。なら、見られていると気づきにくい所から見てみたらどうだ?』
……紫煙の考えだ。橋の下から橋の上を見張るなどと聞いた時には呆れたが、こうして位置取ってみると、案外悪くないかもしれない。
橋がかすかに軋む音。一人、二人、揉め事があれば分かるだろうし、慣れれば人数も分かる。揺れない川では邪魔する水音も立たず、新しい舟は軋みもしない。何より、三日月を盃に映して夏の夜を水面で過ごすというのは、気張った任務中とはいえ、悪くない。
ふと、数日前の事を思い出す。川渡しの舟で渡ったえび橋の下は、残念ながら心地の良いものではなかった。あれを聴いてからの己の考え、行動を今思い返すと、何か奇妙に感じられた。僕は何故、あそこまで確信をもって動けたのだろうか? そもそも、あの響は何だったのか。
昼間からあの音が流れていたとも、流した者が居たとも考えにくい。とすれば、夜にでもあの橋の下で誰かが流した事になるのだが……
(……半日も前の悪意を、今まで響として、はっきりと感じた事はない)
残響のように残っていた音の響。あれは、何だったのだろうか。あの曲とは、あの楽譜の行方は……。
月夜だというのに闇に沈みそうになる頭を、僕はそっと振ってまた、水をあおった。
結局、陽が昇るまで、特に何も起きる事はなかった。
「まあ、分かっちゃいたけど一日じゃ何も現れないか」
「そんなものだろう」
「当たり屋のお前さんなら、なんて思ったんだけどな」
「何だその呼び方は……そちらの成果は?」
「こちらも空振りだ。このまま噂ごと消えてくれればいっそ良いのかもしれないな」
「……それは怠慢だろう。それに、既に斬られた傷はどうやっても消しようがない。斬った者は見つけなければならない」
僕は酒入りのひょうたんを背に担いだ。
「それはそうと、一杯やってたのか? 酒が匂うぞ」
「服に少々垂らして、少しだけ呑んでいる。誰かに話し掛けられた時、吐く息から何も匂わないのは不自然だからな」
「なるほどな」
紫煙は、ふいに僕の頬に手ぬぐいを当てた。不満を言う前に、赤い化粧を拭われてしまう。
「何だ?」
「いや、その顔のまま帰っちまうかと思ってな?」
「流石に朝に赤ら顔で帰る気は無い。ちゃんと化粧は直す」
「……呑兵衛ってほどじゃ無いが、まだ赤いな」
「だろうな」
僕は紫煙の手から手ぬぐいを引ったくって、綺麗に頬を拭った。
「呑むとすぐ顔が赤くなる方だ。見た目と違って強いから心配はない」
「……可愛いな」
「何か言ったか?」
小声で言ったつもりか知らないが、聞こえている。軽く睨んでやると、慌てたように「いやあ、冗談だって」と首を掻いている。そして煙管を回す仕草。悪意は感じないが、何だ?
「下らない事を言っていないで、帰ればいい。僕は……」
「待てって、詰め所まで一緒に行こうぜ」
「……この付近でよく見かける二人組になりたくない」
「まだ誰も通りゃしないのに?」
僕は頬に白粉をはたいて少し色を入れる。わざわざ化粧をする、これが答えだ。
「……はいはい、邪魔者は帰るぜ。じゃ、今晩も同じ時間にな」
紫煙は、香りだけを残して去っていった。
「……?」
その様子に何か引っかかりを覚えて、僕はしばらく、立ち止まっていた。
ヰヰヰヰヰヰヰ
「こんにちは」
「川渡し、今なら安くしておくよ」
「いえ、またえび橋の下を潜りたくなって」
「……こないだのお客さんか。いいよ、どうぞ」
二日目の昼。
言葉数は少ないながらどこか軽快な口調に乗せられるように、実際渡し舟に乗って、僕はいつぞやの枯洲川を下った。ちなみに渡し人は女。反応から明らかなようにこの間の渡し人だ。この環樹の都では女の船頭も珍しくはない。
「最近はここのずうっと下で小火があったりしてね、忍びの方々が話を聞きに来たりしたよ。物騒で良くないねえ、って言いたくなるが、昔は穏やかだったとも言えないしね」
「そうですね」
残念な事に、白々しく言っているこの僕が小火の犯人だ。彼女にしてみれば世も末かもしれない。
「さて、えび橋の下だ。こないだ色の話はしたし、今度は別の話でもしようか。お客さん暇は?」
「ありますよ」
「じゃあちょっと橋の下で止まるよ。っと」
船頭の女は、舟を端の方に寄せた。
急に、水音が大きくなった。もちろん水音は下からじかに聞こえているのだが、橋の上でも大水が流れているような、奇妙な音が上から降ってくる。まるで水に包まれているかのような気分だ。
「えび橋のこの端だけは、こうやって音が変になるんだ。音が跳ね返るっていうのかな、うまくこの所に集まるんだろうね」
「なるほど……これは凄いですね」
僕は膝を叩いていた。この橋の下では、音が響き一か所に集まる。つまり勝手にできた、格好の演奏会場というわけだ。
川の流れが静かな夜に、もしかしたら彼らは、あんなぼろ家ではなく、音の響く橋の下で「楽譜」を鳴らした事があったのではないだろうか。「響」はそれほど長くは残らないと思っていたが、音の響く場所でなら長く残るのかもしれない。そして、その残響を僕が感じ取ったのだ。
「満足いただけたようで良かった」
変わり者の川渡しはゆっくりと舟を漕いで引き返した。
ヰヰヰヰヰヰヰ
「おうおう霜月、がっつりと面貸せや!」
二日目の夕方。詰め所を出たところで、騒がしい声に呼び止められる。「巴」の蘭茶だ。途端に、周囲の忍び達が露骨に気配を消し、逃げていく。蘭茶が暴れ回れば無事では済まない事を知っているのだ。
「……この場で良ければ」
「あぁ? こんな表で殴り合う気か? いいぜ、趣向はお前が決めればいい。俺はただ筋肉と経験を信じるだけだからなっ!」
力の籠もった拳が飛んできたので、なんとか避ける。ここで本当に殴り合いなどしたくはないし、そもそも正面きって戦って蘭茶になど勝てない。顔を上げて見れば、やけに殺気立った眼が光っていた。普段よりも……いや、普段からこのくらいの事はするか。
「まずは殴らせろよおいぃぃっ!」
「椋実の任務は?」
問い掛けると、追いかけてくる拳がぴたり、と止まった。
「……そうだ、その用もあったな」
というよりも、用があって探していたのに忘れて殴りかかったというのが正しいのだろう。
「うん、これだ。よっくと見やがれよ!」
蘭茶はどこか得意げに、大きい背で隠れていたもの……一振りの刀を振りかざした。
鞘も柄もない剥き出しの刃だ。刀身はやや短く、ほんのり赤みが差したようなどこか艶のある色合いで、刃文は花弁を並べたように細やかな美しさがある。
今回の任務の為に刀士に化けて張り込むため、椋実に依頼していた刀だ。
「……これだけの腕前のものが、これほど早くできるとは」
依頼書きの内容は、それらしき刀を一振り、という程度だったはずだ。
もちろん本物を求めてはいない。刀を作るには手間がかかる。刀身を打つだけでも十から十五日、それから研ぎが入るのだ。一つの任務の為にそこまで求められはしない。月夜に刀に見えさえすれば良い。鉄の棒ですらなくても良い。それが依頼の中身だった。
それなら二日三日でできるだろうと思っていたが、まさか一日で、ここまで整った細工まで施されているとは思いもしなかった。光り具合も、本物にしか見えない……。
「あー、勘違いするな。ええと、何だったか、くそっ忘れた。とにかく、こんなものが一日でできるかよ。お前に一太刀やるために、作っていた刀だっ」
どういう意味だ?
呆けてわずかに反応が遅れたが、僕は地面に手をついて横に転がる。その隣を、切り裂かれた風が掠めた。
(鋭い)
冷や汗が流れる。続く刀に備えて身を起こした、が、蘭茶はあっさりと刀を引いた。
「あーあ、斬れねえか。こんなもん花刀だ、模造刀と同じだ」
恐ろしい切れ味。そして、今の言葉。
花刀は逆刃刀のこと、ろくに斬れない刀の事も意味する。それに模造刀の筈が、「と同じだ」と言った。
……本物、なのか?
「じゃ仕上げてから渡す。良いな?」
「……ああ」
「けっ、気分が悪ぃ。帰る」
僕が立ち上がると、蘭茶は刀を包んで、竜巻のように走り去っていった。いやに引き際が良い。
「何だったんだ」
思わず呟くも、近くの者は皆逃げていて、答える者は居ない。
ヰヰヰヰヰヰヰ
(すてごろを好む蘭茶が、なぜ、刀で僕を斬ろうとしたのか)
ぼんやりと考えながら、僕は川沿いの道を、今日は橋を背に歩む。昨日と担当が交代というわけだ。大胆に姿を変えた紫煙が向かいからすれ違う。
「少し遅かったな。大丈夫か?」
「問題ない」
「……髪を切るなら、剃刀より鋏を使えよ?」
「!」
何を言う間もなく、紫煙は遠ざかっていく。
僕はそっと、もみあげに触れる。刀を避けた時、わずかに髪が切れて、毛先が鋭くなっていたらしい。鏡で見た僕も気づかなかったのに、あの一瞬で、よくも気づいたものだ。
何があったかなど、あの過保護には言えない。問い詰められなくて良かった。僕は薄く息をついて、酒場に向かう人々に溶け込む。あとは道化を演じるだけだ、何も難しいことはない。
結果だけ言えば町人に化けたその晩も、酒場では特別なことは起きなかった。酔っ払いのささやかな諍い、騒がしく交わされるあけすけな話、お調子者を上階へ連れ込もうとする女、どれもよくある事ばかりだ。小さな悪意が生まれては消えるこの場所で、一つ一つを特別に扱うことの方が難しい。
ただ一つ言うなら、確かに、この酒場には刀士が訪れ、酒場を忙しく飛び回る一人の美人が、やけに彼らや町人の気を引いている。飛び回る、と言っても、彼女自身は客を誘う様子はない。花には虫が勝手に群がるものだ。
呼び名は真朱。思っていたより若い。確かに、わざわざ色目を使わずとも男を惹きつける顔と凛とした声だ。客への気遣いもしっかりしている。ただ、この気の周りよう、そして色気のある顔は、ただの酒場の看板娘というには違和感がある。
「……でも、真朱ちゃんはもうすぐ戻っちまうんだろう?」
「それは当たり前ってものよ。もともとあっちに居たんだ」
ふと聞こえてきた町人の声に、僕は耳を傾ける。
「でもどうするんだお前、花の街なんてよう、俺たちには手が届かないぜ。ここだから通えてるのに」
「馬鹿野郎、そこはなんとか稼ぐんだよ。この酒場じゃあ手も出せないのが、向こうじゃしっぽりやれる。そう考えるのが男ってものよ」
「そのなんとかが難しいんだろうが。こちとら女房に財布の紐を掴ませちまってるんだ」
「やれやれ、これだからお前さんはだめなのさ。そこをなんとかちょろまかすんだよ」
……なるほど、ざっくりとした事情は分かった。この真朱という娘は、花街……色めく女の世界から、何かの縁でこの酒場を手伝いに出てきたのだ。幼い頃から客商売を仕込まれたのなら、この若さで酒場での振る舞いがしっかりしているのも、客あしらいが上手いのも頷ける。
しかし、随分と降りてきた花に惑う虫が多いものだ。彼女が去る時には本当に騒ぎが起きてしまうのではないだろうか。報告する事が増えた、と思いながら、僕は真朱につまみを頼んだ。
「よっ。昼話した通りで良いな?」
「ああ」
僕と紫煙は川沿いの道を向かいから歩いて来ると、すれ違いざまに囁きを交わして、橋と酒場へとそのまま歩いていく。離れて見れば、知り合いにも、言葉を交わしたようにも見えなかっただろう。
僕は暗い着流しを着て、橋の下に借りてきたぼろの小舟を浮かべると乗る。ぼろ、と言っても例の技術屋衆、椋実の技でそれらしく見た目だけを紛ったものだ。実際には新品といって問題ない。頰に紅を差して水入りの盃を傾ければ、見た目だけは、月見酒と洒落込んだ酔っ払いの出来あがり。
『橋の上を見張っていた時には、刃傷どころか酔っ払いの喧嘩一つも起きやしなかった。どうやら「亡霊」ってのは見張られてるとやる気を失くすらしいな。なら、見られていると気づきにくい所から見てみたらどうだ?』
……紫煙の考えだ。橋の下から橋の上を見張るなどと聞いた時には呆れたが、こうして位置取ってみると、案外悪くないかもしれない。
橋がかすかに軋む音。一人、二人、揉め事があれば分かるだろうし、慣れれば人数も分かる。揺れない川では邪魔する水音も立たず、新しい舟は軋みもしない。何より、三日月を盃に映して夏の夜を水面で過ごすというのは、気張った任務中とはいえ、悪くない。
ふと、数日前の事を思い出す。川渡しの舟で渡ったえび橋の下は、残念ながら心地の良いものではなかった。あれを聴いてからの己の考え、行動を今思い返すと、何か奇妙に感じられた。僕は何故、あそこまで確信をもって動けたのだろうか? そもそも、あの響は何だったのか。
昼間からあの音が流れていたとも、流した者が居たとも考えにくい。とすれば、夜にでもあの橋の下で誰かが流した事になるのだが……
(……半日も前の悪意を、今まで響として、はっきりと感じた事はない)
残響のように残っていた音の響。あれは、何だったのだろうか。あの曲とは、あの楽譜の行方は……。
月夜だというのに闇に沈みそうになる頭を、僕はそっと振ってまた、水をあおった。
結局、陽が昇るまで、特に何も起きる事はなかった。
「まあ、分かっちゃいたけど一日じゃ何も現れないか」
「そんなものだろう」
「当たり屋のお前さんなら、なんて思ったんだけどな」
「何だその呼び方は……そちらの成果は?」
「こちらも空振りだ。このまま噂ごと消えてくれればいっそ良いのかもしれないな」
「……それは怠慢だろう。それに、既に斬られた傷はどうやっても消しようがない。斬った者は見つけなければならない」
僕は酒入りのひょうたんを背に担いだ。
「それはそうと、一杯やってたのか? 酒が匂うぞ」
「服に少々垂らして、少しだけ呑んでいる。誰かに話し掛けられた時、吐く息から何も匂わないのは不自然だからな」
「なるほどな」
紫煙は、ふいに僕の頬に手ぬぐいを当てた。不満を言う前に、赤い化粧を拭われてしまう。
「何だ?」
「いや、その顔のまま帰っちまうかと思ってな?」
「流石に朝に赤ら顔で帰る気は無い。ちゃんと化粧は直す」
「……呑兵衛ってほどじゃ無いが、まだ赤いな」
「だろうな」
僕は紫煙の手から手ぬぐいを引ったくって、綺麗に頬を拭った。
「呑むとすぐ顔が赤くなる方だ。見た目と違って強いから心配はない」
「……可愛いな」
「何か言ったか?」
小声で言ったつもりか知らないが、聞こえている。軽く睨んでやると、慌てたように「いやあ、冗談だって」と首を掻いている。そして煙管を回す仕草。悪意は感じないが、何だ?
「下らない事を言っていないで、帰ればいい。僕は……」
「待てって、詰め所まで一緒に行こうぜ」
「……この付近でよく見かける二人組になりたくない」
「まだ誰も通りゃしないのに?」
僕は頬に白粉をはたいて少し色を入れる。わざわざ化粧をする、これが答えだ。
「……はいはい、邪魔者は帰るぜ。じゃ、今晩も同じ時間にな」
紫煙は、香りだけを残して去っていった。
「……?」
その様子に何か引っかかりを覚えて、僕はしばらく、立ち止まっていた。
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「こんにちは」
「川渡し、今なら安くしておくよ」
「いえ、またえび橋の下を潜りたくなって」
「……こないだのお客さんか。いいよ、どうぞ」
二日目の昼。
言葉数は少ないながらどこか軽快な口調に乗せられるように、実際渡し舟に乗って、僕はいつぞやの枯洲川を下った。ちなみに渡し人は女。反応から明らかなようにこの間の渡し人だ。この環樹の都では女の船頭も珍しくはない。
「最近はここのずうっと下で小火があったりしてね、忍びの方々が話を聞きに来たりしたよ。物騒で良くないねえ、って言いたくなるが、昔は穏やかだったとも言えないしね」
「そうですね」
残念な事に、白々しく言っているこの僕が小火の犯人だ。彼女にしてみれば世も末かもしれない。
「さて、えび橋の下だ。こないだ色の話はしたし、今度は別の話でもしようか。お客さん暇は?」
「ありますよ」
「じゃあちょっと橋の下で止まるよ。っと」
船頭の女は、舟を端の方に寄せた。
急に、水音が大きくなった。もちろん水音は下からじかに聞こえているのだが、橋の上でも大水が流れているような、奇妙な音が上から降ってくる。まるで水に包まれているかのような気分だ。
「えび橋のこの端だけは、こうやって音が変になるんだ。音が跳ね返るっていうのかな、うまくこの所に集まるんだろうね」
「なるほど……これは凄いですね」
僕は膝を叩いていた。この橋の下では、音が響き一か所に集まる。つまり勝手にできた、格好の演奏会場というわけだ。
川の流れが静かな夜に、もしかしたら彼らは、あんなぼろ家ではなく、音の響く橋の下で「楽譜」を鳴らした事があったのではないだろうか。「響」はそれほど長くは残らないと思っていたが、音の響く場所でなら長く残るのかもしれない。そして、その残響を僕が感じ取ったのだ。
「満足いただけたようで良かった」
変わり者の川渡しはゆっくりと舟を漕いで引き返した。
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「おうおう霜月、がっつりと面貸せや!」
二日目の夕方。詰め所を出たところで、騒がしい声に呼び止められる。「巴」の蘭茶だ。途端に、周囲の忍び達が露骨に気配を消し、逃げていく。蘭茶が暴れ回れば無事では済まない事を知っているのだ。
「……この場で良ければ」
「あぁ? こんな表で殴り合う気か? いいぜ、趣向はお前が決めればいい。俺はただ筋肉と経験を信じるだけだからなっ!」
力の籠もった拳が飛んできたので、なんとか避ける。ここで本当に殴り合いなどしたくはないし、そもそも正面きって戦って蘭茶になど勝てない。顔を上げて見れば、やけに殺気立った眼が光っていた。普段よりも……いや、普段からこのくらいの事はするか。
「まずは殴らせろよおいぃぃっ!」
「椋実の任務は?」
問い掛けると、追いかけてくる拳がぴたり、と止まった。
「……そうだ、その用もあったな」
というよりも、用があって探していたのに忘れて殴りかかったというのが正しいのだろう。
「うん、これだ。よっくと見やがれよ!」
蘭茶はどこか得意げに、大きい背で隠れていたもの……一振りの刀を振りかざした。
鞘も柄もない剥き出しの刃だ。刀身はやや短く、ほんのり赤みが差したようなどこか艶のある色合いで、刃文は花弁を並べたように細やかな美しさがある。
今回の任務の為に刀士に化けて張り込むため、椋実に依頼していた刀だ。
「……これだけの腕前のものが、これほど早くできるとは」
依頼書きの内容は、それらしき刀を一振り、という程度だったはずだ。
もちろん本物を求めてはいない。刀を作るには手間がかかる。刀身を打つだけでも十から十五日、それから研ぎが入るのだ。一つの任務の為にそこまで求められはしない。月夜に刀に見えさえすれば良い。鉄の棒ですらなくても良い。それが依頼の中身だった。
それなら二日三日でできるだろうと思っていたが、まさか一日で、ここまで整った細工まで施されているとは思いもしなかった。光り具合も、本物にしか見えない……。
「あー、勘違いするな。ええと、何だったか、くそっ忘れた。とにかく、こんなものが一日でできるかよ。お前に一太刀やるために、作っていた刀だっ」
どういう意味だ?
呆けてわずかに反応が遅れたが、僕は地面に手をついて横に転がる。その隣を、切り裂かれた風が掠めた。
(鋭い)
冷や汗が流れる。続く刀に備えて身を起こした、が、蘭茶はあっさりと刀を引いた。
「あーあ、斬れねえか。こんなもん花刀だ、模造刀と同じだ」
恐ろしい切れ味。そして、今の言葉。
花刀は逆刃刀のこと、ろくに斬れない刀の事も意味する。それに模造刀の筈が、「と同じだ」と言った。
……本物、なのか?
「じゃ仕上げてから渡す。良いな?」
「……ああ」
「けっ、気分が悪ぃ。帰る」
僕が立ち上がると、蘭茶は刀を包んで、竜巻のように走り去っていった。いやに引き際が良い。
「何だったんだ」
思わず呟くも、近くの者は皆逃げていて、答える者は居ない。
ヰヰヰヰヰヰヰ
(すてごろを好む蘭茶が、なぜ、刀で僕を斬ろうとしたのか)
ぼんやりと考えながら、僕は川沿いの道を、今日は橋を背に歩む。昨日と担当が交代というわけだ。大胆に姿を変えた紫煙が向かいからすれ違う。
「少し遅かったな。大丈夫か?」
「問題ない」
「……髪を切るなら、剃刀より鋏を使えよ?」
「!」
何を言う間もなく、紫煙は遠ざかっていく。
僕はそっと、もみあげに触れる。刀を避けた時、わずかに髪が切れて、毛先が鋭くなっていたらしい。鏡で見た僕も気づかなかったのに、あの一瞬で、よくも気づいたものだ。
何があったかなど、あの過保護には言えない。問い詰められなくて良かった。僕は薄く息をついて、酒場に向かう人々に溶け込む。あとは道化を演じるだけだ、何も難しいことはない。
結果だけ言えば町人に化けたその晩も、酒場では特別なことは起きなかった。酔っ払いのささやかな諍い、騒がしく交わされるあけすけな話、お調子者を上階へ連れ込もうとする女、どれもよくある事ばかりだ。小さな悪意が生まれては消えるこの場所で、一つ一つを特別に扱うことの方が難しい。
ただ一つ言うなら、確かに、この酒場には刀士が訪れ、酒場を忙しく飛び回る一人の美人が、やけに彼らや町人の気を引いている。飛び回る、と言っても、彼女自身は客を誘う様子はない。花には虫が勝手に群がるものだ。
呼び名は真朱。思っていたより若い。確かに、わざわざ色目を使わずとも男を惹きつける顔と凛とした声だ。客への気遣いもしっかりしている。ただ、この気の周りよう、そして色気のある顔は、ただの酒場の看板娘というには違和感がある。
「……でも、真朱ちゃんはもうすぐ戻っちまうんだろう?」
「それは当たり前ってものよ。もともとあっちに居たんだ」
ふと聞こえてきた町人の声に、僕は耳を傾ける。
「でもどうするんだお前、花の街なんてよう、俺たちには手が届かないぜ。ここだから通えてるのに」
「馬鹿野郎、そこはなんとか稼ぐんだよ。この酒場じゃあ手も出せないのが、向こうじゃしっぽりやれる。そう考えるのが男ってものよ」
「そのなんとかが難しいんだろうが。こちとら女房に財布の紐を掴ませちまってるんだ」
「やれやれ、これだからお前さんはだめなのさ。そこをなんとかちょろまかすんだよ」
……なるほど、ざっくりとした事情は分かった。この真朱という娘は、花街……色めく女の世界から、何かの縁でこの酒場を手伝いに出てきたのだ。幼い頃から客商売を仕込まれたのなら、この若さで酒場での振る舞いがしっかりしているのも、客あしらいが上手いのも頷ける。
しかし、随分と降りてきた花に惑う虫が多いものだ。彼女が去る時には本当に騒ぎが起きてしまうのではないだろうか。報告する事が増えた、と思いながら、僕は真朱につまみを頼んだ。
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