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零弐 狂わしい金ね板の楽譜
三音
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川下りの後、僕は早々に墨染に戻った。まだ明るい時間ではあるが、内勤なのか外回りから帰ってきたのか、ちらほらと知った忍びの姿もあった。
僕はまず、二つの資料を確認する。仮面舞踏会の日に客の名と会場へ持ち込んだ荷物を記した名綴、そして消えた楽団員の二人が外出した際の監視の記録だ。一度は見ていたが、改めて目を通す。
まずは名綴の方だ。流石に「夏冬」の名で登録された者は記録にない。しかし、露霧国から来た者が誰か、というのは記されている。寒弓、無会、鏡華、草羽、艸虫、油果……以前にも見たが、特に思い至る名は無い。無会と寒弓の二人が頭と腕の骨程度なら入りそうな鞄を持ち込んでいる。この二人が荷物持ちなら、先の方に書かれているが従者だろう。夏冬ではない、と勝手に断ずる。僕の予想だが、彼は従者ではありえない。
(……荷物の容き具合だけでいえば、おそらく細かくした大人二人を全て収める事はできる。少なくとも、頭の骨を壊す手間は要らない)
次に楽団員の記録を見れば、例の消え人二人は揃ってではないものの時々外に出ていたようだった。用件はまちまちで、他の奏者と大差ないが回数が多い。消え人達と会っていたという記録はないが、太鼓の皮が破れたなど理由に楽器の店にも行っていたからどこかで接触はあったかもしれない。とはいえ、何かしら彼らが動くよりも誰か監視のつかない者に頼む方が秘め事を果たすには得策だろう。それだけに、表立って動かないにしては多いのが気になるところだった。
(……こんなところか)
確認はそこまでにして、墨染の施設、資料庫から一冊の帳面を借りる。手近な空き部屋で帳面を開いた時、ふと、仄かな檸檬の香りがした。見渡せば、遠くからひらひらと手を振ってあいつが近づいてくる。
「よっ。昼間っから随分と慌ただしいな」
「紫煙か。……当たったらしい」
「昨日の今日で? お前、相変わらず幸運に恵まれてるな。羨ましいよ」
「報告と聞いた話を合わせて、予想はしていたんだ。犬は、もともと人よりも高い音を聴くことができる。まして、人の耳は高い音を聴くところから衰えていくんだ」
茶化してくる言葉は放って、僕は墨染の資料庫から先ほど持ち出した新しい帳面を素早くめくった。
「どうした、藪から棒に」
「竹屋の女房は耳が悪い。なんなら奉公人も。消え児の母親は普段からあれだけ喋っているんだ、耳を酷く使っている。老婆や騒がしい現場で働く大工が耳を悪くしているのには何の疑問もない。そして扉の向こうがどれほど騒がしくとも音を通さぬ仮面舞踏会の会場の扉。確かめてはいないが、いざという時演奏を変われるよう控えていた奏者のいた場も練習の音を漏らさない造りだろう。部屋を出れば扉の向こうで騒ぎがあっても気づけない。……人消えの時に十分に音を聞けていた者が周囲にいなかった。だから気づかなかったんだ」
僕は少しだけ息を整えた。
「消えた者には、全員とは言いきれないが確かに共通点がある。男児は若い上に楽器を弾く。老人は地獄耳だったそうだ。その上で考えるなら、竹は笛など楽器の材料になるし、大工の女房は竹細工が得意だったらしい。そして、竹屋の向かいの甘味屋の犬は、人消えの日、やけに吠えていた。何かが聞こえていたんだ」
「何が?」
「演奏が。人を惹きつける高音の、耳の良い者だけに聴こえる、音色が。消え人が通ったかもしれない場所で僕が当たった悪意は、まるで曲のように感じた、いや、聴こえた。その曲自体が何かの、徴だったんだ」
音楽に関する情報が纏められた最新の帳面から、僕は覚えのある言葉を探す。
「そいつは面白い考えだが……何のために、曲なんぞで人が集まるんだ? 戦場の喇叭みたいに、聴いたら家を出たくて堪らなくなるからくりでもあったってのか?」
遠国に、音を聴くと恐れを忘れ、足が前に進んでしまう操りの魔術を持つ楽器があるという噂がある。その事を言っているのだろう。
「怪しげな魔術というよりは……いや、実際、喇叭のようなものだったのかもしれないな」
「何?」
「おそらく、消え人達は前からその曲を知っていた。それだけではなく、互いに密かに知り合っていた。その方が自然だ。考えてみれば、彼らが消えたその時に誰も気づけなかったのなら、その以前に何度か密かに消え、気づかれぬうちに戻ってきていたとしてもおかしくない。困難なのは監視のつく二人だけだ。そして、集まる合図があの曲だった」
「何のために?」
「楽器を作る者、細工する者、弾く者、耳良い者。彼らが集まってする事は一つしか考えられない。曲を奏で、そのための楽器を作っていた」
喇叭の話は実際のところ、兵達に「喇叭の音を聞けば前に進む」訓練をさせ、普通なら恐れて足がすくむような場でも脳を騙して反射的に進ませる兵術らしい。そんな事が可能なのかといえば、可能だ。僕が檸檬の香りを嗅ぐとつい身構えてしまうのと同じで、脳というものは、決まった行動を反射的に行ってしまうのだ。もし消え人達がこの秘めた集まりを楽しんでいたのなら、消えた夜にも、何一つ疑う事なく抜け出したのだろう。
「うーん、理解の追いつきにくい話だな。たかが曲一つで、あれだけ歳も身分も違う奴らが夜な夜な抜け出してまで集まったりするかね? 幼子までいたんだぞ」
「……あの曲を聴いていないから、そう言えるんだ」
「え?」
「いや……これは僕一人の考えだ」
僕は内心首を振って、記憶に蘇ってくる旋律を振り払った。それでも心から追い出せはしない。単なる「悪意の響」のはずなのに、時が経ってもそれは「曲」として僕の中に残っている。まだ残響が耳に染み付いて離れない。
それは、夏冬のような消えない暴力的な響だからではなく、まさに感動的な曲にうち震えた後のように、記憶に残る鮮烈な印象だったからだ。
「霜月?」
「……大丈夫だ。明確な証拠をここで挙げることはできない。しかし消え人誰もが浅くない稲妻の傷を負いながら、その傷について何も言わず黙っていたのは確かだ」
「……なるほどな、何かしら奴らに共通の秘め事があったのは間違いないか」
「心配せずとも、確かめるまで陽炎さんには報告しない」
僕は少し唇を引いた。こいつの前だから話したのだ。
「何を確かめる気なんだ?」
「僕が聴いた悪意は、楽器こそ分からなかったが、曲の雰囲気は明らかに竜背のものだった」
「!」
曲には国や人による癖が出る。それは訛り言葉のように、なかなか消えるものではない。顔を強張らせる紫煙に、僕は殺した声で言う。
「つまり、楽団からの消え人二人が、消され人ではなく消し人かもしれない」
「はー……面倒な話だな」
彼らが他の者達を騙し、この人消しを起こしたのであれば、変わってくるものがあるはずだ。……帳面を最後までめくって、僕は首を振る。目的のものは見つからなかった。諦めて立つ。
「ところで、何を探してるんだ?」
「改めて考えて思い当たる事があった。これにはまだ載っていない。もっと新しいものが必要だ」
「おい待て。それ、書庫の中でも最新の版。これ以上なんて俺ら用の書庫には無いぜ」
「……」
僕はちらりと本の表を見て、むう、と口をつぐんだ。言われて気づいたのも一つだし、もう一つには口を滑らせたことを自覚したからだ。
各国に密偵を放ってはやっと集めてくる情報が集められるのがこの書庫。その本のほとんどは情報が型落ちとなるまで墨染の外には書き写しも持ち出しも禁止だ。その最新版となれば、僕ら下々にして環樹国から出ることのない忍びには知らないはずの情報ばかりが載っている。では、その最新版にも載っていない、それでいて僕が存在を知っている情報とは? という話だ。
やや昂ぶっていたとはいえ、書庫とは別に生きのいい情報を得る伝手があると知られてしまうのは軽率だった。おまけに、その伝手は到底明かせない僕の一番の秘め事だ。
(司様からあれについて、話のついでに伺った事がある、などと知られるわけにはいかない)
さて、どうしたものか。いつかははっきりと問われるかもしれないが、今は濁すのが最上だろう。
「……雷継」
「え?」
「やはり彼にきちんと問うべきだったな」
「おいおい、霜月」
どこか呆れたようにこいつは輪のような煙を吐き出す。
「そりゃあ竜背の音楽の話を竜背から来た指揮者が知らない事は無いだろうが、お前、まさかあの男に話を聞くつもりか?」
「何か問題が?」
「陽炎からは、彼に不要な話はしないよう言われているだろ?」
「事件の話をするわけじゃない。竜背の話を聞くだけだ」
「お前が、いやお前じゃなくとも、忍びがそれを聞きに行けば雷継に何かしら察させる事になるだろう。やめておけ」
「聞き出し方に気をつければいい話だ。……何を心配している?」
僕は少しだけ目を細めた。紫煙は「はあ」と息を吐くと、煙管をくるりと回して無造作な黒髪を搔き上げる。
「……悪意を持っているのが、消えた奏者二人だけとは限らないだろう。いやむしろ、お前の考えが合っているなら、そんな馬鹿げた事を真面目に先導しそうなのは……」
「だから、気をつけると言っているだろう?」
「お前の気をつけるは信じるに値しないんだよ、悪いな」
こいつに謝られても困るのだ。そもそも、同期であるというだけでやたらに話しかけてきては自分の任務に関係ない世話を焼かれているのはこちらだ。
「信じられないのなら、話などしなければいいのに。謝り損だ」
「そういう所だよ」
「何が?」
「……」
紫煙はまた、煙管を回した。困った時の手癖だ。香りがふわりと周りに広がる。僕の服にまで染み付くから、あまり好きではない。
「……気をつけろよ」
香りが緩やかに遠ざかって行く。
あいつは僕に構ってきて長いのだ。迚もかくても、僕があいつの心配を受けて考えを曲げる事はないと分かっていたのだろう。それでも、信じられなくとも話しかける男なのだ、紫煙という奴は。僕からすれば、あいつの方が信じられない。
(心の中で何を考えているにせよ、何を言われても無視されても僕にいつも構ってくるのは事実だ)
その行動の根元に何者にも穢されることのない良心が在り続ける事も、どんな時でもあいつが悪意を抱かない事も、分かっているのに、僕には、到底信じられない。
(……眩しい)
僕はゆっくりと檸檬の残り香を吸い込んだ。匂いだけなのに、甘くて酸い。舌で転がせば、わずかな苦味が最後に残った。
ヰヰヰヰヰヰヰ
そして再び出掛けて間もなく、僕は雷継が行き先もろくに告げず急に外へ出た事を知らされる事になる。
嫌な予感に近くを探し回るうちに、楽団員が出歩く際には必ず付くはずの護衛が、彼を見失って戻ってきた。話を聞こうと近づくと、様子がおかしい。
「雷継はどうした?」
肩を掴めば、弱い悪意の響が小刻みに腕に流れてくる。返事は、無い。
「っ……」
僕は護衛を近くのお店に放り込むと(近くまで担いでいって「すみません、この人たちが急に倒れたみたいで休ませてやってもらえませんか?」と泣きつき、店の者が寝かせに行った隙に去るだけだ)、雷継を探しに駆け出した。
向かうは枯洲川。えび橋をさらに下へ、下へと駆ける駆ける駆ける。肩から伝わった悪意が足ほどの速さで残響を刻み続けていた。
僕はまず、二つの資料を確認する。仮面舞踏会の日に客の名と会場へ持ち込んだ荷物を記した名綴、そして消えた楽団員の二人が外出した際の監視の記録だ。一度は見ていたが、改めて目を通す。
まずは名綴の方だ。流石に「夏冬」の名で登録された者は記録にない。しかし、露霧国から来た者が誰か、というのは記されている。寒弓、無会、鏡華、草羽、艸虫、油果……以前にも見たが、特に思い至る名は無い。無会と寒弓の二人が頭と腕の骨程度なら入りそうな鞄を持ち込んでいる。この二人が荷物持ちなら、先の方に書かれているが従者だろう。夏冬ではない、と勝手に断ずる。僕の予想だが、彼は従者ではありえない。
(……荷物の容き具合だけでいえば、おそらく細かくした大人二人を全て収める事はできる。少なくとも、頭の骨を壊す手間は要らない)
次に楽団員の記録を見れば、例の消え人二人は揃ってではないものの時々外に出ていたようだった。用件はまちまちで、他の奏者と大差ないが回数が多い。消え人達と会っていたという記録はないが、太鼓の皮が破れたなど理由に楽器の店にも行っていたからどこかで接触はあったかもしれない。とはいえ、何かしら彼らが動くよりも誰か監視のつかない者に頼む方が秘め事を果たすには得策だろう。それだけに、表立って動かないにしては多いのが気になるところだった。
(……こんなところか)
確認はそこまでにして、墨染の施設、資料庫から一冊の帳面を借りる。手近な空き部屋で帳面を開いた時、ふと、仄かな檸檬の香りがした。見渡せば、遠くからひらひらと手を振ってあいつが近づいてくる。
「よっ。昼間っから随分と慌ただしいな」
「紫煙か。……当たったらしい」
「昨日の今日で? お前、相変わらず幸運に恵まれてるな。羨ましいよ」
「報告と聞いた話を合わせて、予想はしていたんだ。犬は、もともと人よりも高い音を聴くことができる。まして、人の耳は高い音を聴くところから衰えていくんだ」
茶化してくる言葉は放って、僕は墨染の資料庫から先ほど持ち出した新しい帳面を素早くめくった。
「どうした、藪から棒に」
「竹屋の女房は耳が悪い。なんなら奉公人も。消え児の母親は普段からあれだけ喋っているんだ、耳を酷く使っている。老婆や騒がしい現場で働く大工が耳を悪くしているのには何の疑問もない。そして扉の向こうがどれほど騒がしくとも音を通さぬ仮面舞踏会の会場の扉。確かめてはいないが、いざという時演奏を変われるよう控えていた奏者のいた場も練習の音を漏らさない造りだろう。部屋を出れば扉の向こうで騒ぎがあっても気づけない。……人消えの時に十分に音を聞けていた者が周囲にいなかった。だから気づかなかったんだ」
僕は少しだけ息を整えた。
「消えた者には、全員とは言いきれないが確かに共通点がある。男児は若い上に楽器を弾く。老人は地獄耳だったそうだ。その上で考えるなら、竹は笛など楽器の材料になるし、大工の女房は竹細工が得意だったらしい。そして、竹屋の向かいの甘味屋の犬は、人消えの日、やけに吠えていた。何かが聞こえていたんだ」
「何が?」
「演奏が。人を惹きつける高音の、耳の良い者だけに聴こえる、音色が。消え人が通ったかもしれない場所で僕が当たった悪意は、まるで曲のように感じた、いや、聴こえた。その曲自体が何かの、徴だったんだ」
音楽に関する情報が纏められた最新の帳面から、僕は覚えのある言葉を探す。
「そいつは面白い考えだが……何のために、曲なんぞで人が集まるんだ? 戦場の喇叭みたいに、聴いたら家を出たくて堪らなくなるからくりでもあったってのか?」
遠国に、音を聴くと恐れを忘れ、足が前に進んでしまう操りの魔術を持つ楽器があるという噂がある。その事を言っているのだろう。
「怪しげな魔術というよりは……いや、実際、喇叭のようなものだったのかもしれないな」
「何?」
「おそらく、消え人達は前からその曲を知っていた。それだけではなく、互いに密かに知り合っていた。その方が自然だ。考えてみれば、彼らが消えたその時に誰も気づけなかったのなら、その以前に何度か密かに消え、気づかれぬうちに戻ってきていたとしてもおかしくない。困難なのは監視のつく二人だけだ。そして、集まる合図があの曲だった」
「何のために?」
「楽器を作る者、細工する者、弾く者、耳良い者。彼らが集まってする事は一つしか考えられない。曲を奏で、そのための楽器を作っていた」
喇叭の話は実際のところ、兵達に「喇叭の音を聞けば前に進む」訓練をさせ、普通なら恐れて足がすくむような場でも脳を騙して反射的に進ませる兵術らしい。そんな事が可能なのかといえば、可能だ。僕が檸檬の香りを嗅ぐとつい身構えてしまうのと同じで、脳というものは、決まった行動を反射的に行ってしまうのだ。もし消え人達がこの秘めた集まりを楽しんでいたのなら、消えた夜にも、何一つ疑う事なく抜け出したのだろう。
「うーん、理解の追いつきにくい話だな。たかが曲一つで、あれだけ歳も身分も違う奴らが夜な夜な抜け出してまで集まったりするかね? 幼子までいたんだぞ」
「……あの曲を聴いていないから、そう言えるんだ」
「え?」
「いや……これは僕一人の考えだ」
僕は内心首を振って、記憶に蘇ってくる旋律を振り払った。それでも心から追い出せはしない。単なる「悪意の響」のはずなのに、時が経ってもそれは「曲」として僕の中に残っている。まだ残響が耳に染み付いて離れない。
それは、夏冬のような消えない暴力的な響だからではなく、まさに感動的な曲にうち震えた後のように、記憶に残る鮮烈な印象だったからだ。
「霜月?」
「……大丈夫だ。明確な証拠をここで挙げることはできない。しかし消え人誰もが浅くない稲妻の傷を負いながら、その傷について何も言わず黙っていたのは確かだ」
「……なるほどな、何かしら奴らに共通の秘め事があったのは間違いないか」
「心配せずとも、確かめるまで陽炎さんには報告しない」
僕は少し唇を引いた。こいつの前だから話したのだ。
「何を確かめる気なんだ?」
「僕が聴いた悪意は、楽器こそ分からなかったが、曲の雰囲気は明らかに竜背のものだった」
「!」
曲には国や人による癖が出る。それは訛り言葉のように、なかなか消えるものではない。顔を強張らせる紫煙に、僕は殺した声で言う。
「つまり、楽団からの消え人二人が、消され人ではなく消し人かもしれない」
「はー……面倒な話だな」
彼らが他の者達を騙し、この人消しを起こしたのであれば、変わってくるものがあるはずだ。……帳面を最後までめくって、僕は首を振る。目的のものは見つからなかった。諦めて立つ。
「ところで、何を探してるんだ?」
「改めて考えて思い当たる事があった。これにはまだ載っていない。もっと新しいものが必要だ」
「おい待て。それ、書庫の中でも最新の版。これ以上なんて俺ら用の書庫には無いぜ」
「……」
僕はちらりと本の表を見て、むう、と口をつぐんだ。言われて気づいたのも一つだし、もう一つには口を滑らせたことを自覚したからだ。
各国に密偵を放ってはやっと集めてくる情報が集められるのがこの書庫。その本のほとんどは情報が型落ちとなるまで墨染の外には書き写しも持ち出しも禁止だ。その最新版となれば、僕ら下々にして環樹国から出ることのない忍びには知らないはずの情報ばかりが載っている。では、その最新版にも載っていない、それでいて僕が存在を知っている情報とは? という話だ。
やや昂ぶっていたとはいえ、書庫とは別に生きのいい情報を得る伝手があると知られてしまうのは軽率だった。おまけに、その伝手は到底明かせない僕の一番の秘め事だ。
(司様からあれについて、話のついでに伺った事がある、などと知られるわけにはいかない)
さて、どうしたものか。いつかははっきりと問われるかもしれないが、今は濁すのが最上だろう。
「……雷継」
「え?」
「やはり彼にきちんと問うべきだったな」
「おいおい、霜月」
どこか呆れたようにこいつは輪のような煙を吐き出す。
「そりゃあ竜背の音楽の話を竜背から来た指揮者が知らない事は無いだろうが、お前、まさかあの男に話を聞くつもりか?」
「何か問題が?」
「陽炎からは、彼に不要な話はしないよう言われているだろ?」
「事件の話をするわけじゃない。竜背の話を聞くだけだ」
「お前が、いやお前じゃなくとも、忍びがそれを聞きに行けば雷継に何かしら察させる事になるだろう。やめておけ」
「聞き出し方に気をつければいい話だ。……何を心配している?」
僕は少しだけ目を細めた。紫煙は「はあ」と息を吐くと、煙管をくるりと回して無造作な黒髪を搔き上げる。
「……悪意を持っているのが、消えた奏者二人だけとは限らないだろう。いやむしろ、お前の考えが合っているなら、そんな馬鹿げた事を真面目に先導しそうなのは……」
「だから、気をつけると言っているだろう?」
「お前の気をつけるは信じるに値しないんだよ、悪いな」
こいつに謝られても困るのだ。そもそも、同期であるというだけでやたらに話しかけてきては自分の任務に関係ない世話を焼かれているのはこちらだ。
「信じられないのなら、話などしなければいいのに。謝り損だ」
「そういう所だよ」
「何が?」
「……」
紫煙はまた、煙管を回した。困った時の手癖だ。香りがふわりと周りに広がる。僕の服にまで染み付くから、あまり好きではない。
「……気をつけろよ」
香りが緩やかに遠ざかって行く。
あいつは僕に構ってきて長いのだ。迚もかくても、僕があいつの心配を受けて考えを曲げる事はないと分かっていたのだろう。それでも、信じられなくとも話しかける男なのだ、紫煙という奴は。僕からすれば、あいつの方が信じられない。
(心の中で何を考えているにせよ、何を言われても無視されても僕にいつも構ってくるのは事実だ)
その行動の根元に何者にも穢されることのない良心が在り続ける事も、どんな時でもあいつが悪意を抱かない事も、分かっているのに、僕には、到底信じられない。
(……眩しい)
僕はゆっくりと檸檬の残り香を吸い込んだ。匂いだけなのに、甘くて酸い。舌で転がせば、わずかな苦味が最後に残った。
ヰヰヰヰヰヰヰ
そして再び出掛けて間もなく、僕は雷継が行き先もろくに告げず急に外へ出た事を知らされる事になる。
嫌な予感に近くを探し回るうちに、楽団員が出歩く際には必ず付くはずの護衛が、彼を見失って戻ってきた。話を聞こうと近づくと、様子がおかしい。
「雷継はどうした?」
肩を掴めば、弱い悪意の響が小刻みに腕に流れてくる。返事は、無い。
「っ……」
僕は護衛を近くのお店に放り込むと(近くまで担いでいって「すみません、この人たちが急に倒れたみたいで休ませてやってもらえませんか?」と泣きつき、店の者が寝かせに行った隙に去るだけだ)、雷継を探しに駆け出した。
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