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1章 坂の途中のすみれさん
赤いパンツとクリームソーダ
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玄関のドアを開けると、パンツがあった。
それも、男性の。赤いパンツ。パンツというか、ボクサーパンツ。思わず辺りを見回してしまう。周囲は変わらず、静かな朝がそこにあった。
鳥がちゅんちゅんと、遠くで鳴いている。私は首を傾げて考える。
お隣の人は女性の1人暮らしだし、下の階はおばあちゃんが1人。斜め下の部屋は確か、空き部屋だ。男性のいない小港荘に、男性のパンツ。それも、赤。ぱきりとした、真っ赤。
親指と人差し指で、最小限の面積を摘んで持ち上げてみる。
びしゃびしゃに濡れていて、重い。葉っぱや砂がへばりついていて、気持ちが悪かった。昨日の雨は、夜に大荒れとなっていた。
もしかしたら、飛ばされてきたのかも。
でも……と私は、目の前で赤パンツをぷらぷらさせながら考える。
もし、悪質なイタズラだとしたら? 小港荘の住人が、全員女性だと知ってのイタズラだったら?
そう考えると、急に怖くなった。かと言って、この赤パンツをこのままアパートの廊下に置いておくわけにもいかない。
投げ捨ててしまおうか。いや、それはよくない。ゴミ捨て場に置きに行こうか。考え込んでいたその時、ガチャリと音がした。隣人の玄関ドアが開こうとしている。
赤パンツを摘んで、眺めている姿を見られては大変。私は焦っていた。ドアを、締めなければ。でも赤パンツをどうしよう。
それから、私がとった行動はトンチンカンなものだった。
とっさにパンツを後ろ手に投げたのだ。赤パンツは私の部屋に着地し、そして自分がドアの外に出た。
逆だ。
そう思った時には、成り行きで鍵をかけていた。
「おはようございます」小さく会釈して、隣人が通り過ぎていく。階段を降りながら、こちらを何度か振り返っている。
頰が熱くなる。見られただろうか。いや、それよりも、私の行動がおかしかったのだろう。それよりも赤パンツを何とかしないと。
再びドアノブに手をかけた私は「大変!」と悲鳴をあげた。腕時計が9時30分になろうとしていた。
「遅刻!」
私は急いで、小港荘を走り去る。坂を一気に下る。
昨日の雨で濡れた道路が、キラキラと輝いている。水色のエナメルパンプスが、光る。爽やかな風が追い風となって背中を押した。
『珈琲 ちょび』の重い扉を開けると低いベルの音が鳴った。途端、珈琲の香りが押し寄せてくる。
カウンターに立つちょび髭の男性と、席に座っている若い女性が、同時にこちらを見た。
「ほら! やっぱり遅れてきたでしょう?」
自慢気に指を差すのは、高校生の頃からの友人、恵理だ。
「ごめんごめん。あれ? 髪染めた?」
恵理の隣に腰を下ろしながら、私は言う。前回会った時は、明るいブラウンの色だった。その時よりも落ち着いた色になっている気がしたのだ。
「別れたの」
はっとした。だって、マスターいつもの、と言うようにさらりと恵理は言ったのだもの。
「別れたからね、髪染めたの」
そう言って笑う恵理の笑顔は、高校生の頃と何一つ変わらない。
「ネイルも服装も、何もかも変えたくなってさ。なんだろう。脱皮する気分?」
脱皮。その瞬間、直哉さんの顔がよぎった。
「すみれさん、いつもの?」
静かで優しい声がして、私は顔を上げる。珈琲ちょびの店長(通称ちょび店長)が微笑んでいる。
「はい」と私が頷くのを見て、ちょび店長は背後の壁に向かう。壁一面に、コーヒーカップがずらりと上から下まで飾り並べてある。
◯◯焼と名前がつくものや北欧柄、レトロ模様のカップなど、どれも一点物で毎回違うカップに珈琲を淹れてくれる。その中から、ちょび店長は透明のコップを手にする。
自然と笑みがこぼれてしまう。この瞬間が好きなのだ。まるで魔法使いが、薬を調合しているみたいで。
「はい、どうぞ」
エメラルドの宝石色。しゅわしゅわと小さな泡が上へ上へとのぼっていって、乳白色のアイスにぶつかる。その横には、赤すぎるチェリー。
「クリームソーダ?」
「大好きなの。ここのクリームソーダ」
恵理はへぇと言ってから「ひと口ちょうだい」とストローを奪った。
「今日の天気みたいでしょう?」
見た目も味も、という意味だったのだが、恵理には上手く伝わらなかったようで、
「すみれは、相変わらず不思議ちゃんだなあ!」
と言われてしまった。
「そうそう、不思議と言えば……」
私は、玄関前に落ちていた赤パンツの話をした。話が終わると同時に、恵理は軽快に笑った。
「丁度いいじゃん。窓の外にぶら下げておいてさ、防犯に使いなよ。うちには、男がいますって」
抗議する間もなく、恵理は核心をついてくる。
「どうせ今、彼氏いないんでしょう? 問題ないっしょ」
「……そうだね」
恵理は知らない。私と直哉さんのことを。親友にも言えない、恋って一体何なんだろう。
ソーダと氷の上で、バニラアイスが泡状になってきている。アイスの塊が、一欠片沈んでいった。
小港荘の部屋へ戻ると、赤パンツはそこにいた。拾い上げて、葉っぱや砂を払ってやる。
「普段の私なら……。外に捨ててるわ」
でも、と思う。恵理の言っていた脱皮。私にも出来るだろうか。
軽く手洗いしてから、洗濯機へ放り投げる。思い切って「スタート」のボタンを押した。
乾いた赤パンツは、丁寧に畳んでフリーザーパックにいれた。そこにマジックで、
『迷い子を保護しました。
お家に帰れるといいです。
坂の途中の住人より』
と書いた。坂を少しだけ登って地域の掲示板に、画鋲で留めておいた。
雑貨屋ポラリスから帰宅する途中、掲示板を覗いてみると、フリーザーパックはまだそこにぶら下がっていた。
1度落としたもの、それも下着を持って帰る人なんて、いないか。少し残念に思いながら、踵を返そうとした時、目を見張った。
ふわりと、海の匂いがした。
赤パンツは、いなかった。フリーザーパックの中には、手紙が入っていた。
『保護ありがとうございました。
失礼はなかったでしょうか?
迷い子になり、途方に暮れていたところでした。
あなたの優しさに感謝します。
坂の上の住人より』
ノートをびりびりと破いて、恐らくその場で書いたであろうその手紙を、まるで生まれたばかりの雛を包み込むように両手のひらの中に収め、落とさないように坂を下った。
小港荘へ向かう足取りは軽かった。
いつもと違う私を、見つけた気がした。変われるきっかけを、見つけた気がしたのだ。
それも、男性の。赤いパンツ。パンツというか、ボクサーパンツ。思わず辺りを見回してしまう。周囲は変わらず、静かな朝がそこにあった。
鳥がちゅんちゅんと、遠くで鳴いている。私は首を傾げて考える。
お隣の人は女性の1人暮らしだし、下の階はおばあちゃんが1人。斜め下の部屋は確か、空き部屋だ。男性のいない小港荘に、男性のパンツ。それも、赤。ぱきりとした、真っ赤。
親指と人差し指で、最小限の面積を摘んで持ち上げてみる。
びしゃびしゃに濡れていて、重い。葉っぱや砂がへばりついていて、気持ちが悪かった。昨日の雨は、夜に大荒れとなっていた。
もしかしたら、飛ばされてきたのかも。
でも……と私は、目の前で赤パンツをぷらぷらさせながら考える。
もし、悪質なイタズラだとしたら? 小港荘の住人が、全員女性だと知ってのイタズラだったら?
そう考えると、急に怖くなった。かと言って、この赤パンツをこのままアパートの廊下に置いておくわけにもいかない。
投げ捨ててしまおうか。いや、それはよくない。ゴミ捨て場に置きに行こうか。考え込んでいたその時、ガチャリと音がした。隣人の玄関ドアが開こうとしている。
赤パンツを摘んで、眺めている姿を見られては大変。私は焦っていた。ドアを、締めなければ。でも赤パンツをどうしよう。
それから、私がとった行動はトンチンカンなものだった。
とっさにパンツを後ろ手に投げたのだ。赤パンツは私の部屋に着地し、そして自分がドアの外に出た。
逆だ。
そう思った時には、成り行きで鍵をかけていた。
「おはようございます」小さく会釈して、隣人が通り過ぎていく。階段を降りながら、こちらを何度か振り返っている。
頰が熱くなる。見られただろうか。いや、それよりも、私の行動がおかしかったのだろう。それよりも赤パンツを何とかしないと。
再びドアノブに手をかけた私は「大変!」と悲鳴をあげた。腕時計が9時30分になろうとしていた。
「遅刻!」
私は急いで、小港荘を走り去る。坂を一気に下る。
昨日の雨で濡れた道路が、キラキラと輝いている。水色のエナメルパンプスが、光る。爽やかな風が追い風となって背中を押した。
『珈琲 ちょび』の重い扉を開けると低いベルの音が鳴った。途端、珈琲の香りが押し寄せてくる。
カウンターに立つちょび髭の男性と、席に座っている若い女性が、同時にこちらを見た。
「ほら! やっぱり遅れてきたでしょう?」
自慢気に指を差すのは、高校生の頃からの友人、恵理だ。
「ごめんごめん。あれ? 髪染めた?」
恵理の隣に腰を下ろしながら、私は言う。前回会った時は、明るいブラウンの色だった。その時よりも落ち着いた色になっている気がしたのだ。
「別れたの」
はっとした。だって、マスターいつもの、と言うようにさらりと恵理は言ったのだもの。
「別れたからね、髪染めたの」
そう言って笑う恵理の笑顔は、高校生の頃と何一つ変わらない。
「ネイルも服装も、何もかも変えたくなってさ。なんだろう。脱皮する気分?」
脱皮。その瞬間、直哉さんの顔がよぎった。
「すみれさん、いつもの?」
静かで優しい声がして、私は顔を上げる。珈琲ちょびの店長(通称ちょび店長)が微笑んでいる。
「はい」と私が頷くのを見て、ちょび店長は背後の壁に向かう。壁一面に、コーヒーカップがずらりと上から下まで飾り並べてある。
◯◯焼と名前がつくものや北欧柄、レトロ模様のカップなど、どれも一点物で毎回違うカップに珈琲を淹れてくれる。その中から、ちょび店長は透明のコップを手にする。
自然と笑みがこぼれてしまう。この瞬間が好きなのだ。まるで魔法使いが、薬を調合しているみたいで。
「はい、どうぞ」
エメラルドの宝石色。しゅわしゅわと小さな泡が上へ上へとのぼっていって、乳白色のアイスにぶつかる。その横には、赤すぎるチェリー。
「クリームソーダ?」
「大好きなの。ここのクリームソーダ」
恵理はへぇと言ってから「ひと口ちょうだい」とストローを奪った。
「今日の天気みたいでしょう?」
見た目も味も、という意味だったのだが、恵理には上手く伝わらなかったようで、
「すみれは、相変わらず不思議ちゃんだなあ!」
と言われてしまった。
「そうそう、不思議と言えば……」
私は、玄関前に落ちていた赤パンツの話をした。話が終わると同時に、恵理は軽快に笑った。
「丁度いいじゃん。窓の外にぶら下げておいてさ、防犯に使いなよ。うちには、男がいますって」
抗議する間もなく、恵理は核心をついてくる。
「どうせ今、彼氏いないんでしょう? 問題ないっしょ」
「……そうだね」
恵理は知らない。私と直哉さんのことを。親友にも言えない、恋って一体何なんだろう。
ソーダと氷の上で、バニラアイスが泡状になってきている。アイスの塊が、一欠片沈んでいった。
小港荘の部屋へ戻ると、赤パンツはそこにいた。拾い上げて、葉っぱや砂を払ってやる。
「普段の私なら……。外に捨ててるわ」
でも、と思う。恵理の言っていた脱皮。私にも出来るだろうか。
軽く手洗いしてから、洗濯機へ放り投げる。思い切って「スタート」のボタンを押した。
乾いた赤パンツは、丁寧に畳んでフリーザーパックにいれた。そこにマジックで、
『迷い子を保護しました。
お家に帰れるといいです。
坂の途中の住人より』
と書いた。坂を少しだけ登って地域の掲示板に、画鋲で留めておいた。
雑貨屋ポラリスから帰宅する途中、掲示板を覗いてみると、フリーザーパックはまだそこにぶら下がっていた。
1度落としたもの、それも下着を持って帰る人なんて、いないか。少し残念に思いながら、踵を返そうとした時、目を見張った。
ふわりと、海の匂いがした。
赤パンツは、いなかった。フリーザーパックの中には、手紙が入っていた。
『保護ありがとうございました。
失礼はなかったでしょうか?
迷い子になり、途方に暮れていたところでした。
あなたの優しさに感謝します。
坂の上の住人より』
ノートをびりびりと破いて、恐らくその場で書いたであろうその手紙を、まるで生まれたばかりの雛を包み込むように両手のひらの中に収め、落とさないように坂を下った。
小港荘へ向かう足取りは軽かった。
いつもと違う私を、見つけた気がした。変われるきっかけを、見つけた気がしたのだ。
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