「かわいそうね」

あまくに みか

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「かわいそうね」

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「まあ、かわいそうね」

 わたしは目線をあげる。
 テレビの画面には深刻そうな表情をしたアナウンサーが、溺れた子を救おうとした父親が、子の命の代わりに海に沈んだという朝のニュースを読んでいた。


「胸が痛いわね。これからどうするのかしら。父親がいなくて……」
 母がコーヒーを父の前に運ぶ。
「かわいそうね」
 視線はテレビのまま、母はもう一度繰り返した。

「あ、そうだ。母さん、今日は晩ごはんいらない」
「えっ? そうなの?」
「佐々木と約束してたんだった」
「うぅん、佐々木さんなら……仕方がないわね」

『次はお天気です』
 テレビのニュース番組は、驚くべきスピードで誰かが死んだという内容から、天気の情報へと移り変わっていた。

「ねえ、沙々良ささらは夜なに食べたい?」
「わたし、今日はいらない」
「ええ? なんで」
「約束あるから」
「デート?」

 ちらっと横目で素早くわたしは父を見た。何食わぬ顔で、コーヒーをすすっている。けど、心の中ではどう思っているか知らない。
 わたしは肯定も否定もしないで、肩をすくめてみせた。これ以上は聞かないで、という意味だ。

「じゃあ、大学行ってくる」
 わたしは席を立った。


 

 駅へ向かう途中、なんとなくSNSを開いた。特に用があるわけでもなかったけれど、流れていく情報に身を任せていないと落ち着かない自分がいる。

 どこかの企業が出した広告が炎上していた。
 かわいい女の子のイラストにしか見えなかったけれど、SNSは「卑猥だ」という言葉で溢れかえっていた。
 人差し指で画面をスーッと滑らせる。猫がお腹を見せて眠っている写真が現れる。
 

「かわいそうね」


 母の言葉が蘇ってきて、SNSを閉じた。
 わたしたちは「かわいそう」と言った口で、次には夕飯の話をしている。誰かの悪口を綴ったその指で、次には誰かを褒めている。


 本当は、誰も、なにも、思っていない。





 改札機を通るとすぐ、赤いカラーコーンが目についた。そのテカテカしたカラーコーンは、無様に汚されている。


『頭上に注意』


 その貼り紙を見て、顔を上げる。

 ツバメの巣があった。半月状の巣には、数羽のツバメの子どもがみっちり並んでいる。薄暗い場所で、くちばしの下の赤が、濡れた鮮血のようによく映えていた。
 ムスっとくちばしを閉ざしているからか、ツバメの子らは達磨のように見えた。


 黒いものが、わたしの頭少し上を風のように駆け上がっていった。途端、ツバメの子らは一斉に鳴き始めた。顔よりも大きく開いた黄色のくちばし。エイリアンが口を開いたような貪欲さ。


 わたしは、その一瞬の光景から目が離せなかった。


 親鳥が一羽の子に頭をつっこむようにして食事を与えると、すぐさま巣から飛び立っていった。ツバメの子どもたちは、また達磨のようにムスっと口を閉ざす。


 わたしは目を凝らして、彼らをよく見ようとした。姿を、大きさを、その数を。


 親鳥は食事を与えた子を覚えているのだろうか。彼らは平等にお腹が満たされるのであろうか。それとも、育たない子もいるのだろうか。


 わたしはスマートフォンで調べようとして、やめた。もし真実がわたしの想像どおりだったら、悲しいからだ。




 少し遅れて電車に乗る。
 ドアにもたれるようにして立って、流れていく風景を、ただなんとなく目に入れていた。

 もし、あのツバメの子どもたちが巣を去る時。一羽だけ痩せて、小さくなった子がいたら、その子はどうなるのだろう。


 やさしい駅員さんが助けてくれるのだろうか。いや、それとも自然の摂理とかなんとか難しいことで、その子は手遅れなのかもしれない。親から、兄弟たちから、食事を奪うことが出来ないというだけで、彼らの世界では生きていけないのかもしれない。


 ビルが林のように立つその間から、かろうじて海が見えて、わたしは電車を降りた。
 この駅には、ツバメはいなかった。



「ササラ」
 改札の向こう側で、ユノが手を振っている。ユノの笑った顔を見ると、五分も待たせてしまって申し訳なく思う。

「ごめんね」
「どうして、あやまる?」
 ユノは自然な流れでわたしの手をひいた。その手が大きくて、わたしは少しだけ安心する。

「海見る?」
 わたしはうなずく。背の高いユノの頭越しに、ツバメを見たような気がして、わたしはせわしなく頭を動かした。それをなにと勘違いしたのか、ユノは笑ってわたしの頭に手を置いた。



 わたしたちは海に向かう途中で、スターバックスに寄り、カフェラテを買った。ほろ苦くて、もうすぐ夏がやってくる味。

 氷のカラカラと涼しい音を聞きながら、わたしたちは海を前にして座り込む。

 海といっても砂浜はない。コンクリートに波のようなものが打ちつけるだけの、海だったもののような場所だ。

 時折、誰かが捨てたのか、それとも風に飛ばされて落ちたのかわからないペットボトルのゴミが、浮いては沈み、浮いては沈みを繰り返して、ついには白く濁った泡で見えなくなった。


 海に捨てられたプラスチックは、どうなるんだっけ?
 わたしは想像した。怪我をしたウミガメやゴミにからまってしまったアザラシを。


「かわいそうね」


 わたしはそう頭の中でつぶやいて、はっとした。母の横顔が浮かんで、胸の奥深くでなにかが割れた音を聞いた。



「空がきれいだねぇ」
 気持ちよさそうにユノが空を仰いだ。

「この海の向こうで、戦争しているなんて、信じられないね」
 ぽつりと、ユノが言った。
 

 わたしは真っ青で、キラキラと光を反射している海を見つめる。水彩絵の具のような淡い空と海が混ざり合っている境界線の向こうには、なにがあるのか。




 わたしが今こうして恋人と笑い合っている時、どこかで誰かは恋人を失っている。

 わたしが今こうしてカフェラテを飲んでいる時、どこかで誰かは水を探している。 

 わたしが今こうして何不自由なく過ごしている時、どこかで誰かの自由が奪われている。

 



「かわいそうね」


 けれど。


 わたしは、なにもできない。
 わたしは、結局、なにもしない。





「ねえ、ユノ」
「なあに?」
「別れよう?」
 わたしはハッとした。こんなこと、今言うつもりはなかったのに。


「どうして? ぼくが、外国人だから?」
 ユノの白い肌が赤く染まっていく。あのツバメの子どもたちみたいに。わたしは、それをぼうっとした熱い視線で眺めた。

「ぼくが、外国人だからでしょう?」
 ユノは繰り返した。わたしは目を閉じる。赤だけを目に焼き付けたまま。


 いつかはユノと別れることになると思っていた。ユノだってきっとそうだろう。留学という期間が終わって、故郷に帰って、わたしのことなんて、そのうちどうでもよくなる時期がくる。それはお互いに、暗黙の了解で共有していることだと思っていた。


 いつかは、流されていくのだ。
 わたしは目を閉じたまま、首を横に振った。


「ユノが、別れの理由を自分が外国人だからって思うように、わたしは、わたしに自信がない」


 空っぽなのだ。

 わたしは誰も助けられないし、誰も助けようとしない。誰かが声をあげてくれれば、わたしはその後に続いてもいいなんて、そう思ってばかりいるから。


「なにそれ、意味わかんない」
 ユノは怒って去って行った。飲みかけのスターバックスを残したまま。




 大学でユノを見かけても、わたしという存在が最初からなかったかのように扱われるようになった。それは当たり前のことで、ごく自然なことであった。


 わたしは、どうしたいのだろう。

 ただ平凡に生温い自由の中で泳いで、今日も誰かに不幸があったニュースを聞いて、その耳で面白おかしい話を友人たちと語り合って、笑い合うのだろう。

 そうやって、毎日が流れていくのだ。スマートフォンの画面を神様が人差し指でスーッとなぞっているように。


 わたしたちは、流されている。
 横目に映る他人事に、時々感想を言い合ったりして、けど本気にはしない。
 本気にしたら、いけない。
 本気になったら、どうなるのだろう。



 駅に向かう途中、わたしは喉元が苦しくなった。ここ数日で気温が上がったせいだろう。ブラウスの一番上のボタンを外そうともがいた時、ボタンが弾けて飛んでいった。

 わたしは転がるボタンを追いかけなかった。追いかけるのは、恥ずかしいような気がした。


 改札を通って、足を止める。
 あの汚れたまま立つカラーコーンがなかった。見上げると、ツバメの巣は半月状の真ん中が、怪獣にえぐられたかのようにゴソッと無くなり落ちていて、ツバメの子どもたちの姿はなかった。


 きっと、全員旅だったのだろう。そう思うことにした。
 わたしの知らない、どこか遠くて暖かい国へ。
 あの空と海の混ざり合った線の、その先へ。
 呼吸が苦しかった。全部、暑いせいだ。
 喉元を掻きむしって、違和感を感じた。
 見ると、赤いものが伸びた爪の間に挟まっていた。

 血だった。
 生きるために必死で鳴いた、あのツバメのような赤だった。
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