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§02 葉噛みする葛藤ネイビー
情緒と犠牲とサラダ・ファミレス
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とあるパフェ店に行った翌日、金曜日の夕方。学校から少し離れたファミレスは、意外にもガラ空きだった。賢木響と人間形態の道路道影はファミレスの隅の席に座ると、メニューを挟んで向き合う。
「はい、どうしてもって言うからお望みどーり連れてきたぜ。で俺は何を祝って貰えるんだ?」
好きはともかく嫌いの極端な響は、暇さえあれば自炊するタイプだ。今日は、
『お祝いをしましょう。きみ、夕食はお店で摂りますよ』
……と、影に言われて渋々、こういうお店にやって来たのだ。
影は、昨日と同じ黒スーツ姿で、ニコニコと手を組み合わせた。
「サラダに挑戦してみましょうか」
「は?」
「ふふ、流石に初挑戦がドレッシング抜き野菜のみのサラダというのはハードルが高いですか?」
わざとらしい笑みに、響は思わず拳をテーブルの下で握った。流石に実行はしない、しないが、殴りたい笑顔だ。
「いや、これまではドレッシング掛かってようとエビだの混ざってようと恐怖の対象食うのが嫌だったから、そこら辺は関係ない。そもそも野菜は生食しないだけで、一昨日から自炊でも使ってただろ」
「でも味は嫌いなんでしょう?」
「怖いと思いながら食ったもん好きになれるか。それよりあんたも何か頼めよ」
響はメニューを押し付けた。
「では私も、今後食べられなくなるサラダを」
「じゃ俺は一口だけ食べるから残り食え」
「食べかけな上ドレッシング抜きのサラダなんて酷いじゃないですか?」
「ドレッシング抜きはあんたが言ったんだろ……っていうか、サラダ食いたきゃ別に野菜買ってきて自炊して自分で片付けろよ。あとショクブツって光合成できないのか?」
「似たような事は出来ますよ。食欲は満たされませんけど」
「食欲ね……」
影が今後食事時に至るまで響のアパートに入り浸ると宣言している事を突っ込み忘れて、響はけっこう分厚いメニューをめくる。
「味覚は持っているのですから、美味しいものを食べたいでしょう? それに、『光合成』だけでは栄養バランスが偏ります」
「栄養バランスって……」
「多くの植物は肥料と土を要求するでしょう? 光合成だけでは決定的に足りないからですよ。それと同じ事です」
「……あんたと話してると頭痛くなる」
滅茶苦茶を言うかと思えば理解できるギリギリにまで噛み砕いて説明される。からかわれているようで腹立たしく、響は話を切ってお冷を一口含んだ。
「で、他には?」
「おや、食べて良いんですか?」
「『栄養バランスが偏る』んだろ。今だけ奢ってやる」
「ふふふふ。きみは、甘いですね」
「あ?」
「別払いかと思ってました。馳走になります」
「え、持ってんなら払え」
「嫌ですよ。これから先こんな優しくしてくれる好機がいつ訪れるか分からないじゃありませんか」
「率直に言ってキモい」
「あ、エスカルゴプレートとフランスパン、それにイカ墨チキングリルを。飲み物は……デカンタの赤にしましょうか。デザートは後で頼みます」
「……ファミレスだから出せない金額じゃ無いのが腹立つ」
響は自分の注文をさっと見繕って、店員を呼ぶとオーダーを伝える。
「かしこまりました」
店員が去ってから、響はようやく首を捻った。
「……あ?」
「どうしました、響くん」
「いや、今、なんか、とてつもない違和感が……」
「店員の様子は自然でしたし、ショクブツの気配もありませんでしたが」
「いや、怖いんじゃなくて違和感なんだよ。……?」
響は首を捻ったが、答えは出てこなかった。
「そんな事より響くん、このランチメニューの裏を見てください。この間違い探し、私でもすぐには半分ほどしか見つけられません」
「出た、やけに難易度高い奴」
SNSでも時々話題になる鬼畜難易度の、そして少々独創的な絵柄の間違い探しに夢中になって、響はしばらく我を忘れる。
つい昨日までサラダや雑草も恐れる重度の植物恐怖症だった事も、お呪い一つでその感覚が麻痺した異常も、昨日の事件も、何より今目の前にいるのが植物よりも怖い化け物、「触橆」である事も、普通に話しながらも今もずっと恐怖を感じている事もーーほんの少しの間だけ、忘れたふりをした。
「まさか、こんなに間違い探しが得意とは思いませんでした。私が! これは自慢になりませんか?」
「人間には細かく見れば見るほど突っ込みどころしかないあの絵で間違い探しは無理だ……あんた絵じゃなくて線と線の関係性とか色だけをバラバラに見てるだろ。でなきゃあの絵に対する感想無しとかあり得ない」
「ああ、絵でしたね。さて、そろそろ注文が来ますよ」
結局響が頼んだのはドレッシングののった海藻サラダで、影は追加で頼んだりはしていない。響的には、海藻だって怖い範疇なのだが、味がマシな事が多い。
「どうですか? 人生初の怖くないサラダの味は」
「不味くはないけど美味くない」
「それはドレッシングが足りませんね」
「足りてるしそれタバスコ。掛けんな」
卓上の赤いビンを取り上げて響はサラダを影に押し付けた。
「辛いのは平気だからそのくらいじゃ泣かないし悲鳴もあげない」
「つまらないですねえ」
「つまらない人間で悪かったな」
「いえ、そういう意味ではなく」
影はじっと響を見つめる。胴と脚のバランスも良く、つまり胴長な訳ではないのに背が高いため座高も高く、おまけにピンと伸ばした背筋をキープしている影は、当然響をやや見下ろす形になる。
「きみはーーいですよ」
「あ? 何言っ……」
不意打ちで、親指が口内に突っ込まれた。影の指が、響の口に、だ。
「蝕橆の味も、確かめてみますか?」
そう言って微笑む影の顔は、不気味だ。
人間の指ならあるはずの仄かな塩味はない。親指の腹が舌を撫ぜれば、残る四本の指が頬を包み込んで下あごの骨をなぞる。鋭い爪の先が皮膚を軽く引っ掻いて、からかうように喉元まで降りる。じわじわと与えられる感覚は生物の本能をくすぐる。
「……ほへ、おほひは?」
響は少し眉を寄せ、声を出す。口内に邪魔があるとはいえ、だいぶ間抜けな声だった。
「……」
影はピタリと動きを止める。スッと目を細めて、指を引き抜いた。
「興が醒めました」
「うぇ」
口内を今すぐ漱ぎたいのを堪えて、響は舌を出した。
「何だよ興って。つか、人前で何つーことしやがる」
「……」
「俺、ちょっとトイレ行くから。荷物よろしく」
影はやや不機嫌そうな顔で頷くと赤ワインに手を伸ばした。
『それ、脅しか?』
結局、質問に答える事はなかった。
「……で、結局、何の為に飯食いに行ったんだよ。何も話しなかったし」
「物事には順番というものがあるでしょう? 美しい所作にこそ茶の湯の本質があるように」
「はあ。粉残るからあんま好きじゃないんだよな、あれ」
学生向け賃貸アパート「ハイツみなも」は築30年近い物件で、特に202号室のドアは少し鍵の噛み合わせが悪い。響はドアを押さえながら内鍵を回し、すぐに制服を片付けて着替える。
「おかえりなさい、響くん。私にしますか、それとも」
「歯磨き」
「どうぞ」
おかえりも何も、一緒に来たのだから影が入ったタイミングも同じだ。響は歯を手早く磨いて、袖丈裾丈長めの部屋着を着る。
「昨日から思っていたのですが、そのルームウェア、季節的に少し暑くありません?」
「バケモノがいる時に肌露出させたくないんだよ」
「ふむ……まあ、分からなくもありませんね。布越しの方が感染率は下がりますし」
「あんた感染すんの……?」
「ものの例えですよ、例え」
影は薄く笑って、勝手に淹れた緑茶を飲み始めた。響は急須など持っていないので、いつの間にやら勝手に持ち込んだらしい。
「いつの間に、も何もないか。無防備に寝てりゃな」
「そうですよ響くん。このアパート、セキュリティが非常に弱いようですが大丈夫なんですか?」
「人の勝手だろ。学生用なんてどこもこんなもんだし」
「ああ、普通の高校生は独り暮らしなんてしない……いえ、そもそも、公立の高校に通うには基本、親と同居している必要もあるんでしたっけ?」
「俺は詳しくないけど」
「そうですね、きみの場合は気にする必要が無いんでしたね?」
「なんで俺の個人情報筒抜けになってるわけ?」
「私に盗めない鍵はない、という事にしておきましょうか」
「あっそ……」
わざとらしい言い方に、響はベッドの上であぐらをかいて座ると、口の中で悪態をついた。
響が一応一人暮らししているのには理由がある。深刻な話ではない。このアパートはそもそも、響の母、賢木遥のものなのだ。戸籍の扱いはともかく、学校的にはここも「家」扱いらしい。……要は、響はアパートに通いたくない大家の代わりにアパートの管理を一部任されているのだ。土日は管理の仕事がある代わりに、家賃問題もなく他のバイトをする必要はない。
「管理はいいけど俺デカいスペースは要らない」
「あ、ならちょうど良い部屋があるの。なかなか人が居着かなくて空室のままなのよねー、住んでみない?」
というわけで、響は大家のための住居スペースをほぼ封鎖し、貸し部屋の一つ、202号室に住んでいる。ドアの軋みだったりと一番環境の悪い部屋で、幽霊が出たという噂もあった。住みながら都合の悪いところは逐次、母親にクレームを入れたり業者を呼ぶわけだ。ちなみに幽霊は響が住み始めてから出たことがないし、噂の事すら今では忘れていた。「信じない人の前には幽霊出ないって本当なのねえ」とは遥の談である。
(明日はガスの点検だよな……そういや、コイツのせいでそのうち、鍵も変えなきゃいけなくなるのか……?)
響は低くため息をついた。幸せが逃げる逃げない以前に、今ここには強力な不幸がこびり付いている。ため息程度で逃げる幸せでは救えないだろう。
「……というわけです」
「ん?」
「聞いてなかったんですか? 響くん。こんな空き家同然の場所で睡眠をとる事に危機感を覚えてください、と言ってるんですよ」
「仕方ないだろ……」
「『仕方ない』。いつもきみはそう言いますね、まるで呪いのように。仕方がない事など、この世界にはほとんど残っていませんよ」
「これまであんたみたいなヤバい奴が入ってくる事なんて無かったから安全だったんだよ」
「幽霊は出るのに?」
「見たことねぇよ……それに、どうしろってんだよ」
「まずは部屋を移りましょう。あちらの方が寝室も個別に区切られており安全性が高い」
「大家のとこ? 嫌だ、広くて掃除が面倒臭い」
「週一で掃除してるじゃないですか」
「別にいいだろここで」
「駄目です。痴女じゃあ無いんですから」
「おまっ、その言い方」
「それとも」
影はカップを机に置くと、ゆっくりと響の方に近づいてきた。
「誰が見ているかも、いつ訪れるかも分からない。今も見られ、聞かれて、誰かに狙われているかもしれない。……そういう状況でするのが好きなんですか?」
「ふざけんな、変な言い方しやがって……」
「はじめてスケープゴートになる苗床の相手です、秘された場所で美しく優雅に……という方が、私の好みだったのですが」
「っ!」
「覚悟を決めていなかった訳ではないでしょう? 元から、そういう話でした。……きみは、私のスケープゴートになるんです」
影の輪郭が歪む。服の隙間から、薄桃色の花弁のようなものがいくつか、こぼれ落ちた。
「っ……そういう話だったな」
「ええ。何をするか、は言わなくて良かったんでしたよね?」
「嫌っつっても結果は変わらないんだろ。なら、聞いてから怯える時間が無駄だ」
「勿論。私がきみを逃すと思いますか? ……ああ、結構時間がかかってしまうものなので、もしかしたらこんな穴だらけの家屋には侵入者があるかもしれませんね。特に、している間は様々なモノを惹きつけてしまいますから。きみが感じられなくとも、幽霊、みたいなものも出ますしね、ここ」
「無駄に脅しやがってーー」
「そうそう、最中は私も余裕がないもので、きみの命に別状がなければ、誰にきみのどんな姿を見られようと聞かれようと……襲われようとも、意識があるまま腕一本ゆっくり喰われるくらいの事態は見過ごすと思いますがーー本当に、ここでするんですか?」
「はい、どうしてもって言うからお望みどーり連れてきたぜ。で俺は何を祝って貰えるんだ?」
好きはともかく嫌いの極端な響は、暇さえあれば自炊するタイプだ。今日は、
『お祝いをしましょう。きみ、夕食はお店で摂りますよ』
……と、影に言われて渋々、こういうお店にやって来たのだ。
影は、昨日と同じ黒スーツ姿で、ニコニコと手を組み合わせた。
「サラダに挑戦してみましょうか」
「は?」
「ふふ、流石に初挑戦がドレッシング抜き野菜のみのサラダというのはハードルが高いですか?」
わざとらしい笑みに、響は思わず拳をテーブルの下で握った。流石に実行はしない、しないが、殴りたい笑顔だ。
「いや、これまではドレッシング掛かってようとエビだの混ざってようと恐怖の対象食うのが嫌だったから、そこら辺は関係ない。そもそも野菜は生食しないだけで、一昨日から自炊でも使ってただろ」
「でも味は嫌いなんでしょう?」
「怖いと思いながら食ったもん好きになれるか。それよりあんたも何か頼めよ」
響はメニューを押し付けた。
「では私も、今後食べられなくなるサラダを」
「じゃ俺は一口だけ食べるから残り食え」
「食べかけな上ドレッシング抜きのサラダなんて酷いじゃないですか?」
「ドレッシング抜きはあんたが言ったんだろ……っていうか、サラダ食いたきゃ別に野菜買ってきて自炊して自分で片付けろよ。あとショクブツって光合成できないのか?」
「似たような事は出来ますよ。食欲は満たされませんけど」
「食欲ね……」
影が今後食事時に至るまで響のアパートに入り浸ると宣言している事を突っ込み忘れて、響はけっこう分厚いメニューをめくる。
「味覚は持っているのですから、美味しいものを食べたいでしょう? それに、『光合成』だけでは栄養バランスが偏ります」
「栄養バランスって……」
「多くの植物は肥料と土を要求するでしょう? 光合成だけでは決定的に足りないからですよ。それと同じ事です」
「……あんたと話してると頭痛くなる」
滅茶苦茶を言うかと思えば理解できるギリギリにまで噛み砕いて説明される。からかわれているようで腹立たしく、響は話を切ってお冷を一口含んだ。
「で、他には?」
「おや、食べて良いんですか?」
「『栄養バランスが偏る』んだろ。今だけ奢ってやる」
「ふふふふ。きみは、甘いですね」
「あ?」
「別払いかと思ってました。馳走になります」
「え、持ってんなら払え」
「嫌ですよ。これから先こんな優しくしてくれる好機がいつ訪れるか分からないじゃありませんか」
「率直に言ってキモい」
「あ、エスカルゴプレートとフランスパン、それにイカ墨チキングリルを。飲み物は……デカンタの赤にしましょうか。デザートは後で頼みます」
「……ファミレスだから出せない金額じゃ無いのが腹立つ」
響は自分の注文をさっと見繕って、店員を呼ぶとオーダーを伝える。
「かしこまりました」
店員が去ってから、響はようやく首を捻った。
「……あ?」
「どうしました、響くん」
「いや、今、なんか、とてつもない違和感が……」
「店員の様子は自然でしたし、ショクブツの気配もありませんでしたが」
「いや、怖いんじゃなくて違和感なんだよ。……?」
響は首を捻ったが、答えは出てこなかった。
「そんな事より響くん、このランチメニューの裏を見てください。この間違い探し、私でもすぐには半分ほどしか見つけられません」
「出た、やけに難易度高い奴」
SNSでも時々話題になる鬼畜難易度の、そして少々独創的な絵柄の間違い探しに夢中になって、響はしばらく我を忘れる。
つい昨日までサラダや雑草も恐れる重度の植物恐怖症だった事も、お呪い一つでその感覚が麻痺した異常も、昨日の事件も、何より今目の前にいるのが植物よりも怖い化け物、「触橆」である事も、普通に話しながらも今もずっと恐怖を感じている事もーーほんの少しの間だけ、忘れたふりをした。
「まさか、こんなに間違い探しが得意とは思いませんでした。私が! これは自慢になりませんか?」
「人間には細かく見れば見るほど突っ込みどころしかないあの絵で間違い探しは無理だ……あんた絵じゃなくて線と線の関係性とか色だけをバラバラに見てるだろ。でなきゃあの絵に対する感想無しとかあり得ない」
「ああ、絵でしたね。さて、そろそろ注文が来ますよ」
結局響が頼んだのはドレッシングののった海藻サラダで、影は追加で頼んだりはしていない。響的には、海藻だって怖い範疇なのだが、味がマシな事が多い。
「どうですか? 人生初の怖くないサラダの味は」
「不味くはないけど美味くない」
「それはドレッシングが足りませんね」
「足りてるしそれタバスコ。掛けんな」
卓上の赤いビンを取り上げて響はサラダを影に押し付けた。
「辛いのは平気だからそのくらいじゃ泣かないし悲鳴もあげない」
「つまらないですねえ」
「つまらない人間で悪かったな」
「いえ、そういう意味ではなく」
影はじっと響を見つめる。胴と脚のバランスも良く、つまり胴長な訳ではないのに背が高いため座高も高く、おまけにピンと伸ばした背筋をキープしている影は、当然響をやや見下ろす形になる。
「きみはーーいですよ」
「あ? 何言っ……」
不意打ちで、親指が口内に突っ込まれた。影の指が、響の口に、だ。
「蝕橆の味も、確かめてみますか?」
そう言って微笑む影の顔は、不気味だ。
人間の指ならあるはずの仄かな塩味はない。親指の腹が舌を撫ぜれば、残る四本の指が頬を包み込んで下あごの骨をなぞる。鋭い爪の先が皮膚を軽く引っ掻いて、からかうように喉元まで降りる。じわじわと与えられる感覚は生物の本能をくすぐる。
「……ほへ、おほひは?」
響は少し眉を寄せ、声を出す。口内に邪魔があるとはいえ、だいぶ間抜けな声だった。
「……」
影はピタリと動きを止める。スッと目を細めて、指を引き抜いた。
「興が醒めました」
「うぇ」
口内を今すぐ漱ぎたいのを堪えて、響は舌を出した。
「何だよ興って。つか、人前で何つーことしやがる」
「……」
「俺、ちょっとトイレ行くから。荷物よろしく」
影はやや不機嫌そうな顔で頷くと赤ワインに手を伸ばした。
『それ、脅しか?』
結局、質問に答える事はなかった。
「……で、結局、何の為に飯食いに行ったんだよ。何も話しなかったし」
「物事には順番というものがあるでしょう? 美しい所作にこそ茶の湯の本質があるように」
「はあ。粉残るからあんま好きじゃないんだよな、あれ」
学生向け賃貸アパート「ハイツみなも」は築30年近い物件で、特に202号室のドアは少し鍵の噛み合わせが悪い。響はドアを押さえながら内鍵を回し、すぐに制服を片付けて着替える。
「おかえりなさい、響くん。私にしますか、それとも」
「歯磨き」
「どうぞ」
おかえりも何も、一緒に来たのだから影が入ったタイミングも同じだ。響は歯を手早く磨いて、袖丈裾丈長めの部屋着を着る。
「昨日から思っていたのですが、そのルームウェア、季節的に少し暑くありません?」
「バケモノがいる時に肌露出させたくないんだよ」
「ふむ……まあ、分からなくもありませんね。布越しの方が感染率は下がりますし」
「あんた感染すんの……?」
「ものの例えですよ、例え」
影は薄く笑って、勝手に淹れた緑茶を飲み始めた。響は急須など持っていないので、いつの間にやら勝手に持ち込んだらしい。
「いつの間に、も何もないか。無防備に寝てりゃな」
「そうですよ響くん。このアパート、セキュリティが非常に弱いようですが大丈夫なんですか?」
「人の勝手だろ。学生用なんてどこもこんなもんだし」
「ああ、普通の高校生は独り暮らしなんてしない……いえ、そもそも、公立の高校に通うには基本、親と同居している必要もあるんでしたっけ?」
「俺は詳しくないけど」
「そうですね、きみの場合は気にする必要が無いんでしたね?」
「なんで俺の個人情報筒抜けになってるわけ?」
「私に盗めない鍵はない、という事にしておきましょうか」
「あっそ……」
わざとらしい言い方に、響はベッドの上であぐらをかいて座ると、口の中で悪態をついた。
響が一応一人暮らししているのには理由がある。深刻な話ではない。このアパートはそもそも、響の母、賢木遥のものなのだ。戸籍の扱いはともかく、学校的にはここも「家」扱いらしい。……要は、響はアパートに通いたくない大家の代わりにアパートの管理を一部任されているのだ。土日は管理の仕事がある代わりに、家賃問題もなく他のバイトをする必要はない。
「管理はいいけど俺デカいスペースは要らない」
「あ、ならちょうど良い部屋があるの。なかなか人が居着かなくて空室のままなのよねー、住んでみない?」
というわけで、響は大家のための住居スペースをほぼ封鎖し、貸し部屋の一つ、202号室に住んでいる。ドアの軋みだったりと一番環境の悪い部屋で、幽霊が出たという噂もあった。住みながら都合の悪いところは逐次、母親にクレームを入れたり業者を呼ぶわけだ。ちなみに幽霊は響が住み始めてから出たことがないし、噂の事すら今では忘れていた。「信じない人の前には幽霊出ないって本当なのねえ」とは遥の談である。
(明日はガスの点検だよな……そういや、コイツのせいでそのうち、鍵も変えなきゃいけなくなるのか……?)
響は低くため息をついた。幸せが逃げる逃げない以前に、今ここには強力な不幸がこびり付いている。ため息程度で逃げる幸せでは救えないだろう。
「……というわけです」
「ん?」
「聞いてなかったんですか? 響くん。こんな空き家同然の場所で睡眠をとる事に危機感を覚えてください、と言ってるんですよ」
「仕方ないだろ……」
「『仕方ない』。いつもきみはそう言いますね、まるで呪いのように。仕方がない事など、この世界にはほとんど残っていませんよ」
「これまであんたみたいなヤバい奴が入ってくる事なんて無かったから安全だったんだよ」
「幽霊は出るのに?」
「見たことねぇよ……それに、どうしろってんだよ」
「まずは部屋を移りましょう。あちらの方が寝室も個別に区切られており安全性が高い」
「大家のとこ? 嫌だ、広くて掃除が面倒臭い」
「週一で掃除してるじゃないですか」
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「駄目です。痴女じゃあ無いんですから」
「おまっ、その言い方」
「それとも」
影はカップを机に置くと、ゆっくりと響の方に近づいてきた。
「誰が見ているかも、いつ訪れるかも分からない。今も見られ、聞かれて、誰かに狙われているかもしれない。……そういう状況でするのが好きなんですか?」
「ふざけんな、変な言い方しやがって……」
「はじめてスケープゴートになる苗床の相手です、秘された場所で美しく優雅に……という方が、私の好みだったのですが」
「っ!」
「覚悟を決めていなかった訳ではないでしょう? 元から、そういう話でした。……きみは、私のスケープゴートになるんです」
影の輪郭が歪む。服の隙間から、薄桃色の花弁のようなものがいくつか、こぼれ落ちた。
「っ……そういう話だったな」
「ええ。何をするか、は言わなくて良かったんでしたよね?」
「嫌っつっても結果は変わらないんだろ。なら、聞いてから怯える時間が無駄だ」
「勿論。私がきみを逃すと思いますか? ……ああ、結構時間がかかってしまうものなので、もしかしたらこんな穴だらけの家屋には侵入者があるかもしれませんね。特に、している間は様々なモノを惹きつけてしまいますから。きみが感じられなくとも、幽霊、みたいなものも出ますしね、ここ」
「無駄に脅しやがってーー」
「そうそう、最中は私も余裕がないもので、きみの命に別状がなければ、誰にきみのどんな姿を見られようと聞かれようと……襲われようとも、意識があるまま腕一本ゆっくり喰われるくらいの事態は見過ごすと思いますがーー本当に、ここでするんですか?」
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