19 / 24
十九落
しおりを挟む
冥王の鬨。冥穴内に激しい嵐のような強風が吹きわたる。その間隔を体感で理解していても、実際にそれが起きる正確な時刻は時計のない冥穴内では分からない。村人は風の吹き始める音でその始まりを判断し、被害の少ない肉襞の奥へと避難する。
幸い、八尋の時間感覚は狂う前だった。
まだ狂っていない概日リズム感覚と計算で村人たちよりも早くタイミングを読み動けば、嵐が酷くなる前に、そして村人たちの避難が終わる前に1番の大仕事を終えることができた。ヒナ子を村から2層上の肉襞へと吊り上げる作業だ。
肉の縄ばしごを登る事でしか行けない場所で、ヒナ子は体調が戻らずほとんど歩けない。肉紐を布団の上から簀巻きに結びつけ、引きずり上げるのは、怪力のネンマと2人がかりでも楽ではなかった。村人が嵐に備え作業に勤しみ、あるいは風の始まりに気づいて慌てて避難する貴重な時間をだいぶ消費した。
……村人は次々と避難している。ヒナ子をつきっきりで診ていたメェルは真っ先にヒナ子を避難場所へ連れて行こうとしたが、病床のヒナ子が止めた。
「わたくし、もう、お姉さまのお姫様抱っこでないと運ばれたくありませんの。痛かったんですもの。あなたは悪くはございませんわ。ただ、お姉さまでなければいけませんの」
……などと言ったらしい。メェルは相当に善良な村人と見えたが、ヒナ子の前ではどうしようもなかっただろう。
「さて、ヒナ子。気球のアイテムのうち、球皮と鎖代わりの紐はある。バスケットと燃料の場所も分かっているから、今の隙に持ってくる。君は肉の奥に隠れて、球皮と紐を繋いで準備していてくれ。すぐに出発できるとは限らないが、とにかく君が見つからなければいい。ネンマ、来てくれ」
「八尋お姉さま、どうかご無事で。どうか……」
「問題ないさ。また後で会おう」
「お姉さま……」
こういう言い方は好かないが、ヒナ子を振りきるのにかかった時間に比べれば、気球のバスケットを回収するのは一瞬だった。一瞬。体感の話だ。
「よし。ネンマ、最後にお願いがある」
八尋は懐にずっと忍ばせていた古い布切れを取り出した。
目的があって入れていたわけではない。もう指の痛みも引いていたし、たまたま残っていただけだ。それを等分ではない4つに裂いて、1枚目と3枚目をネンマに渡す。
「こっちは後で、ほとぼりが冷めた頃にヒナ子に渡してくれ。伝わるだろうからそれだけでいい。この大きい方は揚羽のベッドに差し入れて。それを合図に自力で抜け出して来させる。流石に君が支えてやらなくても縄ばしごくらい登れるだろう。何をするか分からない奴だから、合流したら逃げ出さないように捕まえておくといい」
「ん。もいあいてあう」
「それに大した意味はないよ。そうだ、忘れずに綱は垂らしておいてくれ。燃料をくくり付けるから。……頼んだよ」
「あいろ、あいようう?」
「大丈夫」
頭に手を置くとネンマは頷いた。
「じゃあ」
ガツッ。
強まりつつある風を受けて、かんざしではまとめられない髪がひるがえる。邪魔だ。気にする暇はないからこそ。
「間に合えよ」
肉襞が激しく上下に揺れる。嵐風のせいなのか、風を受けて肉が苦しむようにうねっているのか分からない。八尋の立ち止まった場所も、いや、よろけてしゃがみこんだ場所も時おり、激しく突き上げてはへこむ。歩けない。
ガチ、と固い音が響く。頼りなさげに肉でできた縄が揺れる。
「間に合え」
ガチン。
風に混じって重く響くのは、肉壁から上に突き出た「歯」だ。それが上の肉襞から下向きに突き出た「歯」とぶつかって硬質な音を立てる。八尋はまた念じる。間に合え。来るな。間に合え。
強く噛み合った音がして、結ばれていた縄が擦り千切れて目の前に落ちた。
間に合った。
鬨が起きるたびに冥穴内は激しく揺れ、ネンマとヌヌーが掛けた上層へのはしごは「歯」のぶつかり合いや強風により全て千切れてしまう。ならば、嵐の前に上へ逃げておけば、追いかけることは不可能になる。
気球の最後の部品、燃料も、もう上へ上げている。探すのには苦労したが、分かってみれば何ということもない。村長ノアマの居住スペース奥の肉襞の中に押し込まれていた。
今目の前で千切れて落ちた縄ばしごが、最後だ。上の肉襞に続くルートは全て消えた。
「……で、冥穴の村長というのは嵐の真っ最中でも村を見回るのが仕事なのか? それとも、私を探してくれたか」
八尋は大声でゆっくり言った。もう上には行けない。ヒナ子にも揚羽にもネンマにも手出しはさせない。あとの懸念は一つ。上体を起こして振り返る。
「てっきり弓矢でも持ってきたかと思ったよ。気球で脱出するのに一番の困難は、安定して離陸する事だからな」
ノアマは長髪を編み、先は三つ編みにして首に巻きつけていた。先ほどまで頭にも布をしっかりと巻きつけていたおかげで、風の中でもあまりほつれていない。
「一つ先に言っておく。私は逃げない」
「そうか」
返事は平坦な声色だった。ぎりぎり聞こえる声。一歩ずつ近づいてくる。大した体幹だ。
「ああ。冥王とやらに言いたい事が山ほどあるからな。帰ってる場合じゃない」
「気球に4人は乗れないからか」
「ッ」
沈黙は存在しない。嵐の音が空白は全て埋める。
「……アア、そうだよ。ネンマやメェルは知らないようだったが、お前は字が読めるのか」
「そうだな。気球の皮に書いてあっただろう。沈み具合で体重は分かる。君たち3人なら分からないが、ネンマを加えると確実に耐荷重を越える」
「……よく知っている」
知識が広い。肉の地面に足が沈む度合いとキログラム表記が結びついているのは、冥穴内で自然に得られる能力ではないはずだ。
それに、この流暢な話し方。
「ネンマに私の発音がほぼ苦労なく伝わるのは妙だと思っていた。お前から聞いて生まれ育ったからか」
「普段は皆に合わせているよ。その方が言葉が通じやすい」
「そうか。今さらの確認だが、お前は前に、また話そう、と言ったな。お互い暴力に訴える前に、私と話をしてくれないか」
「いいだろう。私にとっても都合がいい」
……真意は分からないが、少なくとも今、八尋は力任せに封じられていない。
「落ち着いて話せる場所へ行こう」
「ああ」
エスコートするように差し出された手を無視して八尋は立った。ついでに、懐に残っていた2枚の布切れを嵐の中に放り投げる。
「何だ」
「何でもないさ。ただの余り物だ」
見せるまでもない。「でください」と「ください」。読んでも意味の分からない、ただの小さな布切れだ。
幸い、八尋の時間感覚は狂う前だった。
まだ狂っていない概日リズム感覚と計算で村人たちよりも早くタイミングを読み動けば、嵐が酷くなる前に、そして村人たちの避難が終わる前に1番の大仕事を終えることができた。ヒナ子を村から2層上の肉襞へと吊り上げる作業だ。
肉の縄ばしごを登る事でしか行けない場所で、ヒナ子は体調が戻らずほとんど歩けない。肉紐を布団の上から簀巻きに結びつけ、引きずり上げるのは、怪力のネンマと2人がかりでも楽ではなかった。村人が嵐に備え作業に勤しみ、あるいは風の始まりに気づいて慌てて避難する貴重な時間をだいぶ消費した。
……村人は次々と避難している。ヒナ子をつきっきりで診ていたメェルは真っ先にヒナ子を避難場所へ連れて行こうとしたが、病床のヒナ子が止めた。
「わたくし、もう、お姉さまのお姫様抱っこでないと運ばれたくありませんの。痛かったんですもの。あなたは悪くはございませんわ。ただ、お姉さまでなければいけませんの」
……などと言ったらしい。メェルは相当に善良な村人と見えたが、ヒナ子の前ではどうしようもなかっただろう。
「さて、ヒナ子。気球のアイテムのうち、球皮と鎖代わりの紐はある。バスケットと燃料の場所も分かっているから、今の隙に持ってくる。君は肉の奥に隠れて、球皮と紐を繋いで準備していてくれ。すぐに出発できるとは限らないが、とにかく君が見つからなければいい。ネンマ、来てくれ」
「八尋お姉さま、どうかご無事で。どうか……」
「問題ないさ。また後で会おう」
「お姉さま……」
こういう言い方は好かないが、ヒナ子を振りきるのにかかった時間に比べれば、気球のバスケットを回収するのは一瞬だった。一瞬。体感の話だ。
「よし。ネンマ、最後にお願いがある」
八尋は懐にずっと忍ばせていた古い布切れを取り出した。
目的があって入れていたわけではない。もう指の痛みも引いていたし、たまたま残っていただけだ。それを等分ではない4つに裂いて、1枚目と3枚目をネンマに渡す。
「こっちは後で、ほとぼりが冷めた頃にヒナ子に渡してくれ。伝わるだろうからそれだけでいい。この大きい方は揚羽のベッドに差し入れて。それを合図に自力で抜け出して来させる。流石に君が支えてやらなくても縄ばしごくらい登れるだろう。何をするか分からない奴だから、合流したら逃げ出さないように捕まえておくといい」
「ん。もいあいてあう」
「それに大した意味はないよ。そうだ、忘れずに綱は垂らしておいてくれ。燃料をくくり付けるから。……頼んだよ」
「あいろ、あいようう?」
「大丈夫」
頭に手を置くとネンマは頷いた。
「じゃあ」
ガツッ。
強まりつつある風を受けて、かんざしではまとめられない髪がひるがえる。邪魔だ。気にする暇はないからこそ。
「間に合えよ」
肉襞が激しく上下に揺れる。嵐風のせいなのか、風を受けて肉が苦しむようにうねっているのか分からない。八尋の立ち止まった場所も、いや、よろけてしゃがみこんだ場所も時おり、激しく突き上げてはへこむ。歩けない。
ガチ、と固い音が響く。頼りなさげに肉でできた縄が揺れる。
「間に合え」
ガチン。
風に混じって重く響くのは、肉壁から上に突き出た「歯」だ。それが上の肉襞から下向きに突き出た「歯」とぶつかって硬質な音を立てる。八尋はまた念じる。間に合え。来るな。間に合え。
強く噛み合った音がして、結ばれていた縄が擦り千切れて目の前に落ちた。
間に合った。
鬨が起きるたびに冥穴内は激しく揺れ、ネンマとヌヌーが掛けた上層へのはしごは「歯」のぶつかり合いや強風により全て千切れてしまう。ならば、嵐の前に上へ逃げておけば、追いかけることは不可能になる。
気球の最後の部品、燃料も、もう上へ上げている。探すのには苦労したが、分かってみれば何ということもない。村長ノアマの居住スペース奥の肉襞の中に押し込まれていた。
今目の前で千切れて落ちた縄ばしごが、最後だ。上の肉襞に続くルートは全て消えた。
「……で、冥穴の村長というのは嵐の真っ最中でも村を見回るのが仕事なのか? それとも、私を探してくれたか」
八尋は大声でゆっくり言った。もう上には行けない。ヒナ子にも揚羽にもネンマにも手出しはさせない。あとの懸念は一つ。上体を起こして振り返る。
「てっきり弓矢でも持ってきたかと思ったよ。気球で脱出するのに一番の困難は、安定して離陸する事だからな」
ノアマは長髪を編み、先は三つ編みにして首に巻きつけていた。先ほどまで頭にも布をしっかりと巻きつけていたおかげで、風の中でもあまりほつれていない。
「一つ先に言っておく。私は逃げない」
「そうか」
返事は平坦な声色だった。ぎりぎり聞こえる声。一歩ずつ近づいてくる。大した体幹だ。
「ああ。冥王とやらに言いたい事が山ほどあるからな。帰ってる場合じゃない」
「気球に4人は乗れないからか」
「ッ」
沈黙は存在しない。嵐の音が空白は全て埋める。
「……アア、そうだよ。ネンマやメェルは知らないようだったが、お前は字が読めるのか」
「そうだな。気球の皮に書いてあっただろう。沈み具合で体重は分かる。君たち3人なら分からないが、ネンマを加えると確実に耐荷重を越える」
「……よく知っている」
知識が広い。肉の地面に足が沈む度合いとキログラム表記が結びついているのは、冥穴内で自然に得られる能力ではないはずだ。
それに、この流暢な話し方。
「ネンマに私の発音がほぼ苦労なく伝わるのは妙だと思っていた。お前から聞いて生まれ育ったからか」
「普段は皆に合わせているよ。その方が言葉が通じやすい」
「そうか。今さらの確認だが、お前は前に、また話そう、と言ったな。お互い暴力に訴える前に、私と話をしてくれないか」
「いいだろう。私にとっても都合がいい」
……真意は分からないが、少なくとも今、八尋は力任せに封じられていない。
「落ち着いて話せる場所へ行こう」
「ああ」
エスコートするように差し出された手を無視して八尋は立った。ついでに、懐に残っていた2枚の布切れを嵐の中に放り投げる。
「何だ」
「何でもないさ。ただの余り物だ」
見せるまでもない。「でください」と「ください」。読んでも意味の分からない、ただの小さな布切れだ。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
少女と虎といつか終わる嘘
阿波野治
ホラー
友人からの借金取り立てを苦にして、遍路を装い四国まで逃亡した沖野真一。竹林に囲まれた小鞠地区に迷い込んだ彼は、人食い虎の噂を聞き、怪物を退治する力を自分は持っていると嘘をつく。なぜか嘘を信用され、虎退治を任されることになり……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ファムファタールの函庭
石田空
ホラー
都市伝説「ファムファタールの函庭」。最近ネットでなにかと噂になっている館の噂だ。
男性七人に女性がひとり。全員に指令書が配られ、書かれた指令をクリアしないと出られないという。
そして重要なのは、女性の心を勝ち取らないと、どの指令もクリアできないということ。
そんな都市伝説を右から左に受け流していた今時女子高生の美羽は、彼氏の翔太と一緒に噂のファムファタールの函庭に閉じ込められた挙げ句、見せしめに翔太を殺されてしまう。
残された六人の見知らぬ男性と一緒に閉じ込められた美羽に課せられた指令は──ゲームの主催者からの刺客を探し出すこと。
誰が味方か。誰が敵か。
逃げ出すことは不可能、七日間以内に指令をクリアしなくては死亡。
美羽はファムファタールとなってゲームをコントロールできるのか、はたまた誰かに利用されてしまうのか。
ゲームスタート。
*サイトより転載になります。
*各種残酷描写、反社会描写があります。それらを増長推奨する意図は一切ございませんので、自己責任でお願いします。
オーデション〜リリース前
のーまじん
ホラー
50代の池上は、殺虫剤の会社の研究員だった。
早期退職した彼は、昆虫の資料の整理をしながら、日雇いバイトで生計を立てていた。
ある日、派遣先で知り合った元同僚の秋吉に飲みに誘われる。
オーデション
2章 パラサイト
オーデションの主人公 池上は声優秋吉と共に収録のために信州の屋敷に向かう。
そこで、池上はイシスのスカラベを探せと言われるが思案する中、突然やってきた秋吉が100年前の不気味な詩について話し始める
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる