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二十三落

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 吹き上がる風の中に身体を押しこみ、下へ降りる。落差はさほど大きくないが、容易ではなかった。ノアマの髪もかなり乱れている。

「ここへ降りたことは?」
「ある」
「そうか。楽な道があるなら教えてくれると助かったな」
「……」
「まあいい」

 八尋は一度目をきつく閉じて、開く。気分が悪い。足元の床は肉の層が薄かったり、硬い組織がむき出しになっている所も多かった。そしてひどく冷たい。風が絶え間なく服を擦る。冬の岩山を歩く気分だった。

「ここに生贄が来たことはあるのか」
「あの子だけだ」

 上を指差される。遺体のあるところを真下から見上げても、今は穴とやらが見えない。暫定400年の間に肉に塞がれてしまったらしい。

「ここまで降りてきたことは?」
「さあ。どこまで彷徨さまよって、あそこに収まったのか分からない」
「私が逃げる気ならこの下に脱出可能な穴でもないか探したろうな」
「そうか」

 実際今探しているが、手掛かりがなければ難航しそうだ。
 枝分かれした肉の通路がいくつも広がっている。強く冷風の吹きこむ道もあれば、全く風を感じない道もある。
 目を閉じてみる。よく分からない。多分、風が強い方だ。

「花の咲いているところはあるか」
「花?」
「いや、キノコとか、別のものかもしれない。私には分からないが、何かがあるはずだ」
「こちらだ」

 伝わった。ノアマが先頭に立ち、複雑に分岐する道を進んでいく。とはいえ、自然にできた風洞が緻密な迷路の形をしているはずもなく、どこから行っても同じ場所にたどり着くようになっている構造も多そうだ。

「ところで、あの子と呼んでいたが彼女の名前は?」
「さあ」
「教えてもらえなかったのか」

 と、フッと目の前が暗くなって視界がぐらついた。
 ここだ。
 壁に付こうとした手と安定を求め踏みこんだ足が柔らかいものに包まれて、反射的に引き抜く。

「苔……」

 長さが手ほどもある分厚い苔が洞穴いちめんに貼りついていた。見たことのない種類。風にざらざらと揺れてなびいているのに、音を吸ってあまりにも静かだ。現実離れした光景……に思えるのは、正しい認識だろうか?

「これが幻覚の正体か」

 頬を叩くと少しは揺らぐ視界がマシになる。

「幻覚? 君が見聞きした私のことか」
「それだけじゃない。この冥穴の中では、ずっと私の感覚は狂わされていた。時間感覚が明らかにおかしい。そこまでお前が出来るわけではないだろう?」

 脈で測った短時間のところなどはさすがに合っていると思うが、それ以外は確信がない。
 兄の尋壱ひろいちが山の高さから推定したという落下時間をヒナ子から聞き、逆算してみれば、冥穴内での八尋の時間感覚がおかしかったことは分かる。風圧だけで物体の落下時間がそう変わりはしない。方向感覚が狂って同じ場所を歩き回ったりもしたかもしれない。

 冥穴の底からは幻覚作用を持つ揮発性の物質が吹き上がっていて、平衡感覚や時間感覚を狂わせる。この環境で生まれ育った者には耐性がつくか、慣れて当たり前のように暮らせている。生贄だけが冥王の幻覚を見るという話も、これが一番納得がいく。

(この穴が冥穴と呼ばれるようになったのも、吹き上がる風に含まれる幻覚物質で故人の幻を見た村人がいたからかもしれない)

 その畏れが風の音と混ざって冥王信仰を作り、やがて生贄の子孫が実際に名乗るようになる。一応筋は通った。……何かが頭の隅に引っ掛かっているが、何とははっきり指摘できない。

 八尋は再び苔の横洞に踏み入った。数歩奥に進む。
 遠くに明るく開けた場所があるが、その先もずっと苔が茂っているようだ。光を遮って暗くなっているので分かりやすい。ところどころ苔がなく白く硬い組織がむき出しになって見えるのは、そこだけ生えるのに適していないのか、誰かが削って道しるべを付けたのか。近寄って確認してみるが原因は分からない。
 ……どこまでも、現実感のない光景だ。

(これが限界か)

 これ以上すぐには何も見つけられそうにない。何かがあるとも限らない。
 ともかく、これで何とかするしかない。



「なァ、ノアマ。私の回答はこれだ」

 もう一歩踏みこんでから八尋は振り返る。わざと芝居がかった様子をとって、ノアマの目の前で苔に埋もれた壁面を何度かノックするように叩く。

「これだけ手がかりが揃っていれば間違いないな。彼女は自殺ではない。不幸な偶然が重なって事故死したんだ」

 わざと断定する。

「事故死?」
「そうだ。亡くなった日、彼女は独りでここに来た。死ぬためでないなら、何かの目的でここを捜索したかったんだろう」
「死ぬためではないと?」
「1年間、心地よく過ごさせたつもりだったんだろう? 死を選ぶような待遇には思えなかったんだろう? お前が言ったんだ。そこを疑うのはおかしいじゃないか」

 ノアマは黙る。

「ただ死ぬのが目的でないなら、あんな何もない場所でうずくまる理由は薄い。まァあんな場所で死ぬ理由もないが。ならここまで降りて来た、もしくは来ようとした、と考えるのが自然だ。……捜索の目的は聞いた限りでは2つ可能性があるな。下からの脱出経路を探したか、怪我の治りを早める何かを探したかったか。彼女はこの苔に近づいてしまった。強く幻覚作用をもたらす空間に」

 ノックした手を胸の前に引き戻して手の甲をノアマに見せる。強く叩きつけたことで、苔の奥の硬い冥穴の壁に傷つけられて血がにじんだ手の甲を。実際にはそれだけで都合よく傷がつくとは限らないから、演出のためにこっそり先に傷つけておいた。

「今私はかなりの酩酊めいてい感、というのか、足元がおぼつかない感覚になっている。私より若い子どもの身体にはより強く作用しただろう。そこで彼女は、顔をぶつけ、怪我してしまった」

 思ったより深く痛めた甲から血が垂れる。腕の方に落ちてくるので降り払う。

「それは彼女にとって深い絶望だっただろう。古傷は治っていないし、新しい傷なら治るという保証はどこにもない。……しかしそれでも彼女は死を選ばなかった。この層で亡くなっていないのがその理由だ。彼女は上へ戻ろうとした。怪我は治ると信じたのかもしれないし、とにかく寒さから逃れようとしたのかもしれないが」
「では、なぜだ」

 ここまでの理屈付けでは暖かい肉の方ではなく、寒々しい空間のど真ん中で伏していた理由にはならない。

「一番考えられるのは、お前の幻覚を見たことだ」
「私の幻覚……?」

 初めてノアマの表情が動いた。

「私にとってはそれが自然だ。なんせ私は落ちてこのかた、その幻覚しか知らない」
「だがそれは」
「お前に傷ついた顔を見られたくなかったんだ」

 都合の良い反吐を吐いている。
 嘘とは言い切れない膿を。

「お前に顔を見られる幻覚に追われて、彼女はあの場所に逃れた。そして、当時は空いていたという穴に足を引っ掛けて転んだんだ。それで動けなくなってしまった。怪我が深かったせいかもしれないし、お前に取り囲まれる幻覚を見て顔を隠すしかなかったのかもしれない。あの体勢は顔を隠すと同時に、痛みに苦しんで身体を丸めたように見えるな。……お前が心を砕いてやったせいで彼女は死んだ。それが、私からみた真相だ。納得いったか?」

 八尋の言葉を受け止めきれないのか、動かないノアマに向かってもう一言、ダメ押しをする。

「彼女の顔を確かめてみろよ。顔に傷はあるか、どんな表情だったのか。あそこから剥がして、確かめてみろ。知りたいなら答えを受け止めろ」

 ……最低な事を言ったのかもしれない。

 事実は誰にも分からない。ノアマにとって重要なのは、あくまで信じたい答えだ。八尋が適当を言ったとき「それにしよう」と言ったくらいには、軽い感覚で決めつけている。八尋に質問したときもさして追求してこない。そういう雑感があった。
 ただ、あそこの「彼女」には思い入れがあるようだった。生まれたときからずっと目にしてきた、ある種偶像として度々考えてきただろう。今八尋が言った都合の良い話を簡単に信じられるか分からない。
 だから、確かめる方法があると煽った。
 自信があると思わせるために、また、ノアマを遠ざけるために。

(どこかに冥穴から逃れる道があるかもしれない)

 それは八尋も考えていることだ。
 諦めなどしていない。諦めるものかと思っている。
 風の通り道があるのだから外につながる空洞自体は絶対にある。一度も生贄が生還した話は聞かないが、ゼロではない。細く小さい穴ばかりかもしれないが、数日前の地震で壊れ、穴が広がっている可能性はある。
 少しの時間でもいい。ノアマが我を忘れて八尋を放置し、「彼女」の方へ向かってくれれば。気がそれてくれれば。





「……ああ、良いな。良い。本当に良い」



 鈍った感覚では一瞬の動きに見えた。

「君のそれが良い。そういうことにしよう」
「はっ……離せ」

 近づかれて腕を掴まれていた。驚く間もない。滴った血を舐め上げられる。

「やめろ」
「旨いな」
「離れろ」
「君の口は面白いな。思いがけないことを言う。肉よりこちらの方が面白い。しかし、味も旨いな」
「ぎッ」

 手首の下を噛まれる。犬歯が食いこむ、が、噛みちぎられはしない。流れた血を吸われる。振りほどけない。蹴り上げようにもいなされる。踊るようにぐるりと身体を回された。

(見誤った……)

 この冥穴で最も欠乏するものは多分、遺伝子でも美食でもなかった。娯楽だ。気球からノアマを遠ざけるためとはいえ、興味を引きすぎた。

 無理に動けば本当に肉が千切れてしまう。だが、そうしなければ逃げられない。
 身を切る覚悟はある。いや、逃げ出せるなら今にも腕を引きはがし、肉の一片くらいくれてやってもいい。だが隙が無さすぎる。八尋は低い悪態を喉の奥で漏らした。



 そのとき、視界を真っ赤なものが横切った。



「ヌヌー?!」

 ノアマの顔と手をためらいなく引っかき傷つけた赤猿は金切り声を上げた。

「ッ! ……すまない! ありがとう!」

 ゆるんだノアマの手を振り払い、八尋は当てずっぽうに走り出す。冥穴の先へ。







「……やられたな。君が手出しをするとは思わなかった、メェル。君とネンマだけだったな、ヌヌーが命令を聞くのは」
「ん。もう、だも、はなめに、なあない。あえさせない」
「……それは、どういう宣言かな」
「その、ままの、いみ……!」
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