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二十二落
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冥穴の底が冷気に満ちているだろうとは、落ちる前から思っていた。かつて高校教師の遊波に聞いてもみた。
『うん、僕は地質学に詳しいわけじゃないけれど、これだけ条件が揃っていると間違いないでしょう。洞穴の中から外へ、一方方向に向かってこれだけの風が吹き続ける。ブローイングケイブ、冷風穴だ。地下に氷床ができていて、冷えた空気が暖かい方へ移動しようとすることで風の流れが生じるんだね。相当なエネルギーを保持できる』
富士山の氷穴が有名だ。山の内部に火山などで生じた吹き抜け穴があり、内部が大きな空洞になっている時に生じやすい。空気が空洞に吹き込んで膨張すると気温が下がり、氷を張るほどに内部を冷やす。冷風が暖気側へ抜けていく力が強ければ、夏でも氷が残りこの機構を保ち続ける。
この周囲の山岳の麓にある氷室も、山が地下氷を蓄えているから常に冷たい。暖気側が生暖かい肉の洞穴という異常な土地でなくとも起きうる現象だ。
だから、そこは全く不思議ではない。
そしてこちらも……この冷え切った遺体も、完全に予想の埒外というわけではない。
八尋はそっと中央に丸まる遺体の背に触れた。つまり凍った人の背骨に。むき出しになっているのは風化したのではない。背の肉を削ぎ落とされている。
「食ったのか」
言葉は思いのほかするりと出てきた。
ノアマは、花嫁の役割があると言った。冥穴に同化しなかった分が冥王の取り分だと言った。
ずっと冥穴の肉だけを食ってきた生物にとって、食うものといえば肉だ。冥穴の肉で身体が構成されていない人間の肉は、違う味がするだろう。獣ではなく木の実を食べる熊の方が美味かったのと同じだ。
それを食えるのが、村長の特権なのではないか。それを食う者を、冥王と呼ぶのではないか。
……さらに想像を広げるなら、これは地上の延長として生まれた宗教的儀式ではないか。
地上の村では、神事として生贄を冥穴に放り捨てる。そのとき、生贄が死にやすい条件だけは避けているように思える。
風の吹くタイミングが分かるのなら、八尋が冥穴の底に叩きつけられる前に風に阻まれたのは意図的だ。蓋をして雨の流入を防ぐのもそう。直接見ずとも雨になると蠢く肉の音は聞いているだろう。あれに1週間くらいは生贄が巻きこまれないようにという最低限の気遣いだけはある。冥穴の中で生き延びると思ったのなら、許しを請うのも分からないことはない。
生贄が生き残ることを前提とすると、生贄が底へ降りるのは、「儀式の続き」だ。底にたどり着けるか、何日で着くかは当人以外が関与できない。その偶然性を、吉兆を占う神事と捉えることはできないだろうか。
今回八尋たちが落ち始めたタイミングはネンマに目撃されていたが、そこは恐らく、見逃されていても構わない。
1週間も居れば、新陳代謝で筋肉の1/16~1/8くらいは冥穴の肉由来のものに置き換わる計算になる。生贄の肉を食うことで、その味から冥穴の滞在時間を知り、占う神職者。……それが冥王だ、というのは、八尋の想像だ。生まれ育った村の空気感から、そんな思想が生まれても不思議ではないと想像しただけ。
ただ、宗教的な存在とすれば、ノアマが自らを「500歳の冥王」と誇大に自称するのも頷ける。狭く暗く閉ざされたこの空間で集団が共同生活を営み続けるのに、宗教はきっと必要だ。恨みを抱えた生贄の落ちる余地が必要なのなら、なおさら。
……さらに飛躍した想像まで頭をよぎって、八尋は首を振る。とにかく目の前のことだ。
目の前のノアマだけを見る。
「対話が無駄とお前が思うのも当たり前だ。私は、ただの肉で食材か。お前からすれば、話をしても何にもならない」
むしろ、よく八尋に付き合って質問までしてくれたものだ。自主的に八尋を冥穴に留まらせようというのも異常な歩み寄りだろう。肥育する家畜にさえそんなことは求めない。まして「花嫁」に冥穴の肉を与えて生き永らえさせることに意味はない。何も知らない八尋は滑稽に見えただろうか?
「そうだな」
ノアマはナイフを取り出した。綺麗な刃をしている。息を呑む八尋をよそに、それを肉の床に突き立てた。
「その子は15歳だった。顔に傷があるから見ないで、と言っていたそうだ。500年前の私に言っていた」
「……お前が500歳ならその頃は赤子だろう」
「400年前だ」
慌てもせず何度も言い変える態度が、この男にはいやに似合っている。
「顔の傷をずっと気にするのが面白くて賭けをした。冥穴の肉を食い、肉の湿布を続けて、その傷が消えるか試してやろうと」
「食わなかったのか」
「味を見るくらいはしたろう。……1年では傷は消えなかった」
丸まった身体は深く顔を内側に押しつけていて確認できそうにない。
「強気な女でね。いつも前向きだったとか。少しは楽しんでくれたかと思ったが、何かが嫌だったらしい。ある嵐の後、ここで冷たくなっているのを見つけた」
ノアマは近づくと背骨を叩いた。
「昔はここに冷たい風が吹きこむ小さな穴があった。凍死するまでここに留まるのは苦しかっただろう。なぜかな」
八尋に聞いているのではない。冷たい遺体に話しかけている。
「それが、私を今生かしている理由か?」
「どうかな……」
「私を同じように冥穴に閉じこめて、同じように接したところで、答えとやらは得られないぞ」
「そうか」
「食っても当然分からない」
八尋とその女では多分全く状況が違う。
「だが、賭けというのは悪くないな。趣味が悪いが。ノアマ、お前と私で賭けをしないか」
「何?」
「お前、別に私の肉を食いたいわけじゃないだろう。私が答えとやらを見つけてやろうか。少なくとも2つ、可能性を思いついている。それを確かめるまで私を殺すな」
風はうるさいのに静かだ。
「……確かめる、とは」
「さあ。この下を見てみないことには言い切れないな」
ナイフの突き刺さる肉の床、その下に続く空間を指差す。普段はどうか分からないが、今は裂け目が開いているから降りられるだろう。
「逃げる気か」
苦手だ。八尋はこんな勝負などしたくはなかった。
「逃げると思うなら見張っていればいいさ。そこの女が逃げずにここで死んでいった理由が下にあると私は思う」
しばらく沈黙が続いて、結局否定の言葉はノアマから出てこなかった。
『うん、僕は地質学に詳しいわけじゃないけれど、これだけ条件が揃っていると間違いないでしょう。洞穴の中から外へ、一方方向に向かってこれだけの風が吹き続ける。ブローイングケイブ、冷風穴だ。地下に氷床ができていて、冷えた空気が暖かい方へ移動しようとすることで風の流れが生じるんだね。相当なエネルギーを保持できる』
富士山の氷穴が有名だ。山の内部に火山などで生じた吹き抜け穴があり、内部が大きな空洞になっている時に生じやすい。空気が空洞に吹き込んで膨張すると気温が下がり、氷を張るほどに内部を冷やす。冷風が暖気側へ抜けていく力が強ければ、夏でも氷が残りこの機構を保ち続ける。
この周囲の山岳の麓にある氷室も、山が地下氷を蓄えているから常に冷たい。暖気側が生暖かい肉の洞穴という異常な土地でなくとも起きうる現象だ。
だから、そこは全く不思議ではない。
そしてこちらも……この冷え切った遺体も、完全に予想の埒外というわけではない。
八尋はそっと中央に丸まる遺体の背に触れた。つまり凍った人の背骨に。むき出しになっているのは風化したのではない。背の肉を削ぎ落とされている。
「食ったのか」
言葉は思いのほかするりと出てきた。
ノアマは、花嫁の役割があると言った。冥穴に同化しなかった分が冥王の取り分だと言った。
ずっと冥穴の肉だけを食ってきた生物にとって、食うものといえば肉だ。冥穴の肉で身体が構成されていない人間の肉は、違う味がするだろう。獣ではなく木の実を食べる熊の方が美味かったのと同じだ。
それを食えるのが、村長の特権なのではないか。それを食う者を、冥王と呼ぶのではないか。
……さらに想像を広げるなら、これは地上の延長として生まれた宗教的儀式ではないか。
地上の村では、神事として生贄を冥穴に放り捨てる。そのとき、生贄が死にやすい条件だけは避けているように思える。
風の吹くタイミングが分かるのなら、八尋が冥穴の底に叩きつけられる前に風に阻まれたのは意図的だ。蓋をして雨の流入を防ぐのもそう。直接見ずとも雨になると蠢く肉の音は聞いているだろう。あれに1週間くらいは生贄が巻きこまれないようにという最低限の気遣いだけはある。冥穴の中で生き延びると思ったのなら、許しを請うのも分からないことはない。
生贄が生き残ることを前提とすると、生贄が底へ降りるのは、「儀式の続き」だ。底にたどり着けるか、何日で着くかは当人以外が関与できない。その偶然性を、吉兆を占う神事と捉えることはできないだろうか。
今回八尋たちが落ち始めたタイミングはネンマに目撃されていたが、そこは恐らく、見逃されていても構わない。
1週間も居れば、新陳代謝で筋肉の1/16~1/8くらいは冥穴の肉由来のものに置き換わる計算になる。生贄の肉を食うことで、その味から冥穴の滞在時間を知り、占う神職者。……それが冥王だ、というのは、八尋の想像だ。生まれ育った村の空気感から、そんな思想が生まれても不思議ではないと想像しただけ。
ただ、宗教的な存在とすれば、ノアマが自らを「500歳の冥王」と誇大に自称するのも頷ける。狭く暗く閉ざされたこの空間で集団が共同生活を営み続けるのに、宗教はきっと必要だ。恨みを抱えた生贄の落ちる余地が必要なのなら、なおさら。
……さらに飛躍した想像まで頭をよぎって、八尋は首を振る。とにかく目の前のことだ。
目の前のノアマだけを見る。
「対話が無駄とお前が思うのも当たり前だ。私は、ただの肉で食材か。お前からすれば、話をしても何にもならない」
むしろ、よく八尋に付き合って質問までしてくれたものだ。自主的に八尋を冥穴に留まらせようというのも異常な歩み寄りだろう。肥育する家畜にさえそんなことは求めない。まして「花嫁」に冥穴の肉を与えて生き永らえさせることに意味はない。何も知らない八尋は滑稽に見えただろうか?
「そうだな」
ノアマはナイフを取り出した。綺麗な刃をしている。息を呑む八尋をよそに、それを肉の床に突き立てた。
「その子は15歳だった。顔に傷があるから見ないで、と言っていたそうだ。500年前の私に言っていた」
「……お前が500歳ならその頃は赤子だろう」
「400年前だ」
慌てもせず何度も言い変える態度が、この男にはいやに似合っている。
「顔の傷をずっと気にするのが面白くて賭けをした。冥穴の肉を食い、肉の湿布を続けて、その傷が消えるか試してやろうと」
「食わなかったのか」
「味を見るくらいはしたろう。……1年では傷は消えなかった」
丸まった身体は深く顔を内側に押しつけていて確認できそうにない。
「強気な女でね。いつも前向きだったとか。少しは楽しんでくれたかと思ったが、何かが嫌だったらしい。ある嵐の後、ここで冷たくなっているのを見つけた」
ノアマは近づくと背骨を叩いた。
「昔はここに冷たい風が吹きこむ小さな穴があった。凍死するまでここに留まるのは苦しかっただろう。なぜかな」
八尋に聞いているのではない。冷たい遺体に話しかけている。
「それが、私を今生かしている理由か?」
「どうかな……」
「私を同じように冥穴に閉じこめて、同じように接したところで、答えとやらは得られないぞ」
「そうか」
「食っても当然分からない」
八尋とその女では多分全く状況が違う。
「だが、賭けというのは悪くないな。趣味が悪いが。ノアマ、お前と私で賭けをしないか」
「何?」
「お前、別に私の肉を食いたいわけじゃないだろう。私が答えとやらを見つけてやろうか。少なくとも2つ、可能性を思いついている。それを確かめるまで私を殺すな」
風はうるさいのに静かだ。
「……確かめる、とは」
「さあ。この下を見てみないことには言い切れないな」
ナイフの突き刺さる肉の床、その下に続く空間を指差す。普段はどうか分からないが、今は裂け目が開いているから降りられるだろう。
「逃げる気か」
苦手だ。八尋はこんな勝負などしたくはなかった。
「逃げると思うなら見張っていればいいさ。そこの女が逃げずにここで死んでいった理由が下にあると私は思う」
しばらく沈黙が続いて、結局否定の言葉はノアマから出てこなかった。
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