冥穴のはっぴいえんど

山の端さっど

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六落

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 ばきゅ。ぐじゅり。びしゃり。ぎゅるり。

 じっと耐える。狭い足場で同じ姿勢を保つのに疲れ、立ち、しゃがみ、片足を伸ばして揺らし、反対も同じようにする。それにも飽きて、波のように動く肉をぼんやりと見る。
 先ほどのように濡れた体を拭いたり乾かしはしない。してもあまり意味がない。先ほどから旋風が頻繁に巻き起こっている。そのたびに雨が横ざまに髪と背中に降り掛かる。この場所では遮ってくれるものがない。せっかく乾かした服が濡れないよう、服を腕の中に抱え込み続けるだけだ。

(いつまで降る……)

 肉のうごめく音が絶え間なく続く。そのせいで雨音が聞こえない。飲み込まれた枝が折れる音も聞こえない。荒れる風の音は流石に聞こえる。聞こえると、濡れる前から勝手に身体が縮み上がるようになってしまった。その繰り返し。

(ただの反射だ。筋収縮で体表面へ近い血流を滞らせ、体温低下を最低限に抑える反射機構。恐れから遠い生存の為の生体反応……)

 恐れているわけではない。
 ずるり。べちゃ。じゅる。ぽたり。がくり。

 諦めて早く全てをゆだねろ。
 人間の我慢の限界などささやかなものだと冥王は知っている。



「ッハ……」

 一瞬意識が飛んでいた事に気づいて、八尋やひろは頬を叩いた。片手で髪を絞る。手で背中の水気を払い落とす。身体に力をこめて筋肉から熱を生み出そうとする。

「知っている地獄は怖くないな」

 身体を深く折り曲げる。

「怖くない、が……」

 冷たい。身体機能が落ちている。身体が二重になって、わずかに感覚が定まらない。細やかな動作の制御が失われつつある。
 怖くはないが知っている。

 八尋が覚えている限り生まれて初めて激怒したのは、兄の尋壱ひろいちが深い洞窟の中に落ちる事への恐れを知らなかった事だった。きっかけは覚えていない。「冥穴におちろ」と怒鳴った八尋に、尋壱は「落ちるのは女だろ」と鼻で笑った。目の前が真っ黒か真っ白になって、掴み合いの喧嘩で惜しくも負けた事を覚えている。あの夜は家の外に出された。短時間だが雨が降った。知っている。

「……気に食わないな」

 八尋は立ち上がった。ここにい続けるのはおそらく雨が止むまでの時間稼ぎに向いていない。体力はもつかもしれないが疲弊する。ただ待っていては、動きたいときに動けなくなる。余計なことを思い出したのも、単に精神的な疲弊と退屈の予兆だ。軽く屈伸する。もっと早く気付くべきだった。

「よし」

 八尋は跳ぶ。ある程度規則的に動く肉の周期を見て、描いたルートに踏みこむ。足は沈みこみ、ぐにゃりと揺れた。
 まだだ。まだ持ち直せる。もう片足に力を込めて引きずり上げる。肉のうねりには規則性がある。少し動きを止めるタイミングを狙えば、安定せずとも両足を呑まれるのは避けられる。踏む場所を間違えてもすぐ引き抜けば進める。どこへも辿りつけなかったとしても。

(あそこで縮こまったまま死ぬよりマシだ。動いて生きあがいて死ね)

 暴れる人間を踏みつけるように足の下で肉が暴れる。ぱぎゅる。



 どれだけの間、うごめく肉を進んだだろう。汗と疲労で狭くなっていく視野を無理に広げ、まとわりついてくる肉を蹴り払い、服をきつく握りしめて。あんな状況でも縮こまっている間に体力は温存できていたのか、アドレナリンでも分泌されて一時的に無理ができているのか。八尋の体感ではランナーズハイに近い。

「ハッ、……」

 足が動かない肉を踏んだ。
 感触が違う。ひどく硬い。わずかに足が弾む。色が白い。近くの肉壁に軽く手をついて体勢を整える。やはり動かない。

「何……」

二十じょうほどの広さに、肉の奥から硬い組織がむき出しに並んでいる。岩場のように、平べったく広がって部分と大きく突き出た部分があった。横穴で見た、赤黒い筋肉のさらに奥にあった白い組織だ。何のための器官か分からない。……とにかくここなら休める。
 風の死角に入れば、骨のような硬い地面は濡れもしていない。少しだけ周囲を観察して、八尋は白い組織の上に横になった。

 緊張がゆるむ。ここなら服を着ることもできる。快適ではないが意外と平坦だ。それに、人が一定時間滞在した痕跡も多少は安全性を保証してくれている。

(また火を起こしたのか)

 硬い地面に焼かれたような跡があった。軟肉の上でやるよりはよほど上手くいったらしい。肺の粉が組織の隙間にしっかりと入り込んでいる。

(……何故そこまで火を起こす必要がある?)

 灰の残り具合からして最近だ。おそらくシューズ男が火を起こしたのだろう。八尋は少なくとも火を起こさずとも過ごせている。温めずとも気温は十分だし、肉を煮詰めて水分を集めたくなるほど渇きもしない。かすかとはいえどこからかとおってくる光で周囲も十分見える。生肉は口にしない主義の人間で食事のたびに火を起こしている可能性もあるが、あまりに悠長だ。エネルギーの無駄だろう。この白い組織が熱で受ける影響を知りたくなっただけなら焚き火ほどまで火を大きくする必要もない。
 ならば何のため、とぼんやり考えながら、今度は肉の音に惑わされずに八尋はまどろみの中に落ちた。







 “ “ “ “ “ “ “ “


「八尋。黙っててやるから、そろそろちゃんと説明しろよ。すねていてもお前の希望は通らないぞ」
「……希望? 希望しても村からは出られないだろう」
「ハ? 毎週中学に行ってるだろ」
「村の延長線じゃないか。みんな村出身を面倒な出自のれ物扱いしてるよ。兄貴は3年間一度も感じたことなかったのか?」
「いャ……だとして」
「分かってるよ。だとしても勝手にバイトなんてするべきじゃなかった。くだらない反抗だったよ。反省する。急に辞めると迷惑がかかるから期間中は続けてもいいか? 親父とかにバレる前にやめるから」
「待て八尋。お前、村から出て何がしたい」
「何も……冗談みたいなものだよ。村から本気で出たいと思ってたら親父の財布から金抜いて消えてる」
「お前はそんな事しないだろう」
「その通り。だから兄貴が見張らなくても脱走なんてしないよ、私は」
「……アァこのクソガキ……分かってるのに屁理屈で返してくるな」
「こんなクソガキの面倒見てくれてヒナ子に惚れてない所だけは尊敬してるよ、兄貴」
「嬉しくないな?」


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