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十六落

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遊波ゆなみ香太こうた
実験物理学系が専門の教師。研究者魂と実学教育願望の狭間でぽやぽやしている間に田舎高校に飛ばされていた。

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 その日は天気予報通り朝から篠突しのつく雨だった。肌に刺さるような雨。

「ごきげんよう、遊波せんせい。今日は気球の使い方をお教えくださるのでしょ」
「おはようございます、ヒナ子君。きみに教えるわけではありませんからね。あくまで、君に話すことで、初めての人が操作に困るポイントを確認して気球に記すんですよ。この天気だから実演はなしです」
「存じておりますわ」
「……今日は、お兄さんは来ないのかな」
「お寝坊以外の急用で遅れるそうです。でもわたくし、確認することをたくさん言伝ことづかっておりますから大丈夫ですわ」
「探究心豊かな若者には何でも教えてあげたいところだけどね……ほんとうにきみ達、危ないことはしないんですよね?」
「もちろんですとも!」

 笑顔。

「……それで、どんな質問を預かっているのかな。気球のこと以外で先に答えられるものがあれば答えますが」
「そうですわね、こちらは? 『先人の観測と自分の推測がどうやっても合わないとき、どちらを信じるべきか』と書いてありますわ。『推測』のところ、何度か書き直した跡がありますわ」
「順当に考えると、観測の方だけどね……でも、『先人』と言うからには多分、昔の観測なんだろう。前に話したかな、古代に発見された、地面に立てた棒の影から太陽までの距離を求める方法について。正しい理論で精密に計測・計算されたのはすごいことだけど、求められた距離は正確に合っていた訳じゃない。計測器の精度が明らかに違うからね。そんな風に、明らかに現代の知識と推測で辻褄つじつまが合わないことがあるのなら、当時の観測の前提条件を調べてみるといい。自分の方をより正確だと判断する根拠が見つかるかもしれない」
「長いのでノート1行くらいの文字数にしていただけませんか?」
「それじゃあ、要約はヒナ子君がやってみようか!」



 それから数時間。「遅くなりました」とだけ言って途中から混ざった尋壱ひろいちは言葉少なく、静かに話を聞いていた。



「……お疲れ様です。想定されるトラブルとその対応としては、こんなところです。本格的な教本を読む暇はないでしょうし、落下中にどこかに行ってしまう危険性を考えて数箇所に要点を記載しました」
「ありがとうございます、せんせい」
「最後にもう一度確認します。きみたち、危ないことはしませんね?」
「しませんよ。ありがとうございます」
「それじゃあ、明日朝8時、ここで集合して運びましょう。本当に山の持ち主に許可は取っているんですね?」

 信用させるまでにまたしばらく時間がかかった。





 傘を差して歩く。人目を気にしなくて良い場所なのでヒナ子は尋壱の隣に並んでいる。

「遊波せんせいって、ああいう方ですの」
「そうか」
「尋壱さま、パラシュート手に入りましたのね」
「ああ」
「これで、ほぼ準備は終わったようなものですわね?」
「待て」

 尋壱は前を向いたまま声だけでヒナ子を止まらせた。

「ひとつ、形式として聞くが。……なぜお前は八尋やひろのためにここまでする?」

 村では、少しだが口さがない噂が立っていた。2人はいわゆる、百合の関係ではないかと。ヒナ子がどの男の誘いも断るからやっかまれたのだろうし、八尋が男っぽく振る舞うせいもあるだろう。態度はともかくその口調を始めたのもヒナ子の影響だ。そして今の彼女には、それが事実でもおかしくないと思わせる気迫がある。

「……ふふ。いちめんの花畑ですわ」
「花畑?」
「尋壱さま、わたくし山をたくさん持っておりますの」
「ああ、睦山むつやま家は」
「ここの山ぜんぶですわ」

 ヒナ子は傘を落として雨の中にするりとおどり出ると、腕を差し上げた。くるりと一回転し微笑みを浮かべる。尋壱は目を細める。いくら睦山が大きな家でも、全ての山を所有しているわけではない。

「お祖父さまは土地をいっぱい買っていたころ、あそこの山が欲しかったのですって。ほら、雪解けの終わり頃に竜の模様ができる山。でも酒事業がうまくいかなくて、手前の山までしか手に入りませんでしたの。ですからお祖父さま、わたくしに『心の中ではあの山を持っておけ』といつも仰ってらしたの。素敵なアイディアでしょう?」

 腕を下ろして尋壱に近づいてくる。お転婆てんばなステップで。

「『あの山気になるの? じゃあ案内してあげよっか?』……そう言ってくださったのが八尋お姉さま。あの頃は八尋ちゃんですわね。岩場ばかりで大変でしたけれど、すいすい歩けるようになるのが楽しかったんですの。揚羽くんと一緒に秘密基地も作りましたわ。それから八尋ちゃんと八尋お姉さまと巡った場所はぜんぶ、わたくしの中の大切な場所。ここにはないから、山に大きな花畑を作ったんですの。竜と花の山。いちばん見晴らしの良いところにお姉さまがいらして、いつも笑顔でわたくしに勇気をくださるの。その隣の隣の山には小さな小川があって、お姉さまは鍛錬で疲れているのにわたくしを気遣って冷たく濡らして絞ったハンカチでわたくしの汗を拭いてくれるの」

 尋壱の頬をいつの間にか撫でる。そこから八尋のかけらを削り出すように。

「わたくし、いろいろな八尋お姉さまが欲しいんですの」
「なる、ほど」

 尋壱は一歩退いて指先から逃れた。
 それなら急に蒲鉾かまぼこ入りクッキーでも何でも作るだろう。外の世界には不要なものというのは分かっていて、内面世界の理屈で必要になったことをする。こんなものに近づいていてはいけないと脳が警告を出す。

蒐集しゅうしゅうが終われば妹は返してくれるのか?」

 するりと口からとんでもない言葉が出た。
 今さら格好のつかない慌て顔をして撤回してもしょうがないので、表情を固めておく。今さらだ。今さら。

「いいえ」

 尋壱は目を伏せた。

「返せよ」
「ごめんなさい」
「返せよ……」







 翌朝、ではなく夜のうちに、尋壱たちは気球を小屋から運び出した。

「……やっぱり信用されてなかったな」
「わたくしたちに限らずですわ。遊波せんせいって慎重なお方ですもの」

 ヒナ子の意見は助けになった。「遊波せんせいは、安全のためなら装置に簡単な処置をすることを嫌がりませんわ」とか何とか。
 気球はバスケットと球皮きゅうひが繋がっていない状態で保管されていた。ワイヤーが外されてどこかに隠され、燃料が入っていない。このままでは使えないが、これを見越して、ガスボンベはすでに用意して山に隠してある。手に入れるのに半日かかった。

「ワイヤーが無いのは想定外だな。どうするか」

 準備に駆け回って昨日も一昨日も寝ていないせいか、頭があまり回っていない。

「尋壱さま、冥穴めいけつのある山からは今晩、見張りを全員追い払ったと仰いましたわね」
「ああ」
「でしたら手に入りますわ」

 ヒナ子は山の頂上の冥穴ではなく、そこを覆う社殿を手で示した。
 社殿の屋根と、柱や鴨居とを繋ぐ鎖を。

「なるほど……」

 鎖の両端にある錠前に、ヒナ子がまとめて持ち出した鍵束の鍵の一つがぴたりとはまる。
 社殿は冥穴をふさぐ蓋だ。蓋というからには屋根は外せる。つまり鎖は取り外せる。
 鎖を次々に取り外しては鎖同士を繋ぎ合わせ、必要な長さにして気球に繋げる。全て1本の鍵で行うので作業が進まない。

「……今のうちに確認だ。メモも渡したが、話したことは覚えているな?」
「ええ、冥穴に吹く風の詳細なルールですわね。絶対忘れませんわ」

 女子は絶対に知らされていない。冥穴に吹く竜巻のような風には吹くタイミングのルールがある。「冥王の囁き」と呼ばれる弱い風のひと吹きですら、そのルールに従って吹いている。何時間も無風が続くこの夜がパラシュート降下に最適なタイミングだし、気球を飛ばすのも無風が続く間でなければならない。

「それから……パラシュートだが」

 尋壱は少しためらった。

「初心者のお前が、ただ秒数を数えて起動スイッチを押せばいいよう、パラシュートを起動するべきタイミングを計算してお前に伝えたな」
「ええ、覚えていますわ。落ちると同時にカウントを始めればよろしいのでしょう?」
「……その計算は、伝承に伝わる冥穴の深さをもとに計算されている。……だが、考えたがやはり、俺は、正確な冥穴の深さはもっと短いと思う。山の高さと周囲の環境から推定して、どう考えても伝承にあるほどの深さの洞窟は生まれない」
「……そうなると、パラシュートを開く時間が変わりますのね」
「ああ。冥穴が浅ければ、早くパラシュートを起動しないと底に衝突してしまう。……しかし、もし冥穴が本当に深く続いていた場合、早くパラシュートを開いてしまうとお前の技術でパラシュートを長時間制御し続けられるか分からない。ろくに練習の時間を取れなかっただろう」
「2択でお悩みですの?」
「お前の身に拘ることだぞ」

 傍観するような言い方につい尋壱が声を荒らげると、ヒナ子は「だって」と首を転がした。

「だってわたくし、尋壱さまの信じる方を信じますもの。尋壱さまの思う冥穴の深さで計算なさると、何秒になりますの?」
「……後悔するなよ」
「いたしませんわ」

 尋壱がため息をついて伝えて、ヒナ子が「忘れませんわ」と繰り返す。
 そこで最後の鎖が組み上がった。



「……よし」

 落下中に飛ばないよう畳んだ球皮をバスケットに収め、包み、固定して冥穴へ落とす。緩衝材も衝撃を和らげる機構もついている。多少壊れても修復可能だ。遊波の計算上、問題はない。
 あとはヒナ子が降りるだけだ。

「……こうやって社殿内から見てみると、かなり鎖の本数が減ってしまいましたわね。冥王の鬨強い風が吹いたとき、これだけで耐えられますかしら」
「お前は何も気にせず行け。後始末はどうにかする」

 尋壱の声に、ヒナ子はパチリと瞬きをした。

「……尋壱さまは、一緒に降りる、と仰ると思っていましたわ」
「惜しいな、お前を置き去りにして俺だけ降りる気だったよ。だが、地上でやることが増えて行く暇がなくなった。地下のことはお前に全部押しつけてやる」

 風が吹く。冥穴の旋風ではない。地上の風だ。

「おィ、絶対に戻って来い。これはお前に言っている、睦山ヒナ子」
「……はい、お兄さま」
「兄じゃない」

 安全装置と使用法を軽く再確認すると、あっさりとヒナ子は冥穴に向かった。

「行ってまいります」

 思わずその背中に手が伸びる。伸びただけだった。こんなものはすぐに引っこめられる。

「……さて」

 尋壱はゆっっくり振り向いた。




「さてだ。手伝ってくれて助かったよ泥川なずかわ
「ヤ、ヤバいだろ。ヤバいよな、これ」

 遊波のガスボンベの入手先に駆けこんだり、監視を長時間遠ざけたり、思い気球を運んだり、大急ぎで鎖を取り外したりと色々泥川冬篤ふゆあつに笑顔を見せる。いい表情をしている自覚がある。

「ヤバいに決まってるだろ、お前。八尋が失踪する直前に『八尋の兄』を騙って学校に迎えに行って、誘拐犯としか思えないシーンを目撃されてるんだから」
「だ、だから、儀式のために仕方な」
「儀式に関わった奴らに聞き出したよ。お前、泥川の番じゃないのに儀式にどうしても参加したいと申し出たらしいな。家畜が不審死したり井戸水が濁った頃に農家の農薬や薬品がいくつか盗まれたという話も出てる」
「違う、それは揚羽あげ……」
「そうそう、八尋を生贄に出すことになった1番の後押しは、お前の持ってきたカメラ映像だったか。女人禁制の山に八尋が立ち入ったのが原因だとか抜かしたらしいな、お前。数秒だけ見たが、あれ、別の山じゃないか。固定カメラ取り外して八尋のよく来る別の山に取り付けて偽造したな?」

 映像から抜き取った写真を一枚出して見せる。

「そっ……どうやって?!」
「聞くところはそこじゃないだろう。俺だってお前だけと仲良いわけじゃないんだから」

 しかし驚くのは当然だ。尋壱自身もよく証言を揃えられたものだと思う。

「そうだ、俺だけじゃないぞ、気づいてるのは。映像見せたら、これは自分の山だと持ち主が言ったよ。どこぞのアホガキが作って放置していった秘密基地の残骸が映り込んでるから、自分の土地に間違いない、と」
「あ……違……」
「お前がそんなに八尋とヤりたかったとは知らなかったな。それで? ヤり捨てて突き落とした気分は?」
「……ゆる、許してくれ! 殺す気はなかったんだ!」
「許して欲しかったら頑張ってこれを警察沙汰にしてみろよ。でないと騙されたと知った神社連中か、俺がお前を確実に殺す」

 もう一度笑顔。笑顔になっているだろうか。







 それから数時間後、冥穴から風が強く吹き上げた。
 冥王の唸り声は龍が天を突き上がるようにその進路を塞ぐものを叩き、本数が減っていた鎖を千切って、屋根を放り上げた。解放された龍吟りゅうぎんは悠々と轟き、対照的に、雨が冥穴内に降り注いだ。

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